古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー
 
 これは清水書院版(1970年4月15日発行)の II. 斗いと思想の生涯 人間に会う! 人民の苦しみと専修念仏運動 です。

親鸞

ー人と思想ー
古 田 武 彦 著

II. 斗いと思想の生涯ー裏切らざる人生ー

人間に会う!

 
人民の苦しみと専修念仏運動


時代の相(すがた)

 ここで親鸞の幼少時代より前半生にかけての、時代の相に触れておこう。養和元年(一一八一)親鸞九歳の時、平清盛が死んだ。平家の没落の前兆(ぜんちょう まえぶれ)だった。翌二年にかけて、有名な養和の飢饉(ききん)。鴨長明は『方丈記』に書いている。

「離れられない妻・夫をもっている者は、その愛情のより深いものが必ず先立って死ぬ。その理由は、わが身はつぎにして相手をかわいそうに思うので、まれに得た食物をも、その相手にゆずるからだ。」
 夫婦の間まで、天秤(てんびん)でためされる、つらい世相である。

 親鸞の一二、三歳は、木曽義仲の敗死、壇ノ浦(だんのうら)の合戦(かっせん)による平家の滅亡、といった古代没落、中世の開始を告げる歴史的大事件の相ついだ時期だ。そのときのヒーロー源義経も、親鸞十七歳の時、衣川の館(ころもがわのやかた)に攻め殺された。勝者源頼朝(みなもとのよりとも)が、北条氏を中心とする東国武士団を支持の中核として、鎌倉幕府を創建した。(建久三年、一一九二年)親鸞二十歳の七月である。
 親鸞の青春の終わり近く、二十七歳のとき、頼朝が死に、鎌倉の武士政権にも大きな動揺がきた。このときにはじまった変動は、親鸞四十九歳の承久の乱までつづく。
 この承久の動乱の後、武士権力は、京都の朝廷とふたたび、ハッキリ手を結ぶ。全国の農民たちの期待をにない、農村の青年たちの血の犠牲のうえに成長した地方武士団。かれらは権力の座につくと、恩知らずにも、農村を収奪(しゅうだつ とりあげ奪うこと)の場とみなし、農民の生活を日に日にしめつけはじめたのだ。
 そのような激変と反動化の時代に親鸞は生きていたのである。

(親鸞真筆)

(親鸞真筆)

稚児
(ちご)のなげき

 『宇治拾遺集(うじしゅういしゅう)』に、つぎのような話がのっている。
 「比叡(ひえい)山に田舎(いなか)出の稚児がいたが、桜の花のさかりに風がはげしく吹いているのを見て、この稚児はさめざめと泣いた。これを見た、ひとりの僧侶がおもむろに近づいて、『なんで、そんなに泣きなさる。桜の花が散るのを惜しんでか。桜は、はかない花。すぐうつりかわる。しかし、それが世の道理じゃ。』となぐさめたところ、稚児は『桜が散るなんて、私には、どうってことはありません。わたしの田舎の父が作った麦の花が散って、実(み)がはいらないと・・・。それを思うのがつらい』といってしゃくりあげて、よよとばかり泣いた。無風流(ぶふうりゅう)なことだ。」
 この話には、このころの世相が、こわいくらいよく出ている。少年は田舎から出て、この比叡山に奉公にやってきた。稚児は、僧侶の下働きをさせられるのだ。少年には、つらい労働だ。なぜ、かれは小さいうちから家を出なければならなかったのか。不作だ。貧農は、天災や飢饉の年がくると、食いぶちを減らすために、まだ幼い子どもを寺にやらなければならないのだ。少年は、幼くても、そのことは、よく知っている。骨身にしみてよく知っている。そして、少しでも収穫がふえて、“お母ちゃん”のふところへ帰る日を恋こがれているのだ。だのに無常の風が吹いた。麦の花が散ったら収穫が減る。それは“父ちゃん”から聞いてよく知っている。こわいのだ。だのに無常の風が吹いた。自分が帰れなくなるだけじゃない。今度は“姉ちゃん”が売られるかもしれないのだ。少年は、それを思って泣いた。ーーー
 しかし、比叡山の職業化した僧侶には、少年の心がわからない。農民の心がわからない。「桜の花の散るのを惜しむ」という、貴族の趣味しかわからない。最後につけた作者の批評が、ゾッとさせる。「うたてしやな」(無風流で馬鹿馬鹿しいことだ。)こんな、哀れに美しい話を記録した作者が、気がついていないのだ。比叡山の僧侶の心と民衆の心の、どうしょうもない断絶を。
 もし、この僧侶が、親鸞だったらどうだろう。かれは少年の話を聞いて、ハッとしたにちがいない。この少年の話の中に真実が、自分たちの教養の世界に虚偽があるのに、気づきはじめたにちがいない。この少年とかれの父の心は、すなわち、後年、親鸞の生涯と深く結ばれることとなった、東国農民の心そのものだったのである。


専修念仏(せんじゅねんぶつ)

 法然(ほうねん)のはじめた「専修念仏」とは、どんな意味をもっていたのだろうか。
 その前に、かれがそこにたどりつくまでの経歴をみよう。
 法然は、美作(みまさか)の国(現在の岡山県)の土豪の家に生まれたが、不意の夜襲(やしゅう)の中で父を討たれ、やがて、近くの菩提(ぼだい)寺にはいることとなったという。その後、叡山、黒谷に、長年月の修業と学習をつづけ、「知恵第一の法然房」といわれることとなった。しかし、単なる博識では自己満足できぬ。ために、かれの煩悶(はんもん)と模索(もさく)は、やむことがなかったといわれる。そして承安五年(一一七五)、四十三歳のとき、中国の善導(ぜんどう)の『観経疏(かんぎょうそ)』(観無量寿経の注釈書)という本を読んだ。そのとき、法然を開眼させ、日本専修念仏運動の扉を開くこととなった。つぎの一節にぶつかったのである。
 「一心にもっぱらアミダ仏の名まえを心におもい念じて、寝てもさめても、時のいかんをとわず、心の中にけっして捨てることのないもの、これが正しい行いである。あのアミダ仏の願いに従うのであるから。」

