古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー
これは清水書院版(1970年 4月15日発行)の II. 斗いと思想の生涯 天皇が法に背いた 承元の大弾圧です。今も発刊されています。
親鸞
ー人と思想ー
古 田 武 彦 著
II. 斗いと思想の生涯ー裏切らざる人生ー
天皇が法に背いた
承元(じょうげん)の大弾圧
住蓮(じゅうれん)・安楽(あんらく)
必然の扉は「偶然」の手によって開かれる。全体制は八宗同心の訴訟を推進力としていた。吉水の集団をおしつぶすのは、もはや時間の問題ともみられよう。しかし、直接、発端(ほったん)となったのは、一つの奇妙な、偶然の事件である。
法然の弟子に安楽という働き手があった。『選択集』の執筆者にもはいっていたと伝えられる人物である。かれは六時礼賛(ろくじらいさん)という念仏のひろめ方で知られていた。それはきまったふしや拍子もなく、人人がそれぞれ自らの悲しみや喜びやなげきを、リズムに託して念仏し、その高まりの中で恍惚(こうこつ)の境にみちびかれる。そのリードをかれがとるのである。このようなかれの情熱的な布教に引き入れられたのは、街角(まちかど)に立つ貧しい女や、日々の生活に苦しむ庶民たちだけではなかった。院の御所の女房たちも、この新しい情熱的な青年宣教者に触れたいと思った。彼女たちも、院の古い垣根に自由をはばまれ苦しい魂をもっていたからである。それゆえ、思うままに外出できぬ身分の彼女たちは、住蓮・安楽たちを邸に招きよせて、この新しい信仰に触れようとしたのである。
かって、平安中期、中宮定子の女房であった清少納言は、つぎのように書いている。
「説教の講師は美男子がいい。聞いているわたしのほうで、美しい講師の顔をジッと見つめていると、ほんとうに、その美しい人の説くことの尊さをも、しみじみと感じるものだ。」(『枕草子』第三十段)
この安楽も、人目を引く美男僧であり、六時礼賛の唱導家として朗々とひびく美声をもっていた、と伝記は伝える。かって在原業平(ありはらのなりひら)や小野小町(おののこまち)は、平安時代を代表する美男美女とされていた。『古今集』などに伝えられる、かれらの青春の愛をうたう歌は、今も、わたしたちの胸を打つひびきをもっている。この事実こそ、実は、右の美男・美女伝説の生みの親であろう。住蓮・安楽たちの場合もそうだ。かれら青年特有の思想への献身の情熱が、一般民衆や女達の目にとって、まぶしいくらいに感動的だったことが、かられの「美男伝説」をうみだした、真の背景であろう。
さて建永元年十二月九日、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は熊野山へ参詣した。その自分の留守(るす)中に、女房たちが安楽たちを御所(ごしょ)に呼び入れて、専修念仏の新しい信仰に触れていたことを聞き、烈火のように起こったのである。このときのことを、比叡山の実力者慈円(じえん)は、『愚管抄(ぐかんしょ)』の中で、「御所の女房たちは、夜さえ安楽たちをとどめたりする事が出てきた。」と意味ありげに書いている。『皇帝紀抄(きしょう)』という貴族側の記録では、もっと露骨に「念仏にかこつけて、人妻や高貴な人々の女と密通した。」と書いている。
後鳥羽上皇が立腹し、承元の大弾圧の直接のきっかけとなった、というこの事件の真相は何であろうか。後に述べるように、法然の伝記の中でも、あるものは、このような「弟子の非行」があった、といい、あるものは「無実の風聞(ふうぶん)」(根拠のない、うわさ話)だ、としている。現代の学者の中でさえ、このような史実はあったのだ、という説や、単なる貴族側のこじつけだ、という説が分かれているのである。
しかし読者は、ここで芥川竜之介(あくたがわ りゅうのすけ)の『薮(やぶ)の中』を思い起こしてもらいたい。「羅生門(らしょうもん)」という名まえで映画化された作品である。さびしい山中で何が起こったか。しばりつけられた夫と、その眼前で強盗にとらえられた妻、そしてその強盗、この三人の間に展開された事件の真実は何であったか。それぞれの証言はくいちがい、真相はだれにもつかめないのである。わたしたちは、この文学者の深い洞察力に脱帽しよう。
