古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー

 これは清水書院版(970年4月15日発行)の II. 斗いと思想の生涯 金剛神心を守り、弾圧者のために祈れ!です。

親鸞

ー人と思想ー
古 田 武 彦


II. 斗いと思想の生涯  ー裏切らざる人生ー

思想は弾圧にうちかつ
・・・
・・・

金剛神心を守り、弾圧者のために祈れ

逆謗闡提(ぎゃくぼうせんだい)

 わたしたちは、今、親鸞の思想のもっとも深い海へ降りてきた。そこは、「逆謗闡提」の大海である。この大海にいたり着くには、しばらく「術後」の小川をくだらねばならぬ。

「逆謗闡提」ーこのむずかしいことばは、「五逆(ごぎゃく)」と「謗法(ほうぼう)」と「闡提(せんだい)」という三語を、一つにまとめたものだ。

 「五逆」とは、仏教でいちばんにくまれている、五つの罪。その五つはあとでくわしくのべよう。
 「謗法」とは、正しい仏法を非難し、攻撃すること。これは、「五逆」以上の、極悪(ごくあく)の罪悪とされた。
 「闡提」とは、正しい仏法を信じないものである。いちばん大事なものは「信心」だ。その「信心」を、いっさい、もたない人だから、「どうしようにも、救いのない人」の意味になろう。

 この「逆謗闡提」は、いつも大乗仏教の各派も、いちばん大きな課題となってきた。なぜかというと、大乗仏教とは、「すべての人々を救う菩薩の道」をスローガンとする。「菩薩(ぼさつ)」とは、自分のさとりより、すべての人々への愛、のほうを重んずる人のことなのである。
 「逆謗闡提」もまた、救われるのか。この問いの答えは、一応簡単だ。なぜなら「正しい仏法を信ずることのみによって救われる」という「すじ道」からすると、明白に「ノウ!」という答えが、はねかえってくるからである。
 しかし、逆に、すべての人々のために、という大乗仏教の「本来の精神」からいうと、これでは困る。
 この二つの答えのくいちがいーこれが大乗仏教各派のにとって、逃げることのできぬ壁だった。

 それゆえ、これに対する答え方によって、各派の、物の考え方を測定することもできるのだ。一種のリトマス試験紙である。実は、この問題の答えは、同じ浄土教経典の中でも、くいちがっている。大無量寿経は、「逆謗」の救済を拒否する。
 第十八願に、
 「ただ、五つの悪逆を行う人々と、正しい仏法をそしるののしる人々だけは、救済からのぞくこととする。
  (唯除五逆謗法正法)
 とある。だから明白である。観無量寿経は、「五逆」は、救済されると説き、「謗法」を救済から除く。阿弥陀経は、いっさい、この問題に触れない。
 このようにみていくると、三つの教典の思想性格は明白にちがう。なんらふしぎではない。三つの経典をうみだした、三つの集団の思想性格はちがっていた。それは、その三つの集団をつつんでいた、社会環境・思想環境のちがいにもとづくのである。

 この点、わたしたちは、つぎの事情を参考としよう。
 ヨーロッパで、近世になって、「宗教の自由」という考え方がうまれたのは有名だ。しかし、その実体は、新教と旧教というキリスト教内の、宗教の自由だった。キリスト教以外の宗教の自由など、いっさい考えられなかったのである。その証拠に、この考えのもととなったロックの「寛容についての手紙」には、「神を信じないもの」は別だ、とハッキリいっている。(これは仏教流にいうと、「闡提」だ。)かれらには、「寛容」も「自由」も許すべきではない、というのだ。ロックの生きた時代のヨーロッパは、いわばキリスト教の「単性」社会となっていた。キリスト教以外の宗教(たとえば古代ゲルマン信仰)は徹底的に破壊され、武力で排除されたあとだった。
 このような社会環境、思想環境を背景にして、ロックは、「神を信じぬもの」を除外したのである。

