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古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 III 『わたしひとりの親鸞』 明石書店
3 人はいかに生きるか
アヘンの問い
アヘンと反アヘン
これも旧版 『わたしひとりの親鸞』(毎日新聞社)です。
第一部 わたしひとりの親鸞
根本の動機
なぜ、わたしは親鸞を愛し、これを生涯求めつづけてきたか。その一番根本の動機は何か。
ーそのようなことは、普通、人の前であからさまに語るべきことではないように思われます。
それは人間の心という広大な世界の中の奥底にそっとしまっておくような、いわばその人固有の秘密。そこから当人のすべての模索ははじまっている。それは確かにしても、そのことを当人自身が外界の明るみへとひき出そうとする。そのようなことは身のほど知らずの試みなのかもしれません。
それに、もしわたしが、あるいは生まれ落ちて以来、度はずれて数奇な境遇や体験を味わってきていたり、あるいは人並みならぬ肩書の、高邁な識見や修行の持主だったとしたら、そういったわたしの語る「内心」は、それこそ万人の傾聴に値いするものだとも言えましょう。
けれどもわたしは、全くそのようなものではありません。戦前から戦後にかけて過ごしてきた五十年余の生涯は、この時期を日本列島で生きた人間としては、格別変わったものではありまぜんでした。またいわゆる高邁な精神や識見など、かけらさえもちあわせていないことは、わたしが言いたてるまでもなくこの本自体が最上の証明となっています。
むしろ、わたしがここで語りたいこと、それは無上にありふれたことです。いわば誰にでも、心あたりのあること、その結論は、誰人にも何の疑いようもないことだと、わたしには思われます。
"では、何で今さら。" とおっしゃるでしょうが、五十年余をささやかに生きてきたわたしがふとあたりを見まわしてみたところ、その結論は世間の通念にはなっていないように見えました。この日本列島内部はもちろん、おそらく地球上の他のすべての地域においてもまた。
これはなぜだろう。わたしの頭脳の回転をささえる歯車のネジが、一本狂っているのだろうか。ーでもわたしは、平凡な市民生活を営む、あたりまえのひとりの人間です。
実は、わたしがこのような一種風変わりな記述をはじめよらと決心したのは、一つ、直接のきっかけ がありました。
昨年(一九七七)、わたしは五十歳から五十一歳でした。これは昔風の "数え" で言うと、五十二歳です。ところが、この「五十二歳」という年に気づいたとき、わたしはハッとしました。なぜなら、あの親鸞が終生のライフワークともいうべき主著、教行信証(きょうぎょうしんしょう)を書いたのは元仁元年(一二二四)、まさに彼が五十二歳のときだったからです。(もちろん、昔は、皆年齢は
"数え" でした。)
今までのわたしにとって、親鸞とは、はるか向うの高嶺(たかね)にいるような存在でした。その宗教思想はもちろん、さまざまの人生上の知恵においても、わたしよりはずっと年上の先輩、そういった感じで見てきました。これは十代の後半に接したときの印象、それがスーツとつづいていたようです。
誰にも経験がおありでしょう。小学校時代の先生や青年時代にかいま見た少女の姿が、現実の時間の進行とは別個に、各人の記憶のフィルムに焼きつけられる。あたかもこの世には、二つの時の流れがあるかのように。
あれとよく似た心理なのかもしれません。わたしにとって親鸞は、青年期における "初恋の人" でした。その姿はまさに "純粋に生きつづけた人生の達人"
として見えていました。年齢的にもはるか上、当然、そう見えていたのです。
その印象が、一つの固定観念となって、スーツと今までつづいてきていた。ーそうなのです。ですからその親鸞が、あの著述活動の絶頂期において、この今の自分と同年。そのことが信じられないような衝撃をわたしの内面に与えたのです。
わたしは二十代の模索をへて、三十代は親鸞の探究に没頭しました。それはすでに二つの著書(『親鸞ー人と思想』清水書院、『親鸞思想ーその史料批判』富山房)として世に問うています。またなぜこのような探究をはじめたかについては、ーここで言おうとしていることとは、別次元でですがーすでにのべ、他の本の中にも収録されています。(『わたしの親鸞』講演筆録、姫路)
