古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 III 『わたしひとりの親鸞』 明石書店
5 アリストテレス の転覆(てんぷく) 法然の意志
牢獄(ろうごく)の中から 親鸞閲歴 服部さんの面目 わたしの理解
これも旧版 『わたしひとりの親鸞』(毎日新聞社)です。
第二部親鸞思想の秘密をめぐって
I 親鸞探究者の群れー戦後の系譜
牢獄(ろうごく)の中から
戦後の親鸞探究は、牢獄の中からはじまった。ーこの一句からこの稿は書き出されねばならぬ、わたしはそうきめていました。
昭和二十年九月二十六日、三木清さんは治安維持法の名のもとに自由を奪われたまま獄中で死に、そのあとに遺稿「親鸞」が残されていました。
この小論文が戦後の親鸞探究の進展に点火する新しい光となった、そのことをわたしは忘れることができないのです。
翌年一月、「展望」創刊号にこの三木論文が掲載されるのを知ったとき、わたしはすぐ本屋にかけつけました。昭和二十年の八月、仙台から広島へ帰省したまま、原爆ー敗戦とつづく混乱の中で仙台の大学へ帰れないままになっていたのですが、その広島の焼跡にも、淀川あたりにバラックが再建され、その中の一軒の書店だったと思います。ーわたしの十九歳のことです。ですが、率直に言いますと、一気に読了したあと、何か
"がっかりした" ような印象をもったのを覚えています。期待が大きすぎたのかもしれません。
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この場合、問題のボイントは、学問の方法です。このような問題は、あくまで実証的に、親鸞文献、もしくは同時代文献の語法と用例の事実から帰納すべきです。これに代わって、論者の識見や、イデオロギーの立場から解釈したり、論断したりすべきものではありません。この点、それが封建時代以来の本願寺教団の教学にもとづこうと、三木さんのような近代的な哲学的識見にもとづこうと、「方法上のあやまり」としては全く同じなのです。
アリストテレスの転覆(てんぷく)
この点、わたしはまだお会いしたことのない、山内得立(とくりゅう)さんからうけた学恩を忘れることができません。
戦後の親鸞研究史上、逸すべからざる記念塔となった本に、『教行信証撰述(せんじゅつ)の研究』(慶華文化研究会編、百華苑、昭和二十九年九月刊)があります。
結城(ゆうき)令聞さんによって投ぜられた一石、「信巻別撰論」(のちに再びふれますが)をめぐって、その賛否両論の掲載された論文集です。その序文を対立の第三者たる山内得立さんが書いています。
そこで山内さんは、西洋哲学史上の有名な経験、ヴルネル・イエガーによって行われた "アリストテレスの転覆(てんぷく)" についてふれておられます。一八八八年生まれの若きイエガーの出した二著『アリストテレス形而上(けいじじょう)学の成立史の研究』(一九一二)、『アリストテレス』(一九二三)は、一夜にして一千年間のアリストテレス研究を一変させた、というのです。
二十代前半の彼は、アリストテレスの文体・語法の追跡にとりくみました。そして、それらが成立時期によってそれぞれ変移しているのをつきとめたのです。たとえば学説をしめすのに、「一人称複数」の形でしめされているもの(L篇)や、「一人称単数」の形でしめされているもの(Z篇)のように。
その結果、従来の中世以来の権威たちによる「神学」や近世以来の大家の哲学的識見で配列されていた荘厳な体系は、がらがらと崩壊しました。たとえば、従来「アリストテレス哲学の真髄」と信ぜられてきた神学篇(L篇)が、実はプラトンの影響下にあった初期の作品だと判明したり、逆に存在学篇(Z篇等)が後期の中心的な作品だったことが確認されたのです。
このような「イエガー経験」にかえりみて、山内さんは忠告したのです。 "親鸞の場合も、同じだ。哲学や思想や識見といった主観的要素から判断するのではなく、文体・語法といった客観的要素から問題を判断すべきではないか。"
と。
この適切な助言は、二十歳代末にあったわたしに強震を与えました。この序文の書かれたのは 昭和二十九年七月。ちうどこの年の三月、わたしは六年間の信州における教師生活に終止符をうち、未明の明日を模索しつつ、神戸へひとり出てきたところだったのです。
