2022年 4月12日

古田史学会報

169号

1,「聃牟羅国=済州島」説への疑問
と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説

 谷本 茂

2,失われた飛天
クローン釈迦三尊像の証言
 古賀達也

3,「倭日子」「倭比売」と言う称号
 日野智貴

4, 天孫降臨の天児屋命と加耶
 大原重雄

5,大化改新詔の都は何処
歴史地理学による「畿内の四至」
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学 ・三十五
多利思北孤の時代⑪
多利思北孤の「東方遷居」について
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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栄山江流域の前方後円墳について(会報168号)

天孫降臨の天児屋命と加耶 大原重雄(会報169号)../kaiho169/kai16904.html

天孫降臨の天児屋命と加耶

京都府大山崎町 大原重雄

 

【1】天孫降臨のカラクニ

 以下は古事記の天孫降臨の一節。 「向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也」
 古田武彦氏の解読では、「真来通り」はまっすぐに通り抜けているという感じの表現、壱岐、対馬通過の海路を含む主要道路が貫いている表現がピッタリとされた。この地こそ朝日が刺し夕日が映える地であった。
 そうするとこの韓国は朝鮮半島というよりも、半島南岸の特定の地を指すと考えるほうがいいのではないか。それは半島の南岸も広い範囲があり、さらに北九州の海岸も東西に長い。またこれが出雲であれば、半島には西へまっすぐといえる。よって糸島半島からの視点として壱
岐、対馬も通過点となる先は、半島南岸の一定の範囲に絞れるのではないか。魏志倭人伝では楽浪郡より倭へは「韓国歴乍南乍東」とある。ここでは韓国は楽浪郡より南側の広い範囲の半島を意味している。そして北岸狗邪韓国に至るとある。この国を『三国志』東夷伝韓条の弁辰狗邪国のこととする説もあるが、この国から対馬、壱岐を通り九州北岸に着く。すなわち魏志倭人伝と天孫降臨のコースの同一性を意味しており、天孫降臨の韓国とは半島全体ではなく、魏志倭人伝の云う狗耶韓国あたりと考えるのが妥当ではないか。現在の釜山や金海のあたりとなる。そこからまっすぐに糸島半島と向き合う。
 魏志倭人伝には、一大率の検察の記事

の後に「王遣使詣京都帶方郡諸韓國」という一節がある。鈴木靖民氏の指摘だが、遣使が中国への途中に帯方郡や諸韓国にも詣でるとある。韓国に諸がついているということは、複数のカラクニを意味している。大きな一つの国を指しているのではなく、特定のカラクニを意味している。おそらく魏への使者は、まずは最初に狗耶韓国を訪れ、他にも数か国のカラクニに立ち寄ったのであろう。

 

【2】五伴緒(五部)の天児屋命とは?

 爾天兒屋命・布刀玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命、幷五伴緖矣支加而天降也
 ヒコホノニニギノミコトは、古事記では五伴緒、日本書紀では五部をお伴として天下っている。それは天岩戸神話に登場する神々と一致している。小学館の古事記の解説では、「伴」は一定の職業に従事する部民、「緒」はそれを束ね統率する者で民族の長をいう、とある。小学館の日本書紀では、「五」という数は日本の神話に現れることの少ない数だが、ツングース族など、アジア大陸の遊牧民は、軍隊組織を五、またはその五倍の二十五を単位として構成。それが天孫降臨の場合に現れるのは、この神話がツングースなどに関係、と岡正雄説を取り上げている。東アジアの五部の問題は先学の研究があり、川本芳昭氏は高句麗の五部制が百済に影響を与えたという説に同意し、高句麗の五部の記述が、内部、北部、東部、南部、西部の順になされており、百済も都下の五部は中部(内部)を先頭

として次に東からの右回りの順になるという。これは序列を意味しており、まずはその先頭に記されているのが、上位に位置することになる。
 天岩戸神話の神も天孫降臨のお供も、記された神の順列は同じである。そうすると天孫降臨のお供の天児屋命が上位の位置にある存在と考えていいであろう。ではこの神とはどのようなものであったのだろうか。

 