けれども、それらはすべて、歴史上の人物として、親鸞を研究したのです。そしてわたしが青年時代のはじめのころ、いや少年時代の終わりといった方がふさわしいかもしれませんが、歎異抄(たんいしょう)にもられた親鸞の言葉にふれてうけた衝撃。このような言葉を発した人物は、本当にどんな人間だったのか。その人はあの古代末の鎌倉期初頭にどのような生き方をしていたのか。それをひとつひとつ、具体的な文献に当たって確かめてみようと思ったのです。
そしてそのさい、後代の本願寺教団の教義の中で作られた、後光(ごこう)にみちた「親鸞聖人(しょうに鎌倉期に生き死にした、ありていな一人の男の実像を確かめよう。これがわたしの探究にとって、基本のルールだったのです。
そしてその結果は、この上なくわたしを「満足」させてくれました。あの歎異抄にもられた言葉の数々、たとえば「わたしには弟子などひとりもいない。なぜなら皆、(仏の前で)対等な人間同士だから。」とか、「わたしはたとえ地獄に落ちてもいい。あの法然聖人と一緒なら。」といった言葉が、すべて抜きさしならぬ彼の表現。その生涯の苦悩と模索の中から生み出された告白であったことを、自分の掌の上でハッキリと確かめることができたのです。
"言葉とは、その人のいのちの光り輝く断片だ。" わたしは青年の日に、ある人からそう聞いたことがあります。まさに親鸞の言葉と親鸞の生涯とは、そのような関係にあった。それがわたしには十二分に認識できたのです。
・・・
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第二章 宗教の二面性
アヘンの問い
ここで筆を一転して、わたしの親鸞探究をささえてきた、もう一つの問いについて語らせていただきます。それは少年の.日の終わりに耳にした次の一語です。
ー「宗教はアヘンである。」
有名な、若きマルクスの言葉ですが、この一語にふれたとき、わたしの頭の中にクッキリした「?」が生まれました。 "あの歎異抄の中の親鸞の声は何だろう。あれがアヘンか"
と。
親鸞は言います。"わたしたちはみな対等な人間同士だ。だからわたしを師匠などと呼ぶな。" と。これは親鸞集団から離れていこうとする「弟子」があったとき、他の「弟子」たちが、当時の慣例に従って当の人物から
"かねて与えておいた、親鸞の名の入った聖教類" をとりあげようとしたとき、親鸞が言い切った言葉だ 、と他の文献(口伝鈔)に書かれています。そのとき「如来よりたまはりたる信心を我がもの顔にとりかへさんと申すにや。」と親鸞は言ったのです。
口伝鈔に書かれた "事情" はあとで知ったことですが、そのときはただ歎異抄だけ。だけですが、親鸞の息吹きは十分に伝わってきました。「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。」このように明晰(めいせき)な言葉が、果たして「アヘン」なのでしょうか。人間の理性が惑乱させられ、眠りこまぜられ、健全な人間の心の底をむしばんでしまう。ーそのような「アヘン」を人々にふきこむ言葉でしょうか。逆です。人間と人間の間の身分差別や師匠と弟子との間の峻別(しゅんべつ)、さらにすすんでは弟子に対する、師のもつ処分権、それらはすべて親鸞の時代の常識でした。その常識をそのまま社会体制化していたのが、古代末、いわゆる「中世」の社会構造だったのです。
これに対して親鸞がキッパリ言い切ったのが右の言葉です。言われた親鸞の周囲の人々は、ハッと驚いた。それは「アヘン」の眠りからさめさせられた衝撃ではなかったでしょうか。少なくとも
"眠りこませられる" 作用ではなかったはずです。こう考えてみると、マルクスの言葉に対して大きな「?」を感じざるをえなかったのです。
しかし一方、このマルクスの指摘そのものは無意味か。そう問われると一層ハッキリ「否!」と言わざるをえません。
わたしは子供の頃(生後八ヵ月以来)、広島県の呉市に住んでいました。瀬戸内海にのぞんだ美しい港町。軍港のあったところです。ここは「安芸門徒」と呼ばれる、真宗教団内でも有名な、熱烈な信者たちの多かった地帯です。わたしの家は他から父の勤務の都合で来ていただけなので、直接、いわゆる「安芸門徒」とのかかわりはなかったのですが、それでも
