『邪馬壹国の論理』ー古代に真実を求めてー へ
推理小説のモラル−松本清張氏と高木彬光氏の論争をめぐって,続、推理小説のモラル へ
敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第四回(なかった第四号)へ
本資料では、丸数字は○1は、(1)に変換しています。古田武彦
神津さん。
はじめてお便りをしたためます。わたしがあなたを知ったのは、もう二十三年も前のことです。昭和二十六年、雑誌『宝石』に連載された『わが一高時代の犯罪』がそれでした。推理小説としては、学校(一高)の時計塔の上に残されたザイルのトリックという、きわめて簡単なものでしたけれども、軍国主義の辛い世相をバックに、その謎をめぐる一高生たちの青春群像が息づいていた ーーその作品の香りを今もハッキリと覚えています。
それは、わたしの読書歴の中で、青春の部の一ページに印された「名著」だった、といっていいでしょう。黒いマントと柏葉の帽子を身につけた白皙(はくせき)の一高生・神津恭介は、その鋭い推理力と潔癖な感受性によってあたかも「初恋の人」のように、わたしの中に焼きつけられていたのです。ですから、このお便りは本来はいわば「ラブ・レター」であるべきだったのです。それが、何という運命のいたずらでしょう、「推理機械」の異名をもつ天才として描かれた、あなたの「後光」を無残にもひきはがす、という、皮肉な役割をひきうけさせられてしまったのですから。
一
ことのおこりは昨年の暮れ、高木彬光(あきみつ)氏の著書『邪馬台国の秘密』を見たことからはじまります。数年前から、わたしは、偶然のいたずらで、古代史の世界に踏み入るようになっていました。そのきっかけはこの「邪馬台国」問題でした。「魏志・倭人伝」の中心国名「邪馬壹国」を江戸時代以来の学者が「邪馬臺(台)国」と書きなおし、「ヤマト」(大和、山門)と読んで疑いもしないでいることに、不審を抱いたことが動機でした。その結果、論文「邪馬壹国」(『史学雑誌』78-9、昭和四十四年)、著書『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊、昭和四十六年)、『失われた九州王朝』(朝日新聞社刊、昭和四十八年)その他を相次いで発表していたのです。わたしの基本の立場は、「学者」であろうと、「素人」であろうと、真実の探究者としてはまったく対等だ、という一点にありましたから、極力有名・無名の多くの人々の「邪馬台国」論に注意をそそぎ、そこから学んできました。
ですから、昔なつかしい高木彬光さんのこの著書の広告を新聞で見かけたとき、すぐさま書店にかけつけた、その楽しくはずんだ心は察していただけることと思います。
ところが、息もつかず読みふけってゆくうちに、わたしは深い疑惑と憂欝の中に、いや応なくひきずりこまれてゆくほかありませんでした。なぜなら、あなたは肝心の解決篇たる第十八章「これぞ真の女王の国」で、二つの解決のポイントをあげておられます。
「・・・残った二つの問題は、不弥国と邪馬台国の距離、そして『陸行、水行』の謎、この二つを合理的に解決できればいいわけだね?」これがあなたの投げかけた問いです。
そしてそれに対する解決方法の骨子は、左の四点でした。
(1).「水行十日・陸行一月」は帯方郡治(ソウル付近)から女王国までにかかった日数だ。
(2).帯方郡西海岸は水行、韓国内部は陸行だ(東南方向のジグザグ行路)。
(3).「一万二千余里」と「水行十日・陸行一月」は同一行路を指している。
(4).不弥国は女王国と相接している。
このあなたの回答に対して、ワトスン(シャーロック・ホームズの相手)役の松下研三氏は、次のような大げさな讃辞を献げています。
「おそれ入りました。神津先生・・・」研三は椅子から立ち上がって頭を下げた。「たしかにコロンブスの卵です。言われてみればそのとおり、どうしていままでの研究家がそこに気がつかなかったか、ふしぎでたまらないくらいですよ」・・・「まったくあなたという人は・・・毎度のことですが、完全に舌をまきました。あんまりショックが大きいんで、何とも言えないくらいですよ」・・・何だか頭がしびれてきた。眼尻があつくなってきた。芳醇なワインにでも酔ったような気持ちがしたのだった。・・・
これを読んでいるうちに、わたしは芳醇なワインどころか、メチル入りのカストリ酒を飲んだときのように気分が悪くなってくるのをどうしようもありませんでした。
その理由は、 ーーあなたには、言わずともおわかりでしょう。ーー この四点、いずれもわたしが『「邪馬台国」はなかった』の中で力説した論証そのものだからです。
もちろん微細なちがいはあります。たとえば ーーあとで詳しくのべますがーー あなたが「余里」一割五分と想定し「総計一万一二千里」のつじつまをあわせた点などです。(わたしの場合は、島めぐり読法。)
けれども、それはいわば「部分的差異」です。「論理の根本」と「論理の全体」は、わたしの明らかにした右の四点そのまま、まったく模倣されきっていたのです。
それなのに、「今までの研究家がそこに気がつかなかったか、ふしぎでたまらない」とは、いったい何でしょう。その上、「コロンブスの卵」とは!