【3】天児屋命の仮説

 だが上位の天児屋命については、あまりよくわかっていないようで、いずれもお決まりの説明しかされていない。小学館の注では、小屋の内で神話を聞き、それを伝える神とある。神事を司る中臣氏の祖とされることに関係はする。だが神名のコヤから小屋が連想されたような説明は、いささか付会ともいえる解釈だ。さらにいうと、コヤではなく、コヤネと読まれているから、屋根のあるところで神事が行われたのだと言われそうだが、これも奇妙である。そもそも児屋(兒屋)をなぜコヤネと読むのであろうか。屋の意味に屋根もあったとするのか。日本書紀に登場する屋に、他にヤネの読みがされるものはない。もとは児屋根といった、根の字があったのかもしれない。先代旧事本紀や祝詞には根をつけた表記がある。しかしだからといって家屋の小屋根とはならないであろう。祝詞には別の表記で天之子八根命とある。そのことからも家屋の屋根を意味するのではなく、たとえば天皇の名にあるような根子と同じ

意味を持つ根があったのが、何らかの事情で省略されたと考えられないだろうか。逆に元はコヤだったのが、後からネをつけたとも言えなくもないが。いずれにしてもコヤという単独の語として考えてよさそうだ。
 ではその児屋とはなんであろうか。天児屋命はニニギノミコトのお供として序列の上位たる意味をもち、狗耶韓国あたりから九州にやってきたのだ。コヤは狗邪であり、それはカヤ、加耶の国を意味していると考えられるのではないか。その加耶の国の実体は謎が多いが、高句麗や百済と同じ五部制をもっていたのかもしれない。三国遺事の駕洛国記には国の始まりの説話の後、金官加耶の始祖首露王と五加耶の王が誕生とある。真っ先に鉄を倭国にもたらし、さらには馬具も持ち込んだのが加耶勢力ではないか。
 かっては半島南部に弁辰と呼ばれる諸国があり、そこに狗邪韓国や駕洛国などがあった。後に伽耶と称されるようになったが、複数の国の集まりであった。前半は金官加耶あたりの中心が、後半には大加耶に移ったようだ。加耶は加羅、駕洛、加良などとも記されている。

 

【4】何度もあった天孫降臨

 天孫降臨説話では本来は高皇産霊尊が司令塔であるが、そこに天照が加わる二重構造であると岡正雄氏らに指摘されている。そして日本書紀にはいくつもの一書が語られ、さらには、先ほどの五部の登場しないものもある。それは天孫降臨を多元的にとらえなければならないこと

を示している。例えば九州北部でなく、日本海沿岸の国々に直接降臨することもあったはずだ。
 一書では、天忍日命が頭槌劒を帯刀している。柄頭がこぶのような形の剣であり、宮地嶽神社の不動神社古墳のものが有名だが、出土は少なく時代も古墳後期となる。天武の后の尼子姫の父親の墓ということなら、宗像に関わる勢力も降臨してきたのだろうか。つまりいくつもある降臨の話が一本にまとめられたのが古事記であり、別の話も含ませているのが日本書紀ではないか。よって、降臨の出発点は加耶地方であったが、その経由地である対馬や壱岐で育った集団も降臨を行い、その地をアマクニと名付けた可能性もある。宮崎県の日向にも降臨があって読み方は異なるが、日向というその地名が持ち込まれたことも考えられる。
 いずれにしてもこの降臨説話は遊牧騎馬文化を色濃く持つ集団が移住してきたことを示している。高句麗の檀君神話のように半島三国の始祖神話と日本神話との類似は既に言い尽くされていることだが、加耶についても降臨神話などに用いられたと考えられる。
 古事記では「中天若日子寢朝床之高胸坂以死」とあり、天孫降臨に先立って派遣された天若日子は、朝床に寝ていた際に返り矢が刺さり落命する。しかし、写本に胡床とされたものも存在し、朝床の朝は胡ではないかとの指摘が本居宣長などからある。その説が有効ならばその胡床といわれる遊牧騎馬民族の用いる床几に腰掛けて、天若日子は休息をとってい