"京都から法主(ほっす)様が来られたげな。" (多分、広島市へでしょう。)というと、とたんにえらい騒ぎが伝わってきました。法主様が、あそこで風呂に入られたそうな。
"帰りんさったあと、みんな風呂の残り湯をちょっとずつ分けてもろうとるげな。" "えらい御利益(ごりやく)があるそうな。"
"何せ、親鸞聖人様の血を引いとられるんじゃ。あれほどえらい方が。大変なことじゃ。" "そう、めったにあることじゃないけんのう。"
こういった大人たちの会話が子供の耳にも伝わってきていたのです。五・一五、二・二六と次々に血なまぐさい事件が中央でおきていた頃。いや、中央だけではありません。わたしの小学一年のとき(呉市内の本通小学校と言いました。)、隣の組の担任の若い先生が突然生徒を置き去りにして「蒸発」してしまったのです。おかげで、わたしの組の担任の先生は
"二組分" 教えなければならぬはめになってふうふう言っておられました。何でも風のうわさに聞くところによると、東京の「血盟団」に入るために、
"教職を捨てた" そうな。そういった話がひそひそと伝わってきました。
そのような緊張した時代、 "法主様のお出(い)で" ともなると、大人たちはうってかわったように "幸福そうな"
顔になるのです。よく言えば "平和な" 、ハッキリ言えば "うつけた" 顔に。
わたしがそのような雰囲気から感じたもの、それはまさに「アヘン」、だったかもしれまぜん。軍国主義に直進しつつあった大日本帝国。その猛烈な現実をつかのまに忘れさせてくれる、
"ありがたい" 話だったのですから。しかも、その頃、本願寺教団の名で出されていたパンフレット・小冊子類には、 "当然"
のことながら戦争讃美の声がつらねられていました。そして親鸞聖人様こそ、護国の正法(しょうほう)の先覚者、として大々的に宣伝されつづけていたのです。 "法主様"
も、当然、そのような。パンフレットに "先駆け" されつつ入来(じゅらい)され、 "お風呂に入っておられた "
のです。
このような本願寺教団の体質に対し、「宗教はアヘンだ。」そう言うなら、それはあまりにも真実だ。誰人もこれに抗弁できないのではないか。わたしにはそう感じられたのです。
その後、大学に入って(十八歳)から、このような本願寺教団の体質が決して昨日や一昨日からのことでなかったことを知りました。江戸時代、農民から"生かさぬよう、殺さぬよう"
搾取し、収奪しつづける武士階級、その幕府統治の "手先" となって、 "今は苦しくても、念仏さえ唱えておれば、死んだらお浄土へ行ける。"
そういう "有難い" お説教で、農民たちの「魂」をあずかったのです。
これこそ、マルクスの憎んだ「アヘンとしての宗教」の真髄です。
"人間が生き生きとこの大地に両足で立ち、いかなる権威にも屈服せず、自由に考え、人間らしく世きる。そしてそれを不法におさえつけようとする権力に対しては、いのちをかけても闘いつづける。"
こういった、本当の意味で健全な人間を、若いマルクスは、人間の本質と考えました。
そしてそのような本来の「人間性」は、いかなる人々の内部にも、まぎれもなく存在しているにもかかわらず、それを眠りこませ、"ほうけ" させ、代わって来世を期待する「幻想」にあこがれさせて自己の理性を眠りこませる。ーそれが「アヘン」としての宗教の作用だ。マルクスはこう指摘したのです。
この宗教アヘン説は、いかにもジャーナリスティックな、華麗でけれん味にみちた表現ですが、右のような事実が現実に存在する限り、あくまでこの指摘は真実(リアル)であり、学問的ですらあります。大学の講座で、煩瑣(はんさ)で
"実証的" な、宗教学や宗教哲学の講述にふける教授方のぎょらぎょうしい論文より、ずっとこの一語の方が、 "表面の欺瞞を排し、内面の真実をえぐる。"
という、学問の本質にかなっているのです。若きマルクスの内心に根本的な影響を与えたもの、それはゲーテの「プロメトイス」と題する詩でした。
(「おれ」はプロメトイス。「お前」は、神々の主神、ゼウス。人間に火を与えたことによって、ゼウスの怒りをうけた、プロメトイスの独白の形をとる。)
おれがお前を崇(あが)めると思うか?