鎌倉初期の御所の中の一室で、存在した事実は何であったか。留守中の後鳥羽上皇などの知りうるところではない。まして比叡山の慈円などが、どうしてうかがい知ることができよう。歴史家は興信所の私行調査員ではない。むしろそのような、とらえがたい事実にいらだち、その不安のために、安楽たち、人間のいのちを奪い、専修念仏集団解散、という政治行為に走った権力者のかって気ままな暴行。この歴史的な事実のみは、疑うことはできないのである。
さらに問いをすすめよう。たとい、その一室で何が起こったとしても、それを真に怒る資格は、上皇などにありうるのであろうか。天皇時代から、中宮(ちゅうぐう)や女御(にょうご)や更衣(こうい)などというたくさんの女たちにとりまかれ、彼女らを一心に奉仕させてきた男に、どうして御所の一室に起こったかもしれぬ事件を、怒る権利と資格があるのだろうか。その怒りは、そのころの「法」や「常識」によって正当化されていたにしろ、真に、「人間の眼前において」正当化されうるものではない。しかし後鳥羽上皇は、そのような自覚をいっさいもたず、女房たちをとらえ、住蓮・安楽たちを院の庭にひきすえたのであった。
安楽の面魂(つらだましい)
住蓮・安楽を院の庭にひきすえられた。建永二年二月九日のことである。後鳥羽上皇は、怒りの顔もあらわに、役人たちに、あらぬ罪をあげ、非をののしり、かれらをはげしくせめさせたのである。しかし、かれらは屈しなかった。
そのとき、安楽は後鳥羽上皇の面前で、つぎの詩を、高らかに唱えたという。
修業すること有るを見ては、瞋毒(しんどく)を起(おこ)し、
方便して破壊(はえ)し、競(きそ)ふて怨(あだ)を生(な)さむ。
此の如き生盲闡提(しょうもうせんだい)の輩(ともがら)、頓教(とんぎょう)を毀滅(くいめつ)して、永く沈淪(ちんりん)せむ。
大地微塵却(だいちみじんこう)を超過すとも、未(いま)だ、三途(さんず)の身を離るることを得可(うべ)からず。
(念仏という)正しい行いをする者を見て怒りを起こし、さまざまのやり方でこれをこわし、競(きそ)ってうらみの心で害しょうとする、このような生まれつきの心の盲、信心なき人々は、念仏の教えをそしり滅ぼそうとしたために、自分が永く迷いの中に沈んでゆく。そのような人は、永遠の地獄に堕ち、何億年たってもそこを出ることができない。
これは中国の善導が『法事賛』という本の中に書いた文である。この本は仏教の儀式用の偈文(詩句)を集めたものだ。だから右の詩句も、平和な儀式の中で自らの過去の罪を悔い改め、将来に戒めるという、実は、まことに穏和(おんわ)な意味合いのものなのである。
しかしはげしい弾圧の嵐を前にして、成長してきた日本専修念仏運動にとって、この詩句はまったくちがった意味をもった。
念仏という正しい行いをする者こそ、われわれ専修念仏者であって、その専修念仏を攻撃する人々こそ、心の盲、闡提(せんだい 信心なき人)のやからである。今はかれらの勢いが強いようにみえよう。かれらは地上の権力をにぎっているから。しかし、かれらは知らないのだ。その自分の迫害の行為が、自分を永遠の炎の中に突き落とすことを。
このように、簡明、率直な意味で、善導の詩句は理解された。そしてこの「念仏迫害の詩」は、専修念仏運動の人々、みんなの心のささえとなっていたのである。いま、その詩句を、安楽は後鳥羽上皇と役人たちの面前で、朗々と読み上げたのである。「上皇たちよ。お前らこそ、自分のあさましい運命を知らぬ。あわれむべき男たちだ。今、不幸なのは私ではない。威たけ高に、私を責めさせているお前こそ、真に不幸な男なのだ。」これが、安楽の鋭いまなざしの光が眼前の上皇に告げたことばなのである。
上皇はいよいよ狂い、いよいよ怒った。秀能という官人(役人)に命令して、安楽を六条河原に引かせ、首を斬(き)らせたのである。安楽は死刑の場にのぞんでも、いささかの動揺もしめさず、高らかに数百返(へん)の念仏を唱えていた。そして、しっかり合掌(がっしょう)したまま、静かに死んでいった。
これを見た多くの民衆は深い感動におそわれ、専修念仏にはいる者は激増した、と伝えられている。