わたしはまじまじとこの活字を見つめ、深いためいきをつくほかありませんでした。
二
それでもわたしは、何とかして神津さんを“唾棄(だき)すべき盗作者”とは、見なしたくありませんでした。誰でも、自分の「初恋の人」が長い歳月ののち、やり手ばばあの奸智にたけた姿で現れるのを正視したくはないでしょう。そういう心理でした。
そこで、これは神津さんがわたしの本とわたしの論証をまったく知らずにいて、偶然同じアイデアを思いつかれたのではないか。もしかしたら執筆者の高木さんも、出版社の方も、方法上同じわたしの説が先行していることを知られなかったのではないか。そう考えてみようとしたのです。
けれども、読みかえすうち、これを「偶然の一致」と見なすことは、到底できない。神津さんはわたしの本を見ている。少なくとも、わたしの解説の全体を知っている。 ーー悲しいことですが、とうとうそういう結論に至るほかはなかったのです。念のため、その理由をあげます。
(一).最初(第三章三二ページ)に「邪馬壹国」と「邪馬臺国」のちがいについて論じてあります。わたしが「邪馬壹国」の論文を発表したのは、四年前ですし、『「邪馬台国」はなかった』の出版は二年前のことです。それぞれ、『読売新聞」(昭和四十四年十一月十二日)や『週刊現代』(昭和四十七年二月十七日号)・『週刊言論』(昭和四十七年一月二十八日号)等にかなりの分量の記事が出ました。(別に、書評も各所に出ています。)ですから、執筆者の高木さんや出版社の方々がこれをいっさいお知りにならなかったとは、まず、考えにくいでしょう。
その上、この本(『邪馬台国の秘密』)の表紙には「壱」という字だけを大きく浮き出させてあります。これも、原文「邪馬壹(壱)国」が正しいとするわたしの説を装順者が意識している証拠と、わたしには見えます。
神津さん、ハッキリ言いましょう。あなたはこれらの人々に“「古田説」を知らない”ふりをさせられているようですね!
(二).第五章(五八ぺージ)で従来の九州説の「邪馬台国」候補地が十個あげられている最後に、
(10) 筑前博多(はかた) 福岡県福岡市付近
とハッキリあります。つまり、“博多説が最新の説だ”と見なされているのです。博多説というのは、今のところ、わたし以外に見当たりませんから、ここからわたしの説が明白に登場させられているのです。
(三).さらに末尾の第一八章(一八七〜一八九ぺージ)に、当の博多説に対するあなたの反駁が、三ページにわたってのべられています。(これはこの本ではかなり珍しい、多量の「反論」です。)ここでも、あなたがわたしの説を実際には“強く意識させられている”証拠がありありとしめされているのです。
以上、わたしの発想の出発点たる(A)「邪馬壹国」という中心国名、(B)わたしの論理進行上の四点の主柱、(C)わたしの博多という帰着点、 ーーこの三点ともにとりあげられているのです。つまり、わたしの説の首尾・骨格という、全体が明記されていることになります。
さらに見かえしてゆくうち、この本の中には随所にわたしの本からの「借用」の跡がとどめられているのに目をふさぐことができなくなりました。その二、三の例をあげさせていただきます。
「倭人伝」の中の年齢記載が一年に二回歳をとる、という一年二倍説によっているのではないか、とあなたが説き、「このあざやかな推論に、研三(ワトスン役の松下氏 ーー古田注)は最初からぶちのめされたような気がしたのだった」(四二ぺージ)とありますが、この問題は「二倍年暦」として、安本美典氏を受けてわたしが二つの本に詳述し、展開したテーマです。何が「たしかにいままでの学者たちに見られないような新鮮さと柔軟さ」(松下氏の讃美)でしょうか。
また韓国内陸行を魏使の「デモストレーション」(一九一ぺージ)と称するなど、わたしの使った表現そのままですし、さらに従来の地名あて(地名比定)の方法のあやまりを説くために、中心国名の改称された例として「江戸 → 東京」の例をあげておられるのも、わたしの説をすなおにうけついでおられますね。このように、特異な例から通常の例まで、よくもこれだけ再録して下さったという感じです。
東京大学の法医学教授である神津先生に、無位無職の野人たるわたしの説がこのように注目され、「利用」されるとは、まさに“光栄の至り”というべきでしょう。