一体何のためだ?
お前はかつて一度でも、重荷を負(お)うた人間の苦悩を、
真実に和(やわ)らげ救ったことがある、とでも言うのか?
お前はかつて一度でも、不安に悶(もだ)える人間の涙を、
真実に静め医(いや)したことがある、とでも言うのか?
おれを一人前の男に鍛え上げたのは誰だ?
それは「全能の神」などではなく、
まさに "全能" なる「時」だ!
それに永遠の運命!
おれを支配し、お前をも支配するものなる、
波(か)の「時」と「運命」こそ、
このおれを
鍛え上げてくれたのではなかったのか?
お前は少しでも妄想してみたいのか?
おれがこの人間の世界を憎み、
彼方(かなた)荒野などに逃避するとでも。
ー人間の花盛りの時を夢みながら、
それが実(みの)らぬ、かとあきらめて。
ここにおれはしっかりと坐って
人間どもを形つくる、
おれの面(つら)がまえに似せて。
おれと同じように、
苦悩し、泣き叫び、
生命(いのち)を享楽し、歓喜にむせび、
決してお前を尊敬せぬ
そんな種族(やつら)に形づくる。
この、
おれのような、
人間どもに。
<末尾の四節。ー古田訳>
このような人間観、戦闘的反神論と呼ぶべき信条が、マルクス思想の誕生の秘密の故地だったのです。
(古田「近代法の論理と宗教の運命ー "信教の自由" の批判的考察」一九六四、金沢大学暁鳥賞受賞論文参照 『神の運命』明石書店所収)
マルクスは、もちろん日本の二十世紀の現実など知るよしもなかったのですが、ヨーロッパの中世以来、近代にいたるキリスト教単性社会の現実に対して発したこの一言は、あまりにもわたしの子供時代の「法主様」をとりまく現実をも剔抉(ていけつ)していたのです。
(一「キリスト教単性社会」とは、中世から近世にかけて宗教裁判と魔女審問で異教を排除しつくして、キリスト教のみを公的宗教とするに至ったヨーロッパ<及びアメリカ>社会を指す、わたしの造語。右論文に詳述。)
誰人がマルクスをののしり、マルクス思想を排撃しょうと、わたしはこのことを疑うことができません。
もしかりにわたしが "マルクス主義を非とする" 国是(こくぜ)の国ー戦前の日本もそうだったのですがーに生きていたとしても、いささかでもこの真実を否認する気は、全くありません。
アヘンと反アヘン
"しかし" と、わたしは考えました。"このような疑うべからざる事実をそれと認識するわたしの目、わたしの頭。それと同じ目と頭が感ずる。「歎異抄の中の親鸞の言葉は、『アヘン』ではない。」と。これはどうしたこと、だろう。一体、親鸞は「宗教者」ではないのか。
"けれども親鸞が代表的な宗教者のひとりであること、それを誰が疑うことができましょう。
そこでわたしは稚い自分のもった "感じ" が単なる錯覚なのかどうか、確かめてみよう。そう思ったのです。そう思ったのが、わたしが親鸞探究に向かった、もう一つの重要な動機でした。
その探究の結果は、先にものべたとおり、稚いわたしの感覚が "いつわり" でなかったことをしめしました。
「主上(しゅじょう)・臣下、法に背き、義に違(い)す。」(教行信証、後序)
の一節は、親鸞三十代末の文章だったのですが、親鸞はこれを九十歳の死に至るまで親鸞思想の眼目として守り抜きました。これを自己終生のよりどころとして決して撤回しようとしなかったのです。
また「領家(りょうけ)・地頭・名主(みょうしゅ)のひがごとすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。」(親鸞聖人御消息集、五)の一言には、親鸞が決して支配者たる「領家・地頭・名主」の走狗(そうく)にならなかったこと、逆に「百姓」に対して深い信頼をしめしていたことをズッシリと表明しています。親鸞は決して「百姓」を
"眠りこませ" ようとはしませんでした。逆に精神の内面に "自信をもたせ" 、 "覚醒させ"
ようとしました。やはり、親鸞の宗教の真髄は「アヘン」ではなかったのです。
では、同じ宗教でありながら、「アヘン」であるものと「アヘン」でないものと二通りある。これは一体、どうしたことでしょう。
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略
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