『続・邪馬台国のすべて』−ゼミナール−朝日新聞社

邪馬台国論争は終った=その地点から

三、銅矛・銅戈圏の中心

古田武彦

二島定理

 第三番目は「銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)圏の中心」という問題です。こんどは文献を離れて、遺跡、遺物から問題を考えるという、考古学的な問題と取り組んでみたいと思います。
 私は考古学に無知な人間ですけれども、さっきのように素人の単純な頭で単純にこうとしか考えられない、ということで、事実をひとつひとつ見ていく。今まで“自分がそう思えないことはそう思わない”という一点だけを守る、ということできましたので、考古学を対象にしても、その一手以外、何の手も持っていないわけです。
 私が考えましたのは、卑弥呼の生きていた倭国というのはどういう性質の国であるかということです。それを知るためには、だれもが“ここは倭国だ”といって疑うことのない地点をとらえて、そこの二、三世紀の遺跡、遺物を観察すればよい、こう考えたわけです。皆さんは、“それはそのとおりだ、しかしこんなにいろんな説が対立している中で、だれもが反対しない地点なんかあるはずがない”こうおっしゃるでしょうが、それがあるのです。
 つまり壱岐、対馬という二つの島です。これは近畿説をとる人も九州説をとる人も“ここは倭人の国ではない”という人はまずいませんね。だから私は“ここは倭国の「定点」である”と考えたわけです。数学みたいな言葉を使って申しわけないんですが、問題をはっきりさせるために使わせていただきます。だから壱岐、対馬における二、三世紀の遺物を見てみようと思ったのです。
 「二、三世紀」といいましたのは、卑弥呼は第一代の王者ではないからです。例の「住(とど)まること七、八十年」という文句がありますので、「三世紀」だけでなく、少なくとも二世紀から続いている国であることは間違いありません。だから「二、三世紀」といったんです。私自身はそれより前から続いていると思っているんですが、それはいま議論の外に置きます(『失われた九州王朝』四三ぺージ参照)。今は、みんなが認める線でいくわけですが、この倭国が二世紀から三世紀にかけての国だということはみんな認めているようですからね。そうしますと、二、三世紀の遺物として著しい遺跡、遺物がある。それはいわゆる銅矛、銅戈です。それも広矛(ひろほこ)、広戈(ひろか)と呼ばれているものです。それに準ずるものとして中広矛、中広戈というものがありますけれども、これらは二、三世紀の遺物であるというふうにいわれています。
 そうしますと、卑弥呼の国、すなわち倭国というのは、銅矛、銅戈を祭器、あるいは宝物とする国だということがわかる、こう私は考えました。その倭国の中心点を求めるにはどうしたらいいか。その銅矛、銅戈が最も密集し、集中している個所があるならば、そこが中心地だと考えていいだろう、こう思ったわけです。実際にその分布図をつくってみて驚いた。私は無知ですから、何でも目新しくて驚くんですけれども、それが右の図にあります。中広矛と広矛をまとめ、中広文と広戈をまとめてここに書いてあります。

銅矛と銅戈の県別出土図 邪馬台国論争は終った

 これを観察しますと、壱岐、対馬にかなり出てまいります。特に対馬に出てくるんです。この点も面白いんですが、今は保留します。各県の中で福岡県に圧倒的に多いんです。次いでは大分県ですが、だいぶ格差があります。あと佐賀県とか熊本県になってきますと、ぐんと減ります。宮崎県、鹿児島県はとるにたりない。そこで、この銅矛、銅戈の中心は福岡県であると見て間違いない。そしてこんどは福岡県の筑前と築後とにわけてみます。そうしますと、これは三六ページの第一表ですけれども、筑前と筑後に分けると、筑前が圧倒的に多いですね。筑後はがた減りです。そのため、これはやっぱり銅矛、銅戈の中心は筑後でなくて筑前だと見なければならない。これはぜんぜん識見も先入観もなく、ただ数字だけの操作でいいわけです。そのような単純な観察からみて ーーそれが大切ですがーー 筑後中心説は到底成り立ちません。

