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『古代に真実を求めて』第十九集

「俀・多利思北孤・鬼前・干食」の由来 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集)../sinjit19/taitarisi.html


「俀・多利思北孤・鬼前・干食」の由来

古田武彦氏の『隋書』俀国伝、「釈迦三尊光背名」の解釈を踏まえて

正木裕

 七世紀前期に編纂された中国の史書『隋書』には、我が国の名は「俀国たゐこく」で、その王の「姓は阿毎あま、字は多利思北孤たりしほこ」だと書かれています。ただ、この「俀」と「多利思北孤」について、古代史学の通説では「”俀”は”倭”」、「多利思”北”孤」は「多利思”比”孤」の誤りとされてきました。
 しかし、古田武彦氏は、あくまで原文通りの「俀国・多利思北孤」が正しく、俀国には「阿蘇山有り」と書かれているように、彼は九州王朝の天子であるとされました。また、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」に見える「上宮法皇」も多利思北孤であり、『書紀』等に記す厩戸皇子(俗に「聖徳太子」とされる)の事績も、本来多利思北孤の事績だとする解釈を示されています。(註1)
 本稿では、こうした古田氏の解釈を踏まえ、『隋書』俀国伝の「俀・多利思北孤」や「釈迦三尊像光背銘」に見える「鬼前(太后)・干食(王后)」という特異な“固有名詞”の由来や意味について明らかにしていきます。

 

一、「俀たゐ」について

1、代々継続してきた「委」国

 『隋書』俀国伝に「漢の光武の時、使を遣して入朝す。(略)魏より齊・梁に至り代々中国に相通ず」とあります。そして、紀元五十七年に「委奴ゐぬ国王」が漢の光武帝から賜った「漢委奴国王かんゐぬこくおう」印は「筑紫博多湾岸(志賀島)」から出土していますから、「委奴国」が九州博多湾岸の国であることは明白です。従って、この「委奴国」を承継し、「魏より齊・梁に至り代々中国に相通ずる国」と認識されているのが多利思北孤の俀国となるわけです。
 「魏より齊・梁に至り」とは魏の時代の俾弥呼ひみか・壹予ゐよ、宋・齊・梁時代の「倭の五王」を指すことは明らかですから、多利思北孤を含むこれらの王は、皆連続して九州に存在し続けた「王朝」、即ち「九州王朝」の王達だということになります。
 そうした視点から「国名」を見ると、「委奴国」の「委」は「ゐ」で、しなやか・穏やか・従順な意味で、「倭」はこれに「人」が付いて「穏やか・従順な人」のことを表しています。(註2)
 また、「奴(ド・ヌ・ノ)」の本来の漢字の字義は「捉えられた女」を表す「人」の“蔑称”とされますから、国名の意味を示す中心の文字は「委」で、「委奴国」は「穏やかで従順(委)な夷蛮人(奴)の国」となります。
 そして、邪馬壹国・壹予の「壹」も「ゐ・ゐっ」との読みが有力で、「倭の五王」の「倭」の上古音も「わ」でなく「ゐ」ですから、結局「委」という国名も代々承継されていたことになります。

 

2、「俀国」は「大委(倭)」国

 「俀」も読みは「たゐ」で、古田氏は「俀」は、「大委たいゐ」、つまり「委」に「大」がついた意味だとされており(*『古田史学論集』第九集古田武彦講演会「四 九州年号と神籠石山城」ほか)、これは、「聖徳太子」(実際は多利思北孤)が「集め編纂した」と考えられる『法華義疏』の巻頭に「大委上宮王私集」と「大委」の文字が用いられていることからも分かります。従って、「俀国」は「大委国」で、その国名からも『隋書』に記すように代々の「委」を承継する国と考えられるのです。
 しかし、「委奴・倭」を名乗っていた時代の我が国と、「俀国」では大きな“質的変化”があります。それは「中国との関係」です。
 「委奴国」は「奴」という“卑字”通り漢に臣従し、俾弥呼の「邪馬壹国」は魏・西晋朝に臣従していました。また、「倭の五王」が南朝宋や齊・梁に臣従し、叙位・叙任を求めていたことは有名で、こうした「ゐ(委・壹・倭)国」は、皆中国に“従属する”国だったといえます。(註3)