が、このような事実から見ると、神津先生の“空前の創意”として絶讃されている先の四点は、やはり、わたしの説からの「無断盗用」である。 ーーまことに“胸を傷ましめる”事実なのですが、人間の平明な理性に従う限り、わたしにはそう結論するほかはなくなってしまったのです。
三
“待てよ!”わたしはまだ未練がましく考えました。“この表紙には、「長編推理小説」と銘打ってある。すると、登場人物と執筆者とは必ずしも同一の立場ではない。 ーーこれは小説観賞のイロハだ。とすると、高木彬光氏はわざと神津さんに「盗作」させたのではないだろうか”と。
わたしには、にがい経験があります。三十代のはじめ、親鸞(しんらん)研究の論文を次々と発表しはじめていたある日、当時、京都市内の北白川に住んでいたわたしの家に、一人の訪問客があったのです。ある大学の助教授でした。彼は、何で来たのかといぶかるわたしに向かって、わたしの論文をほめちぎり、今どんな研究をしているのか、と聞くのです。わたしは「知己の言」としてこれを喜び、現在自分のとりくんでいる問題と論証の要点を語ったのです。にこやかにその人の辞し去ったあと、やがて発表された彼の論文には、わたしの語った内容がそのままのせられていたのです。わたしは自分の目を疑いました。しかし、その後の学会で彼がわたしの目を避けるようにして挙動するのを見たとき、わたしは彼の「犯意」を確認しました。彼は今はレッキとした大学教授に昇格しています。ある人に聞くと、学界ではこれに類したことは“珍しくない”のだ、と言います。
わたしが考えついたのはこうです。“高木彬光氏は神津さんをわざと「盗作しながら、平然と自分の発想として語る背徳の背徳の学者として描いたのではなかろうか”と。すると、高木氏は実は辛辣(しんらつ)で鋭い作家なのではあるまいか。自分の大事な登場人物を一転して本質的に「堕落し切った学者」として描き去る。そしてそれに気つかないいっさいの読者をひそかにかげで冷笑している。アンドレ・ジイドの『狭き門』について、そんな解釈を聞いたことがあります。きっと高木氏もその類の卓抜した大推理作家なのだろう。それでなければ、高木氏ともあろう人がいくら何でもこんな見えすいた「盗作」をするはずがないではないか。(現にこのごろは、わたしの知った人から、高木氏の「盗作の犯意」についての疑いをしばしば聞かされるようになっていたのです。)
こう思いついてから、わたしは心が安まり、この“ひっくりかえし”の解釈にいささか「得意」にさえなっていたのですが、ある日、この本の表紙裏に「著者のことば」がついているのに気づき、再びうちのめされてしまいました。そこには次のように書かれていたのです。
この問題を解く唯一の鍵、『魏志倭人伝』の原文に一字の修正をほどこさず、中学生にもわかる明快、科学的な論理でこの難題を解明した前人は皆無である。私は今、この厳正な方法で「永遠の謎」に挑戦した。おそらく謎の女王国はこの地点以外には求め得られないだろう。
明らかに高木氏は、自分の推理と神津教授の推理とを等号で結んでいる。残念ながら、わたしの買いかぶったほど、氏は鋭利な作家ではなかったようです。
四
事実がハッキリした今、わたしはいっさいの未練を捨て、新しい問題にとりくもうと思います。それは、わたしとあなたとの「差異点」についての検証です。
あなたがわたしの根本の解読の論理を「無断借用」しながら、別の地点(宇佐)に行き着かれた、その理由を今は吟味する時なのです。
第一に例の「黄道修正説」。“古代中国人にとっての「方角」とは、春分・秋分の日に太陽の出てくるときを真東と考えたものだ。これは現代の磁石で計る真東から二三度二七分(約二三度三〇分)だけ北にずれている。”この説が「科学に立脚」する「万人の認め得る修止」と称され、全篇各所にくりかえし強調されています。これこそ「神津先生の創意」と呼びたいところですが、実はこれにも先行者があります。野津清氏の『邪馬台国物語』(雄山閣刊、昭和四十五年)がそれです。くだくだしい説明より次の図(同書三九ぺージ)を見れば一目瞭然です。けれども、あなたがこの本を見ていた、という証明がありませんから、今は一応「偶然の一致」としておきましょう。(注)
