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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書

第三章 九州王朝の風土記 2

古田武彦

 ここで筆を改めて、戦後史学の研究史をふりかえってみよう。なぜなら以上の分析と思惟(しい)の展開は、わたしの目にとってきわめて当然の論理的進行だ。そのように見えているにもかかわらず、旧来の一切の古代史学の学者たちかそのような思考の片鱗(へんりん)さえしめしていない、そのこともまた ーーはなはだ不可思議なことながらーー まさにまかうかたもなき研究史上の事実だからてある。
 そこで敗戦後、昭和二十年代から三十年代にかけて、日本の古代史学における文献的研究は、どのように基礎づけられ、進行してきたか、その大勢のおもむきとその本質について、ふりかえってみることは、おそらく無意義ではないと思われる。
 敗戦の荒廃いまだ去りやらぬとき、昭和二十六年十一月の「史学雑誌」(六〇 ーー 一一)巻頭を飾った論文、それは若き井上光貞氏による画期的な論文、「国造制の成立」であった。その目次は「はしがき、一、国と県、二、国造と県主(あがたぬし)の関係、三、出雲(いずも)国造について、四、国造制の地域的多様性、むすび」から成っている。氏の論稿の目的は、先の氏の部民論にひきつづき、「国造制の成立を国家成立史の観点からあとづけて見よう」とするにあった、という。そのさい「国の構造に論及しようとする時、こゝに一つの鍵(かぎ)ともなり、また難解の問題でもあるのはかの県の理解である」として、わが国における「県アガタ」の成立に、論及の第一の焦点が定められた。そして次のようにのべる。「七世紀初めには国を上級組織とし、県を下級組織とする、かなり整然たる地方制度が成立していたことを確認してよいとおもうが、今これを仮に国県制と名付けておく」と。ここに「七世紀初め」といったのは、『北史ほくし』倭国伝の記事「有軍尼一百二十人、猶(ごとし)二中国牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也、十伊尼翼属一軍尼」が、近畿なる推古朝の事実とほぼ相応する、と考えられたからのようである(この問題については、古田「多元的古代の成立」参照。前出)。
 その上で、国と県とのちがいについて「国が行政区分的存在であるに反し、県には独立小国であり、祭祀(さいし)的、部族的な人的団体であるクニに遡源(さくげん)し得られるものが多い」とし、「大和朝廷の統一の対象とはかくのごとき段階の小国又はその聯合れんごう」であるが、これに対し、「国とは大和国家の支配体制の強化・整備の過程において国家権力により、行政的意図のもとに作られたものではなかろうか」という形でまとめた。
 そして「遅くも七世紀初頭(聖徳太子しようとくたいし摂政の頃)、国・県・邑(むら)の区分をもつ地方行政組織が成立しており、しかもこのような組織は、行政的目的のもとに、権力的に作りあげられた政治的制度なることを論証しようとした」という帰結に至った。その上でさらに、「大化前代の国家は、国権の侵透が充分ではなく、法形成以前の国家であるから、かかる理念が果して全国に貫徹されていたか否か。」という問いを発し、吉備(きび)・美濃(みの)・大和・出雲等、各地各別の特色を有していたことを細説されたのである。
 以上のような氏の縷述(るじゅつ)を通観するに、一方では国県制が大和朝廷の「整然たる地方制度」であることを明確に論断しながら、他方では国と県との淵源(えんげん)する性格のちがいに対して留意する。さらに各地域の先進・後進性等に応じてその実施性格の実際をそれぞれ異にしていたことを、各地の史料に応じつつ、断言を避け、幾多の保留をおきつつ縷述する。このような一面大胆、一面慎重・細心の行文の中には、まさに後年に至る井上氏の研究手法の特質が躍如として貫通しているのを覚える。すなわち全体としては、ぼかしに満ちた背景のもとに、大化前代の大和朝廷中心の国家発展史という骨格(こっかく)、その一点だけは中枢にクッキリと浮かび上らせた一篇の画図、それはまさに若き日の、氏の力作であった。
 敗戦によって戦前の皇国史観という大樹は一夜にして斃(たお)れ、代って津田史学が古代史学の正面に据えられた。だが、“記・紀の神話・説話の史実性を否認する”という、「否定の史学」としての根本性格をもつ津田氏の方法からは、にわかに具体的な古代発展史の実相を描きがたい。そういう困惑の状況下に忽然(こつぜん)と出現した、この井上論文が、名くの後来の研究者にとって、恵みの“導きの炬火”となりえたのは、思うに無理からぬところであろう。その方法上の要点は、
 一に、記・紀の神話・説話の記載はそれ自身では史実とは認めがたい。
 二に、しかしながら、たとえば「国」「県」のごとき記・紀中に出現する述語は、これに対して適切な処理を行えば、「史実」を再現し、構成する礎石として用いうる。
 三に、その「史実」とは、核心において、大和朝廷を中心として各別の各地が統合せられゆく、その具体的な発展史である。
というにあった。各個の細目こそ後来の研究若に委ねられてはいるものの、戦後史学の“全体の土俵”は、ここに井上氏の手によって定められた、そのようにいっても大約、過言ではないであろう。