銅矛・銅戈・銅剣出土表(九州) 邪馬台国論争は終った

 次に三七ぺージの第2表を見ますと、筑前の中でも、糸島郡と博多湾岸を中域としますと、粕屋(かすや)郡より以東、遠賀(おんが)川とか京都(みやこ)郡とか入れまして、これを東域とします。すると、中域に圧倒的に集中していますね。この中域の中でも、こんどは糸島郡と博多湾岸に分けると、博多湾岸に圧倒的に集中しています。そうすると、銅矛、銅戈の中心は博多湾岸でなければならない、というふうに、簡単に中心点が求められます。これは要するに二島の定点から、同一の政治、文化圏といいますか、祭祀圏、宝器圏といいますか、その中心点を測定する方法です。それによりますと、これは博多湾岸が中心であるということになります。これに私は「二島定理」という名前をつけてみたわけです。

第二表 矛戈筑前と筑後出土表(福岡県) 邪馬台国論争は終った

一大率の定理

 次に三の2「一大率の定理」というのがあります。倭人伝の中に、伊都国に一大率が置かれている、そして女王国以北の国々はこれを非常に畏れているという記事があるのはご存じだと思います。一四ぺージの「史料」の五にも書いてあります。
 ふつうの解釈によりますと、いわゆる女王国から伊都国に派遣されているのが一大率だということです。これに対して異説を唱える方が一人だけあるのですが、それは松本清張さんです。非常に精力的に古代史の問題に取り組んでおられます。松本清張さんによりますと、この一大率というのは、中国から、つまり帯方郡治から派遣された官庁である、こういうふうにおっしゃっています。ところが私はこれに対して、二つの理由からダメだと申し上げるほかありません。
 といいますのは、第一の理由は史料上の問題です。もし中国の官庁であったならば、いわゆるに「官庁名」がなければならない。たとえば帯方郡とか楽浪郡とかいうような官庁名がなければならないが、それが書いてない。“一つの大きな軍団”みたいな言葉が書いてあるだけで、あれは官庁名とはいえない。
 次いでその「長官名」がなければならない。帯方郡も楽浪郡も「太守」というのが「長官名」です。だから一大率の「長官名」が出ていなければいけないが、それがない。また三世紀のときに派遣された人名がなければいけない。帯方郡でも楽浪郡でも、『三国志』の中にちゃんとあるわけですが、それが一大率についてはぜんぜんない。中国の朝廷にいる陳寿が書いているんですから、「官庁名」を忘れたとか、調べたけれどもわからなかった、ということはぜんぜんあり得ないわけですね。自分の側の「官庁名」を中国の朝廷で知らなかった、というのでは話にならないですね。ですから、これが書いてないということは致命的なことで、この一点をとっても、史料批判の立場から、否定せざるを得ないと思います。
 もう一つは遺跡、遺物の問題です。これは原田大六さんですが、松本さんの意見にテレビで反論されて“だって中国人の生活遺跡がぜんぜん糸島郡から出てきませんよ、また中国人の墓、漢墓、魏墓というようなものも出てきませんよ、だから無理ですよ”といっておられた。私が直接原田さんにお会いしたときも力説されまして“テレビでなかったらもっとじゃんじゃんいうんだが・・・”といっておられたのです。私もやっぱり、それは原田さんのいわれるとおりだと思います。
 ところがこれに対して、おそらく松本さんのほうの反論としては“生活遺跡がないのは、現地人に同化して中国の官僚は生活していたのだ、そういう例が他にもあるようだ、そんなことをたしかおっしゃっていたと思うんです。ともかく現地人と同化していた。現地には、当然弥生遺跡の中に弥生式土器が出てきますから、そういう器物を彼らも使っていたのだ、というわけです。また墓のほうは、最近の「週刊読売」(昭50・10・4)で森浩一さんらとの座談会「卑弥呼が死んでから」(松本清張・水野祐・森浩一)でいっておられるのに、帰葬ということがあるんだ、つまり“死んでそこに骨を埋めずに、本国に骨を持って帰る”ということなんですね。だから現地に墓はないんだ、楽浪、帯方というのは、ちゃんと中国の漢墓、魏墓があるんだけれども、あれは代々居ついているからであって、そうでない場合は帰葬の形で、持って帰るんだ、といわれるわけです。