以上は、法然の最大の伝記、『四十八巻伝』によって、書いた。この本は、当時より一世紀ちかくあとにできた本だ。だから、この話は作り話ではないか、という疑う人もあろう。このような感動的な話ほど、眉(まゆ)につばをつけて聞きたがるのが現代人のくせだ。
しかし、安楽が弾圧者の面前で、「念仏迫害の詩」を唱えたことは、事実に違いない。なぜなら法然は、何回も何回もくりかえしてこの詩句を使い、手紙や説法を行っていた。親鸞自筆の『西方指南抄』で、それが確かめられる。そのうえ、後にあげるように、親鸞自身がこのときのことを書いた文章「主上臣下法に背(そむ)き義に違(い)し、[分/心](いかり)を成し、怨(うらみ)を結ぶ」がある。事件より数年後、流罪中に書かれたものだ。そのさい、安楽の死を描くのに、この「念仏迫害の詩」のことばをはめこみ、ちりばめて、文を構成している。すなわち、この詩句を唱しつつ、弾圧者の面前にたった安楽の壮烈な姿。その現実の姿が、親鸞にそのような文を作らせたものだと、と思われるのである。
この文は、安楽事件に直面した当の人物親鸞が、流罪(るざい)中に書いた、という高い史料価値をもつ。だから『四十八巻伝』の記述は、けっして作り話とはいえないのである。
わたしは、子どものころから、勇敢に死ぬのが真の日本人だ、と教えられてきた。その通り、安楽は勇敢に死んだ。みごとに。ただ、戦時中にわたしが教えられたのは、天皇のために潔(いさぎよ)く死ぬことだった。しかし安楽は、天皇や上皇の前で、かれらに抗議し、勇敢に死んでいったのである。
注)インターネット事務局
[分/心](いかり) 分の下に心編
都を追われるー越後流罪と承元の奉状ー
流罪(るざい)
そのときは、ついにきた。
上皇は、住蓮・安楽を斬らせても満足しなかった。その月(承元元年二月)の半ば終わりにかけて、情勢は、あわただしく動いた。
二月二十八日、太政官符(だじょうかんぷ)が出され、法然は藤井元彦という流人(るにん)としての名で、土佐の国(現在の高知県)に流されることとなった。ただ、実際は兼実の運動により、讃岐の国(現在の香川県)にとどまることが許されたという。年は七十六歳をむかえていた。死刑にされた者に、住蓮・安楽のほかに、西意善綽房(せいいぜんしゃくぼう)・性願房(しょうがんぼう)があったといわれる。親鸞は藤井善信(よしざね)という流刑の名前を与えられ、越後(現在の新潟県)へ流されることになった。師、法然とは東西はるかにへだてられたのである。年は三十五歳であった(親鸞の場合、あやうく死刑になるところ、ようやくまぬがれて、流されることとなったのだという、別の伝えもある)。そのほかに、淨聞房(じょうもんぼう)は備後国(現在の広島県)、澄西禅光房(ちょうさい ぜんこうぼう)は伯耆(ほうき)国(現在の鳥取県)、好覚房は伊豆国、行空法本房(ぎょうくうほうほんぼう)は、佐渡国に流された。幸西成覚房、・善恵房は二人とも遠島(おんる 遠い島流し)にさだめられたが、比叡山の慈円が、かれらをあずかったという。
以上の事実は、主として親鸞の弟子唯円の記録からとった。それは『歎異抄』の終わりにそえられたものである。しかし、他にも説はある。たとえば、幸西は讃岐に流されたのだというように。けれども、今はこまかい問題にかかわる必要はない。むしろ問題は、つぎの点だ。法然の弟子は数多い。だのになぜ、かれらだけがねらいうたれたのか。その中で、幸西の場合は分かっている。「一念義(いちねんぎ)」は法然集団の中の急進派グループだ。幸西は、その理論上のリーダーだったのである。親鸞の場合はどうだろう。親鸞が結婚していたことが原因だ、という説もある。親鸞は若手の急進派の理論の代表者だったのだろう、という説もある。
これについて、わたしは沈黙せねばならなかった。なぜなら史料のない場所で、あて推量の不確実なことはいっさいいわない。それが、わたしの自分に対する約束だったから。しかし、わたしは最近の研究によって、『教行信証』の中に親鸞が流罪中に書いた文章を見つけたのである。そこには、親鸞の、この弾圧に対する、その時の主張が、ハッキリと書かれていた。
承元の奉状
古い地盤から、新しく発掘されたのは、つぎの文章である。親鸞の生涯と思想にとって、一つの出発点となった重大な文だ。だから、ことに原文のにおいに注意ぶかく訳してみた。