 この思想史上の例から見ると、大無量寿経をつつんでいた、社会環境・思想環境にも「謗法を除く」と書かねばならぬ、明白な理由があったのだ、と考えてまちがわないだろう。
 このように、経典の生いたちを科学的に研究するものにとって、これは興味深い問題だ。しかし、信仰の立場からそれをみる者にとっては、苦しい問題だ。親鸞たちの苦闘も、そこからうまれた。


逆謗闡提の歴史

 わたしたちは、まず親鸞より前に、このことばがどのように使われたかをみてみよう。延暦寺の天台宗を開いた最澄。延暦二十四年、かれは中国から帰ってきた。やがて、古い仏教者に猛烈な論争をいどんだ。『守護国界章(しゅごこくかいしょう)』『法華秀句(ほっけしゅうく)』というのが、そのときの論争記録だ。その焦点は、「闡提も救済されるか、どうか」という問題だった。最澄は、「一切有情悉皆成仏(いっさいうじょうしっかいじょうぶつ)」(いっさいの人々は、すべて仏となる)という立場から、「救われる」と主張した。その中で、最澄と論敵はお互いに、相手に対し、「謗法者(ほうぼうしゃ)」(正しい仏法をそしり滅ぼすもの)という名まえを投げ合っている。
 こういう眼前の相手、眼前の行為に対して、「逆・謗・闡提」の名を投げつけるやり方は、平安時代の古文書類にもたくさんのっている。
 有名な平家物語でも、源氏に捕らわれた平重衡(たいらのしげひら)は、かって自分が奈良の般若寺(はんにゃじ)などを焼いた行為を、「逆罪」として、法然の前に懺悔する。このころの常識をしめす逸話だ。現実の人間の行為をさして、生々しく「逆・謗・闡提」ということばが使われてきたのである。


親鸞の逆謗闡提


 親鸞も、その点、同じ時代に生きていた。『教行信証』の眼目とも言える、「信巻」の結びに、親鸞は、「五逆」について述べている。
 第一は、故意に(過失でなく)、父を殺す。第二は、故意に、母を殺す。第三は、故意に、僧を殺す。第四は、あやまった心で、和合した僧侶の集団を破壊する。第五は、悪い心をいだき、仏の身から血を出す。 
 このような趣旨を、いくつかの経典、注釈から引用の形で、述べているのである。これは、具体的に、だれの、どのような行為をさしているのだろうか。第四につき、薩遮尼[卓軋]子(さっしゃにけんし)経という経典から、引用したつぎの文句が書かれている。
 「いっさいの僧侶や、戒めをもつもの、戒めをもたぬもの、戒めを破るもの、これらの人々を打ちののしり、責めつけ、かれらの咎(とが)を説いて、かれらを縛ったり閉じこめたりし、かれらから僧侶の身分を奪って、「還俗(げんぞく)」させ、かれらを追いたてて使ったり、かれらからしぼりあげ、かれらのいのちを奪(うば)う(「断命(だんみょう)」)ことだ。」
 これが「五逆」の一つだ、というのである。
 親鸞は、このことばを『教行信証』に書きぬけつつ、何に思いを馳(は)せていただろうか。わたしたちは、親鸞が『教行信証』の支柱として、「承元の奏状」を置いたことをすでに知った。その中心にあるのは、「主上・臣下法に背き義に違し、分/心*を成し、怨を結ぶ」の一句です。抗議の火が燃えていたのは、「猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す」という、住蓮・安楽の「断命」についてであった。さらに、法然と自分たち専修念仏者に対する「還俗」と流罪に向かってであった。さらに乳水(にゅうすい)のように和合していた吉水の集団を無残にも破壊したのはだれか。これこそ「和合僧を破壊した」ものではないか。
 こうしてみると、親鸞が「五逆」の者と指さした手の先は、明らかに後鳥羽上皇と、朝廷の「主上・臣下」たちに、まっすぐ向けられていたのである。