話をもどしましょう。三木さんは大正十一年ドイツに留学し、ハイデルベルクの大学でリッケルトやホフマンに、マールブルク大学でハイデッゲル(ハイデッガー)やハルトマンに学んだそうですが、その間には、何しろ「哲学の留学生」ですから、十年前に二十代前半のイエガーの投じた
"研究方法上の革命" について、全く聞かなかったはずはない、と思います。それに例のイエガーの名著『アリストテレス』は、まさに三木さんの留学中(大正十二年)に出されたのですから。けれども、三木さんのその当時の思い出を詳細に書いた文章(「読書遍歴」昭和十六-七年、『読書と人生』新潮文庫所収)の中にも、イエガーのことは全く姿を現わしていません。もちろん、留学には各自その留学目的があり、三木さんはハイデルベルク学派のリッケルトに学ぶのを目指してヨーロッパヘ向ったとのことですから、イエガー旋風にあまり
"目を向けなかった" としても、やむをえないところですが、そのため、後年、当の親鸞の三願転入について、問題に対して文法的・語法的に直面せず、自家の「哲学的識見」をもって代置することとなったようです。その結果、親鸞思想のもつ根本の論理性を見失うこととならざるをえませんでした。この点は、あらためて他の個所で詳述することにいたします。
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親鸞閲歴
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とすると、「後鳥羽院、土御門天皇」を名指してきびしく指弾した親鸞の血しぶきの散るような教行信証後序(承元の奏状)の文面を、やはり三木さんは何の錯覚もなく見つめ、昭和の「御代」の獄中の時間をたえるよすがとしていたのではないか。そういう思いが、わたしの心中にふとよぎったのです。
最近三木さんに関する、すぐれた文章を見ました。『読書と人生』(新潮文庫)の解説、山田宗睦さんの文です。山田さんは三木さんの後輩(京大、哲学科)だそうですが、その文章の中で、三木さんがドイツ留学中に当地の新聞に小論をのせたときのことが書かれています。
「三木さんはハイデルベルグで新聞に寄稿し、日本で学問の自立をはばむ障害として、『天皇制絶対主義』と『仏教的・自然主義的汎神論』の二つをあげていた。」
三木さんの関心が、日本列島の上の、どこに注がれていたか。十二分に察することができます。その山田さんの美しい文章は次のように結ばれています。
「わたしは自分が三木さんの死においやられた歳と同年(四十八歳ー古田)になった昨、昭和四十八年に、三木さんの生れ故郷を訪ねた。おりから冷雨(ひさめ)がふっていた。三十九年にできた竜野市白鷺山公園の三木清哲学碑にもまわった。黙って立っていた。自分の年齢をもって三木さんの思想の足跡をふりかえると、そこに立ちつくしているほかは、なかったのである。
雨が空を斜めにきっておちてきた。碑前の坂を上りきると、竜野の町を一眼にみわたすことになる。中央をよぎる揖保川(いぼがわ)のにぶく光るのを、わたしは、三木さんの眼でながめるような思いで、みつめていた。いつまでもみつめていたいとおもった。」
むすびに
わたしの筆が推測の領域に立ち入りすぎたのをお許し下さい。ただわたしが確認したい点、それは三木遺稿の目ざしたところが、 "親鸞には「王法為本」の立場などない。蓮如及びそれを継ぐ本願寺教団の「常識」とは全く反している。そのような親鸞だから、問題の「朝家の御ため、国民のために云々」の一節も、教団側で普通言っているような意味とは全く相反する意義をもっていたのではないか。"
そういう問いかけにあったことです。そしてそのような「親鸞への歴史的解釈」は、とりもなおさず三木さんの常に考えていた一事、すなわち "日本における学問の自立を侵している、天皇制絶対主義"
というテーマヘとつながっていたであろうと思われます。
それが未定稿であったためか、それとも思想検察の目が迫っているのを旦夕に感じていたからか、十二分な表現をとることができず、ために戦後の三木理解に、大きな狂いを与えてしまったようです。