 

3、「俀」は多利思北孤の「対隋対等外交姿勢」を示す

 一方、多利思北孤は隋の煬帝に「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く」「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という有名な「国書」を送っています。このことから、「俀」は多利思北孤の国書に記される、隋に向かって名乗った“自署国名”といえるでしょう。
 しかも国書の内容から、多利思北孤は隋と「対等外交」を指向していたことが分かります。従って「俀」が「大委」なら、これは、

◆俀国は「委国」を承継する国であっても、従来のように中国に臣従し続けてきた「委 “奴”国」ではない、隋と“対等”の「大」のつく「“大”委国」である。

という多利思北孤の「名分」を示す表現だと考えられるのです。

 あるいは『法華義疏』には「大委」との署名があることから、多利思北孤の国書には「大委」とあったものを、隋はこれを嫌い“弱弱しい”という意味を含んだ“卑字”である「俀」を当てた可能性も考えられるでしょう。
 いずれにせよ、こうした国名の変遷から、「委(倭)」を代々国名に用い、中国への臣従を表現していた時代から、「俀・大委」を用い、中国と対等の立場を指向した多利思北孤の時代への外交姿勢の変化が窺われるのです。

 

二、「多利思北孤」について

1、多利思北孤は「足りし鉾」

 また、多利思北孤とは古田氏の言うように「足りし鉾=鉾に満ちる」という意味で、天孫降臨神話に出てくる神器の「銅鉾」の中心地九州筑紫に相応しい名と理解できます。(註4)

 

2、何故「たり」は「多と利」で「ほこ」は「北と孤」なのか

 それでは、何故この「たり」という音に「多と利」、「ほこ」に「北と孤」という文字を当てたのでしょうか。
 まず、「多利思」ですが、仏教説話では釈迦は生誕時に「天上天下唯我為(独)尊 三界皆苦吾当安之」(『修行本起経』)と言ったとされています。
 これは、「欲界・色界・無色界の三界に迷い苦しむ衆生を皆安んじるがゆえに、我は天上天下で唯一人尊いのだ」という意味で、釈迦の「利他の思想」つまり「他を利せんとする思い」を表すものです。但し、「吾は三界に苦しむ者を“皆”安んじる」というところから、「他」ではなく多くの人々を救済するという「多」の字の方が、より釈迦に相応しい字となります。このように「多利思」は「足りし」という倭語に、釈迦の「多くの者を利せんとする思い」を表す“貴字”をあてたものといえるでしょう。
 次に、「北」は、「天子・聖人は北に座す」(「聖人南面而聴天下」とも)という哲学によるものと考えられます。「天子南面、臣下北面」といい、宮殿を「京(条坊都市)の北」に置くのが「北闕式」で筑紫大宰府もこれに当たります。
 また「孤」は「尊貴の人の自称に用いる字(*白川『字通』)」であり、また「唯我“独”尊」とは「孤」と同義ですから、「唯一人の尊き天子」という意味で「孤」の字を当てたことになるのです。

 結局、「多利思北孤」とは、「足りし鉾」の意味で、天孫の神器「鉾」の満ち足りた国である「筑紫」を象徴する名となります。そして「たりし」には、仏教を崇拝した天子に相応しく、三界に苦しむ「多く」の者を皆助けるという、釈迦の「利他(多)の思い」を表す「多と利と思」の文字を採用し、「ほこ」には、天子を表す「北」と、「貴人の自称」であり、かつ釈迦の「唯我独尊」の意味を持つ「孤」の字を充てたと考えられるのです。

 

