古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 III 『わたしひとりの親鸞』 明石書店

6 親鸞一人がため
閑話休題ー芭蕉 親鸞思想の秘密 特(こと)にひとり 古代末の思想者

これも旧版 『わたしひとりの親鸞』(毎日新聞社)です。
第二部親鸞思想の秘密をめぐって
I 親鸞探究者の群れー戦後の系譜


滝沢克己の章


親鸞一人がため

 少年の日、歎異抄にはじめて接したとき以来、わたしの心の中に鋭い「?」を投じてきた親鸞の一句があります。

「聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、と御述懐さふらひし・・・・・」

  この言葉には、一種異様なエネルギーがこめられています。何か常人の常の神経では計れないようなもの、そうです、"狂気" とでもいいたいようなものがこめられている。わたしは本能的にそう感じたのです。
  "この言葉がすんなり、なっとくいったとき、はじめてわたしは親鸞を知ったことになるだろう。" そういう予感めいたものを、感じました。
 ですから、いろんな人の親鸞論を読むたびに、 "この一句を著者はどうあつかっているか。" その一点にじーっと目をそそいできたのです。けれども、残念なことに、この一句に対して十分なっとくのいくように扱った本にはあまりお目にかかることができませんでした。
 いや、 "なっとく" より何より、あまり多くのぺ-ジをさいてすら、いないのです。これは、その著者がこの一句を重視していないためではなくて、かえって、まともにあつかいはじめたら、 "重くて" あつかいきれない。だから "敬遠" した方がいい、いや "敬遠" とまでゆかなくても、あまり深入りしない方が無難だ、何かそうつぶやいている著者たちの声が紙背からーひが耳でしょうかー聞こえてくるように思われたのです。
 ところが、今回滝沢克己さんの『「歎異抄」と現代』(三一書房)を読むと、最初からこの一句がとりあげられ、各所にくり返しあつかわれています。わたしとしては莞爾(かんじ)として微笑(えみ)をもらさざるをえませんでした。
 滝沢さんは、キリスト教の立場から(この点、滝沢さんは否認ー後述)実存哲学的な思索を執拗(しつよう)に追いつづけてきた方として知られています。同時にマルキシズムなど、現代の重要問題にも目をそむけず、同じ自己の立場から凝視しつづけてこられたもののようです。
  "では、滝沢さんの解明でお前はなっとくできたか。" というと、残念ながら、イエスと言うことができません。
  もっとも、滝沢さんは歴史学者や思想史家ではなく、哲学者ですから、あくまで "哲学の場で" 右の一句をとらえようとされるのは当然です。
  これに対し、わたしの立場は簡明です。

  "この一句は、親鸞にとってどういう意味をもっていたか。" ただこの一点です。

  哲学も歴史も、へったくれもない、少年のときから、わたしが目をこらしつづげてきたのは、この一点だけだったのですから。
 滝沢さんの解明は次のようです。「しかしーここが大切なところですがー『親鸞一人のため』といい、『とくに選ばれた』という、そのとき、親鸞は自分自身の何を、どこを、指してそう言うことができたのでしょうか。いったい親鸞がどういう人間だったから、『弥陀の本願』は、他のだれでもなく、ただかれ一人にだけ懸けられたのでしょうか。ー世間ふつうの考え、ことに入試をはじめ、ありとあらゆる選別に慣らされている現代人の常識からいうと、夢にも考えられないことですが、『歎異抄』のなかの次の言葉は、弥陀の本願によるその『選び』が、親鸞自身のいかなる『能力』にも、『業績』にも、身分にも、境遇にも依らないこと、親鸞だけにあって他の人にはないというような、なにか特殊な資質や持ちものによるものでは絶対にないことを、一厘一毛の紛れなく語っています。

『弥陀の本願には、老少善悪(ろうせうぜんまく)をえらばれず・・・・・』(第一条)
『持戒持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかで生死をはなるべきや。かゝるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。・・・・・うみかはにあみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、しゝをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠(たはた)をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。・・・・・』(第十三条)
『聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。』(後序)