 爾後(じご)、八年にして、井上論文に再吟味を加えた出色の諭文が現われた。上田正昭氏の「国県制の実態とその本質」(「歴史学研究」二三〇、昭和三十四年六月)がこれである。
 上田氏は井上論文の「劃期的業績」をたたえつつも、幾多の点で井上論文に批判を加えた。先ず『日本書紀』における推古十年(六〇二)より持統元年(六八七)の国造伴造(とものみやつこ)等の名称の列記記事(二十三例を表示)の中に「県主」の存在しない点を鋭くとらえ、井上氏は、氏のいわゆる「国県制」を「遅くとも七世紀初頭」には存在した、としたけれども、右の表示からすれば、当らない。「県」制の成立は、もっと早いことを指摘して次のようにのべられた。「三世紀中葉の卑弥呼の段階より更に県制をテコとして、西日本のクニをより強固に統属していったことが推考される」とうのである。それはもちろん、大和朝廷(近畿天皇家)によってである。
 井上氏の場合、「遅くとも七世紀初頭」(傍点、古田。インターネット上は赤色表示)という表現は、『北史』(『隋書』とほぼ同内容)の倭国伝との“一致”を基点にすえた上での、氏独特の“慎重な言いまわし”であったのであろう。けれども、上田氏の指摘によって、少なくとも記・紀による限り、“七世紀において「県」制は(遺制としての存続の他には)必ずしも強烈に現存してはいなかったのではないか”という、有力な示唆が加えられたのである。
 けれども井上氏とて、「遅くとも」という慎重な表現のしめす通り、県制の成立は“それより遡さかのぼる”べきことが暗示されていたのであるから、この点に限っては、本質的な対立点とはいいがたかった。むしろ両氏の方法と帰結上の明確な差異は、いわゆる「邪馬台国」問題をめぐって現われている。
 井上氏の場合、その論稿の最終節は、実はこの「邪馬台国」問題にあてられている。東大学派伝来の「山門=邪馬台国」説をのべられた上、九州において(書紀に)現われる県が、『三国志』の倭人伝の中の「国」(三十国)と対応している(松浦県・伊県・儺県・嶺みね県・水沼みぬま県・八女やめ県・上妻かむつま県・崗県等)こと、筑紫の最南に「山門県」のあること、またこの地が神功皇后によって征服されたと記されている点等に、“邪馬台国が大和朝廷に征服され、支配された”ことに対する、一種の示唆をえられたようである。「その物語の事実性はしばらくおこう」という慎重ないいまわしながら、論の帰趨(きすう)は右のごとくだ。
 これに対して上田氏は、小林行雄氏による三角縁神獣鏡と鍬形石(くわがたいし)の分布図を強力な武器とされた。みずから(上田氏)作製された県・県主分布図と右の小林氏の作られた「西方型鏡群及び鍬形石分布図」とが一致する、と主張し、この点から先の「三世紀の卑弥呼の段階より・・・・推考される」という鮮明な帰結へと向われたのである。その論述は次のようだ。
「邪馬台国の段階から西日本のクニと倭政権の間にはある種の統属関係があったが、その場合でも在地の官は特種のものを除いて在地首長がなっていた。それらのクニの首長が県主としてまず編成される。これがいわゆる畿内の県(第1次的ママ)なものに対する第2次的な県に他ならない。前に詳述した北九州諸地方の県主をめぐる関係伝承の諸特徴は、このことにもとづくと思われる」