十九歳のわたしもまた、このことを見抜きえず、そのため "がっかり" してしまったようです。今、三木さんが、「後生」のわたしたちに告げたかった、その心緒のふれえたこと、それをわたしは喜びします。
「戦後の親鸞探究は、牢獄の中からはじまった。」
わたしはつつしんでこの言葉を三木さんの霊前にささげたいと思います。
服部之総の章
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服部さんの面目
わたしははじめ服部さんの「頌歌(しょうか)」を書くつもりでした。戦後の親鸞探究史に服部さんの投じた石の波紋はあまりに大きいからです。ところが書きはじめると、次々と服部提言の非を
"あばきつづける" 結果となりました。しかし、これは(林田さんの場合も同じく)わたしの本意ではありません。
服部さんの大きな功績は、別にあります。
「世間のことにも、さることのさふらふぞかし。領家(りょうけ)・地頭・名主(みょうしゅ)のひがごとすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。」(親鸞聖人御消息集五)
この一句をとりあげ、親鸞が「領家・地頭・名主」と「百姓」という、二つの本質的対立を、明確に見分げていたこと、そして、「百姓」に対し、親鸞は無限の信頼をよせていたこと、このことをはっきり明示した、その一点です。確かに、念仏弾圧をおこなうのは、前者であること、しかしそれは
"当然" のことであり、決して驚きふためくに値しないこと、それを親鸞はじゅんじゅんと語っているのです。あるいは我が子(まだその惑乱を知る前の)善鸞にむかって、あるいは「仏の人々の御中へ」とあて書きする「二カ条の事書(ことがき)」(親鸞聖人御消息集四)の中で。
このような、親鸞の生きとおした道の純潔さ、透徹さを語り来り、語り去るとき、服部さんの筆は "天鳥空をゆく" 筆勢をしめします。
「わたし白身はどこにゐたかといへば、どんなところにゐるときでも、ひきっづいてうまれ故郷の農民のそばちかくにゐたつもりである。」(はしがき)と語っている服部さんならでは、のことでしょう。この点において、従来の伝統的妥協的な理解に終始した他の論者(たとえば赤松俊秀さんは、
"親鸞" が「領家・地頭・名主」を師に、「百姓」を弟子に比したとする。)とは異なり、断然光っているのです。
その上で服部さんが「日本における宗教改革の神学的前件」(『親鸞ノート』所収)の中で、ヨーロッパの宗教改革のルッターやカルヴィンと親鸞を比較するとき、服部さんはまさに
"天才児" のような洞察力をしめすのです。
その全体は、直接その文を読んでもらうにしくはありませんが、ルッターの写真と親鸞の写真の比較論をしているところはまさに "傑作" の名に値しましょう。ルッターの方は、ジャック・マリタンがルッターの肖像画四枚をえらび、それを年代順に並べたものによっています。それを花田清輝さんの『復興期の精神』によって紹介しています。
「その最初の肖像画は、修道院にみた頃のルッターであり、栄養不良の気味はあるが、苦行と純潔とによって痩せほそり、まづもって信者らしい風貌である。それはかならずしも頭のてっぺんを丸く剃ってゐるためばかりではないらしい。つぎに還俗(げんぞく)した直後のルッターは、すでに髪はのび、ちょっと豹を連想させるものがあり、闘志にみちてはゐるが、謙虚なところがなく、そろそろ神に見はなされさうな顔つきになってゐる。この第二の肖像画にあらはれてゐる不逞のいろは、第三の肖像画にいたってますます顕著なものとなり、はっきり凶悪の相を帯び、精神の緊張はやぶれて、俗物らしい弛んだ表情になってゐる。しかし、特に注目すべきは最後に掲げられてゐるルッターの死像で、これはまさに言語道断であり、マリタンの表現を借りれば、『驚くべき程度にけだものじみた一面があらはれてゐる』。よほどうまいものばかり食べたとみえ、ルッターはふとれるだけふとり、だぶつく二重顎のために首も殆どみえなくなってゐる。」(七八〜九ページ)
ルッターははじめ、ローマ法王の権威にいどむ、野性にみちた挑戦者でした。わたしたちが学校の教科書などで普通知らされるのは、このルッターです。ところが、九十五箇条文にはじまる「ルッターの抗議」の成功、それは、ヨーロッパ各地の近世諸侯に莫大な利益をもたらしました。教会財産たる寺領は諸侯の領地として「没収」され、その諸侯が構成した「王権」の基礎が固められるのです。そのため、ルッターに諸侯やブルジョアジーから「美酒と佳肴(かこう)」が贈られるに至った、というのです。