たことになる。また眞床覆衾についても北方民族が、王の即位式でフェルトに載せるなどの類似がある。るなどの類似がある。

【5】加耶勢力の降臨を表すカヤ・カラ地名

 加耶勢力ははじめに九州の糸島半島や唐津に移住したのであろう。名勝奇岩の芥屋の大門の芥屋はカヤのことではないだろうか。その地の近くに唐津湾に面した可也山がある。朝鮮半島南部に加耶山があり聖山となっているように、糸島の可也山も聖地としてあがめたのであろう。また和名抄の韓良郷は糸島半島の東の先のあたりという。そうしたことで加耶は加羅ともいったようだ。西方面の唐津も中国の唐ではなく加耶のカラである。観世音寺資材帳に加夜郷もある。また唐津市柏崎では前2~1世紀頃の甕棺から前漢の日光鏡とともに、触角式有柄銅剣が副葬されていた。スキタイ風と言われるこの銅剣の出土分布図はまさに北方文化の移動を明確に示している。なおかしわの柏の字はカヤとも読める。続日本紀の天平宝字二年によれば福岡県にあった席田郡の大領子人が「駕羅国」から祖先が渡来したことにちなんだ姓を申請し、駕羅造の氏姓が与えられたという。新撰姓氏録では、百済系「加羅」、新羅系「貨良」としている。ちなみに欽明紀二十三年の詔では、新羅が任那を滅ぼしたことに対し、怒りを込めて新羅のことを「西羌」と呼んでいる。中国西北の甘粛、すなわちモンゴルやウイグルに隣接したところだ。すると新羅も、はるか西方の大陸文化を持っていたことを示していることになる。

触角式有柄銅剣出土分布図触角式有柄銅剣出土分布図

剣触角式有柄銅剣

 

【6】拡大する加耶地名

 糸島半島のカヤ地名のような事例が各地の移動先に残されているのではないか。

○島根県 出雲国風土記に加夜の社。 出雲市稗原町の市森神社に合祀か
○岡山県 加夜国は後の備中国賀陽郡。現在の総社市などで造山、作山古墳、吉備津神社、鬼の城など。
○兵庫県 豊岡市加陽、近くに出石神社○伊丹市昆陽、摂津国武庫郡児屋郷。
○大阪府 摂津国嶋上郡児屋郷、児屋里。ここは芥川左岸か。
○奈良県 北葛城郡広陵町萱野。 明日香村栢森。そこに加夜奈留美命神社。桜井市にも栢森。
○京都府 加悦町(現与謝野町)吾野神社の祭神我野廼姫命。 延喜式の内社「ワカヤノ、ワカノノ」とカナをふるが、ワ

は古語文法の敬称でノは所属などの格助詞、その間がカヤ、カノ。近くに吾野山古墳がある
○滋賀県 古事記開化記に蚊野之別があり、近江国愛知郡蚊野郷で彦根市の南方秦荘町という。

 まだまだあるが、単に読みが似ているというだけではなく、古典の記事や出土遺物などからその関係の有無を今後においてみていきたい。

 

【7】伽耶と半島の遺物と倭国との関係

 遺物の出自を明らかにすることは困難な問題もある。加耶は途中で、新羅や百済に吸収されていくことや、相互交流や紛争時の戦利品としての持ち帰りも考えられる。奈良県や島根県では、後ろを振り向く鹿の埴輪があるが、加耶地域の未伊山古墳群からも振り向いた鹿を表現した角杯形土器が見つかっている。その古墳からは宮崎県西都原古墳群出土の舟形土器と同型のものもあった。
大成洞古墳群から4世紀前半の13号墳から革製の楯とそこに付着した巴形銅器や碧玉製の石鏃、18号墳からは筒型銅器二点など倭と加耶の共通の儀器などがある。奈良県の新山古墳の透かしのある帯金具は西晋製だが、扶余、加耶の関連が考えられる遺物だ。
 天孫降臨と同じラインの交易が、金海と原の辻、西新町遺跡や比恵那珂遺跡などと活発に行われていた。次々見つかる分銅や硯などが、まさに魏志倭人伝の「南北に市糴す」を物語っている。須玖遺跡では十倍権の分銅である石権が見つかっており、これが加耶領域の慶尚南道茶戸里遺跡の青銅製の権と同じ基準であった。加耶からの移住民が元の国と同じ基準で交易を行ったことになろう。また半島での馬に関する遺物は、意外にも百済の地域からはあまり見つかっておらず今後の研究で新たな認識も生まれるだろう。

 まとめ

①日本にあるカヤ地名と加耶との関係を指摘されることはあったが、新たに天孫降臨の天児屋命こそ伽耶の神を意味しているのではないか、と考えた。韓国は半島全体の一国を表すのではなく、いくつもある諸カラクニの一国である狗耶韓国、後の加耶を示している。異なる勢力の到来は何度もあったが、神話化されたその中心は伽耶の勢力と仮定して、弥生末期より古墳時代前半の特徴からその動向を考えていきたい。

②半島の三国だけでなく、加耶などの複数の半島南部の集団も、扶余などの遊牧騎馬文化系の影響を持っており、それらが複雑に、多元的に列島に入り込んでいると考えられる。

③倭国王権の形成時に、加耶の集団の関与を早くより言及されている方もいる。この視点をもつことも、倭国王権の姿などの解明に重要と考える。


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