 同じく「国県制」といっても、九州説の井上氏と近畿説の上田氏と、その出発点(三世紀)に対する認識を異にする。ここに「邪馬台国」問題についての、東大(九州説)対、京大(近畿説)の対立図式がそのまま日本の国家成立論争、行政制度発展論争に刻印された、その様相がハッキリと認められるのである。

 以上が両氏の説の大観だ。細部について幾多の論点が残されているけれども、その大約は右のようである。これに対して今わたしの、熟読して不審とせざるをえぬところ、それは両氏の差異点には非(あら)ず、「共通の、自明の土俵」とされたところにある。なぜか。
 先ず井上氏の依拠された「県」の文献上の分布表をしめそう。

畿 内  倭 菟田(又菟田下 神武紀)葛城(推古紀)春日(綏靖紀)磯城(綏靖記・同紀・安寧紀・懿徳紀、孝昭紀・孝安紀・孝元紀)高市(神武紀・天武紀)猛田(神武紀)層富(神武紀)十市(孝安紀)山辺(延喜式祝詞)
    山代 栗隈(仁徳紀)鴨(姓氏録天平元年貢進解)
    河内  河内(安閑紀)茅淳(崇神紀・雄略紀)三野(清寧紀・延喜式神名帳)志貴(安康紀・延喜式神名帳)三島(安閑紀)猪名(仁徳紀)紺口(姓氏録)

東海道 伊勢 度逢(神功紀)佐那(神代記・開化記・儀式帳)川俣(儀式帳・続日本後紀)安濃(儀式帳)壱志(儀式帳)飯高(儀式帳)
    尾張 年魚市(万葉集)
東山道 近淡海 犬上(姓氏録)
    牟義郡 (延喜式神名帳、大宝二年戸籍)
山陰道 (不明) 丹波(開化記)
北陸道 三国 坂井(釈日本紀述義九上宮記)
山陽道 吉備 上道(応神紀)三野(応神紀)織部(応神紀)磐梨(姓氏録)川嶋(応神紀)苑(応神紀)波区芸(応神紀)仲県(三代実録)
    周防 沙麼*(神功紀)
南海道 讃岐 小屋(日本霊異記)
西海道 筑紫 儺(仲哀紀)伊(仲哀記・神功紀)崗(仲哀紀)水沼(景行紀)山門(神功紀)八女(景行紀)上妻(公望私所引筑後国風土記)浦(景行紀・神功紀)嶺(雄略紀)
     豊 長狭(景行紀)直入(景行紀)上膳(公望私所引筑後国風土記)
     火 高来(景行紀)八代(景行紀)熊(景行紀)佐嘉(肥前風土記)
    日向 諸(景行紀)子湯(景行紀)
(不明)対馬(又は上・下に分つ 神代紀・顕宗紀)壱岐(顕宗紀)加士伎(正倉院文書)曾(正倉院文書)
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD
  「県の分布表」井上光貞「国造制の成立」史学雑誌 第60編第11号、昭26・11月

ここで注目すべきもの、それは“「県」の量”だ。ベスト四をあげれぼ、左のようである。
第一位 ーー 西海道 二十二例
第二位 ーー 畿 内 十八 例
第三位 ーー 山陽道 九 例
第四位 ーー 東海道 七 例

 

 これに対して上田氏も「県・県主名を記すもの」として、左の表をあげておられる。

県・県主名を記すもの

畿 内 倭 =菟田(神武紀)春日(綏靖紀)猛田(神武紀)層富(神武記・正税帳・続日本紀・三代実録)山辺(続日本紀・神名帳・三代実録)十市(孝霊記・同紀・正税帳・神名帳・三代実録)高市(神代記・天武紀・神名帳・式祝詞・三代実録)磯城(綏靖記・懿徳紀・神武紀・綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元記・天武紀・正税帳・三代実録)葛城(推古紀・神明ママ帳・式祝詞・三代実録)
    山代=鴨(続日本紀・貢進解・姓氏録)栗隈(仁徳紀)
    河内=茅淳(崇神紀・雄略記・続日本紀・霊異記・三代実録)河内(安閑紀・姓氏録)三野(清寧紀・神名帳)志貴(雄略紀・神名帳・姓氏録・三代実録)猪名(仁徳紀)紺口(姓氏録)
    摂津=三島(安閑紀・続日本紀・正税帳)