 しかし、ここで誤解のないよう、よくよく注意しなくてはなりません、『弥陀の本願は親鸞一人のためだ』というその弥陀の選択(せんじゃく)・決定は、親鸞に特有ないかなる資格にもよらないという、この言葉は、ただに、年齢や身分や職業や、学問や道徳的な品性など、『世俗的』なことにかかわるばかりでなく、そういうふうに語りかつ考える親鸞、堅くそう信じて疑わないかれの信心、さきに申しましたようなかれの自覚そのものにも、微塵(みじん)の割引きなしにかかわっています。」(一四〜五べージ)

  つまり、「親鸞一人」といっても、何も親鸞が他の人々に比べて特殊な人間だ、といっているのではない、と滝沢さんは力説されるのです。そこで次のようだ形で要約されることとなります。

「ですから、本来をいうと、『弥陀の五劫思惟の願は・・・・・ひとへに親鸞一人がためなりけり』、『弥陀即凡夫』という、本願決定の最も根源的な一点にかんするかぎり、実際にそこに在るのはただ一つ、単純無条件にすべての人の成立の根柢に臨在する救いの呼びかけ、真実の自覚ないし新生への道だけであって、他のいかなる言(ことば)、いかなる道でもありえません。」(一五一べージ)

  この結論を見ると、わたしには、この一句に対して付した唯円の言葉が浮かんできます。

「・・・・・と御述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の『自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかた、つねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ』といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじげなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。」

 これを "親鸞から直接間いた本人の解説だから一番確かだ。 "そう思われる方も多いでしょうが、わたしにはそうは思われませんでした。 "なるほど、平板に書き直せば、そうなるのかもしれないけれど、それなら、あんなに「狂者じみた告白」の形をとらなくてもいい。この唯円のように親切に書けばいいではないか。" そう思ったのです。

"やはり、こんな平板な言い方では伝ええない何物かが親鸞の中にはあったのだ。どうしてもその秘密が知りたい。"

  わたしの心の中の湖に大きな「?」の波紋をえがきつづけてきたのは、この間いでした。
 この「?」こそ、二十代から三十代にかけて親鸞探究の道を歩みつづけていたわたしの耳の底で、いつも絶えることなく、ひびきつづけてきた問いだったのです。


閑話休題ー芭蕉

 問題の核心に入る前に、少しよそ道をさせて下さい。
 日本思想史上において、親鸞以外に、わたしの心を強くひきつけている人物のひとり。それは芭蕉です。もちろん彼は宗教家や思想家ではなく、芸術家ですが、かいま見ただけの、彼の俳句の中には、わたしの心を強くひきつけてやまないものがあります。
実は昨年、ある方から芭蕉の本を送ってもらいました(河野嘉雄さんの『芭蕉美学の系譜』)。その本を拝見しているうちに、わたしの心の中に一つの課題があったのをいつのまにか思い出していました。それは "芭蕉の句の中の、あの「?」を解きたい。 " こういう思いでした。
 その「?」をわたしに与えた句ー正確には「芭蕉の句」ではないのですが、ーは去来抄(きょらいしょう)に出てきます。

岩鼻やここにもひとり月の客

  これは芭蕉の門人、去来が作った句です。
 "月のいい晩、わたしは月の夜の風情を求めてさまよい出て、崖の岩鼻の所へ行った。ところが何と、そこにはすでに先客がいた、おお、あなたも、わたしと同じ風雅の友か。" こういった意味です。
 ところが芭蕉はこれを聞き、独特の別解を与えます。 "これを「自称の句」とせよ。" と。つまり、「ここにも」の「も」を "並列(へいれつ)" ではなく、 "強意" に解し、

"ここ岩鼻の上に、わたしひとり天空の月に相対している。この寂(せき)たる天にも地にも、ただわれと月とあるのみ。"

 こういう意味の句にせよ、というわけです。
 去来はこれを聞いて「先師の意を以て見れば、すこし狂者の感もあるにや。」と感想をもらしています。いささか辟易のていです。
 ここで芭蕉が描こうとした光景自体には、解釈上、疑いはありません。が、真の問題は、この狂者めいた緊迫感の真の由来です。それがわたしの胸の底にピタリと落ちたら。ーそういう思いだったのです。
 芭蕉のそれをありていに掌の上ににぎりしめうるとき、そのときがわたしにあるかどうか、むろん不明ですが、ともあれ、親鸞の場合と同じ、何か "きちがいじみたもの" 、それが ここにも確かに現われています。