「ひそかにおもってみるに、聖道(しょうどう 古い仏教)のいろいろの教団は、生きた行いと、生きたさとりが、もうずっと前からすたれている。これに反し専修念仏の教団(浄土真宗)は、生きたあかし(証)と生きた道が、今さかえている。それなのに古い寺院の僧侶たちは、かえってほんとうの仏教の精神に暗く、今の人間に対して何が真実(真)の扉を開き、何が偽り(仮)の扉をかまえているか。そのことを知らないでいる。京都の一般の学者も、どれが正しい行ないかについて迷っている。それゆえ、仏法の正しい道である専修念仏と、あやまった小路(こみち)である古い仏教を、ハッキリ区別できないでいる。こういうわけで、興福寺の学者・僧侶たちは朝廷に奏状(天子に申し上げる文書)をおくった。それは太上天皇(後鳥羽上皇)と今上天皇(土御門天皇)のとき、承元二年上旬のことである。天皇と朝廷の貴族たちは法に背(そむ)き、正しい道理に(義)に従わず(たがい)、いやしい怒りに心をまかせ正しい専修念仏者にうらみ(怨)をいだいて害を加えた。
そのため、専修念仏の正しい教えを、さかりに導いた方、法然(源空法師)と弟子たちが、ほんとうに罪があるのか、ないのか、を正しく考えようともしない。そして不法にも住蓮・安楽たちを死刑にしてしまったのである。そのうえ、法然や弟子たちから僧としての身分を奪い、流罪人としての名前を与えて、遠島(おんる 遠い島流し)にした。わたしもそのひとりである。そういうわけだから、もはや僧侶でもない。俗人(一般人)でもない。それゆえ、「禿(とく)」という字を、わたしの姓とすることとした。師法然や弟子のわたしたちは、あっちこっちのはしばしの田舎に島流しにされて、五年の苦しい年月を無実の罪の中におくることになった。」
これを見たら玄人(くろうと)の学者は、「後序(こうじょ)の文じゃないか。有名な。」というだろう。そのとおり。『教行信証』の終わりにのっている自叙伝ふうの文章の最初の部分だ。
承元の奉状をめぐる論争史
しかし、この文章は、明治以来、学者たちの疑いのまととなってきた。その焦点は、「今上」である。これは「現役の天子」をさすことばだ。ここでは土御門天皇をさして使われている。この天皇は、建久九年より承元四年まで在位した。親鸞でいえば二十六歳より三十八歳までである。ところが五十二歳ころ書いたとされる『教行信証』の文章で、三代も前の土御門天皇のことを現役の「今上」と呼ぶのかおかしいのである。こうした点から、明治四十三年『親鸞聖人論』をあらわした長沼賢海は、この部分は親鸞の書いたものではない、と考えた。この文章は、後の人間がかってに作って、『教行信証』の終わりに、はめこんだものだ、というのである。後の人間なら、まちがいをするが、親鸞なら、まちがうはずがはない、という論法である。
しかし、これは、大正九年の辻善之助の研究によって、否定された。『坂東本』(親鸞真筆の『教行信証』)では、この部分も親鸞の筆跡なのである。
しかし、この点をさらに、ねばりづよく受けついだのが、喜田貞吉である。法隆寺再建論争で有名な学者だ。かれは、ここでも、かれ持ち前の情熱を遺憾(いかん)なく発揮した。二年間のうちに、この問題について、二十八の大論文・小論文を書きまくった。その題目も「本田君の熱心に動かされてー『教行信証』に関して再び同君の教示に答ふ」といったふうで、そのときの論争の雰囲気(ふんいき)がうかがえる。
喜田の主張はこうだ。長沼の疑いは、辻の真筆証明で消滅はしない。やはり、親鸞が自分で、二十年近い昔の天皇を「今上」というはずがない。だから、『教行信証』がどうしても同一の筆跡だ、というなら、その『教行信証』全体が、親鸞の真作ではないのではないか。つまり、親鸞自身は、案外、無知・無学な人物で、そのころの食いはぐれ知識人に頼んで、『教行信証』を書いてもらたのではないか。こういう、すさまじい結論に到着したのである。
辻の筆跡鑑定も恐れず、矛盾をあくまで追いつめてゆくのは、いかにも喜田らしいところだ。法隆寺の場合、建築専門家の非再建説をものともぜず、『日本書紀』の法隆寺焼失記事を、正確にとらえて、再建説を主張した。戦後の発掘は、喜田が正しかったことを証明したのである。
