『古代に真実を求めて』第十八集
盗まれた「聖徳」 正木裕

「俀・多利思北孤・鬼前・干食」の由来 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集

『「太宰府」建都年代に関する考察 ─九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判』 古賀達也(会報65号)


盗まれた遷都詔

聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤

正木裕

 本稿では多利思北孤の大宰府遷都の詔が、『聖徳太子伝暦でんりゃく』では聖徳太子の「遷都予言記事」として取り込まれていることを明らかにする。(註1)

一、聖徳太子の遷都予言記事

1、太子四十八歳の予言

 聖徳太子の事績を編年体に記した伝記である『聖徳太子伝暦』(註2)では、太子晩年の推古二七年に、「遷都」や「聖人の出現」に関する「予言」が記されている。
◆『聖徳太子伝暦』太子四十八歳。
推古二十七年(六一九)己卯(略)
①便ち近江を越え、志賀栗本等郡諸寺を巡撿し竟る。粟津に駐駕し左右に命じて曰く、吾死して後、五十年後(*六七二)、一帝王有りて此処に遷都し、十年国を治む。(略)

②大河を渡り交野を行き經て、茨田堤より直に堀江に投じ江南の原に宿す。東原を指して左右に謂ひて曰く、今後一百歳間に、一帝王有りて都を此処に興す。彼の処一十余年後に孤莵聚を成す。(略)

③茨田寺の東側に駐し、密に左右に謂ひて曰く、吾死して後、二十年の後(*六四二年)、一比丘有り。聰悟智行し、三論を流通し、衆生を救濟し、衆に貴る。是比丘に非ず、是れ吾の後身の一軆なり。(略)

④「一百年後(*七一九年)、一愚僧有りて、彼に寺を立て、髙大なる像を造り、一万の袈裟を縫い、諸比丘に施す。

 この前半①は“近江遷都”について、後半②は“難波遷都”についての予言だ。③の「吾死して二十年後(*六四二年)」記事は、六四二年即位の皇極天皇を讃えたもの。④の「一百年後(*七一九年)」記事は、年代が多少ずれるが、文面から仏教に篤く帰依し、東大寺と盧舎那仏建立、国分尼寺の設立を聖武天皇に勧めた光明皇后の事績をさし、僧とは鑑真となろう。
 これらは『伝暦』成立時に明らかになっている歴史的事実だから、著者が「予言」として創作したものと考えて誤りはないだろう。なお『聖徳太子伝記』では、それぞれ三十九代ノ帝(天智天皇)の近江遷都、三七代孝徳天皇の摂津長柄豊崎遷都のことと明確に書かれている。(註3)

 

2、太子四十六才の予言

 また、推古二十五年(六一七)太子四十六才条にも、同趣旨の「聖徳太子の予言」記事がある。
◆『聖徳太子伝暦』太子四十六才。推古二十五年丁丑(六一七)(略)
⑤吾死して二百五十年の後(*八七二年)、一帝皇有りて佛法を崇貴し彼の谷前、此岡の上に、伽藍を建て並べて妙典を興隆す。又、西原の下を指して曰く、彼の平原に亦塔廟を興す。

⑥四方を遍望して曰く、此地を帝都とし近気〈気近けじか〉く於今いま一百余歳在る。一百年を竟え北方に遷京〈京遷〉し、三百年之後に在る。(「此地帝都近気於今在一百余歳」)

 この前半⑤は元慶三年(八七九)に出家して仏門に帰依し、仏寺を巡拝した清和天皇のことと考えられる。芭蕉の句で有名な宝珠山立石寺は、貞観二年(八六〇)清和天皇の勅願で慈覚大師が開いたとされ、円覚寺(水尾山寺・八八〇年)、佛日山金福寺(八六四年)、などが創建されているからだ。
 そして、後半⑥の「於今一百余歳在る」の「於今」を「今後」と解釈すれば、推古二十五年(六一七)時点から見た「未来」を述べたもので、「(今後)もう百余年はこのままの都が続く」という意味になる。そして、「一百年を竟え北方に遷京(京遷)し」は、「百年後の七一七年に北に遷都する」ということで、年は少々ずれるが平城京遷都(七一〇年)の予言とも取れる可能性がある。

 

