『古代に真実を求めて』 第二十二集

「河内戦争」 -- 心の自由を求める戦士と名前のないミカドが歴史を変えた 冨川ケイ子(『古代に真実を求めて』第十八集『盗まれた「聖徳太子」伝承』


六十三代目が祀る捕鳥部とりべのよろずの墓

岸和田に残る書紀伝承を訪ねて

 

久冨直子

一、はじめに

 「古田史学の会」では毎月第三土曜日に月例会、通称「関西例会」を催しています。二〇一八年六月の関西例会において、数日前に新聞の地方版に載った或る記事が話題になりました。岸和田市が『日本書紀』に登場する岸和田ゆかりの武人捕鳥部萬の墓とされる大山大塚古墳に新しく説明板を設置したという内容で、萬よろずの妻方の子孫で代々墓を手入れしてきたという塚元さんの短いコメントが添えられていました。(読売新聞大阪版朝刊 平成三十年六月十五日号)
 全国には記紀上の人物のものとされる墳墓の類は数多くありますが、子孫が営々と現代まで墓の傍に住み墓守をしているなどという話は聞いたことがありません。

蘇我物部戦争(河内戦争)主要地
蘇我物部戦争(河内戦争)主要地

二、「河内戦争」論―古代近畿八国の王とは誰か?

 「古田史学の会」が「捕鳥部萬」に特別な関心を抱くのには理由があります。
 二〇〇八年十二月関西例会で発表された冨川ケイ子氏の論文「河内かわち戦争」の存在です。(『古代に真実を求めて』第十八集『盗まれた「聖徳太子」伝承』に収録)
 『日本書紀』で用明天皇二年(五八七年)七月の出来事として記述されている崇仏・俳仏戦争(蘇我・物部戦争)を分析したこの論文において、物部守屋の資人(つかひびと家来、近習)と記される捕鳥部萬その人こそ、河内を中心とする「八つの国」の支配者であり、これまでは蘇我・物部戦争の単なる戦後処理譚とみなされてきた「朝庭(みかど)が物部氏の残党捕鳥部萬を茅渟ちぬあがた有真香邑ありまかむらへ追い詰めて自害に至らしめる」挿話は、「朝庭=九州王朝が河内の王に戦いくさを仕掛け、支配権を奪い近畿に進出した六世紀末の大事件」即ち「河内戦争」であったと推論しているのです。大胆な仮説ですが、六世紀末から七世紀初頭にかけての畿内(大和・摂津・河内・山城)において、大きな社会変革があったことを示す考古学的状況とよく整合するのです。

 

大山大塚古墳、義犬塚古墳、牛神塚古墳

矢代やしろ神社の鳥居を出ると、旧津田川を挟んで対岸に天神山丘陵に残る3基の古墳が見える。
左から 大山大塚古墳、義犬塚古墳、牛神塚古墳。

有真香邑付近概念図
有真香邑付近概念図

三、阿間あまの谷に残る古代文化

 そんなわけで、新聞記事中の情報を手がかりに会員有志数名が岸和田市を訪問したのは六月も終わりのことでした。
 和泉葛城山から流れ出て岸和田市と貝塚市の間を下り、やがて「茅渟の海」に至る津田川。その中流域に位置する天神山丘陵には、古墳時代後期の築造と推定される多くの古墳がありましたが、戦後の宅地開発によりほぼ消滅し、現在は3基を残すのみとなっています。その内の2基、公営団地群の中に取り残されたような、伝補鳥部萬墓の大山大塚古墳(天神山2号墳)と、萬の飼っていた白犬の墓とされる義犬塚古墳(天神山1号墳)を、萬の妻の家系の六十三代目にあたるという塚元さんにご案内いただきました。

史跡補鳥部萬墓の大山大塚古墳(天神山2号墳)
史跡補鳥部萬墓の大山大塚古墳(天神山2号墳)

 

萬の飼っていた白犬の墓とされる義犬塚古墳(天神山1号墳)
萬の飼っていた白犬の墓とされる義犬塚古墳(天神山1号墳)

 大山大塚古墳は天神山丘陵の最高地にあり、本格的な発掘調査はなされていませんが、近年の簡易調査では六世紀半ば頃築造の小石室を持つ径約三〇メートル程度の円墳とされています。考古学的にこれらが萬と愛犬の墓であるとの確証は無いものの、日本書紀で萬の婦宅(めがいへ妻の家)があったとされる「茅渟縣有真香邑」と、津田川によって形成された谷地域で地名や神社の呼称として残る「あまか(阿間河、天下)・ありまか(有真香、阿理莫) 」の一致と伝承により、この谷地域の出来事として古来より信ぜられ、祀られてきたとのこと。

 墳丘には明治期の三条実美題字による顕彰碑が建てられています。

明治期の三条実美題字による顕彰碑
明治期の三条実美題字による顕彰碑

 

四、六十三代目の子孫が伝える古伝承

 この後、近くの塚元さんのご自宅に招待いただきお話を伺いました。萬の命日と伝わっているのは旧暦九月二十六日で、毎年その前の日曜日に神社とお寺両方に祭礼を行ってもらい、あわせて近所の方や遠方からのお参りのお客様を自宅に受け入れ、自家製のくるみ餅をふるまう慣わしとなっているそうです。
 「塚元」姓の由来について「元々は姓を持たない農民の一族だったと思いますが、姓を決める際「塚(墓)」にちなんだ「塚本」となり、さらに直系の家系は萬公の墓を傍で守るよう「塚元」に改めたと伝え聞いています」とのこと。
 農民といってもご自宅は江戸時代に遡る文化財級の門構えの豪農の屋敷で、天神山一帯は元々は一族の所有地であり、戦後に公団用地として譲渡する際、萬の墓だけは残し公園化することを条件にしたとのこと。
 塚元さんが先代から聞いている伝承はこのくらいとのことでしたが、先に紹介したように蘇我・物部戦争は日本書紀では七月の出来事として書かれおり、萬の自害記事のあと、八月の崇峻天皇の即位記事に繋がります。つまり日本書紀上では、忠犬譚は後の事としても、少なくとも七月乃至八月に萬の死があるのですが、塚元家に伝わる命日は別の日であり、そこには日本書紀由来でない別の伝承があった可能性があるわけです。
 塚元家には江戸時代に遡る膨大な古文書が伝わっており、これらは岸和田市に寄託され解読・公開を待っているとのことです。いつの日か新たな萬伝承が加わることがあるかもしれません。

[注]
本稿執筆にあたり、岸和田市の諸刊行物、特に以下を参照させていただいた。
「岸和田市史」(昭和五十一年〜平成十七年、岸和田市)
「泉州の寺社縁起」(平成七年 岸和田市立郷土資料館)
「谷に刻まれた文化」(平成十六年 岸和田市立郷土資料館)


新古代学の扉事務局へのE-mailはここから


『古代に真実を求めて』 第二十二集

ホームページへ


制作 古田史学の会