親鸞思想の秘密

  もとに帰り、問題の親鸞の一句、「親鸞一人がためなりけり」について、わたしの知りえたところを申しましよう。
 この一句の中には、 "親鸞の生涯" が集約されています。もっと正確に言うと、 "親鸞が己の生涯の意味をどのようにとらえていたか。" が反映しているのです。今、簡明にのべてみましょう。

 親鸞が第一に渡った決断の谷、それはもちろん、二十九歳の吉水入室です。「たとひ法然聖人にすかされまひらせて念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」の一句は、そのときの羅針盤をなす一語だったのです。そして生涯、親鸞はそれを他にかくそうとしませんでした。

 第二の試練。それは外からやってきました。承元の弾圧です。乳水のように和合していた吉永集団は解散させられ、法然も親鸞も別々に流されます。
 けれども、このとき法然の放った一語、それは「たとひ死刑にをこなはるとも、この事いはずばあるべからず。」でした。普段は人(にん)を見て法を説く "妥協の天才" のようにさえ見えた法然も、この肝心かなめのとき、長老たちの妥協のすすめに反し、一歩もゆずりませんでした。この事実が若い親鸞に与えた感銘。それをわたしたちは容易に察することができます。
 このような感動(思想的激揚)は、三年あまり後の、三十八〜九歳のとき書いた承元の奏状(教行信証後序冒頭)によく現われています。
  (例の「主上・臣下」をふくむ一節です。)

 第三の激震は、建暦二年(一二一二、親鸞四十歳)の法然の死の知らせと共にやってきたもの、と思われます。それは教行信証後序において、承元の奏状から一転して法然入滅の讃文に移った、その鋭い転調の中に十二分に証言されています。

竊(ひそか)かに以(おもん)みれば・・・・・空(くう)師・ならびに弟子等、諸方の辺州に坐(つみ)して五年の居諸を経(へ)たりき。<以上、承元の奏状の奏状><以後、法然入滅の賛文>皇帝諱(イナミ)守成聖代、延暦辛未歳、・・・・・寅月(いんげつ)の下旬第五日、午(うま)時入滅したまふ。(下略)

 親鸞にとって真の孤独は、このあとやってきたと思われます。その心裡(しんり)をわたしは「亡師孤独」と表現しました(『親鸞』清水書院・新書)。それはとてつもない空虚に満たされたものであった、とわたしには信ぜられます。
(私事ながら、わたし自身も、わずか三カ月接しえたのち、村岡典嗣さんを失いました。)
 しかも親鸞の場合、それは単なる "師と死別した惜別" というにとどまるものではありませんでした。なぜなら、次のような、重大な思想課題をともなっていたからです。

(A) アミダ仏はこの世からあの世まで、すべての事件を見とおしている。いや、すべての事件は、アミダ仏の大きなはからいの中でおこっているばずだ。

(B) それなのに、弥陀の化身たる法然の築いた吉永集団が、なぜ空しく離散させられてしまったのか。そしてその屈辱をはらすまもなく、法然聖人は死んでしまわれたのか。「弥陀の大いなるはからい」は一体どこへいったのだ。なぜふみにじられたのか。

 右について、いささか長くなりますが、いわば「親鸞思想の秘密の誕生の地」ですから、注釈きせていただきます。
 (A) にあるような、この現実に生起する事件を、 "弥陀のはからいによる" とする考え方、それは今昔物語集をはじめ、各種の古代末文献に、いわば "みちあふれて" います。あまりありすぎて、わたしたち現代人は、この種の考え力(仏教一般では「仏天のはからい」)がいかに当時の人々の内面に大きな現実の力をもっていたかを見失いがちです。単なる "修辞" のように見なしてしまうのです。しかし、親鸞も日蓮も、例の承久の変で後鳥羽院・順徳院・土御門天皇の三者とも、島流しの刑に処せられたのを見て、これを「仏天(親鸞はアミダ仏、日蓮は釈迦中心。)のはからい」が現にあらわれたもの、と書いています。
 このような考え方は、現代にも "遺存" しています。たとえば、「神も仏もないものか。」という成語ー慣用句)がありますが、二の句の背景をなすのは、明白に "この世におこる事件には、すべて神仏の意志が貫徹しているはず。" という、あの思想です。
 次に、(B) の"親鷺は法然をミダの化身と信じていた。 "これは、歴然たる史料事実です。"現代人の好み" や "親鸞を近代風に合理化しようとする願望" をもって、この厳たる事実を回避することはできません。(のちにくわしくのべますが)今、二例だけ、親鸞の源空和讃からその証拠をあげておきます。