わたしはこの本の出る前から、当時佐世保税関支署監視船“あさぎり”の船長だった野津さんの文通をえていましたから、当然この説に当面していたわけです。しかし、中国側の史書の方角記事に次々と当たってみた結果、この見地を否定せざるをえぬこととなりました。今は煩(はん)を避け、もっとも典型的な例をあげましょう。それは「後漢書志」(梁の劉昭註)です。ここには各郡治の項に「首都洛陽からの方角」が書いてあります。これを今、(A) 東西南北の大方向(四分法)と、(B) 東北・東南といった小方向(八分法)とに分けて図示してみます(下図)。
A) では、「東、海に漸り、西、流沙に被(およ)ぶ」という古い成句のように、西側の山地部を「西」と表現し、東側の海岸部を「東」と表現する、という古典的な表記が守られています。
これに対し、(B) では「文字通りの方角」です。より新しい時点での記載法と見られます。全体として劉昭は、執筆時点の梁でなく、執筆対象の後漢を基準にした表記を行なっています。それは原点〈首都〉が建康〈南京、梁の都〉ではなく、洛陽〈後漢の都〉であること、そこに記された里数値が後漢の里単位にもとづくものであること、この二点からわかります。
今問題にすべきは (B)図です。次の二点が注目されます。
(一).「東北」の諸点の分布が、今日の方角基準に合致していること。
(二). 〈a〉(西北 一個)と〈b〉(西南 一個)の二点から見ると、東西の基準線は洛陽と右の二点の中間を結んだ線上、つまりほぽ黄河にそった一線上にある、と考えられる。すなわち、今日の方角基準に合致していること。
つまり、いずれから見ても、「二三度二七分のズレ」説は成立できない。これが結論です。
ところが、神津さん、あなたは「方法論の革命」とまで書かれているこの説を、『邪馬台国の秘密』の第二十七版目から「ミス」として認められたのですね。(サンケイ新聞〈昭和四十九年二月二日〉
もちろん、誰にでも“思いちがい”はあります。ですから、それを責めるつもりはありませんし、むしろそれをいさぎよくミスと認められたあなたに、“さすが! 神津さん”と言いたいところです。
しかし、問題は終わっていない、とわたとは見えます。なぜなら、法医学者である神津さんの本当のミスは、「黄道修正説」という“アイデア”を中国史書の豊富な実例の前にさらして検証しなかった、その一点にあるのではないでしょうか。
神津さんは「科学」という言葉を連発してたてにしておられます。しかし「科学」とは、“みずから提起したアイデアに対する、あくなき検証”です。「結果」ではなく、その「方法」こそが科学の生命なのではないでしょうか。
神津さん、あなたが「法医学の専門家」と称する科学者でしたら、“検証なきアイデアを「科学」と称して公表したこと” ーーそれこそ、「思いちがい」以上に真にみずから恥ずべきことだったのではないでしょうか。
もっとも、わたしは神津さんとは異なり、「科学者」や「専門家」自称する者ではありません。ただ一介の素人です。そしていつもそうありたいと思っています。ですからこれこそ、普通の人間のつつしみとして、“自分のいだいたアイデアを検証せずに誇示する”ようなこと、それをキッパリと自分に拒否しているにすぎないのです。
五
次の問題に入らせていただきましょう。
「宗像(むなかた)上陸説」です。これこそあなたの“創意”だ。今、わたしにはそう見えています。だから正面から批判させていただきます。
通常の説は(わたしも含めて)唐津(からつ)をふくむ東松浦半島を魏使の九州本土上陸の第一歩の地と考えています。ところが、あなたは“独創的”にも宗像に上陸することとされたのです。その根拠としてあなたは次のように言っておられます。
「・・・もう一度言うが、あそこの原文には方位方角の指定はなかったんだ」(一四七ぺージ)
つまり、「壱岐(いき)→末盧(まつろ)国」の場合、方角指定はないから、「千余里」という距離さえ満足させれば、真東にあたる「壱岐→神湊(こうのみなと 宗像)」という航路をとってもいいのだ、といわれるのです。
これは、失礼ながら、「倭人伝」の文面に対するまったくの不注意です。「対海国」(対馬、南島)と「一大国」(壱岐)の二個所とも、「南北に市糴(てき)す」の一句があります。“島内”のことでしたら、南北にだけ市糴(物資の交流)する、というのは道理にあいません。ですから、これはこの両島を二つの中間点にして、「狗邪韓国→末盧国」の間が「南北の交通路」として周知の主要交易幹線路だったことをのべているのです。