三、「鬼前きぜん太后・干食かんじき王后」について

1、鬼前・干食に関する説

 「法隆寺釈迦三尊像光背銘」に見える上宮法皇の母「鬼前太后」について、家永三郎氏は「説明がつかない」(*『聖徳太子論争』)ことを認められています。ただ「干食王后」は「膳大刀自かしはでのきさきと読むことに少しも不自然は無い」とされていますが、これはどう考えても“不自然”です。結局家永氏の見解をもっても「鬼前・干食」共にその意味は「説明がつかない」のです。
 一方、古田氏は「干食は天子の悪質・末期的な病気を暗示するもので后の固有名詞ではない」とされており、朝日文庫『失われた九州王朝』では筑紫糸島半島に「鬼前」地名が見いだされることから、地名ではないかとされています。
 また、古賀達也氏は「“思いつき”ではあるが「鬼前」は「キサキ」ではないか」という見解を述べられています。
 ただ、上宮法皇・鬼前太后・干食王后という人物が、何れも「四文字」で併記されている状況から見て、これらは“固有名詞”、少なくとも人物を特定できる名称として用いられているというのが「自然な」読みでしょう。

 

2、やはり太后と王后の固有名詞だった

 このように議論が定まらない原因は、「鬼前・干食」について、“ズバリあてはまる典拠”が見当たらないことにあると思われます。
 ところで、先に「多利思北孤」と言う名には仏教に由来する漢字が充てられているのではと述べましたが、実は「鬼前・干食」の典拠は古代仏教の説話・法話の中に見いだすことが出来、かつ、「鬼前・干食」とも「生前に仏教を信じなかったものが受ける罪」と「その報いとしての地獄の苦しみ」を表しているのです。

 

3、「干食かんじき」は仏法を破るものが堕ちる地獄の苦しみを表す

 仏教では、人は生前の悪行に応じて「八熱地獄」と、そこに付随する十六の「小地獄(無間地獄)」に落ちて罰を受けるとされ、『正法念処経しょうほうねんしょきょう』(北魏~東魏の瞿曇般若流支くどんはんにゃるし五三八~五四二年漢訳)地獄品には各地獄に落ち餓鬼となった罪人の姿を通じ、悪行を戒める記述があり、その中に「鬼前・干食」の語が見えるのです。
 まず「干食」は、聖人を誹謗し仏法を破るものが堕ちる第四の地獄「野干吼処やかんくしょ」や、僧・寺や仏像・仏具を棄損したものが堕ちる第五の地獄「鉄野干食処てつやかんじきしょ」の有様を表す語として用いられています。
◆『正法念処経』卷第十四(地獄品之十)(註5)
「野干吼やかんく。是れ彼の地獄第四の別処。(略)若し人一切の智人を毀呰(きし*責め謗ること)し、支仏を毀辟(きへき *侮辱)し、阿羅漢を毀そしる。若し法律を毀り、(略)常に聖人を毀そしれば、彼の人是の悪業因緣を以て、身を壞ち命終れば、悪処に堕ち、彼の地獄は野干吼処に在る。」

 「野干吼処」では、その罪を生じた身体の部分を鉄の口から焰を燃す野干(*原像はジャッカルとも。狐・狗に似た地獄の動物)が食するとされます。
「所謂、彼処の野干の作せる業は、鉄の口焰を燃し、彼処に遍満す。是れ野干の焰の牙甚だ利きが如し。聖法人を毀る趣(*「趣」は死後の姿。ここでは餓鬼)に疾く走り往きて、各の異処を食う。頭を食う者有り、項食う者有り。悪語を舌すを以て、復た野干有りて其の舌を食う(「野干食其舌」)。復た野干有りて其の鼻を食う(「野干食其鼻」)。復た野干有りて其の胸骨を食う(「野干食胸骨」)(*以下肺・小腸・大腸・脬・髀・踹・脛・臂・手足・手足指を食うとされる) 

