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漫画・「邪馬台国」はなかったミネルヴァ書房) 福與 篤著 古田武彦解説

 

  お断り:当会ホームページに掲載されている大下隆司氏の論説に対する史料批判は、これらの本を参照してください。


なかった別冊2

「日出処の天子」は誰か

よみがえる古代の真実

ミネルヴァ書房

大下 隆司 著
山浦 純 著

はじめにあとがきは下にございます

《目次》

i〜iv はじめに

001 序 章 王朝の交代、「倭国」から「日本国」へ

003  1 古代日本の姿

     日本史の多くの謎 隣国から見た日本

005  2 中国史書の中の「倭国」

     九州にあった「倭国」 白村江戦と「倭国」の滅亡 『旧唐書』の証言 -- 王朝の交代 七〇一年「日本国」の成立 歴史から消された「倭国」

013  3 日出処の天子は誰か

     倭の天子、阿毎・多利思北孤 女帝を男とする学会 

 

017 第1章 聖徳太子と多利思北孤

019  1 日本人にとっての聖徳太子

     聖徳太子のイメージ 聖徳太子の家系  聖徳太子の業績 聖徳太子一家の滅亡 聖徳太子虚構説の登場

024  2 聖徳太子をめぐる謎

     消失した法隆寺再建の謎 釈迦三尊像は聖徳太子の像ではない  作られた伝説『上宮聖徳法王帝説』 『古事記』にない聖徳太子説話 唐に行った「小野妹子」 「遣隋使」とされた「唐への使者」

036  3 「隋書イ妥国伝」の多利思北孤

     同時代を描いた『隋書』 イ妥国の歴史・地理・気候  隋と多利思北孤の外交

041  4 法隆寺の中の多利思北孤

     釈迦三尊像は誰の像か 多利思北孤の私集『法華義疏』  釈迦三尊像は多利思北孤の像 法隆寺焼け跡に移築された観世音寺 盗まれた多利思北孤


049 第2章 金印・卑弥呼、弥生から古墳時代へ 弥生時代〜四世紀

051  1 金印の時代

     中国から渡ってきた稲作と人々 中国文献に見る最初の倭人  光武帝から送られた「金印」 印文を読むルール 博多湾岸の弥生王国 古代史学会の「金印」解釈  銅矛圏と銅鐸圏 史実を反映する天孫降臨と神武東征 天皇家の勢力拡大と銅鐸の消滅

061  2 倭の女王卑弥呼

     『魏志』「倭人伝」 博多湾岸にあった邪馬壹国  部分の総和が総里程 「邪馬壹国」の女王「卑弥呼」 魏との緊密な軍事関係 景初二年の卑弥呼の使者

082  3 古墳時代の始まり

     三輪山周辺の古墳群 天皇家の畿外への進出  古市・百舌鳥の巨大古墳と河内王朝 四世紀、朝鮮半島の「倭」 七支刀の銘文 高句麗好太王の碑

 

 

091 第3章 倭の五王と近畿天皇家 五〜六世紀

093  1 倭の五王

     『宋書』に描かれた倭国王 倭国の領土拡大

097  2 「記紀」の天皇は倭の五王か

     内紛に明け暮れた履中〜雄略天皇 朝鮮に渡海していない近畿の天皇 『日本書紀』の盗用記事 倭王武は雄略でない

103  3 金石文解釈の疑問

     稲荷山鉄剣と関東の大王 江田船山古墳の大刀読みの変遷

108  4 大和の王朝交代

     武烈から継体へ -- 非合法な権力奪取 継体天皇宮都の変遷 不思議な天皇死亡記事 今城塚古墳は継体天皇陵か

 

115 第4章 九州王朝の成立から衰退へ 六〜七世紀

117  1 六世紀、朝鮮半島の攻防

     混乱する東アジア 任那の喪失

120  2 九州王朝の成立

     九州年号 『二中歴』の九州年号表 九州年号の研究 九州王朝の始まり 装飾古墳

130  3 多利思北孤の時代

     朝鮮半島の脅威 倭国防衛の要塞網 -- 神護石山城群 水城と本土防衛 水城、神護石の構築時期 岩戸山古墳の裁判 多利思北孤の政治

138  4 白村江の戦い

     白村江の戦い前夜 -- 近畿軍の戦線離脱 白江、倭兵の血で染まる 白村江の戦後処理 -- 唐の占領統治

 