3、何故この時期に「遷都予言」なのか

 このように、『伝暦』の記事は、一見したところでは「編纂時の知識によって後年創作されたもの」であろうと解釈出来よう。
 しかし、この解釈では、何故この時期に「遷都予言」なのか、という大きな問題が残る。“聖人出現譚”なら、死期を悟った聖徳太子が、自らの“転生”を予言したものとして書かれたと理解できる。しかし、「遷都」は聖徳太子の生涯の何時でも「予言」可能なのに、“六一七年や六一九年に何故遷都の予言記事が集中して書かれているのか”という疑問が生じるのだ。
 特に六一七年の⑥の記事には不自然な点が散見される。
 まず、推古時代の「帝都(宮)」は明日香で、「今後百年間」では近江や難波に遷都している。『伝暦』でも近江遷都や難波遷都に触れているから「今後百年は此地を帝都とする」というのは不自然だ。また、平城京遷都の予言とした場合、平城京は七九四年に平安京に遷都され、予言後三百年の九一七年、遷都後三百年の一〇一七年のいずれにせよ「帝都」ではなくなっている。従って「百年後北方の“平城京”に遷京し、三百年之後に在る」ことにはならないのだ。
 そもそも、「於今いま」は、「過去と対比した現在」を示す慣用句で、これを「今後」とするのには無理があろう。(註4)
 「『伝暦』などは、非現実的な“予言”記事、絵空話だから、それ位の矛盾はあってもおかしくない」のかもしれない。しかし「絵空話」なら、聖徳太子の生涯の何時でも、また何とでも書けるのに、「何故この時期に、わざわざ矛盾のあるような遷都の予言を書いたのか」という疑問は一層深くなるのだ。

 

4、「於今一百余歳」は「過去の経過年数」

 一方、「於今在一百余歳」を「於今」の慣用通り、「未来」ではなく「過去と対比した現在」、つまり「過去からの経過年数」と解釈すればどうなるのか。
 「気近けぢかく」とは「近い。親しみやすい。うち解けている(学研『全訳古語辞典』)」つまり「身近に親しむ」意味だ。
 従って、「此地帝都近気於今在一百余歳」とは、「此の帝都の地(現在の京)に移ってから現在(今)まで百余年親しんできた」という意味となる。そして「その百年を竟え(期限・境とし)、京を北方に遷し」というのは、「百年の節目に北方に遷都し」と解釈できる。つまり六一七年に「北方遷都」を詔したことになるわけだ。
 そして、兼輔が『伝暦』を撰したのは九一七年とされているから、「今三百年之後在」の意味は、「『伝暦』を撰した“今”は、六一七年の遷都詔から三百年後にあたる」ということになろう。

 

5、九州年号と整合する六一七年の「遷都詔」

 『書紀』では、近畿天皇家の「聖徳太子」が、この年の前後に「北方遷都」を行った形跡など一切存在しないから、「六一七年の北方遷都詔」とすることは、何の根拠もない“不合理”な解釈だと思われるかもしれない。
 ところが九州年号を元に解釈すれば、極めて“合理的”な記事となるのだ。
 九州年号は翌六一八年に「定居じょうこ」から「倭京わぎょう」に改元されている。
 九州年号白雉はくち元年(六五二)には難波宮が完成し、白鳳元年(六六一)には「近江遷都(『海東諸国紀』)」、大化元年(六九五)には藤原宮遷都が記されるように、九州年号の改元と遷都の関連には密接なものがある。加えて、「倭京」は倭国の京(都)の意味だから、遷都に相応しい年号で、六一七年はまさに「遷都の詔」を発するべき年となるのだ。
 そこから古賀達也氏は、(註1)の論文で「九州王朝における上宮法皇多利思北孤による太宰府遷都の詔勅記事が、後代に於いて聖徳太子伝承に遷都予言記事として取り込まれた」のではないかとされている。

 

二、百年前「筑紫君磐井」が定めた「帝都」

1、磐井の「建元」と筑後の「帝都」

 そして、「於今いま在一百余歳」とは“過去の経過”であり、「現在の京に遷って百余年」の意味とするなら、当時の帝都は百余年前に定まった事となるが、推古二十五年(六一七)の百一年目(一百余歳)前は、最初の九州年号「継体」の元年(五一七)となり、これは「筑紫君磐井」の時代にあたる。
 磐井の墳墓は八女の岩戸山古墳とされ、『書紀』によれば「磐井の乱」の戦闘は「筑紫御井郡」で戦われたとある。加えて、万葉歌(四二六一番作者未詳)の「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都と成しつ(大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通)」から、その「帝都(本拠)」は筑後三瀦(福岡県三瀦郡水沼)、或は高良山付近を中心とする御井~八女の付近にあったと推測される。 (註5)