その中でまきおこるミュンツァーたちによる農民革命の炎。ところがルッターはそれに対し、 "農民の「豚ども」を殺せば殺すほど、神は喜びたまう。"
と称したのです。(この言葉は服部さんは紹介していませんが。)
この頃のルッターこそ、みずから "豚のごとく太った" 肖像画だ、というわけです。
これに対し、親鸞はちがいます。その晩年の肖像画として知られる「鏡の御影」(西本願寺蔵)は、「大きなあたま、ふとく怒ってはねあがった眉、とびだしたほほ骨、うはむいた鼻、やせこけた頬と大きな口、ふといくび、日蓮ともくらぶべき頑丈な体躯。そしてこれらの造作がかもしだしてゐる一幅の相貌に、山辺習学(やまべしゅうがく)氏をはなれてわれとたいめんするとき、花田氏からきくルッター第三肖像画を思ひかよはせるやうなおもかげを、わたしはつひに見てとることができないのである。」(八三〜四ページ)
服部さんはこれを山辺留学さんの『わが親鸞』(第一書房戦時体制版)のざら紙に刷られた写真とその写真自体が不鮮明なため、山辺さんの写真解説の文章によって観察、いや想像しているのです。(わたしの『親鸞』<清水書院・新書>の冒頭にもこの写真はのせられています。今は多くの人になじまれています。)人間の鋭い直観は、時として写真の不鮮明さをも透過しうるもののようです。
たしかに、「主上・臣下、背法違義」の一文を三十九歳のとき、朝廷にたたきつけ、九十歳の死に至るまでこれを誰人の前でも撤回しなかった親鸞、その彼には豚のように太った二重顎になる術(すべ)はなかったと思われます。
わたしの理解
最後に、今まで問題になってきた「朝家の御ため国民のため」の一節に対する、わたしの理解をのべさせていただきましょう。
親鸞にとって当時の社会は、今や末法の相を十二分に現じつくし、手をかえ品をかえ専修念仏集団に襲いかかっている、そのように見えていました。その社会とは、京都の朝廷と鎌倉政権の公武提携体制。そのイデオロギー的背景が旧仏教です。
有情(うじょう)の邪見熾盛(しじょう)にて
叢林棘刺(こくし)のごとくなり
念仏の信者を疑謗(ぎぼう)して
破壊瞋毒(はえしんどく)さかりなり
五濁(ごじょく)の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずる人をみて
疑謗破滅さかりなり
菩提(ぼだい)をうまじき人はみな
専修(せんじゅ)念仏にあだをなす
頓教殿滅(とんぎょうくゐめち)のしるしには
生死(しょうじ)の大海(だいかい)きわもなし
(正像末法和讃)
これらの和讃には、「正嘉元年、親鸞八十五歳」に当たる年時・署名がありますが、建長の弾圧直後の時期における親鸞の時勢認識がなまなましく表現されています。
これに対し、問題の「朝家の御ため」の手紙を性信におくったのは、延長八年(親鸞八十四歳)頃とされています。(親鸞聖人全集一三〇ページ注)
従って右の和讃とほぼ同時期です。いや和讃末尾の年時は、正確には全体としての「浄書年時」ですから、一つ一つの和讃は、まさに建長七〜八年頃、という可能性が高いのです。とすると、右のような和讃が次々と下書きされ、ちりばめられた部屋の中で、親鸞は問題の「朝家の御ため」の一句を書いていた。いわば、こういう状況だったわけです。
以上の事実から見ると、この「朝家・国民」に対する親鸞のイメージがどんなものだったか、明瞭です。ー "なりふりかまわず、親鸞集団におそいかかって弾圧を加えつつある朝家とそのもとの国民"
これ以外にありません。
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ただ時期が同じだ、というだけではありません。「この念仏する人をにくみそしる人(ママ)おも、にくみそしることあるべからず、あはれみをなし、かなしむこゝろをもつべしとこそ、聖人はおほせごとありしか。」と親鸞真筆の現存する(東本願寺蔵)、「かさまの念仏者のうたがひとはれたる事」と題する手紙に親鸞自身が明記しているのです。