149 第5章 日本国の誕生 七〜八世紀

151  1 大化の改新

     「乙巳の変」中大兄皇子の権力奪取 大化年号の謎 -- 『日本書紀』の中の九州年号 大化の改新詔勅の謎

 

156  2 壬申の乱

    白村江後の朝鮮半島 「壬申の乱」の経緯 天武天皇の謀反 万葉集の吉野 九州佐賀にあった吉野

 

163  3 日本国の成立

    天武から持統へ 天武の難波宮 -- 複都制の背景 那須国造碑に記された「唐年号」 唐外交の変化 「倭国」から「日本国」へ -- 唐文化の流入

 

173 終章 よみがえる九州王朝

175  1 疲弊にあえぐ倭国

    大地震と倭国の疲弊 倭国の消滅

 

177  2 万葉集の謎

    すり替えられた歌の舞台 読み人知らず 三笠の山に出し月 -- 奈良の三笠山に月は出ない 天の香具山 -- 奈良盆地にカモメは飛ばない 荘厳な「筑紫・雷山」、貧弱な「飛鳥・雷丘」

 

186  3 秘かに伝えられた幻の筑紫舞

    宮地獄神社の黄金大刀と巨大石室 筑紫舞の復活

 

   ◆コラム

 064 ○1「一寸千里の法」と短里 -- 古代中国の天文算術書『周髀算経』

 067 ○2 二倍年暦について

 072 ○3太平洋を渡った縄文・弥生の人たち

 126 ○4ヨーロッパに伝えられた「九州年号」

 146 ○5「君が代」は九州王朝の賛歌

 171 ○6『古事記』と『日本書紀』

 193 あとがき

 197 参考文献

 

 201 ■資 料

 202  1 「魏志倭人伝」(紹熙本三国志)古田武彦による読み下し文

 208  2 「隋書イ妥国伝」原文(付古田武彦による読み下し)

 218  3 日本列島(倭国・九州王朝と近畿天皇家)の歴史年表

 224  4 倭国・九州王朝と近畿天皇家の系図


 1〜7 人名・事項索引

 8〜9 系図・史書・写真・史料・図・表 一覧

 

 

なかった別冊2
 「日出処の天子」は誰か
 よみがえる古代の真実
__________________________________________________
2018年 8月10日 初版第1刷発行

 著 者  大下 隆司
       山浦  純
 発行者 杉 田 敬 三
 印刷社 江 戸 宏 介
 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
_________________
© 大下 隆司・山浦純, 2018    共同印刷工業・新生製本
ISBN978-4-623-08388-6
   Printed in Japan


はじめに

   ひいずるところのてんし、しょを、ひぼっするところの てんしにいたす、つつがなきや。

   日出処の天子、書を、日没する処の天子に致す、恙無きや。

   てんしのせいはあま、なはたりしほこ、つまのなまえはきみ。

   天子の姓は阿毎、名は多利思北孤、妻の名前は鶏彌。(『隋書ずいしょ』)