注)インターネット事務局  [分/心](いかり) 分の下に心編


五逆にあらざる わ れ ら


 このような明白な事実、『教行信証』の真髄(しんずい)となっている疑いようのない真実も、現代の親鸞研究界では、まったく「常識」に反しているのである。
 だから、これまでの見解について、しらべよう。
 第一は、道徳主義の立場である。江戸時代の宗学者がこれだ。かれらの場合、逆謗闡提を、だれだれという具体的な対象に考えない。江戸時代の支配者、武士階級は、儒教を生活信条とした。これは、実際的な道徳教だ。死後の世界などの信仰はない。だから、支配者たちは、仏教をけいべつしていた。けいべつしていながら、支配者たちは、おろかな農民・工業者・商人たちに仏教を与えた。本願寺教団を使って、かれらの精神を支配しようとしたのである。
 しかし、僧侶たちは、けっして武士たちを「闡提の者だ」などと指さしはしなかった。自分たちがかれらに罰せられたり、追放されたりしても、けっしてかれらを、「五逆」の者だ、ということなど、夢にも考えなかった。それどころか、逆謗闡提についての経典のことばは、「私たちがお上(かみ)の掟(おきて)を守り、仁義礼知信という道徳を守ってゆくようにとの、仏のおさとしだ。」と、民衆に宣伝したのである。香月院深励(こうげついん じんれい)という、有名な宗学者のことばである。
 この事情は、明治以後でも変わらない。明治のはじめ、天皇の政府が、狂信的な神道主義の立場から、排仏主義を強行したことは有名だ。わたしは、京都府や滋賀県の社寺を見て、そのすさまじい権力による排仏のあとを見て、ゾッとしたことがある。たとえば、比叡山の琵琶湖側のふもとにある、日吉神社など、仏教信仰の建物は根こそぎ破壊しつくされた。
 ただ拝殿の床下で行なわれた仏教行事のあとだけは、抹殺(まっさつ)できぬため、板でうちつけて、民衆に見せないようにしたのである。
 こういう天皇や薩長政府の権力者の行為に対し、「あなたがたこそ、経典にいう、逆謗闡提の徒だ。悪逆の鬼だ。」と指さす仏教者は、ついに出現しなかった。
 それどころか、「わたしたちは、アミダ仏と同じように、天皇を信仰しよう。」という運動を起こしたのである。だから、戦争中につくられた「靖国神社」などに抵抗することも、しなかった。代わって、『教行信証』の版本の中から、「主上臣下法背違義」の中から、「主上」の文字を削りとったのである。
(前ページ写真参照)


近代宗学の落とし穴


 これに対して、新しい近代宗学が登場する。逆謗闡提について、まったく面目を新たにした解釈をひっさげて。金子大栄・曾我量深らによると、「わたしたちこそ、五逆誹謗正法(ごぎゃくひぼうしょうほう)の身だ」というのである。そして、これこそ親鸞の思想だ、という。同じ立場にたつ、山辺習学・赤松智善の『教行信証講義』を引用しよう。「ああ何人か五逆謗法の罪をまぬがるることができようぞ。聖人は自らこの自覚を表白し、普(あまね)くこの自覚を促(うなが)し給うために此の文を引用せらたものである。」近代人の宗教哲学ならこれでよい。「逆謗闡提」ということばを借りて、自分の罪悪の自覚を語っても、ちっともさしつかえない。しかし、“親鸞もそうだった”というなら、それは明白なあやまりだ。

 法然は「五逆をつくらざるわれら」ということばを好んだ。親鸞の書写した『西方指南抄』に出てくる。この考えは、親鸞自身も同じだ。親鸞は京都から晩年の手紙で、東国時代の経験をふりかえっている。そのころ、善乗房という男がいた。いろいろ親鸞を攻撃していた。このような人物は、「謗法」のものだから、自分(親鸞)は、かれを近づけたり、同座したりしなかったのだ、というのである。
 また、例の善鸞義絶状。
 「ことに破僧の罪という罪は、五逆のその一だ。親鸞にうそをいいつげたのは、“父を殺す”ものだ。五逆のその一つだ。」
 いささか強引な論法だ。しかし、とにかく「五逆」「謗法」は「わたしたち専修念仏者」ではない。専修念仏集団を非難・攻撃し、かき乱す人々であることには、なんらの疑いもない。親鸞の時代、専修念仏集団は、体制側からの弾圧と攻撃と撹乱(かくらん)にたえず見舞われていた。だから、弾圧者・撹乱者その行為の意味を、経典の中に見いだす必要があったのだ。