このような周知の通路だったからこそ、末盧国以降のような「方角指示」は省かれているのです。否、明記された二つの「南北市糴」という方角指示との重複を避けたというべきでしょう。(「対海国」と「一大国」との間の「南」の「瀚海」の位置指定ですから、両島間の方角支持はありません。)
ですから「一大国」の項に「南北市糴」として方角が明示されているのに、これを無視して“真東に航路をとる”などということは、許されることではありません。たとえ「狗邪韓国 ー 神湊」を一直線で結べば、大方向(四分法)では南北だ、と強弁してみたところで、「一大国」の一点から「真東」に転ずるものを、その当の個所で、「南北 ーー」と指示することなど、到底無理な相談です。
また、あなたは『日本書紀』の「海北道中(うみきたのみちなか)」(神代第六段、第一・三、一書)を右のルート(狗邪韓国 ーー 対馬 ーー 壱岐 ーー 神湊)が古代航路として著名だった例のように書いておられますが、一四七ぺージ)、そんな証拠は『日本書紀』のどこにあるのでしょう。宗像神社の遠つ宮、中つ宮、辺つ宮に当たる記事が第二、一書に出ていますから、この沖の島経由ルートについてはよく説かれる所です。これに反し、あなたが自分の想定されたルートを、“『日本書紀』に固有名詞を残すような、特定の航路”などと言われるのは、これこそあなたの「創作」と言われてもしようがないのではないでしょうか。
(もちろん、舟が時あってこのような航路をとることが不可能だ、とわたしは言っているのではありません。このコースについて“「海北道」という古代航路が厳存したのだ”と称しておられることに対して異議を提出しているのです。)
明白な方向指示を無視された上、「周知の特定航路」まで“創作”し、「完全に頭の下がる思いだった」と松下ワトスン氏に言わせる。 ーーわたしとしては、微苦笑するほかはありませんでした。
六
つぎに問題としたいのは、“地名比定の無視”というあなたの方法です。これはわたしが強調した“地名比定を先としない”という方法の一層の「純化」ともいうべき立場です。
つまり、「末盧ー松浦」「伊都ー糸(恰土)」といった、地名の類縁関係を一擲(いってき)するところに、あなたの方法の“徹底性”があります。けれども、わたしにはあなたの方法が正しいとは思われません。その理由を申しましょう。
従来の研究(ことに近畿説と、九州説中の中心となった山門説)は、「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と書き直し、それを「ヤマト」と読むことを出発点としていました。いいかえれば、近畿の「大和」か九州の「山門」かという、いずれかの終着点がまずきまっていたのです。
こういうやり方のもつ意味を、魏使行路の解読の「方法」として吟味してみましょう。
(1) 狗邪韓国 ー(2) 対海国 ー(3) 一大国 ー(4) 末盧国 ー(5) 伊都国 ー(6) 奴国 ー(7) 不弥国 ー(8) 投馬国 ー(9) 邪馬台国
右の各地点決定において、ある一点から次の地点を選択する場合、今かりに平均三個の選択の「可能性」があるとしましょう。すると、全八区間ですからルート選択の可能性は、(3の8乗)すなわち六五六一通りとなります。(2の8乗)なら二五六通りです。
(3の8乗)と(2の8乗)は数式を表示できないので変更しました。
これらのおびただしい可能性の中からまず「地名比定」によって終着点をきめておいてから、それに合うように途中の行路を読解してゆく。ここに従来の方法の根本の無理があったのです。ですから、このような最終地点の「地名比定」を先とする方法をわたしは非としたのです。
しかし、具体的に「一大国→末盧国」の場合は、これとちがいます。なぜなら「一大国=壱岐」は先ずまちがいはありません。ですから、そこから「千余里」の地点を求めるさい、二つか三つの可能性の中でなら、「末盧国 ー 松浦」という地名の類縁関係は、無視できぬ一つの要素となりうるでしょう。ですから、わたしは松浦湾の唐津港にそれを求めたのです。(唐津という地名は、朝鮮半島側の加羅、韓〈から〉との交通路の起点となったことをしめしています。)
次にその唐津から「五百里」の伊都国の場合、やはり二つか三つの可能性の中の一つとしての「伊都 ーー 糸(恰土)」の地名類縁は、これが特異な地名であるだけに、無視することはできません。(方角については「道しるべ読法」による。『「邪馬台国」はなかった』二六三ぺージ参照。)