"この立場は、法然聖人のおおせにもとづくものだ。" と。この手紙には建長七年、親鸞八十三歳の年時と署名がついています。
法然の遺志
ここてわたしは想起せざるをえません。「法然聖人絵伝」(四十八巻伝等)に伝えられた、承元の弾圧時の法然の言葉を。
「ただしいたむところは源空が興(こう)する浄土の法門は、濁世(じょくせ)末代の衆生の決定(けつじょう)出離の要道なるがゆえに、常随守護(じようずいしゅご)の神祇冥道(しんぎみょうどう)さだめて無道の障難をとがめ給はむか、命あらむともがら因果のむなしからざる事をおもひあはすべし。」(第三十三巻)
法然は承元の弾圧にさいし、 "憂うべきは、わたしのことではない。わたしを弾圧したことによって必ずや無量劫の悪道に流転することとなる迫害者(後鳥羽院や土御門天皇たち)のあわれむべき身の上のことだ。"
と言った、というのです。
常人の想像を絶するような発想ですが、先述来の法然の思想からすると、当然の言葉と言えましょう。このとき法然が「朝恩」という言葉を使った、という逸話(エピソード)も有名です。
"わたしは年来、辺地の田舎の人々に専修念仏を布教したい、と思いつつも、それが果たせなかった。しかるに、今回の朝廷の措置(流刑)によって、その辺地・田舎の人々に接しうる。まさにこれは「朝恩」だ。"
というのです。一団の権力者集団を "ひとのみ" にし、なお掌の上にのせて "あわれんでいる" ような、法然という一個の透徹した精神、これは後代の伝記作者の造作しうる範囲を越えている。わたしにはそう思われます。そして法然の残した諸文献の内実とも、よく合数しているのです。(古田『親鸞思想ーその史料批判』)
このような法然の遺志をうけて、法然滅後の専修念仏集団には、驚くべき「奇習」が生まれました。法然の命日たる、毎月の二十五日、信者たちが行った集会。それは
"専修念仏集団への迫害者・弾圧者たちのために祈る念仏集会" だったというのです。
その間のいきさつを親鸞は次のように証言して.います。
「聖人の廿五日の御念仏も、詮ずるところは、かやうの邪見のものをたすけん料にこそ、まふしあはせたまへとまふすことにてさふらへば、よくよく念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあはせたまふべくさふらふ。」(親鸞聖人御消息集八)
何という精神の高揚でしょうか。わたしはこの集会の状況を想像することに、いつも何か胸せまる "鬼気" を感じます。 "不気味"
といいたいような。
しかし現実には、彼等は、あるいは柔和な顔、あるいは生ける日の法然を思って熱い涙をしたたらせた顔、要するにもっとも人間らしい顔をしていた、わたしにはそう思われます。そして親鸞もその一人、そう、
" one of them" だったのです。
これに対し、 "いや、ちがう。親鸞は当時の話人とも隔絶していたのだ。" "法然なんて、親鸞の境地には到底及んでいなかった。"
などと言う人があったら、それは "ひいきのひきだおし" でしょう。そして誰よりも親鸞その人が静かにかぶりを横にふるのではないでしょらか。
ーわたしは、その親鸞が正しいと思います。親鸞が、原始専修念仏集団を生んだのではない。原始専修念仏集団が親鸞その人を生んだのです。
そして先にあげた「びがふたる世のひと」の一句は、右の「聖人の廿五日の御念仏」について書いた一文の直前、同じ手紙の中に書かれてあったのです。
こうしてみると、問題の「朝家の御ため」の一句の真意も明白です。その「朝家」とは、専修念仏集団に不法の弾圧をおこない、親鸞の僚友、住蓮・安楽たちを斬罪にした、当の後鳥羽院や土御門天皇とそのとりまきの「臣下」たちです。「国民」とは、そのもとに苦しめられている人々です。その彼等のためにこそ、祈ろうではないか。それが亡き法然聖人の意思だったのだ。ー親鸞が次代の性信に語りがけ、言い継ごうとしていたのは、このようなこころだったのです。
それは、弾圧者の前にすっくと立ち、決して権力にへつらわぬ、自立する誇り高き人間、その人間の言葉だった。わたしにはそのように思われるのです。
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制作 古田史学の会