 次に第五地獄「鉄野干食処」に堕ちれば熱鉄・野干による「大苦悩」を受けることになります。
◆「鉄野干食。是れ彼の地獄第五の別処。(略)若し人、悪心悪念に隨喜し、以て悪心を重ね。衆の僧寺を焼き、并せて仏像及び多の臥敷・衣裳・財物・穀米・衆具を焼く。悪心の故を以て、僧処を火焼し、隨喜す。心に悔を生ぜずば悪処に堕ち、彼の地獄の鉄野干食別異処に生れ、大苦悩を受く。謂う所の苦は、前に説く所の如し。」
「前に説く所の如し」というのは、卷第七に、「八大地獄」の第四で、殺生・偸盗・邪淫・飲酒の罪を犯した者が落ちる「叫喚地獄」では、熱い鉄が常に身を焼き、「野干」が其の身中を常に食する如き苦痛を味わうとあることを指します。
◆「身を壞ち命終れば、悪処、叫喚地獄髪火流処きょうかんじごくはっかるしょに堕ち、大苦悩を受く。謂所は火の雨ふり、彼の地獄の人、常に焼き煮らる。炎は頭髪を燃す。乃ち脚足に至れば、熱鉄の狗有りて、其の足を噉くらい食う。炎の嘴くちばしの鉄鷲は、其の髑髏を破り其の脳を飲む。熱鉄の野干其の身中を食う(「熱鉄野干食其身中」)。是れ常に焼かれるが如く、是れ常に食われるが如し。彼の人、自ら不善悪業を作すがゆえに、悲苦号哭す。」

 つまり仏教上で「干食」は、罪業により堕ちた地獄においての、こうした「野干に食われ、焼かれ、砕かれる」という“大苦悩”を象徴する言葉となっているのです。

 

4、「鬼前きぜん」は仏教を信じず侮った罰として受ける餓鬼の苦痛を表す

 また、『正法念処経』卷第十六には驕慢・妄言・欺誑(ごおう * だましあざむくこと)の罪とその罰として餓鬼が受ける苦痛のありさまが記され、その中に「鬼前(餓鬼前身)」の語が見えます。
◆『正法念処経』卷第十六。餓鬼品第四之一
「諸の餓鬼の前身(「餓鬼前身」)の時。慳嫉(けんしつ*陰険なこと)、故に自ら其の心を覆い、妄語欺誑し、自らの強力を恃たのみ、良善を抂誣(ごうぶ *罪をでっちあげる)し、囹圄(れいご *ろうごく)に繋ぎ、人に糧食を禁じ、其の死に致らしむ。殺すを心快しとし、悔恨を生ぜず。」
とあり、その罪として、
◆「腹中に火起き、其の身を焚焼す。(略)地には棘刺きょくし生じ、皆悉く火燃し、其の両足を貫く。苦痛忍び難し」
などといった罰を受けるとしています。  

 この経典の内容は、北魏の延興二年 (四七二)に吉迦夜きつかやと曇曜どんようが訳した、釈尊の入滅後に付法相伝した二十三祖師の因縁を述べる『付法蔵因縁伝』にも次のように記されています。
(大意)西天第十八祖の伽耶舍那尊者が托鉢の為に、ある宮殿を訪れた時、舍主の傍らに二匹の飢えた鬼がおり、食物を与えても血膿となって吐き出していた。そこで、この鬼は何の緣でこのような罪の報を受けるのかと問うと、舍主は、
◆「斯かかる鬼の前世は(「斯鬼前世」)一は是れ吾が息、一は是れ兒の婦。我昔、布施し諸功德を作すも、彼の夫妻、恒に恚(*憤ること)惜を懷き、我数の教誨(きょうかい*教え諭す)を受け納めず。因りて立誓して曰く、「此の如き罪業必ず悪き報むくいを獲ん。若し受罪の時我當に汝を看ん」と。是の因緣を得るに由りて斯く苦悩す」と答えた。
 つまり「鬼の前世は息子夫婦で、仏教を侮った罪で鬼に生まれ、罪の報いを受けた」ということで、ここにも「鬼前」の語が見えます。