しかし『教行信証』の場合、喜田はいっそう孤立していた。辻・本田・中沢をはじめ、宗門内外の学者に袋だたきにあって、喜田は嘲笑され、黙殺された。「真宗を罵倒(ばとう)したり、本願寺を呪(のろ)ったりするのを能事(のうじ よいこと)として居(い)る様な人々とは、真面目(まじめ)に論議する気分には成れず。」喜田の最大の論敵、本田辰次郎のことばは、論争終結時の雰囲気を、ありありと物語っている。昭和になってから、現在まで、学者たちは、この論争を忘れ去っていた。たとえば、昭和三十一年、赤松俊秀も「親鸞の現在・過去についての表現は、それほど正確ではない。」と述べて、長沼・喜田の疑いを消し去っている。
しかし、二人の疑いは死んでいなかった。わたしは、「今上」ということばの使い方について、親鸞以前、以後の各時代にわたって、多くの文献・文書をくわしく調査した。その結果、「現在、現役の天子」という用法しか、このことばにはありえないことが、ハッキリしたのである。この事実を正確に受け入れ、これを論理的におしつめれば、どうなるか。
この問題の文面は、承元四年(親鸞三十八歳)のころ、土御門天皇が現役の天子だったとき書かれたものだ、ということになるほかはない。それは、親鸞が越後に流罪されていた、その末期にあたる。しかも、それはかれが朝廷の外記庁(げきちょう 詔勅を起草したり、上奏文等を司る役所)に提出した抗議の奏状の一節だったのである。また問題の文面に置いて、「太上天皇」と「今上」ということばについて、「平出(へいしゅつ)」(行をかえて書くこと)、「主上」ということばについて、「闕字(けつじ)」(一、二字分あけること)という、公式文書(もんじょ)の礼式が、守られている。このことも右の点からみれば、当然だったわけである。「普通の本の一節としては、“平出”と“闕字”はおかしい。」こういって、喜田は力説した。しかし、今日までの学者は、喜田の主張の根本を、真剣にくみあげようとはしなかったのである。
いまや、真相は明らかになった。いままで「後序」といわれた自叙伝ふうの部分は、(一)承元四〜五年の承元の奉状(親鸞三八から九歳)、(二)元仁元年(法然十三回忌)の法然入滅の賛文(親鸞五十二歳)、(三)建仁元年の吉水入室の文(親鸞二十九歳)、(四)選択集書写、肖像画模写の元久二年の文書(親鸞三十三歳)という、四つの時点での文書を、そのまま結びつけて構成されていたのである。
今、死者の国において、ひとり喜田は、「コロンブスの卵」(わかってみれば、真理は簡単だというたとえ)ののった食卓を前にして、つぶやいたかもしれぬ。「とんでもない結論に行っちまったが、おれがあそこに疑いをもちつづけたことは、やっぱり正しかったんだな。」と。
承元の奉状の立場
このようにして承元の奉状は、親鸞が流罪中に書いた抗議の文であることがハッキリした。
そこで親鸞は何を訴え、何に抗議しているのだろうか。
その第一、今回の弾圧は、旧仏教側と専修念仏側との思想対立が原因だ。それ故、正しい専修念仏運動をおしつぶそうとして、権力者が行った思想弾圧である。親鸞はこのような立場を一貫している。したがって、住蓮・安楽が「女犯で風俗をみだした」というような、上皇の言い分は、民衆の目から、ことの真実をおおい隠すためにすぎないもの、として、まったく切り捨てているのである。
その第二、抗議の焦点をキッパリと、「住蓮・安楽たちの死刑」においている。その証拠の一つは、「猥(ミダリ)ガワシク死罪ニ坐(ツミ)ス」といっていること。「猥(みだり)がわしく」ということば、「勝手(かって)・不法にも」という意味だ。そのころの申状(裁判に提出する訴状)において、訴えの焦点をしめすことばなのである。その証拠の二つは、弾圧の日付を仲春上旬(二月上旬)としていることだ。これは、住蓮・安楽が死刑になったとき(二月九日)をさしている。法然や自分たちが流罪となったのは、中・下旬(十八〜二十八日)のことなのである。このようにして、断じて許すことのできない事件は、住蓮・安楽の死刑そのものだ、と主張しているのである。