 何故なら、この万葉歌は、「壬申年之乱平定以後歌」とされるが、大和飛鳥に「水鳥のすだく水沼」はあてはまらず、筑後川河口の湿地帯で「水鳥の飛来地」として有名な「筑後三潴(みずま 水沼)」はこれに相応しい地域といえるからだ。
 そしてこのことは、『隋書』に「阿蘇山有り」とされ、また、「気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水が多く陸は少ない」との気候風土や、筑後川河口で盛んだった「鵜飼い」の風習の描写などがあることからも裏づけられよう。
 五世紀「倭の五王」は南朝に臣従していたが、五〇二年に南朝「斉」は滅亡し「梁」に替る。そして、高句麗王高雲は「車騎大將軍」に、百済王余大は「征東大將軍」に、其々進号する中で、斉時代に鎮東大將軍だった倭国王武は「征東將軍」に落とされている(註6)。以後高句麗・百済・新羅が度々梁に朝貢する中で、倭国からの朝貢記事が見えなくなる。そして、「建元」即ち年号を建てるということは「王朝として自立すること、帝(天子)を称すること」を意味するから、梁に不満を持つ磐井は、五一七年に、南朝の体を継ぐのは倭国であるという自負を抱き、「継体」年号を建て、筑後を“帝都”に定めたという可能性が高いのではないか。
 「今一百余歳在る」を“過去の経過”とするなら、それから百年を経過した六一七年に、「気近く慣れ親しんだ」筑後から「北方に遷京」することを詔したことになる。筑後から見て、北方で「京」と呼べる地域は「大宰府」しかないことは明らかだから、「北方遷京」とは大宰府への遷都を意味する事になる。

 

2、隋の脅威と「北方遷都」

 それでは、この筑後からの「北方遷都」に必然性・合理的理由があったのか。
 筑後遷都以後の六世紀、倭国は新羅との関係で「劣勢」が続く。宣化期には新羅が任那を攻略し、これを大伴金村に命じ救済を図ったが成功せず、欽明期には任那ばかりか、百済も聖明王が新羅によって殺される等滅亡の危機にさらされることとなった。そして、欽明二十三年(五六二)に任那は滅亡し、筑紫の対岸は仇敵新羅の支配するところとなった。従って、戦場から遠い筑後の地を久しく本拠とし続けざるを得なかったと言えるだろう。
 ただ七世紀に入ると、百済の武王が密かに高句麗と結び、新羅に攻勢をかけるようになり、六一一年から六一六年にかけて、新羅の北西領域の椵岑かじゃむ城や母山城を攻略する状況となった。
 このように半島では「新羅の脅威」が薄れる一方、中国大陸では隋により南朝が滅亡させられるなど、その情勢が大きく変化した。
 『隋書』「琉球国伝」によれば、大業四年(六〇八)煬帝が「流球」に侵攻し、宮室を焚き、男女数千人を捕虜とした。その戦利品の布甲(布製の鎧の類)を見た俀国の使人が、「夷邪久国人の布甲だ」と述べたとある。
◆『隋書』流球国伝
大業四年(六〇八)、帝、復た(朱)寬をして之を慰撫せしむ。流球従はず。寬、其の布甲を取りて還る。時に俀国の使来朝し、之を見て曰はく、「此れ夷邪久国人の用る所なり」といふ。帝、武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州を遣して、兵を率て義安より浮海し之を撃たしむ。高華嶼に至り、又東行二日黽鼊べんび嶼に至り、又一日便ち流球に至る。初め、稜(陳稜)南方諸国人を將ひきいて従軍せしむ。崑崙人の頗る其の語を解する有り。人を遣して之を慰諭す。流求従はず。官軍を拒み逆ふ。稜、之を撃ち走らす。進みて其の都に至る。頻しきりに戦ひ皆敗り、其の宮室を焚き、其の男女数千人を虜とし、軍実に載せ還る。爾これより遂に絶つ。(*「軍実」とは軍事行動の成果、ここでは捕虜の意味)。

 そして俀国についても以後外交関係は断絶したとされている。
◆『隋書』俀国伝
大業三年(六〇七)、その王多利思北孤、使を遣して朝貢す。
明年(六〇八)、上(帝)、文林郎裴清を遣し俀国に使せしむ。(略)是において宴享を設け以って清を遣し、復た使者を清に隨ひて来らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶つ。

 九州王朝のおひざ元と言える南方諸島への「宮室を焚き、其の男女数千人を虜とす」という隋の“非道”な侵攻は、多利思北孤にとって極めて重大な脅威だったことは想像に難くない。
 しかも隋は五九八年から六一四年にかけて四度にわたり高句麗への大規模な遠征を行っている。特に六一二年の第二次遠征は百万人規模の大軍であったとされ、六〇八年の琉球討伐に続く“東方侵略”は、煬帝に「無礼有り」とされた多利思北孤にとって極めて危険なものに見えたことは疑えない。
 隋の脅威が迫っていることを実感した九州王朝が、隋と一衣帯水の有明海沿岸から「北方」太宰府付近に遷都するのは、超大国「隋」への防衛策として必然的なものと言えよう。

 

三、遷都と「定居・倭京」改元

 そして六一一年は九州年号「定居じょうこ元年」にあたり、六一八年は「倭京わきょう元年」にあたる。「定居」改元は有明海沿岸から「北方」太宰府付近を新都予定地と定めた(布告した)ことを意味し、「倭京」改元は、遷都を実施したことを示すものだろう。
 このように「六一八年に九州王朝による遷都があった」と考えれば「何故六一七年や六一九年に、突如として遷都予言記事が集中して記されているのか」がわかる。「帝都」たる「此地」とは筑後を、「北方遷都」とは「大宰府遷都」を意味し、この遷都記事が『伝暦』に取り込まれたのだ。
 『伝暦』の太子四十六歳(六一七年)条の「一見荒唐無稽に見える聖徳太子の遷都予言記事」は、六一七年に発せられた九州王朝の天子多利思北孤の「大宰府遷都宣言」であり、これが「聖徳太子」の「予言」であると潤色を施され、『伝暦』に移されたものだった。「予言記事」とせざるを得なかったのは、当時近畿天皇家に「北方遷都」の実績がないため、聖徳太子の「遷都詔」とすることができなかったためだ。そして近江遷都や難波遷都、平城京遷都などの「後年の知識」にもとづく潤色を加えることで、太子の「予言」として“つじつまが合う”ように図ったものだった。

(註1)本稿は古賀達也『「太宰府」建都年代に関する考察 ─九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判』(二〇〇四年十二月九日 古田史学会報六五号)で示された問題提起を踏まえ、更に検討を深めたものである。

(註2)通説では藤原兼輔九一七年(延喜十七年)撰とする。

(註3)近江遷都は『書紀』では天智六年(六六七)で、『海東諸国記』では六六一年。六七二年は天武元年で近江朝滅亡年だから、近江で「十年国を治めた」のなら、近江遷都は『海東諸国記』の六六一が正しいことになる。
 難波遷都は『書紀』では大化元年(六四五)と白雉二年(六五一)に記されている。「一百歳間」とぼかしてあるのは『書紀』で難波遷都記事が二回存在するからだろう。いずれにせよ、「十余年後に孤莵聚を成す」というのが、難波遷都から近江遷都までの間が十余年だという意味なら、これも近江遷都が六六一年であることを示している。

(註4)「於今いま」は、「過去と対比した現在」を示す。
『漢書』「諸の往古を稽かんがえ、於今いま制宜す」「武帝崩し時八歲、即位し於今いま七歲(年)、今年十五となる。」
『史記』「自発未生(生まれる前より)於今いま六十年」
『三国志』「吾、義兵を起し暴乱を誅し、於今いま十九年」など。
 また、この「於今いま一百余歳在る」は、他の“予言”で “未来”の年数を示す「○○年後」という書き方(*「十余年後、二十年後、五十年後、一百年後、二百五十年後、三百年後」)とは明確に異なっている。

(註5)古田武彦氏は、講演会「日本の歴史の真相」(二〇〇〇年十二月三日)で「この歌は三潴みづま郡水沼みぬまをバックにして歌われていることは間違いがありません。」と述べられている。(古田史学の会HPで公開)

(註6)『梁書』倭国伝「高祖即位、進武号征東將軍」。『梁書』武帝紀も本来「征東將軍」。一般に「征東大將軍」とするのは、『梁書』註に「各本及び倭国伝並びに「征東將軍」に作る。今南史に依りて倭国伝を補う。」とあるとおり、後代資料による改訂によるもの。)
 なお、「倭の五王」は、名前も系譜も近畿天皇家の天皇と一致しない。
 中国史書で倭国は、一世紀に「志賀島の金印」を授かった委奴国(『漢書』)から、三世紀邪馬壹国(『魏志』)・七世紀阿蘇山がある俀国(『隋書』)まで連続した国と認識されている。その中間にある五世紀「倭の五王」(『宋書』)も九州の王、即ち九州王朝の天子と考えられる。(古田武彦『失われた九州王朝』第二章「倭の五王」の探究に詳しい。)


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