 私たち日本人は長い間「日出処の天子」は聖徳太子であると信じてきました。しかし、それは何の根拠もなく作り上げられた虚像だったのです。それを信じ込まされていたのです。
『隋書』のどこにも聖徳太子の名前は書かれていません。また、『隋書』だけでなく、『古事記』『日本書紀』を開いても、厩戸皇子(聖徳太子)が隋に使いを出したとは一切書かれていません。にもかかわらず、千三百年間、日出処の天子「阿毎・多利思北孤」は聖徳太子のこととされてきたのです。
 聖徳太子ゆかりの寺と言えば法隆寺でしょう。聖徳太子の冥福を祈って作ったとされる釈迦三尊像がある寺です。が、その像の光背銘には、聖徳太子の名前も推古天皇の名前も一切ありません。そこに刻まれているのは「上宮(法皇 じょうぐうほうおう」のためにこの像を作ったという文言です。この「上宮法皇」も何の根拠もなく聖徳太子であるとされてきたのです。
 歴史上の出来事は、同じ時代、もしくは近い年代に書かれた史書や金石文、そして出土物に基づいて調べていきます。「日出処の天子」の場合は、その名前が記されている『隋書』に基づいて、どのような人物であったかを調べます。「法隆寺釈迦三尊像」に関しても光背銘に書かれている文言と他の文献・史料を比較検討して調べていきます。その時、そこに書かれている名前「多利思北孤」を無視したり、刻まれている名前「上宮法皇」を「聖徳太子」である、とすることは、よほどの確実な根拠がないかぎり、行ってはいけません。ところが「日出処の天子」も「上宮法皇」もいとも簡単に「聖徳太子」とされてしまっているのです。
 この千三百年の誤りの基となった原因は、「神代の昔から日本列島を支配してきたのは天皇家・大和朝廷だけである」とする歴史観にあります。この歴史観に照らせば、「日出処の天子」の国書を送ったのは西暦六〇七年、この時代の天皇家側の該当人物は厩戸(皇子(うまやどのおうじ 聖徳太子)であるとなるのです。
 さらに、中国史書に出てくる「倭国」「倭」もまた「日本国」の古い呼び名である、とされてきました。私たち日本人は、長い間、そう信じてきたのです。しかし、中国史書『旧唐書 くとうじょ』は、「倭国」と「日本国」は別の王朝であると証言しています。古代日本列島には、近畿の天皇家だけでなく複数の王朝が存在していたのです。
 中国は古代から周辺諸国に関する記述を残しています。おかげで文字を持たず興亡していった国々でもその存在、歴史を知ることができます。日本についても、中国史書の『後漢書』『三国志』『宋書』『隋書』『旧唐書』に詳しく描かれています。それらは同時代、もしくは近い時代に記述された信頼すべき一級史料です。これら中国史書にはどのような古代日本が記されているのでしょうか、詳しく読んでいくと、そこには『古事記』『日本書紀』とはまったく違う古代の日本の姿が描かれています。 
 私たちはいままで「日出処の天子=聖徳太子」や「倭国=日本国」だけでなく、日本の古代史全体にわたり、作られた歴史を教え込まれていたのです。
 本書では序章において、中国史書に描かれた「倭国」の興亡と歴史から抹殺された経緯、「日本国」の誕生を簡単に述べ、「日出ずる処の天子」は「倭国」に実在した阿毎・多利思北孤であることを示します。第一章では、聖徳太子を巡る様々な謎を日本・中国の歴史書を比較検証し、かつ法隆寺にある釈迦三尊像の光背銘や古文書の分析から、聖徳太子の数々の業績が実は「倭国の天子」阿毎・多利思北孤のそれの盗用であることを述べます。そして第二章から五章まで、弥生時代から「日本国」の誕生まで、時代を追って古代日本列島に起きた出来事を詳しく説明していきます。終章では「倭国」滅亡と『万葉集』の歌に隠された「倭国」の風景、そして九州王朝の舞楽「筑紫舞」について語り、現代に蘇える「倭国」の姿を示します。
 その際、特定の先入観や史観によりかかることなく、史書、金石文などを丁寧に読み解き、これらの史料が客観的に語ることに耳を傾けるという姿勢に努めました。そして、最新の科学的成果と知見を取り入れて、できるだけ分かり易く語ることも心がけました。 
一章から五章の冒頭にはその時代の簡単な年表を付しましたので、参照しながら読み進めていって下さい。
 本書を読まれた方は、これまでの通説や学校で習ったこととあまりにも違う古代史像が提示されていることに驚かれると思いますが、これが中国史書等が証言している古代日本の真実の姿なのです。