そのころ、専修念仏集団の中でさえ、「住蓮・安楽の処刑はやむをえない。かれらが過激すぎたのだから。かれらのような過激な弟子のために、先生の法然上人まで、災(わざわ)いがおよんだのだ。」という考えがあった。しかし親鸞は、そのような考え方をキッパリと拒絶した。もっとも不当なのは住蓮・安楽の死刑だ、とあくまで主張しているのである。
その第三、この奏状の中心は、「主上臣下法に背(そむ)き義に違(い)し、[分/心](いかり)を成し、怨(うらみ)を結ぶ」という一句にある。ここで親鸞は抗議の対象を、「主上・臣下」という天皇と朝廷の貴族たちにおいている。ことは後鳥羽上皇の理不尽な怒りから爆発した。しかし、その責任はあくまで、そのときの「権力体制の全体」にあるのだ。そしてかれらの行為を、善導の「念仏迫害の詩」のことばで描写した。[分/心]*・怨という迫害者の心をあらわすことば。それは安楽が死をかけて、権力者につきつけた最後のことばであった。
この文章から、わたしたちは知ることができる。この弾圧に対してとった親鸞の明確な立場を。さらに権力者たちが、燃え上がる目をもった、オオカミのようなこの男(親鸞)をほっておけなかった。その理由をも。
注)インターネット事務局
[分/心](いかり) 分の下に心編
越後における親鸞
親鸞は越後の国府(こくふ)に流された。山も川も箱庭のようにやさしい京都に生まれ育った親鸞にとって、ここはきびしい風雨の地と感ぜられたであろう。
越後生まれの親鸞研究者、松野純孝は、つぎのように描いている。
「かれが越後へたどり着いたときは、およそ旧歴三月ごろであろうが、このころは越後ももう暗く閉ざされていた豪雪から解放されて、蕗(ふき)のとうが黒土を割ってでる春の歓喜の爆発を経て、若葉も出そろい、やがてむんむんとする雑草の草いきれにむせかえるような夏をま近にひかえた晩春の候であったはずである。かれの配流(はいる)された越後の国府は、日本海の居多浜に面したところである。一方には日本海、一方には頚城(くびき)平野、一望緑一色の頚城平野、平野のかなたに峨峨(がが)としてそびえ立つ妙高の峯(みね)に、『未来』に思いを奔(は)せる海のかなた。起伏の多いこのような所に、親鸞は配流(はいる)の身となったのである。・・・しかし、このような中にモンスーン的自然はその暴威をふるう。みぞれがやってくる。荒れ狂う北海、ほとんど半年にわたる豪雪。たびたび襲(おそ)いくる飢饉(ききん)。生の歓喜を一瞬(いっしゅん)にして吹きとばしてしまう自然。」
さすがに自分の愛する郷土を描く松野の筆は美しい。そのような中で、親鸞はどのような生活をしたのだろうか。
『延喜式(えんぎしき)』は、平安時代の法律集だ。親鸞の時代にも適用されていたとみられている。その中で、流罪人の生活を、つぎのように定めている。
「およそ国々の流罪人には、身分の上下や、男女や大人(おとな)・子どものちがいにもかかわらず、一定の食料を与える。ひとり一日につき、米一升、塩一勺。また来年の春まで穀物の種子を与える。一年目の秋がきたら、食料も種子も与えることをやめる。」
つまり、ほぼ最初の一年間だけは米と塩をやるが、後は自分で穀物の種を植えて自活しろ、というのである。その種をやるのも秋までだ。といっているのだ。これが、「延喜の聖天子」といわれた醍醐(だいご)天皇のとき出された法律である。
生まれてから生産労働をしたことのない都人(みやこびと)がどのような恐怖に直面したか。手にとるようにうかがえる文章だ。平常は「太陽のように暖かい御慈悲」をもつと宣伝される天皇たち支配者が、そのうしろにどのように冷酷な顔を隠しているか。わたしたちをゾッとさせるのである。かれらは「暖かい御慈悲の横顔」と「ゾッとさせる冷酷な横顔」を使い分けることによって、日本の歴史をのりきってきたのだ。
だから、京都育ちの親鸞を鍛えたのは、、北海の寒風だけではない。支配者たちの、もっと冷たいむちが、より深くなる魂、もうこれ以上、何物にも恐れることのできない魂を、親鸞の内部に鍛えあげてくれたのである。
内容そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。
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