(a)
阿弥陀如来化(け)してこそ
本師源空としめしけり
化縁(けえん)すでにつきぬれば
浄土へかへりたまひにき
(b)
源空勢至(せいし)と示現(じげん)し
あるいは弥陀と顕現す
上皇群臣尊敬(そんぎょう)し
京夷(きょうい)庶民欽仰(きんごう)す

  右の(a) を読んだとき、現代人は一個の "修辞的美文" と思いがちです。"ただ美しく唱(うた)っているだけだ。本人が文字通りそう思っているわけではない。" というわけです。しかし(b) を見ると、もうそうはいきません。明らかに "神秘的現象" の記述です。
 しかし、今昔物語集などをめくってみればすぐわかるように古代末は、このような "奇跡" の氾濫した時代だったのです。そして親鸞もまた、当然ながらそのひとり(one of them)です。この厳たる史料事実を回避して、親鸞を "合理化" しようとするのは、いわば "ひいきのひきだおし" にすぎず、 "古代末に本当に生きていた親鸞" から目をそむける人々です。
 このような「神秘的前提」に立ったとき、はじめて親鸞自身のこのときの動揺の重大さをありていに理解できるでしょう。弾圧による集団離散、法然の死へとつづく事態。これを前に、親鸞が "神も仏もないものか。" いや、 "アミダ仏はおわさぬのか。" と絶叫したであろうこと、それをわたしは疑うことができません。
 いわば、あのイエスの「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(我が神、我が神、何ぞ我を捨てたまう。)という、死の直前の絶叫と同じく。ただイエスはその言葉を最後に息絶えましたが、親鸞はなお、生きつづけねばならなかったのです。

特(こと)にひとり

このような「大いなる亡師煩悶の時」の中から、徐々に成立してきたのが「三願転入の論理」です。

 こと
今特に方便の真門を出て選択の願海に転入せり。
 ひとり

  この「特」の字に「ビトリ」という左訓が、まぎれもない、親鸞自身の手でふられています。この「三願転入」は、親鸞一人が "特に" 行ったものだ。この一点が謎を解く第一の鍵(キー)です。
 滝沢さんは歎異抄の「親鸞一人がため」だけをもとに解釈されたため、これを "「一人」といっても決して親鸞だけが他の人間とちがって「特別に」ということではない。万人に共通する問題なのだ" として、いわば「一則多」といった形の哲学化をおこなわれたわけですが、ここ教行信証の核心をなす「三願転入」項では明確に「特に」とあるのです。
 実は教徒信証中にもう一つ、「特」字に「コトニ」「ビトリ」の訓が同時に(左右に)ふられている個所があります。

 律宗の祖師元照の云(いわ)く、況(いわ)んや我が仏(ほとけ)、大慈(だいじ)、浄土を開示して慇懃(おんごん)に偏(あまね)く諸大乗を勧嘱(かんしょく)したまへり。
目に見、耳に聞きて特(こと)に疑誇(ぎぼう)を生じて自ら甘く沈溺(ちんにゃく)して超昇を慕(ねが)はず。如来説きて憐憫(れんびん)す可き者の為にしたまへり。良(まこと)に此の法の特(ひと)り(ことに-左訓)常途に異なることを知らざるに由(より)てなり。賢愚を択(えら)ばず、緇素(しそ)を簡(えら)ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問ばず。但(ただ)決定(けつじょう)の信心、即ち是れ往生の因種ならしむ、と。(行巻)