 なるほどたしかに、死んだら故郷に骨を埋めたいという気持ちはあるでしょうから、帰葬というむずかしい言葉など使わなくても、そういうことも当然あり得ると思うんです。しかしこれも、松本さん以上の素人の、卒直な感想としまして、生活遺物は現地人に同化したんだ、骨は持って帰ったんだ、だから中国人であることをしめす遺物も墓も出ないが、ともかく官庁があったんだ ーーこういう論理が通るとしましたら、これは日本中どこだって中国の官庁を“つくれる”わけですね。任意の場所で、ここにあったといえるわけです。“証拠がないじゃないか”“いや現地に同化したんだ”弥生式土器はいま日本列島どこでも出てきますからね。“それを使ったんだ”“骨はないじゃないか”“いや帰葬で持って帰ったんだ”といえば、どこでも中国の官庁があった、といえるわけです。まあ日本列島だけじゃなくて ーー極端ないい方ですみませんけれどーー アフリカだって、オーストラリアだって“ここには中国官庁があったんだ”といえるわけです。“証拠を出せ”“いや現地人に同化し、帰葬だった”と。(笑い)
 これは、私からしますと、「万能の論理」というものだろうと思います。“どこでも使える論理”というのは、あまりにも便利すぎる論理であるから、やはり使ってはならないものではないか。これは、一素人の感覚として、私はそう思うんです。そういう「万能の論理」を使わなければ説明できない、ということは、すなわち遺跡、遺物から見ると、中国官庁説は無理だ、これが正当な答えじゃないか。私にはそう思えるんですが、皆さんはどうお考えでしょうか。ということで、結局、通説のように、女王国の中心点(都)から伊都国に派遣されたものだ、こういうふうに考えなければならないだろうと私は思います。
 そこで、いま一つの仮定を設けます。もし、女王国が近畿だとしますね。そうすると、三世紀の近畿というのは、いうまでもなく銅鐸の時代である。銅鐸が祭器として非常に尊重されていた。祭器であるか、宝器であるかという議論がありますけれども、今はそれにはこだわらないことにします。近畿から派遣された軍団は、その軍団の中心に銅鐸を据えていなけれぱいけない。これは私の勝手な想像ですが、私にはそうしか思えないんです。自分たちのシンボルの祭器を据えて、それを強大な軍事力で守って周囲を威圧せしめる、そういうことにならざるを得ないんじゃないか。あの青銅器崇拝の時代です。それを、ぜんぜん銅鐸を持ってこないで、「純軍事力」だけ派遣するというようなことは、私にはちょっと想像外です。もし“いやそれはやっぱり現地に同化したんだ、現地は、銅矛、銅戈だからそれを尊重したんだ。”ということになると、やはりさっきの「万能の論理」になりますね。糸島郡からは銅鐸はまったく出てこないわけですから。そうすると近畿から派遣された軍団だ、ますね。ということはいえなくなってくる。中心地(都)は近畿ではない、ということになりますね。
 それではどこかということになりますと、糸島郡から出てくる二、三世紀の遺物は銅矛、銅戈です。その広矛、広文、中広矛、中広父の時代ですね。これらについて糸島郡よりもっとたくさん出るところ、一番たくさん出るところはどこかといいますと、さっきいいましたように博多湾岸です。だから糸島郡に軍団を派遣して ーー私の目から見ると首都防衛に見えるんです。大陸に向かって一番都の直前の位置に置いているわけですーー あたりをにらんでいたのはやはり博多湾岸の都からの派遣軍である。もちろん博多湾岸と周辺の山地、朝倉郡あたりまで含んでいいんですが、その領域が中心になってその前面に置かれていたのが一大率だ、こう私は考えざるを得ない。この“糸島郡の二、三世紀の遺跡、遺物事実から中心地、つまり一大率を派遣したもとの権力中心地(都)を測定する”という方法によりますと、やはりこれは博多湾岸以外にない、こうなると思うのであります。これを「一大率の定理」と呼びます。