 しかし、近代宗学者には、幸いにも、その必要がない。古い本山の教団体制との不和はあろう。しかし、現代社会との体制的思想と敵対する、非妥協の生涯をえらびとったのではない。かれらの近代的内省は、現代人の好みにふさわしいのである。少なくとも、親鸞のように、時の権力者に向って、「お前こそ、逆謗闡提だ」と指ささねばならぬ必然は、かれらの思想には存在しなかったのである。


法然の遺志

 ここで。わたしたちは、親鸞の終生の師、法然の「遺志」に触れたいとおもう。それは親鸞の思想の成立と深い関係をもっているからである。
 法然の『選択集』の最後は、つぎのことばで結ばれている。
 「こいねがわくは、ひとたびこの本を見ていただいた後は、壁の底に埋めて、窓の前にのこさないようにしていただきたい。わたしが恐れているのは、この本を見たことで、かえって専修念仏を非難攻撃する人が出れば、その人が地獄に落ちることです。」
 「壁の底に埋めよ」というのは、故事がある。秦の始皇帝の思想弾圧に対し、儒教の本を壁の中に埋めて守りぬいた話だ。法然は、他の文『西方指南抄』で、そのことに触れている。明らかに法然は、弾圧の来る日を予感していたのである。そして、その弾圧について、恐れるのは、自分の運命ではない。弾圧した人々が、「謗法」の人として、地獄に落ちることだ、というのである。
 このような法然の思想からすると、承元の弾圧のとき、法然が「今回の弾圧で、一つだけ、いたましいのは、弾圧者の非道が報いをうけて、かれらが悪しき運命にあうことだ」といった、という伝え(『四十八巻伝』)は、無視できないものをもっている。
 また、親鸞は、晩年の手紙でくりかえしいっている。「専修念仏者を攻撃したり、弾圧したりする人をあわれむ心を持て!と法然上人はいっておられた」と。親鸞は法然面受の弟子であるうえ、承元の弾圧で運命を共にしたのであるから、その証言は信頼できる。
 さらに、わたしたちの深い興味をさそうのは、つぎの問題である。二十五日は法然の命日だ。毎月、その日に専修念仏者が集まって念仏を唱えた。その意味は、“弾圧者を助けるための念仏だ。”という。しかも、それは参加者全体の認めていたことだ、というのである。これも参加者のひとりであった、親鸞の手紙の中の証言である。
 思ってもみたまえ。承元の弾圧の中で、老齢の身をすりへらしつつ死んだ法然の命日。その日に、弾圧者のために祈る念仏が行なわれる。毎月の専修念仏者の集会の、念仏の声の中に、高潮する人間精神。その高まりの中から、親鸞の「逆謗闡提」の最終の思想は、うみだされたのである。


恩光の報答

 親鸞の思想の最終の地点にふみこむ前に、いささか、のどやかな一つの話題に触れさせてもらいたい。
 きみは、清少納言の『枕草子』の中の、有名な「香爐峯(こうろほう)の雪」の逸話(エピソード)を知っているだろうか。
 雪の降った、ある日。中宮定子が部屋にはいってきた。清少納言の仕えていた女主人だ。いきなり、定子はいった。「香爐峯の雪はいかに。」その部屋にいた女房たちはとまどった。何のことか。そのとき、清少納言は、いきなり庭に向かった簾(すだれ)をあげた。女主人は、ニッコリと笑った、というのである。この話のポイントは、白楽天(はくらくてん)の詩の一節、
香爐峯の雪は簾をかかげて見る
の一句にあった。定子は、この句の前半を上げて、とっさに後半の句を、女房たちが思いだすことを期待した。事実、清少納言よりスピードは一瞬おとったものの、女房たちは、「あっ、あの句のことか」と、いっせいに思いあたったことであろう。
 詩句の前半をあげて後半を思い出させる。ー百人一首もそうだ。上の句を聞きはじめると、とたんに下の句のカードをとる。連想のスピードが勝負なのだ。