     ヒトリ
ここでは、特
     コトニ

 と、右訓と左訓、三願転入項とは逆になっていますが、この点は別に実質に変わりはありまぜん。要するに "如来(アミダ仏)の此の法(「十八願を中心とするアミダ仏の悲願」と、親鸞は見なす。)は、ひとり特別のものだ。他のもろもろの経典の説、方便の教とは全く異なっている。" そういう意味です。つまりこの「特」は "唯一独特" "他に比類なし" の意です。
 とすると、やはり「三願転入」項の場合も同じです。第二転回点をへて、第三の境地に入ってきたのも、わたしだけだ。それは "他に比類ない。" "唯一独特の" 出来事だった。親鸞はそう語っていることになります。なぜか。それを解く第二の鍵。それは実は先の歎異抄中の、親鸞が「常のおほせ」にしていたという、この「親鸞一人」の述懐の後半部に明瞭にあらわされています。

「それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぽしめしたちける本願のかたじけなさよ。」

  この「それほど」の「それ」とは何か。当然、"アミダ仏が親鸞だけをひとりえらんで救おうとした" そのことをさしています。その事実(と親鸞に考えられたもの)こそ、いかに親鸞に「悪業」が巨大だったかを証明する。親鸞はそう言っているのです。一見奇怪なこの "論証方法" も、先の元照の文に照してみれば、判明します。
 このアミダ仏の悲願は、「目に見、耳に聞きて特(こと)に疑謗を生じて自ら甘く沈溺(ちんにゃく)して超昇を慕(ねが)はさる者" のためだったのですから、 "親鸞一人がはじめてこの境地にふみこみえたこと、そのことはまさに、いかにわたし(親鸞)が右のもろもろの悪業においてただひとり傑出し、他と比類を絶していたかを証明する。" ーこういう論理なのです。
 ここで「悪業」といっているのは、必ずしもこの現世だけの話ではありません。 "過去無量劫から生生流転してきて、今この人間の世に生まれた。" というのが、仏教の前提をなす死生観。古代末はその死生観の中に人々が生きていた時代です。親鸞も、その死生観に立って右の「自己の悪業」を語っているのです。たかだか「九十年以内」といった、そんな "けちくさい" 話ではありません。
 このような立場に立ってはじめて親鸞は "あの解きがたい問いが解けた。" と感じたのです。先にあげた(A) (B) です。
  "承元の弾圧とそれにつづく法然の死という、悪夢のような一連の事件、それこそまさにアミダ仏の「大いなるはからい」の実現だったのだ。なぜなら、この「亡帥孤独」の日々の中から、このような「唯一独特の境地」へとわたしを導いて下さったからだ。" このように親鸞は考えたのです。そして
  "このことは他でもない、最悪の業をそなえた、このわたし、一人をえらんで、救済の全き明るみをしめすことによって、この末法の「悪人」たる万人に救済が必ずもたらされること、それをしめす。それが、あの一連の悪夢の事件をアミダ仏がおこさしめたもうた、その真意だったのだ。" と。ーこれが「親鸞一人がためなりけり」の一語の、親鸞自身にとって意味していたものです。


古代末の思想者

 このへんまでお読みになると、 "もう、どうにもつきあいきれない。" そういう感想をおもちになる方も、多いのではないでしょうか。 "いや、そんな話は聞きはじめだ。本当かしら。" そう言って下さる方は、『親鸞思想』上で詳述したところをお読みいただけれぱいいのてすが、むしろより多くの方ー "それはそうかもしれないが、それほど「神秘的な独断」につらぬかれた親鸞では、どうも。" と言われるのではないでしょうか。ことに教養主義的な立場で、親鸞を自分の座右の処生観のたしにしようとしておられる方の場合、そうでしょう。
 だが、これは当然なのです。親鸞は古代末に生きた宗教家、骨の髄まで「中世」人なのです。ですから、部分的、断片的にはともかく、全体としては、現代のわたしたちのために "あたりよく" 物を考えてくれるはずはありません。むしろ自分の時代のものの考え方をつきつめぬき、それによって "透徹した、時代の典型" となりえたのですから。
 わたしたち現代人が、それに耐えきれず、 "口あたり" よく理解しようとするとき、必ずといっていいほど、親鸞自身の物の考え方を "歪める" ことになるのです。そのため、彼の内部に実在した切迫感や使命観、それをありていにとらえることができないのです。
 滝沢さんが「一則多」といった立場、またキリスト教的実存主義の立場から親鸞をとらえようとなさることは、むろん自由、かつ貴重です。しかし、"それが本当の親鸞だったか。" そう問われれば、残念ながら、わたしはうなずくことができないのです。


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制作 古田史学の会