鋳型の定理

 三の3は「鋳型の定理」と呼ばれるものです。銅矛、銅戈について、鋳型がかなりの数出てまいります。それを書きましたのが、四三ぺージの図です。これは圧倒的な分布状況です。つまり博多湾岸にほとんど出てきているのです。その次が糸島郡ですが、三つですから、トップと二番目の差があまりにもはなはだしい。そのあとは一つぐらいずつ、ちょうど図でいって博多湾岸の右上と左下に、翼で囲むように ーー非常に面白い分布だと思うんですがーー あるだけで、圧倒的に博多湾岸です。筑後は山門郡も他の場所もぜんぜん出ない。一つだけ大分県の、図で右端のところ(大野郡三重町秋葉)に出たという伝承のようなものがあるんですけれども、現存していないので何であるか(戈か剣か)はっきりしません。以上でわかりますように、鋳型からしますと、その中心ははっきりしていて、博多湾岸しかないわけです。

 鋳型というのは皆さんもご存じでしょうが、銅矛と銅戈の実物の型を石に半面彫り込みます。それを二つ作ります。それをぱっと合わせると、真ん中が中空で広矛なら広矛、広戈なら広戈の格好ができるわけです。一端の穴があいているところから、銅の溶液を流し込んで、冷えたらぱっとあけるとでき上がり、というわけです。わたしの子供時代に懐かしいカルメラ焼きというのがありました。店のおばさんがそれをつくるのを子供のときじーっとのぞき込んでいたのを思い出します。あれと同じ原理なわけです。ですから非常に簡単なもので、一つサンプルがあれば、不器用な私でも時間さえかければつくれると思うんです。まして私なんかよりずっと器用な人たちが古代にはいくらでもいたわけでしょう。また石というのは各地にありますね。のちに石人・石馬ができる筑後、あるいは石仏ができる大分県の国東、石はいくらでもあるわけです。だからサンプルが一つあれば現地でいくらでもつくれるはずです。事実、大分県や筑後では、いまの銅矛、銅戈は、博多湾岸につくれぱすぐつくれるはずです。ところが鋳型がまったく出てこない。これは何を意味するか。
 これに対して、一つの言葉を使いますと、私は「権力者の意志」を感じたんです。つまり材料的にも技術的にもつくれるだろう。しかし一定の地域以外ではつくらせない、という「権力の意志」が、そこに働いている。私にはそうとしか思えないのです。その「権力の意志」は圧倒的に博多湾岸を指し、次いで糸島郡です。それから特定の型によって許可しようというんでしょうか、それが点々と西は佐賀県、東は筑前東域にまたがっている、こういう形になっていると思うんです。そうしますと、権力者がここしか神聖な祭器はつくってはならない、といった土地は、神聖な土地である、それがすなわち首都圏だ、こう考えるわけです。
 これに対して、ある論者が“いや都は筑後山門だ、博多湾岸は工場地帯だ”とまだそんなことをいった人はだれもいませんけれども、想像してみるのですがーー いったとする。これはやっぱりダメだと思うんです。何でかといいますと、その論理を使えばどこでも都にできるわけです。“島原半島が実は都だ、博多湾岸は工場だ”“大分県が都だ、博多湾岸は工場だ”こういうふうにどこでも都にできるわけです(笑い)。これはやっぱり「万能の論理」ですね。こういう論理は使ってはいけない。
 としますと、その「万能の論理」を拒否して、いわゆる遺跡、遺物の出土事実を単純な目で見つめる。小学生でもこれを見ればどういうか、という立場に立ちますと、これはやっぱり博多湾岸が首都であるという結論しかない。私はそう思うわけです。