東海道 伊勢=川俣(儀式帳・続日本後紀)安濃(同上)壱志(同上、続日本紀)飯高(儀式帳・続日本記ママ)雲逢(神切ママ紀)佐那(神代記・開化記、儀式帳)
    尾張=年魚市(万葉集)丹羽(続日本後紀・神名帳)
東山道 近江=犬上(姓氏録)
    美濃=鴨(大宝戸籍・神名帳)
山陰道 ー 丹波=丹波(開化記)
北陸道 ー 三国=坂井(釈日本紀述義・上宮記)
山陽道 ー 吉備=川嶋(応神紀)上道(同上)織部(同上)三野(同上)織部(同上)苑(同上)波区芸(同上)仲(三代実録)磐梨(姓氏録)
     周防=沙麼*(神功紀)
南海道 ー 讃岐=小屋(霊異記)
西海道 ー 筑紫=儺(仲哀紀)伊(仲哀紀・神功紀・筑前国風土記・筑紫国風土記)崗(仲哀紀・筑前国風土記)八女(景行紀)山門(神功紀)水沼(景行紀)上妻(筑後国風土記)嶺(雄略紀)松浦(景行紀・神功紀・万葉集)
     火 =高来(景行記)八代(同上)熊(同上)佐嘉(肥前国風土記)閼宗(筑紫国風土記)
     豊 =直入(景行紀)長峡(同上)上膳(筑後国風土記)
    日向=諸(景行紀)子湯(同上)
    薩摩=曾(正税帳)加土伎(同上)
    対馬=対馬(神代記・顕宗紀)
    壱岐=壱岐(顕宗紀)
その他 ー 常陸 =茨蕀(常陸国風土記)新治(同上) = (但し郡と混用のもの)