 実は、このような知的クイズは『教行信証』の中にも隠されていたのである。しかも、もっとも真剣な形で。承元の奏状は、流罪中のことを述べた「五年の居諸(きょしょ)を経(へ)たり」(五年の年月を過ぎた)という一句で、切り取られ、いきなり、法然の死を追悼する文書に接続している。
 「居諸」の語は、白楽天の詩句の一節だ。もちろん、このことば自体は『詩経』にはじまる。月日のむなしく過ぎるのをうらむ文中のものだから。流罪中の親鸞の心境にも合致しよう。しかし、それよりも、直接には、白楽天からの引用だ、と感じさせる理由がある。この「居諸」の直前に、有名な「僧に非(あら)ず、俗に非ず」の句がある。これは明らかに白楽天の、

「非道・非僧・非俗の吏」(地上間吟 ちじょうかんぎん

の引用なのである。したがって「居諸」も、白楽天のつぎの詩の引用だ、とおもわれる。

恩光未(いま)だ報答せず
月日空しく居諸

 少なくとも、当時の知識人が「居諸」という特色あることばを見たとき、ただちに思い浮かべたのは、『詩経』よりも、この白楽天の詩であることはまちがいない。しかも、法然との生別の話を、この「居諸」の語でうち切り、直ちに、法然の死を述べる文章に向うのである。だから、隠された詩句の前半、「恩光未だ報答せず」が、だれに対する「報答」か、疑いようもないであろう。
 すなわち親鸞はいっているのだ。
 「わたしは承元の弾圧の中で、師と生別した。そして五年の年月を、師と相会わぬまま空(むな)しく過ごし、師から受けた御恩にまだ報い答えぬまま、ある日、突然、師の死の知らせを聞いたのだ。」と。
 胸が破れ、腸(はらわた)のちぎれるような悲しみが、おさえられた文面のうしろから、わたしの耳になりひびいてきてやまないのである。このような悲しみの中から、ひとり立ち上がり、法然の「遺(い)志」にこたえようとしたのが、『教行信証』だ。すなわち法然が、かれ(親鸞)に対して真にのぞんだものを、つらぬき通して、明らかにする。そのための本だった。それが、「生きている安楽・住蓮」としての、親鸞の使命だったのである。


親鸞生涯の回答

 では、「弾圧者の運命」を憂いつつ、流罪地に向った法然に対し、親鸞はどのように答えただろうか。
 五十二歳のとき書いた『教行信証』の信巻に書きこまれたのは、「逆謗闡提回心(えしん)すれば皆往(ゆ)く」の一句だった。これは善導の『法事賛』からの引用だ。平和な儀式用につくられた、懺悔のことばの一節にすぎぬ。しかし、ここでは、親鸞の心の歴史と、ミダの全民衆救済の歴史をつらぬく雄大な意味をもったのである。
 「逆謗闡提」とは、専修念仏集団を迫害する人々、古い体制の思想にくみするすべての人々だ。その頂点には、承元の弾圧の、後鳥羽上皇がいる。
 ここで「三願転入の論理」のことを思いおこしてみよう。
 「回心」とは「回入(えにゅう)」と同じだ。かれはこの文をもとにして、「凡聖逆謗斉しく回入すれば、衆水、海に入りて、一味になるが如し。」と書いている。『教行信証』行巻の終りだ。親鸞にとって、「回心」とは、古い、あやまった仏教の立場を捨て、正しい教え、専修念仏集団にはいっていくことだ。体制側の人々も、やがて、専修念仏集団にはいるだろう。そうすれば、自力の専修念仏より金剛信心へと、「転入」し、どの人も必ず救われるだろう。それは、ミダによってしくまれた救済の歴史の展開だからである。
 それは、わたし(親鸞)自身の体験である。迫害者は、自分の明日を知らないのである。どんな迫害者・弾圧者も、このようなミダのしくみをうち破ることはできぬ。かえって自ら知らずして、すべてミダの救済の歴史の中に吸いこまれてゆくほかはないである。
 かれは、善導の詩句を、このようなスケールで理解した。
 そして、「今、わたしは、ついにミダの真意を理解できるようになりました。」と、亡(な)き法然に「報答」したのである。
 かっては、吉水集団の離散、亡師孤独の運命は、かれにとって、あまりにつらいものに思われていた。
 「なぜ、なぜです?わたしがこんなに苦しく、こんなにつらいのは」
 いくたびかれは、天と地に問うたことであろう。しかし、いまやかれに見えてきたのである。そのこと、ほんとうの意味が。なぜなら、法然によってまかれた心の種は、弾圧と不理尽な迫害と過酷(かこく)な運命の中で、いよいよ成長し、ついに「金剛信心」の花のかがやくのを、自分の中に見たからである。
 それを「三願転入」として、親鸞は法然に「報答」したのである。