 そうしますと、この三つのどれをとりましても答えは一つです。しかも私にとってこれは非常に重大な結論だと思われました。『「邪馬台国」はなかった』の中で展開したような、いろんな解読法を一つも使ってないんです。つまり邪馬壹国であろうが、邪馬臺国であろうが、いまの論証には関係ないわけです。また「水行十日、陸行一月」が、部分日程であろうと総日程であろうと、そんなことは関係ない。また「魏晋朝の短里」であろうが、「漢代以来の長里」であろうが、そんなことは全く関係ありません。「島めぐり読法」も「道行き読法」も、私の『「邪馬台国」はなかった』で展開したどのような解読もぜんぜん関係ないわけです。遺跡の出土遺物をいわば初等算数的に処理して中心を求めただけなんです。ところが、三通りともどれも全く同じ結論になったわけです。
 これに対して、『「邪馬台国」はなかった』の場合は、お読みになった方はおわかりいただけますように、考古学は問題にしなかったんです。あえて意識的にこれにふれることを避けたわけです。つまり考古学を途中でちょっと引っ張ってきて使うと、我田引水になる可能性がある。だから考古学はどうであろうと、全部横に置いて、ひたすら文献だけから解読したんです。倭人伝は『三国志』の一部だから、倭人伝に何か問題が起こったら、すぐ『三国志』全体という字書を引いて、その字書の全項目から帰納すると、答えはこうなる、というやり方を徹底して読む。その読んだ結果が、こちらの先入観や従来の学説に都合がよかろうと悪かろうと知ったことではない。とにかく『三国志』全体の表記を全部あげて、そのルールに従えばこう読むよりしようがない。その結果、邪馬壹国がどこになろうとしようがない。私も博多湾岸と周辺山地だということになったときは、だいぶびっくりしたんです。しかしいくらびっくりしたって、こうなるんだから、私が“手直し”することはできない、ということから、「博多湾岸と周辺山地の邪馬壹国」という結論になったのです。この場合、考古学的な出土遺物の問題は導入しなかったんです。最後にちょっと書いてありますけれども、それはいわば“いいわけ”みたいに書いてあるだけで、解読そのものにはぜんぜん導入しなかった。こんどはそういう文献のほうは問題にせずに、出土遺物だけで結論を出したのです。ところが両者まったく同じ結論になった、というわけです。私の素朴な理解では、ぜんぜん別種の方法で同じ答えが出た場合は、それが真実と認められる。こういうことですから、やはり答えははっきり出ている、と考えていいだろうと思いました。そこで、非常に刺激的な題ですが、「邪馬台国論争は終った」という題をつけたんです。
 しかしその場合、これに対して、“いや違う、終ったなんてとんでもない”という人があれば、これは大歓迎です。ここにちゃんと論点をあげているんですから、“お前のは、ここが間違っている、あそこが問違っている”といってもらえぱいいんだ、それを待っている、ということを「結び」に書いたんです。こんどその「邪馬台国論争は終った」という題で話をしてほしいといわれたので、「その地点から」と付け加えたんです。ところが、これを見て怒った人があるそうです。“当人が「邪馬台国論争は終った」なんていうのはけしからんじゃないか”こういうふうに怒っている人がいますよ、ということをある編集者が知らせてくれたんです。私は“そうですか、それはよかったですね”といったんです。私としては実は、怒ってほしいわけです。つまり、論点がかみ合わないままで、それぞれやっていたんじゃしようがない。だからこの論点でもう決まったと私は思うんだ。“本人がそんなことをいうのはけしからん”と思ってくれたら、その論点をやっつけてほしい、それを待っている、と書いてあるんです。おそらくその人は、わたしの論文を読まないで、題だけ見て怒ったんじゃないかと思いますけれども、わたしは怒ってくれて非常にうれしい、と申したわけです。この題を見て、皆さんの中でも“当人がそんなことをいうのはけしからん”と思われた方がきっとあるでしょうが、論点をかみ合わせるための苦肉の表現ですから、そのようにご了承いただければ幸いだと思います。


卑弥呼と黒塚(古田武彦の古代史再発見ー方法)

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