これがわたしの理路です。これに対し、“地名のいちじるしい類縁性をはじめからいっさい無視する”という、あなたの方法は一見、わたしの方法を“徹底”させたかに見えてかえって実地の道理に反している。わたしにはそう見えるのです。
七
つぎは「季節」の問題です。あなたは魏使が来たのを夏とし、「草木茂盛して、行くに前人を見ず」の一句を証拠にあげておられます。女流推理作家の夏樹静子さんの名前がヒントになったそうですが、魏使「夏」到来説は、すでに多くの先行説があります(たとえば久保泉『邪馬台国の所在とゆくえ』丸ノ内出版刊、昭和四十五年)。けれども、ここから「倭人伝」に書かれている行路は、夏の行路・夏の海路だ、とするあなたの方法には、わたしはうなずけません。なぜなら、伊都国の項に、
郡使の往来常に駐まる所なり。
とありますように、陳寿の執筆時点(呉の滅亡の二八○年以降、陳寿の死んだ二九七年以前)たる西晋代では郡使が女王国に来ることは珍しくない「常態」になっていたのです。ですから、倭国の風物については第一回の来倭(正始元年、二四〇)のさいの“夏の風物叙事”に従ったとしても、四、五十年のちまで、依然夏の行路しか知らなかった、と限定することは、かなり無理です。
ですから、第二十七版以降で「黄道修正説」のミスを認めたあと、松下ワトスン氏が「魏使たちがやって来たのが夏だとしたら、そして、彼らが太陽の出る方向が東だとすなおに思っていたとしたら、『黄道修正説』にしても、曲がりなりに成立はしますねえ」(一八一ページ)と言い、あなたの賛成を求めていますが、これは無理な“苦肉のこじつけ”と言うほかないようです。
八
最後は「余里」問題です。その骨子は次のようです(一八三〜一八六ぺージ)。
(1).「余里」を「一割五分」と見なす。
(2).「七千余里」(帯方郡治 ーー 狗邪韓国)と三個の「千余里」(狗邪韓国 ーー 末盧国間の三海路)の計一万里。
(3).その「一万里」の「一割五分」として「千五百里」を算出。
(4).右の「一万里」と「千五百里」に加うるに「七百里」(末盧 ーー 不弥国、五百里・百里・百里)、その総計一万二千二百里。
(5).これを「一万二千余里」と表記。
こういう算出方法なのですね。この説はあなたの“創唱”部分としてまことに貴重ですが、吟味させていただきましょう。
第一、『三国志』全体で「余里」は原則として「一割五分」として算定されているか。
第二、「万二千二百里=万二千余里」の方は「余里=一分七里弱」にすぎない。では『三国志』全体の中で果たしてこのような二つの「余里」(一割五分と一分七厘弱)が使い分けされているか。
この二つの検証とも、あなたは欠いておられます。やはり“検証抜きのアイデア”です。そして遺憾ながら、『三国志』の全体を検証しても、右の二点とも、その証拠はまったく存在しないのです。
それだけではありません。松下ワトソン氏こそこのアイデアに対して「愕然としてしまって、開いた口がふさがらないような思いだった」と手ばなしですが、実はここには巨大な落とし穴がポッカリと口をあけているのをわたしは見てしまったのです。
ほかでもありません。問題の「干五百里」はじき出しの財源は「一万里」です。そしてその中の「大口財源」は例の「七千余里」ですね。この「余里」を「一割五分」となさったのですが、それは具体的には何里のことでしょう。
7000 × 0.15 =1050(里)ですから、
七千余里=七千里プラス千五十里=八千五十里
となります。神津さん、考えてもごらんなさい。「七千余里」というとき、この「余里」は当然「千里未満」のはずです(普通三、四百里前後)。それなのに“八千里をオーバーする数”を「七千余里」と書くなんて!
神津さん、自然科学者ともあろうあなたが、こんな計算でつじつまをあわせるなんて、あまりといえばあまり、ひどすぎるじゃありませんか。これで「たしかに中学生の頭なら完全に理解できるような、単純でしかも明確な合理的解答に違いなかったのだ・・・」(一八六ぺージ)とは! これでは中学生が笑い出しはしませんでしょうか。
ガラガラと作為のソロバン玉の崩れゆく音がわたしには今聞こえているのですが、神津さん、あなたには聞こえませんか?