あとがき

 本書では、中国・朝鮮史書の数々の証言から輝かしい歴史を持った倭国が、白村江の戦いを境に衰退し、滅亡し、遂には日本列島の歴史から抹殺されるまでの歴史を描き出すことができたと考えています。
 本書の第一の眼目は、「隋書イ妥国伝」に出てくるあの「日出ずる処の天子 -- 阿毎・多利思北孤」と『日本書紀』の聖徳太子とを比較検討した結果、両者は別人という結論に到達したことでした。
 その結論を切り口として、日本の古代史を見ていくと、濃い霧に包まれていた実像がくっきりと姿を現してきたのです。近畿天皇家以外に九州にも「イ妥国 たいこく)(大委国=倭国)」という国家が存在していました。しかも、その国は一世紀の「漢委奴国 かんのいどこく」から三世紀の女王・卑弥呼の「邪馬壹国」、五世紀の倭の五王の国、六〜七世紀の阿毎・多利思北孤の「イ妥国(大委国=倭国)」、そして七世紀後半の白村江の戦いを戦った「倭国」として、中国史書に一貫して描かれていたのです。中国や朝鮮半島の国々が「倭国」として交流していたのは、実は北九州に存在したこれらの国々です。決して近畿天皇家ではなかったのです。
 このことは必然的に、日本列島の古代の正確な姿を理解する為には、「神代の時代から日本列島は天皇家が唯一の支配者として君臨してきた」という『古事記』『日本書紀』の「一元史観」ではなく、「多元史観」の視点を導入しなければならないということです。近畿以外にも、九州や関東にも近畿天皇家の支配の及ばない王権(国)が存在していたのです。多元史観に立てば、古代史の数々の矛盾や謎、理解不能な事柄が合理的かつ矛盾なく理解できます。しかし、『古事記』『日本書紀』の記述が正しい歴史とする「近畿天皇家一元史観」の大多数の学者はそれを認めていません。そして日本政府もそれを認めてはいないのでし。
「一元史観」から「多元史観」への転換は、ちょうどプトレマイオスの「天動説」から、コペルニクスやガリレイの「地動説」への転換と同じような困難を伴うのかも知れません。しかし、やがて科学の力が宗教の力に勝って現在では誰も地動説を疑うものがいないように、「多元史観」が古代史の正統な主流になって行くだろうし、古代史のコペルニクス的転回が進行していくだろうと確信しています。
 本書は、平成二十六年八月に出版された『日出ずる処の天子 -- 阿毎・多利思北孤』(ドニエプル出版発行、文化創造倶楽部・古代史&歴史塾編以下、ドニエプル版とします)を一般向けに書き直したものです。ドニエプル版は、主として結論部分を重視して、詳細な論証は他の文献(主として古代史学者・古田武彦氏の著書等)を参照して貰うとの観点で書かれました。
 一方、本書では古代史研究の最新の新知見をも取り入れて、「史料をして客観的に語らしめる」手法を取り入れるとどのような古代史像が描き出されてくるのか、という観点からドニエプル版の編集に参加した大下、山浦が共同で執筆にあたり、最終の取りまとめを大下が行いました。本書は、先行するドニエプル版がなければ、決して刊行できなかったと思っています。ドニエプル版の製作に尽力された木村賢司氏はじめ多くの人々に感謝いたします。

 最後に先生と生徒との間にいつかこんな会話がかわされる日が来ることを楽しみにして待ちたいと思います。
 生徒「先生、日出ずる処の天子をご存知ですか」
 先生「それは聖徳太子のことだよ」
 生徒「先生、それは違います。阿毎・多利思北孤という人です」
 先生「阿毎・多利思北孤は聖徳太子だよ」
 生徒「阿毎・多利思北孤には皇太子がいます。聖徳太子は自身が太子ですから、それは違います」
 先生「聖徳太子でなければ誰なんだね」
 生徒「北九州に『倭国』という王朝が『日本国』よりも前に存在していました。阿毎・多利思北孤はその『倭国』に実在した天子で、聖徳太子とは別人だった人です」    
   
 本書を執筆・編集中の平成二十七年十月十四日、古代史学者・古田武彦先生のご逝去の報に接しました。謹んで哀悼の意を表するとともに、本書を先生のご霊前に捧げるものです。合掌。


参照 古田武彦著作集 へ

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