『古代に真実を求めて』第十八集
関から見た九州王朝 服部静尚
「消息往来」の伝承 岡下英男
河内戦争 冨川ケイ子

天武九年の「病したまふ天皇」 -- 善光寺文書の『命長の君』の正体 正木裕(会報94号)

YouTube服部静尚 講演 大化の改新 その1、関に護られた難波宮  その2、難波宮の官衙に官僚約八千人  その3、条坊都市はなぜ造られたのか


畿内を定めたのは九州王朝か

すべてが繋がった

服部静尚

一、 はじめに

 私の先の論考「関から見た九州王朝」で残された問題、大化二(六四六)年正月の大化改新の詔は、まさに六四六年に出された、と言うことについて論証します。その結果、この改新の詔は九州王朝の天子による令であって、建評の詔であったと言う重大な結論に至ります。
 この論証のヒントは改新の詔の其の二、畿内国の定義にありました。

「凡およそ畿内は、東は名墾なばり横河よりこなた、南は紀伊兄山せやまよりこなた、西は赤石あかし櫛淵よりこなた、北は近江狹々波ささなみ合坂山よりこなたを、畿内國とする。」

 

二、畿内とは何か

(1)周礼の夏官司馬に「~方千里曰国畿、~」とあって、天子の住む王城が中心にあって、王城を中心とする四方五百里まで(方千里)を王畿、または国畿というようです。
 王畿の範囲が畿内ですが、ちなみにこの方千里は、周の短里で換算すると約七十五キロメートル四方、漢の長里で換算すると約四百三十五キロメートル四方となります。

(2)(註1)で西本昌弘氏は、秦から唐に至る中国歴代王朝の歴史書に出てくる合計五〇例の「畿内」を調査されて、その結果、次のように古代中国には連綿として畿内の制があったとされています。
 秦(BC二二一~BC二〇六年)では咸陽かんようの関内を王畿としていた。
 漢(BC二〇六~二二〇年)も、この秦の制度を継承した。
 魏・西晋(二二〇~三一六年)は洛陽の司州の範囲を畿内とした。
 東晋・南朝(三一七~五八九年)にかけては建康(現在に南京)近傍の揚州の範囲を畿内とした。
 隋(五八一~六一八年)は長安と洛陽に畿内を置いた。
 唐(六一八~九〇七年)では三都の地たる京兆(西都)・河南(東都)・太源(北都)に畿内を置いたとしています。
 特に、隋・唐は複数の畿内を持っていたことになります。
 残念ながら、これら畿内の実際の範囲は判りません。ただし、現在の咸陽市は約一万キロ平方メートル、(長安にあたる)西安市も約一万キロ平方メートル、揚州市は六七〇〇キロ平方メートルであることより、中国古代人の畿内の広さのイメージは、漢の長里ではなくて、周の短里で方千里に近かったものと私は考えます。

(3)中国の畿内は、その中心としての王都と不可分の関係にあると西本氏はされます。(以下、註1よりの引用、括弧内は服部が追記)「周礼で王城は畿内方千里のまさしく中央に置かれるのが理想とされた。(中略)王都の所在が畿内の範囲を規定したのは確かで、例えば北魏(三八六~五三四年)の場合、平城(現在の大同市)から洛陽に遷都すると、畿内も平城近傍の恒州から洛陽近傍の洛州に移った。」とあります。

 以上が古代中国における畿内です。先の改新詔の畿内も、当然その影響を受けての、日本国内での畿内定義であったものと考えられます。

 

三、従来の見方

 改新詔の畿内制を従来の学者がどう見ているかについては、同じく註1に詳しく、次のようです。

 「この改新詔の畿内制は大化のものか否かという時期比定の問題は、津田左右吉以来、改新詔の信憑性ひいては大化改新の実在性の問題を論議する材料の一つとなっている。諸説を整理すると(A)津田氏の近江令説、(B)八木充氏(上田正昭氏も賛同)の天武朝説、(C)坂本太郎・井上光貞氏らの孝徳朝説の三つになる。(中略)最近では孝徳朝説が再び定説化してきており、圧倒的多数の論者が改新詔の畿内制を孝徳朝の制度と承認している。その論拠は次の四点である。
 (ア) 内部の国が成立する以前の四至による素朴な畿内国は大化の時点にふさわしい。

 (イ) 改新詔にみえる畿内の四至規定は令にみえないから、令による修飾ではない。

 (ウ) 四至の内赤石・兄山が大和を中心とすると西に偏している。孝徳朝の難波を包含するため。

 (エ) 改新詔以外に大化二年三月条・天智紀八年是冬条にも畿内が見え、これらを否定する根拠が無い。

 尚、この四至により畿内を画することは、北魏の平城の型(註1)にならったものとしています。
 註1魏書食貨志より「天興初、制定京邑、東至代郡、西及善無、南極陰館、北尽参合。為畿内之田~」

 おそらく、読者はこの通説を聞いて意外に感じておられるのではないでしょうか。私も大化の改新は無かったと言うのが通説と考えていましたが、この改新詔で規定された畿内制については、日本書紀記載の通りの孝徳期と考えられているのです。次項に述べるように、そう考えざるを得ないわけです。