 要するに、行為としては、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」(アミダ仏に帰依し、これを信仰する、という意味を持つ)をいつも唱(とな)えるというだけのことだ。その理由は、それがアミダ仏の誓願(せいがん 自分の名を称え、信じ喜ぶ者は、すべて救済するという誓い)に従うことだから、というのである。
 こんなことは、現代人にとっては、およそナンセンスという以外、何物でもあるまい。しかし、では聞こう。そんな無意味なものが、なぜ、ながい世紀の間、人々の心を深くとらえつづけてたのだろうか。ことに、法然や親鸞というずばぬけた気力と知恵をもった人々、これを一生のよりどころとしたのは、いったいなぜか。
 この問いをほんとうに解くのでなければ、わたしたちは、歴史の真相、いや、人間の真相を見あやまることになろう。親鸞の伝記と思想を考えるうえでも、これは根本問題なのだから、ここでしっかりと、掘り下げてみることにしよう。
 わたしたち人間は、社会と文明の中にいる。そこでは、いろいろの価値がわたしたいちをとりまいている。金という価値、学問という価値、家族という価値、国家という価値、趣味・レジャーという価値ーおよそ、ありとあらゆる「価値」にわたしたちは、とりまかれている。そして、それらの価値に動かされて、私たちは学んだり働いたりしているのだ。それで疑問を感じないうちはいい。しかし、ふと、あるとき、わたしたちの頭をよぎるものがある。何のため、いったい、何のためにわたしたちは生きているのだ?いろんな価値に奉仕するためか。それだけでほんとうにいいのか。死んで悔いない、生きがいがあるのか、と。この問いを、いったん発したものは、“不幸”だ。どんな価値にとりまかれて、いそがしくしていても、だめである。同じ問いが、また、浮かんでくるのである。あらゆる価値は、その人間の生の問いだけである。そうである限り、生と死を越えて、わたしたちをほんとうに満足させるもの、それを求める心は、どうにも消しようがない。それを手にしたら、死んでもいい、とおもうようなもの、生と死をつらぬく価値、それをわたしたちは、ズバリ「絶対」といってもいい。
 そのような「絶対」を求めるために、人間の精神がつくりだしたしくみが、宗教である。神や仏というような「絶対者」も、実は、このような人間精神の欲求がうみだした被創造物(人間によって、つくられたもの)なのである。わたしは、つねづね、神や仏という観念は、「道具」や「ことば」や「文字」や「科学」と並んで、人間の五大発明に数えてもいい、とすらおもっている。
 たとえば、つぎの例をみよう。
 ひとりの部族の長が、自分の全部族を率いて、他の部族と戦おうとする。この戦闘は、人間であるわたしの意志だ、というだけでは、何年もつづく苦しい戦いの期間を、ささえることはできないであろう。しかし、これは部族の神の意志だ、という形をとれば、部族の構成員は、まどわず戦いぬくであろう。このさい、引き出された「不屈の精神」は、人間のもつ本来の精神なのである。そして、それを引き出すのが「神」という観念の偉大な役割なのである。
 それより時代が下がる。権力の圧政のもとに、多くの人が苦しんでいる。その不正に抗して、ひとりが立ち上がろうとするとき、この正義は神の意志だ、とすれば、いかなる権力が死をもっておどしても、かれの意志を奪うことはむずかしい。このようなすばらしい、人間のもつ「絶対」の精神が「神」という観念を中だちとして、自覚されるのである。
 このような例がしめすように、「神」や「仏」は、人間精神の創造した傑作(観念の道具)の一つ、といっていいのである。さて、つぎの局面にすすもう。
 仏教では、それがうみだされたインド思想界の事情により、多くの菩薩たち・仏たちが経典に描き出されている。したがって、これら、いわば
“多くの絶対者たち”への信仰が、仏教の中に生じるわけであるが、「絶対」の性格上、当然、ただ一つの絶対者を求める動きがうまれることになる。これが、法然の切り開いた専修念仏(アミダ仏のみを信仰する)の道であった。
 このことは、いったい人間の精神にとって何を意味するだろうか。先に述べたように、わたしたちの魂は、たくさんの価値にとりまかれているために、かえってその根源の、ただ一つのよりどころを求めている。わたしたちの生きていた意味を解き明かしたい。それも、につめぬいたあげくの、たった一言(ひとこと)で知りたい。これだけはだれにもゆずれぬもの、これだけは、いかなる権威の前でもいいはなたねばならぬもの。断頭台に登らせられても、これだけはけっして否認できぬもの、そんな一つのことばをいだいて生きる。そのような真実をもって生きるならば、平々凡々の日常生活も、まったくその人にとって、面目を一変するであろう。そのような真実をいだいて生きたい、という願いは、どんな人にも、胸の底に、奥深くひそめらているのである。自分の生きてきた意味は、これだ、とズバリ指させるようなもの。それをもっている人は幸いである。
 このような人間精神の深い深い根源に触れる一つのことば。それを善導・法然は、仏教世界というわくの中で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という一句に、象徴化(シンポライズ)したのである。この一句が、人間の心に対し、どのような深みと高まりを与えるようになったか。それをさししめしているのが、専修念仏運動、法然集団の人々の生涯であった。


内容そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。

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