 結局、これらの語はいずれも仏教に背き罪を受け、無間地獄に落ち苦しむ人物の様を示していることになるのです。

 

5、地獄の苦しみは天然痘の症状と一致

 上宮法皇の母鬼前太后は十二月に、妻干食王后は翌年二月二十一日、法皇は二十二日と短時間に逝去が相次いでいます。これは『書紀』に記す当時の状況から見て、原因は天然痘である可能性が高く、その症状は『書紀』敏達十四年(五八五)三月記事に次のように書かれています。
◆「又瘡かさ発でて死みまかる者、国に充盈てり。其の瘡を患む者言はく、『身、焼かれ、打たれ、摧くだかれるが如し』といひて、啼泣いさちつつ死る」

 これは「鬼前・干食」が示す「無間地獄の苦」そのものです。
 多利思北孤の母太后、妻王后の蒙った「天然痘の苦しみ」が地獄に記された苦悩と同様であるところから、前世の悪行の業により、そうした地獄に堕ちたことが想定された。そこで、釈迦の救済により彼女らが地獄の苦悩から解放され成仏できるよう、末期乃至没後に、 “堕ちた地獄の所在と被っている苦悩”を暗示する文言二字を「法諱(戒名)」として授かったと考えられるのではないでしょうか。
 そして、釈迦如来の脇侍は通常文殊菩薩と普賢菩薩ですが、「法隆寺釈迦三尊像」の脇侍は薬王菩薩と薬上菩薩です。これは鬼前太后、干食王后の姿を模したもので、滅して後、中尊像の釈迦如来となった法皇多利思北孤により地獄の苦悩から救済され、いまや菩薩として世の人々を病苦から救わんとしている姿を現していることになるでしょう。そう考えれば「釈迦三尊像の姿」とその「銘文」、「法皇・鬼前・干食の語」が一体のものとしてよく理解できるのです。

 以上、「俀」「多利思北孤」に加え、「鬼前・干食」の出典と謂れについて、古田氏の新解釈を踏まえ、更に「仏教との関連」に注目して検討しました。

 その結果、『隋書』に見える、仏教を崇拝し、隋と対等外交を指向した多利思北孤と、釈迦三尊像及びその光背銘文が一体のものとして、時代背景も含め合理的に解釈できることとなったのです。

 

(註1)古田武彦『古代は輝いていた』Ⅲ「法隆寺の中の九州王朝」( 朝日新聞社、一九八五/朝日文庫、一九八八/ミネルヴァ書房、二〇一四)。古田武彦・家永三郎『聖徳太子論争』(新泉社、一九八九)、『法隆寺論争』同上、一九九三)。『古代に真実を求めて』 第9集。古田武彦講演記録「釈迦三尊」はなかった(明石書店、二〇〇六)ほかによる。

(註2)小山鉄郎前文字文化研究所理事は、甲骨文字や金文の分析から「稲の形をした被り物の『禾』を被り、豊作を祈って踊る『女』が『委』だ」とされる。

(註3)なお、『後漢書』(東夷列傳・倭)に「使驛通於漢者三十許国、国皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺国」と「大倭王」という言葉が見えるが、これは、倭に属する三十ほどの「倭の諸王」と区別し「倭の諸王を統合する王」を指す言葉で、「“大倭国”の王」、即ち漢が国名を「大倭国」と呼んだのではなく、また自ら「大委(倭)」を名乗っていたものでもない。これは、『宋書』の倭の五王「珍」が「倭国王」を自ら称し、他の王も「倭王・倭国王」とあることからも明白だ。
◆『宋書』讚死、弟珍立、遣使貢献。自称使持節、都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事、安東大將軍、倭国王。表求除正、詔除安東將軍、倭国王。

(註4)倭の五王のように「一字名」なら倭国王「鉾(呉音はム、漢音はボウ)」となろう。

(註5)出典『正法念処経』電子版(中華電子仏典協会資料底本:大正新脩大正蔵経)


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