 

四、改新詔の畿内の定義

 改新詔の畿内の定義を見ます。(註2)岩波書店版の日本書紀の注釈によると、
  ・名墾なばり横河:伊賀名張郡の名張川か、今の名賀郡の西半分(東半分は伊賀郡)。
  ・紀伊兄山せのやま:紀伊国紀川中流北岸、今のかつらぎ町背山、対岸に妹山がある。
  ・赤石櫛淵:播磨国明石郡。(註3)小学館版では、神戸市須磨区・垂水区の海岸説と西区明石川説がある。
  ・近江狹々波合坂山:逢坂山、今の大津市。(註3)では山背と近江の境の逢坂山。

 とあります。現代の地図上に表示すると(図1)のようになります。誰が見ても、藤原京(飛鳥)を中心としてはおらず、(孝徳朝の)難波京を中心にして、真西に赤石・真東に名墾・真南に兄山があります。真北は山間部で至る道も無いので、止む無く北東の目印として、ほぼ同距離の合坂山としたと考えるのが素直な見方です。

図1 改新詔による畿内定義を現代地図にプロットする


(図1)改新詔による畿内定義を現代地図にプロットする
周礼の、方千里国畿は周の短里で約75km。 図中の数字は、(概略直線距離)→(道を想定しての、道なりの距離です。 道なりで千里とも言えるが、中心からの距離は五百里なので、合致はしない。
咸陽市のように1万k㎡とすると、概略一辺100kmの正方形範囲になるので、 これと同規模と見る見方もありうる。

 註1の西本氏によると、「津田左右吉は、改新詔に見える畿内の四至は大和を中心とするものであるから、難波に都があった大化二年に、かかる四至の規定せられるはずがなく、これは大和にあった時代につくられた近江令の規定に違いない~」とあります。これを信じることは、津田氏によって催眠術をかけられたとしか思えません。
 地図を見ればやはり、この畿内定義は孝徳期の難波京を前提にしていること、間違いありません。
 現代の咸陽市・西安市の規模が古代の畿内領域と仮定すると、改新詔の畿内規模はこれとほぼ同等となります。改新詔の畿内の定義は中国の畿内制を踏まえ、北魏平城の型にならったものと考えて間違いないようです。
 故に通説において、改新詔の畿内制は、日本書紀記載の通りの孝徳期のものとなったのでしょう。
 尚、名墾・兄山は国の境とは考えられません。三―(1)項(ア)で「内部の国が成立する以前の四至による素朴な畿内国」と言う由縁です。本当に孝徳期には(河内・摂津・大和・山城の)畿内内部の国が成立していなかったのでしょうか。このことは後で考察します。

 

五、改新の詔の其の二

 次に、改新の詔の其の二、全体について考察します。
 改新の詔の其の二の内、畿内の制は孝徳期の難波京を前提として制定されたものであるとしました。
 この其の二には畿内の制を含めて、(表1)の十項目があります。残りの九項目についても個別にその時期について考察します。つまり、日本書紀記載の大化二(六四六)年のこととして矛盾は無いか、矛盾が無ければ○、矛盾があれば×、何とか矛盾は避けられれば△と言う具合に表に示しました。又、七世紀末例えば五〇年後の持統十(六九六)年のこととして考えると矛盾は無いかについても見てみます。

其の二の詳細項目

646年とすると

696年とすると

理由(通説で考えると696年では破綻しているので、
九州王朝説で考えた場合の判定理由です)

a) 初修京師

近畿天皇家として初めての意であれば、後者も有り。

b) 置畿内國司・郡司

近畿天皇家として初めての意であれば、後者も有り。

c) (置畿内)関塞

×

七世紀末に造営された関の記録は無い。

d) (置畿内)斥候・防人

近畿天皇家として初めての意であれば、後者も有り。

e) (置畿内)駅馬・伝馬

近畿天皇家として初めての意であれば、後者も有り。

f ) 造鈴契

近畿天皇家として初めての意であれば、後者も有り。

g) 定山河

近畿天皇家として初めての意であれば、後者も有り。

h) 京毎置坊長・坊令

前者は前期難波宮、後者は藤原京。

i) 畿内國(を定義する)

×

後者は近江京の後なのに、近江が畿外になっている。

j) 大・中・小郡の定義

○評

○郡

 










(表1)改新詔-其の二の詳細項目の時期特定

 尚、(註4)の高橋工氏によると、前期難波京(七世紀中頃)の方格地割跡(図2)が発掘されています。
(高橋氏は、前期とはっきり判る発掘がこの一点のみと少ないことなどより、条坊とまでは言わず方格地割跡とされています。

図2:溝1・2が今回発掘された(前期難波京の)方格地割の跡
図2:溝1・2が今回発掘された(前期難波京の)方格地割の跡。
その上にある溝3は後期難波京の跡。 (註4)より抜粋