九
さて、あたたの方がわたしに加えられた反駁に直接お答えするときがきました。もっとも、依然わたしの名前も本の名も匿名にして、“あなたの脳裏に浮かんだ博多説”を消去する、という形式をとっておられ榎一雄・原田大六・宮崎康平、こういった人たちに対しては、人名はもちろん、時には本の名まで出して反駁されていたのに、わたしに対する、うってかわったこの差別待遇。これは何でしょう? まあ、それは先に論じたところ(盗用)から容易に察しのつくところですから、今は本題に入りましょう。
第一、「女王国の東、海を渡ること千余里にして復国有り。皆倭種なり」について。
この文に対し、あなたは「博多から、たえず一方に陸地を見ながら、海岸ぞいに航海して行って、どうにか目的地にたどりついたというような感じにはうけとれないんだがね」と言われます。
たしかに「倭人伝」の中では、「渡海」という言葉は、「狗邪韓国→対海国」「対海国→一大国」三大国→末盧国」の三個所に出てきます。ですから、「博多→下関」間の海路というような“大部分陸地ぞいのコース”をしめす表現としては不適当だ、とも見えるでしょう。では、次の例を御覧下さい。
(1).遼東の東沓(とう)県の吏民、海を渡る(渡海)を以て、斉郡の界に居す。 (魏志四)
(2).会(たまたま) 呉賊(孫権)・使を遣わし淵(公孫淵)と相結ぶ。帝(明帝)、賊衆多きを以て、又海渡る(渡海)を以て・・・。 (魏志二十六)
(1).では遼東郡西部の遼河付近(沓県)の住民が黄河河口付近(青州と翼州の境)に大挙海路移民してきた事件について、「渡海」と、表現しています。これは当然、西側、陸地ぞいのコースです。
(2).でも、呉(揚子江河口)から遼東半島に至るコースを「渡海」と表現しています。これも西側は陸地ぞいのコースです。この呉船は還るとき、「船皆、山に触れて沈没し、波蕩、岸に著き」、ことごとく魏側の捕虜になったと記されています。
以上によって、「渡海」の表現が「陸地ぞいのコース」にはふさわしくないのではないか、というあなたの疑問が実は当をえていないことが証明されます。ここは「文学的センス」(松下氏の讃辞)の間題ではなく、冷静な実例に対する検証の問題なのです。科学の専門家であるあなたのために、ここでもわたしは惜しまざるをえません。
第二、「女王国より以北は其の戸数、道里を略載するを得(う)べきも、其の余の旁国は遠絶にして詳(つまび)らかにすることを得べからず。」
これに対してあなたはつぎのように言っておられます。「いったい、邪馬台国が博多付近としたならば、その以北というのはどこにあるんだ? 仮に『黄道修正説』を持ち出しても、北から西北にかけては海しかないんだよし・・・「博多 ーー 邪馬台説をとるのは、こういうふうに、『倭人伝』と相いれないところが出てくるんだよ」(一八九ぺージ)。
右の文章には、博多説の“致命傷がここにある!”といった口吻が感じられて、わたしには興味深いのですが、以下吟味させていただきましょう。
第一。「以北」という場合、それは「大方向」(四分法)か「小方向」(八分法)か、それが問題です。「以東北」とか「以東南」とかいう表現が存在しないことからも分かるように、当然、それは「大方向」(四分法)の表記なのです。
第二。「自二女王一以北」、この「自(より)」の語がしめすように、これはこれまでの行路記事をうけています。つまり、この文句は「狗邪韓国 ーー 女王国」間の行路の国のすべてを指すのです。
ーー「投馬国」
〈南北ー〉〈南北ー〉〈東南陸行〉〈東行〉| 〈南〉
狗邪韓国ー 対海国ー 一大国ー 末盧国ー 伊都国ー 不弥国ー 邪馬壹国
|
〈東南〉ーー「奴国
右のいずれも、「南」もしくは「東南」の方向へたどってきたのですから、それらを総称して大方向で「以北」と表現するに何の不思議もありません。なお厳密に検査すると、右のうち「狗邪韓国」と「投馬国」は(必要にして十分には)入っていない、といえます。なぜなら、「狗邪韓国」は「戸数」の記載なく、「投馬国」は(日数だけで)「道里」の記載がないからです。“女王国より以北は、其の戸数や道里の類は略載できた”と言っていると解すれば一応入りましょう。(ただ女王国に至る「一万二千余里」の総計にも、「投馬国への道里」は入っていません。)
こうしてみると、「以北」を“真北”の意味にとって、(「黄道修正説」など、失礼ながら今や問題外です)“博多の真北には国はない”と言って、反論だと思っていらっしゃるのは、明敏な神津さんともあろう人が、いったいどうしたことでしょう。
さらに問題をきりこみましょう。この陳寿の一文は、果たして“行路文をうけた用文”というにすぎないのでしょうか。果たして実際の地図上に、根拠をもたないでしょうか。
博多湾岸の中心地として漢代以来栄えてきた跡の歴然としている須玖遺跡付近(春日市)を、原点として、東西線を引いてみましょう。それは、ほぼ唐津湾付近の線となります。またこの原点(を通る南北線)以東は、(わたしの解読では)行路文の終着点の彼方ですから省かれます。(上図参照)
この区画内には、先の行路文の国々(投馬国を除く)が見事にふくまれているのです。つまり、この「女王国以北」の一語は、「行路文の国々」が位置する、実際の地図上の範囲を見事に指定しているのです。ここでも、わたしは実地の報告の上に立った陳寿の正確さに脱帽するほかはありません。
これに対し、あなたの宇佐説の場合はどうでしょう。文章上の「行路文の国々」がふくまれることは、当然同じことですが、問題は「地図上の範囲」です。
無論、末盧国(神湊 ーー 宗像)から不弥国(豊前長洲)までは入っています。ところが、同時に志賀島や福岡市周辺や糸島郡や唐津付近も、当然入ってくるのです。
金印やおびただしい銅鏡(いわゆる「漢式鏡」)を出土して、中国との密接な関係をありありとしめしている、これらの地域が地図上の「以北」の範囲の中にハッキリ入っていながら、「遠絶にして詳らかにすることを得べからず」とは、どうしたことでしょう! “甕棺(かめかん)の大海”ともいうべき春日市より福岡市域。それはここにおびただしい人口が集中していたことをありありと物語っています。九州随一の密集地域です。その上、宇佐よりはるかに中国や朝鮮半島に近い。それを「遠絶」と称して等閑視するとは!