正しく恵まんとおぼす

 このような立場に達したことによって、親鸞は『教行信証』を書くことを決意した。このような立場から、これまで経典・注釈の行文が、新しい光に照らされて見えてきたからである。
 しかし、わたしたちは驚く。かれはこのような立場に達して、なお、そこに満足し、そこにとどまろうとはしなかったのである。『教行信証』の八行本文が清書されて後も、六十代より八十代までの二、三十年間の筆跡で、たえざる追加・補正の行なわれた跡が、ありありとこれを物語っている。
 その最終の筆跡は、『教行信証』の先頭の序文だ。「総序」と呼ばれている。その中に、わたしたちは、つぎの一句を見いだす。

 「世雄の悲(せおうのひ)、正(まさ)しく逆謗闡提を恵まんと欲(おぼ)す。」
 “今、わたしたちを弾圧迫害している人々も、やがて専従念仏集団にはいりきたって救われるだろう” という地点から、さらに親鸞は大きくふみこんだ。

 “ミダの真の願いは、専従念仏者を迫害する人々を救うことだ!”と
かっては、「迫害者もまた救われるのか?」と問うていた。今は、「迫害者こそ救われるのだ?」と答える。

 晩年の親鸞は、このような思想の立場から、迫害者たちを見つめていたのである。それは、師、法然の「遺志」に対する、最終の「報答」であった。


後鳥羽院

 『教行信証』の終わり、「承元の奉状」のうち、上の欄に、有名な書き込みがある。

「後鳥羽院」
「土御門院」

 承元の弾圧のときの上皇と天皇に対し、追号(天皇・上皇の死後、おくられる名)を書きこんでいる。(この後にある「順徳院」は親鸞ではない。別筆である。)本文が八行本文であり、六十歳前後の筆であるのに対し、この二つの追号は、親鸞七十歳前後の筆跡である。この二つは、同時に書かれている。このことは、デンシトメーターの検査によって確かめられた。
 延応元年(一二三九、親鸞六十七歳)二月二十二日、「後鳥羽院」は、隠岐島(島根県)で流人生活中に死んだ。はじめ「顕徳院」と追号され、後に「後鳥羽院」と改められた。仁治三年(千二百四十二、親鸞七十歳)のことである。京都の町の一角でそれを知った親鸞は、ある日、筆をとって、二人の弾圧者の追号を書きこんだのである。
 このとき、老いた親鸞の胸に去来したものは、何だったろうか。若い情熱を時代にたたきつけて行動し、若かったまま死んだ住蓮・安楽の幻(まぼろし)か。それとも、「生別」すなわち「死別」となった、最後の別れの日の法然の面影(おもかげ)か、それとも亡師孤独(ぼうしこどく)の中で、あまりにも苦しかった自己の生涯の日々か。墨はただ、黒々としていて、何も語らない。