 上田正昭「国県制の実態とその本質」歴史学研究No.230 一九五九・六

 ここでも
  第一位 ーー 西海道・・・二十三例
  第二位 ーー 畿 内・・・十八例
  第三位 ーー 山陽道・・・十 例
  第四位 ーー 東海道・・・八 例
となっていて、大異はない。
 そこでわたしの問い。それは“「県」が近畿天皇家下の行政制度であったとしたら、なぜ畿内が「県の最多密集地」でないのか”という一点だ。この表を外国の学者に見せた、としよう。“先入見をもたない学者”という意味だ。誰人かあって、この表から“「県」は近畿の権力を原点とする行政制度”という帰結を実証的に、帰納的に引き出せるだろうか。到底引き出せはしない。
 井上・上田両氏が、論の他の(「邪馬台国」の位置論のごとき)対立点にもかかわらず、右のように権力中枢としての“近畿原点”説を共同して信じえたのはなぜか。明らかに“この表がかかげられているにもかかわらず、この表からではなかった”のである。すなわち両氏の“脳裏”にあらかじめ一定の先入見、すなわち「近畿天皇家のみが日本列島における唯一の統一権力でありえた」という命題があり、その“観念”から、右の表を“使って”説明を加えつづけてゆかれたのであった。
 たとえば上田氏の場合。小林氏の分布図では、当然ながら(山城やましろの椿井大塚山つばいおおつかやま古墳出土鏡などによって)近畿が三角縁神獣鏡の圧倒的な出土量をしめし、その原点たるべき形をしめしている。ところが、先の「県・県主名を記すもの」の表では“近畿より九州の方が多い”のであって、肝心の中心点が一致していないのである。
 また三角縁神獣鏡は壱岐(いき)・対馬(つしま)には出土しないが、県・県主の方は先の表のしめす通りだ。現在ですら「上県郡・下県郡」の名で対馬は呼ばれている。ここでも一致しない。
 また小林氏の三角縁神獣鏡分布図中、一方の西方型鏡群のみが比較対象とされ、他方の東方型鏡群の分布図は、なぜ「『延喜式えんぎしき』までの古文献に見える、県乃至(ないし)県主の実態」との対応が説かれないのか、不明である。
 さらに「県及び県主群」の場合、九州でも“東南岸(日向)・南岸(薩摩)・西岸(肥後)より筑後・末松盧(まつろ)にかけて”によく分布しているのに対し、三角縁神獣鏡はこれに一致しない。むしろ東北部(豊前ぶぜん・豊後ぶんご)・北部(博多湾岸)等に出土しているのである。この点に対し、上田氏は「県制が九州南部にみられるのは、その後更に南征してゆく過程で拡大したものである」と解説しておられるけれども、三角縁神獣鏡の分布図は四〜六世紀のすべてにわたって出土した全時代の分布図であるから、右のような氏の解説は、遺憾ながら“不当の遁辞とんじ”にすぎないといわねばならぬようである。
 当時「歴史学研究」の誌上に発表された上田論文、それは昭和三十四年という時点では、小林氏の考古学上の「定説」的理論との対応を説く点においても、新しき古代史学の旗手と見えていた。しかしながら今その論点を実証的に再検証すると、失礼ながら意外にも論証上の問題点が目立つのをいかんともしがたいようである。
 この点、批判せられた側の井上論文においても例外ではない。“書紀の景行・神功等の説話に出現する「〜県」が倭人伝の「三十国」の地名と対応する”という点に鋭く着眼された。ところが、「最初の筑後山門郷論者星野恒博士がはじめて論及したタブラツヒメの物語のごときも(神功紀)、なんらの顧慮にも値いしないとは思わない」というように「物語」の一語に傍点(傍点は井上光貞氏。インターネット上は赤色表示)を付して、“説話・即史実”の立場ではないことをほのめかしながらも、結局“大和朝廷の北九州支配”という史実の大筋を読み取ってゆく、という手法、これはクールな目で見つめれば、“「大和朝廷の統一」という第一前提にあわせて、説話を取捨する手法”、そういえば過言であろうか。そのさい“「県」をしめす史料が近畿より九州に多い”という基本の史料事実からは“目をそらして”しまうこととなっている。ましてその“「県」史料を多量にふくむ景行・神功・仲哀等の説話自身に対する史料批判”、いいかえれば“当史料の原初性格への厳格な批判”という、その一点を欠如していること、これが両氏の研究の根本の欠陥といわざるをえぬ。
 思えば両氏とも、戦前の皇国史観の横溢(おういつ)する時代に教養の基礎を形成された。そして戦後、それを否定するかに見えた津田史学をもって研究思想の基礎におかれたものと思われる。しかしながら一面では記・紀の神話・説話に対する容赦ない批判と見えた津田史学の中に、戦後津田左右吉氏自身によって明らかにされたように、天皇家中心主義思想が牢固として核心に存在した。その事実をわたしたちは疑うことができない(津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」 ー 「世界」昭和二十一年四月号、参照)。そして井上・上田両氏とこれを継いだ戦後史学もまた、そのような津田史学の「核心」を固守して現在に至っていたのであった。
 しかしながら、そのような研究史上の迂路(うろ)も、すでに終りの帳(とばり)があがるべきときが近づいた。不遜(ふそん)ながらわたしにはそう思われる。なぜなら、昨日は、両氏とも記・紀に現われた「九州最多をしめす、県・県主の分布」に対し、純粋に実証的、かつ帰納的に処理することができなかった。同時に、今日は、B型の「郡風土記」に先立つ、A型の「県風土記」なるものが、奇(く)しくも九州にのみ先在するという史実、その史料事実に対し、井上通泰氏より坂本太郎、秋本吉郎、田中卓氏等に至るまで、いずれも的碓な解決を与えられえなかった。なぜか。
 他に理由はない。“近幾天皇家一元主義”の旧見にとらわれ、“近畿天皇家に先在した九州王朝の実在”。この根本テーマを欠如していたからである。

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