どうです、神津さん!どうやら、あなたはわたしの首をしめようとして、あやまって自分自身の首をしめてしまわれたようですね。その上、わたしの福岡市周辺説が唯一の正解であることをあらためて証明しなおして下さったようです。
神津さん、昔なじみのあなたに今は感謝させていただきましょう。
十
最後に言わせていただきたいのは、あなたや高木彬光氏がくりかえし使われている「原文に一字の修正もほどこさず」(「著者のことば」)の類の謳(うた)い文句です。これも、わたしの力説した原則の“真似”のように見えますが、あなたの場合、三つの違反点があります。
第一は、中心国名「邪馬台国」です。右の一句を看板にするのなら、「目くじらをたてる必要もない」(三三ぺージ)などとゴマかさずに、ハッキリ「邪馬壹国の秘密」とすべきでしょう。失礼な臆測ですが、わたしとの“伏せられた関係”が表に出すぎてまずいのでしょうか。それなら、あんな看板はおはずしなさい。
第二は、「景初三年六月」(二八ぺージ)。『三国志』の版本中、どこにこんな原文がありましょう。誤植かもしれませんから、指摘だけにとどめます。
第三は、「会稽東治(とうや)の東」(二五ぺージ)。字面をそのままにして、読みは「東冶」に変える。これで「一字の修正もほどこさず」とは、恐れ入ったものです。この伝(でん)なら、「邪馬壹(やまと)」「陸行一月(いちにち)」といった手口も、“原文のまま”ということになってしまいそうですね。この修止記事をあなたは現に「方角のズレ」(黄道修正説)の立証に使っておられます(三四〜四〇ぺージ)から、あなたが建てられた、
一・・・『魏志・倭人伝』の重要部分には、いっさい改訂を加えないこと、万一改訂を必要とするときは、万人が納得できるだけの理論を大前提として採用すること。(一四ぺージ)
という第一の大原則をみずから土足でふみにじっていることになりますよ。一種やりきれない思いをこらえて言うのですが、貼ったラベルが中身とあまりズレていると、「不当表示」の嫌疑をうけはしませんか? 神津さん!
十一
縷々(るる)つづらせていただいたこの失礼な手紙も、終わりに近づきました。
あなたの本が、わたしからの「無断拝借」部分と、「黄道のミス」部分と、“成立不可能な宗像上陸説や「余里」算出説”との三者から成っている。それを明らかにすることとなったとは、とんだ「ロースト・ラブレター」となってしまったものです。
しかし、わたしは今、『古事記』『日本書紀』の探究にうちこんでいます。昨秋以来、新発見に追われる朝夕をむかえてきました。
神津さん、聞けばあなたも同じこの二つの本にとりくんでおられるそうではありませんか。どうです、今度こそ“盗作めいた手口”ではなく、フェアな探究で、競争してみようじゃありませんか。潔癖だった青年のあなたが、こんな姿で現れたままでは、やり切れない、一抹の無念さをわたしは今も胸に抱いているのですから。
注
わたし自身も、自分が「発見」したつもりだったアイデア(島めぐり読法)に先行者(津堅房明・房弘氏「邪馬台国への道 ーーその地理的考察ーー」上・下、『歴史地理』91-3・4、昭和四十一年)のおられたことを、わたしの本の出版後、御本人からのお便りをいただいて知り、驚いた経験があります。
両氏の場合、唐津より有明海に出て、九州南岸・瀬戸内海内部通過ののち、近畿大和を終点とするコースとして読解されています。けれども、一部分にせよ、わたしと同じアイデアをわたしに先んじて見出しておられた方にお会いできたのは、わたしにとって無上の喜びでした。(氏の方から御訪問いただき、楽しい半日をすごしました。)
一九七四年三月末稿
古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
『邪馬壹国の論理』ー古代に真実を求めてー
敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第四回(なかった第四号)へ
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