親鸞の死

 弘長二年(一二六二)十一月二十八日、親鸞は、その生涯を閉じた。京都の町の中ほど、押小路南、万里小路東であった。(『伝絵』)。東国の弟子、顕智(けんち)や専信がその場にのぞんだ。親鸞の子では、第五子益方(ますかた)と、第七子覚信尼がつきそっていた。妻の恵信尼はいなかった。

 親鸞は、「わたしが死んだら、賀茂川に入れて、魚に与えよ」といっていたという。(『改邪鈔(かいじゃしょう)』)
 きみは、このことばを聞いてどう感ずるだろうか。
 賀茂川とは、かれにとって、何だったのだろう。
 子どもの時、遊び親しんだ川。
 そのときは父も母もいた。魚も友だちだった。
 そのような賀茂川か。ーあの東山のもとで。

 確かに、正嘉二年(親鸞八十六歳)「自然(じねん)」について顕智に語った親鸞は、ほとんど「童心」と見分けがつかぬようにみえる。「アミダ仏とは、“自然”のありさまをしらせようとする、そのてだてなのだ。」と親鸞は語るのである。その「自然」とは、“絶対なるもの”“永遠に母なるもの”だ。それにみちびかれて、老いた親鸞の魂は、幼児(おさなご)のように和(やわ)らいでいる。そのような親鸞は、「童心」の思い出深い賀茂川に帰ることをのぞんだのだろうか。
 しかし、かれにとって、子どものとき見た賀茂川とは、心なごむものだけではなかった。養和の飢饉(ききん)、鴨川の河原には、餓死者があふれ、つぎつぎと声もたてず、流れ去っていった。九歳のかれは、子ども心に、目をくもらせ、息をのんでそれをみつめていたことがあったはずだ。いや、飢饉のときだけではない。三条河原、五条河原、乞食や貧民が住みつき、日々を死と背中あわせに暮らしていた。
 そして六条河原、そこには、かれの友、安楽の屍(かばね)が、燃えるいのちを横たえたところではないか。
 そのような恩讐(おんしゅう なさけとうらみ)のすべてを忘れて、かれは、賀茂川に自分の骨を沈めたかったのだろうか。
 いや、そうではない。なぜなら、そのころの墓地は、すべて古い仏教の支配下に会った。かれが夢にも忘れることのできなかった、嘉禄三年(一二二七、親鸞五十五歳)の残虐(ざんぎゃく)。体制側の手は、法然の骨まで地下からあばきたて、恥ずかしめを加えようとしたのである。
 しかし、いかなる体制の手も、鴨川の去りゆく流れの彼方(かなた)には、ついにとどくことができないであろう。
 いかなる地上の権力も、大自然の一物(いちぶつ)と化(か)した親鸞の骨をあばきたてることはできないのだ。
 きみは、いつの日か、京都に来て、東山に向うことがあるだろうか。そこには広壮な親鸞の墓地がある。後世の、体制化した巨大な本願寺教団が建設した大谷墓地だ。
 しかし、きみはその帰り道、賀茂川のほとりにたたずみたまえ。絶えることのない流れのせせらぎの中から、九十歳の死にいたっても、体制の手に自己の魂をゆだねることを拒否した、人間の声。その真実のひびきが、今もきみの耳に聞こえてくるだろう。


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| とめるものゝうたえは      |
| いしをみづにいるゝがごとくなり |
| ともしきものゝあらそひは    |
| みづをいしにいるゝににたりけり |
|                 |
|   建長七歳乙卯十一月晦日之書 |
|        愚禿親鸞八十三歳 |
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 <『聖徳太子奉讚』は七十五音の長文和讚であるが、その末尾は、聖徳太子の「十七条の憲法」を引用した、上の句で、急に閉じられている。しかも、この1首だけ、全面仮名ばかりで書かれ、ひときわ異彩をはなつ。
 ながい訴追の中で苦しみぬいた、親鸞集団の苦渋(くじゅう)。それをつつむ貧しい人民の悲しみの一つ一つ ー それらの叫びが、この仮名文字の背後にぬりこめられている。>


目次そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。

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