 これに加えて、これまでの発掘調査の成果として、前期難波宮には大規模な官衙かんががあり、ここには多数の律令国家を運営する役人が配置されていたと考えられます。
 これを踏まえると(表1)に示した(a)~(j)の詔すべてが、大化二(六四六)年のこととして矛盾無く受け止められます。

 ここからが、通説では説明がつかない重要な部分になります。
 通説において、(b)および(j)の郡(ぐん又はこおり)が、実は評(ひょう又はこおり)であって、これを日本書紀編者が意図あって、郡に書き換えたことが明らかになっています。しかし、日本書紀を編纂させた天武~元正天皇らの祖 先にあたる、孝徳天皇によるこの誇るべき改新の事績の内容を、何故書き換え(評制を隠蔽)しなければならなかったか、全く説明がつきません。
 唯一、このことについて理路整然と説明をされたのが、古田武彦氏(註5)であり、その九州王朝説なのです。

 古賀達也氏は洛中洛外日記第一四〇話(二〇〇七年)で、延暦二三(八〇四)年に成立した、伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷天下立評給時」という記事があることから、(難波朝)孝徳期に「天下立評」があったのだと述べられています。

 私は以上の検証より、(b)および(j)は九州王朝による「天下立評」あるいは「建評の詔」そのものであったと考えます。このように思索を進めると、古賀氏の前期難波宮の九州王朝副都説(畿内としていますので副都でなく二都もしくは複数都となりますが)で、すべてが説明可能となってきます。

 表題に「畿内を定めたのは九州王朝か」としましたが、もはやそれを超えて「九州王朝による改新の詔」と話はとんでいくことになります。

 

六、改新詔の検証

 更に、大化二年正月の、全体について考察します。
 其の一は、私地私民の廃止。
 其の二は、これまで述べてきた「初修京師、置畿内國司・郡司・関塞~」
 其の三は、戸籍・班田収受法。
 其の四は、調・庸の話です。

 古田武彦氏は(註5)で、改新詔の其の一は、魏書をモデルとした、九州王朝の領地領民を近畿天皇家側に召し上げる話であるとしました。以下引用します。
『鮮卑は旧西晋の地を占拠し、従来の西晋の朝廷の領地と領民を「私地私民」とし、それに代わる「北魏の支配」を以って「公地公民」とした。これに従って日本書紀は「七〇一」以前の九州王朝関連の領地と領民を一切「私地私民」とし、それに代わる「近畿天皇家側の天皇家や藤原氏たちの豪族」のものを「公地公民」としたのである。』

 古賀達也氏も(註6)での中で、「改新の詔は六四六年でなく、藤原宮で六九六年(九州年号の大化二年)に出されたものだ。」とされています。
(1)この考えの背景には、日本書紀編纂者が六四六年と決めて、そこまで遡らせる理由があったわけですから、六四六年九州王朝によって「同様の改新があった」からと考えてよいと思います。それを「評」を「郡」と書き換え、近畿天皇家の事跡としたのです。

(2)前期難波宮に大規模な官衙があり、ここには多数の律令国家を運営する役人が配置されていたことは、大阪文化財研究所の研究者によって、明らかになっています。要するに令を定め、令によって統治する、そしてこれを実行する役所を置き、役人を配置する、そういうことが前期難波宮で行なわれたことは間違いないわけです。
 改新詔の其の一から四まで、これらはまさしくその令ではないでしょうか。

(3)そして、その令は後代の日本書紀編纂者によって都合が悪く、隠蔽しなければならない点を含んでいた。
 故に、この改新詔は九州王朝の天子による令であって、建評の詔であったと考えるべきです。

 

七、最後に

 最後になりますが、古田氏の言われる「九州王朝の領地領民を近畿天皇家側に召し上げる話」は「七世紀中期以前の近畿地方の王者の領地領民を九州王朝側に召し上げる話」となります。「七世紀中期以前の近畿地方の王者」とは何者かについては、本書掲載の冨川ケイ子氏の「河内戦争」があります。そうすると、四項で出てきた「孝徳期には(河内・摂津・大和・山城の)畿内内部の国が成立していなかった」ということも、七世紀中期以前には近畿天皇家・九州王朝以外の「近畿地方の王者」がいたとすると、頷けるのです。

 この六四六年は九州年号でいうと命長七年です。本書掲載の岡下英男氏『「消息往来」の伝承』によると、(聖徳太子に擬せられた)九州王朝の天子であった歌彌多弗利(上塔の利)は、命長七年二月に天王寺付近で病に臥していたとあり、命長七年春正月に「利」は、(遠征先の)難波で改新詔を発布した後、病におちいったことになります。

 

《参考文献》

註1、「日本古代儀礼成立史の研究」西本昌弘著一九九七年

註2、岩波書店「日本古典文学大系、日本書紀」

註3、小学館「新編日本古典文学全集、日本書紀」

註4、大阪文化財研究所「葦火」一六六号「孝徳朝難波京の方格地割か」二〇一三年、高橋工氏による

註5、「なかった 真実の歴史学」第五号、大化改新批判、二〇〇八年、ミネルヴァ書房

註6、「九州年号」の研究、古田史学の会編、二〇一二年、ミネルヴァ書房


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