『続・邪馬台国のすべて』−ゼミナール−朝日新聞社

邪馬台国論争は終った=その地点から

四、鏡の論理

古田武彦

二つの「伝世」鏡

 さて、以上は最近私があっちこっちに書いたもので、もう知っていらっしゃる方もあると思うのですが、このあと、いままで論じなかった、きょう初めて申し上げる問題に入っていきたいと思います。
 それは、邪馬壹国 ーー従来いう邪馬台国ーー の問題を考える上で、考古学的な遺物から考える場合に、どうしても見逃してはならないものがある、それは鏡だと思うわけです。なぜかといいますと、倭人伝の中に、魏の明帝(めいてい)が卑弥呼に与えた詔書(景初二年十二月)の中に、こちらにいろんなものを渡している下賜物の明細が書いてあるんですが、その中に「銅鏡百枚」というのがあるのです、そのほかにも、もちろん錦だとか鉄の刀二振りだとかが書かれています。しかしそんな錦なんていうものは、腐ってしまいますので、出土遺物で出てくることはほとんど期待できませんね。鉄の刀二振りなんていいましても、実際上どの鉄の刀がその二振りに当たるか、ということはちょっとわからないですね。ところがそれに対して“鏡百枚”というのは、かなりの量です。そうしますと、やはり女王国の中心地からは鏡がかなり出てこなければいけないということが当然考えられます。そこで、鏡というのが非常に大きな問題点としてクローズアップしてくるわけです。
 ところが、これにつきまして実は可能性のある鏡というのは二通りしかないのです。一つは例の有名な三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)であって、これはご承知のように近畿、私の住んでいる京都府の南、(椿井)大塚山古墳からおびただしく(三十六面)出てきました。それが、西は瀬戸内海から九州東岸や博多湾岸、東も、かなり広い地域にわたって、中部地方、関東地方からも出ています。これが卑弥呼のもらってきた魏の鏡である、というふうに考える学者がいます。というよりも、考古学者のほとんどすべての人がそう考えてきたわけです。例の森浩一さんなどは、考古学者の中でまれにそうでない方なんですね。
 それに対してもう一つは、九州の北岸におびただしく分布している漢鏡といわれるもので、これがいわゆる弥生遺跡の中から出ています。ですから可能性があるとすれば、この二通りしかないということになります。
 これに対して、森さんが第一部でいわれてお聞きになったと思いますので、それをいま繰り返すつもりはありません。私は森さんと違いまして考古学について素人ですから、非常に簡単明瞭な論理といいますか、私の納得できる言葉を使っていわせていただきたいと思います。
 それは皆さんご承知のように、三角縁神獣鏡というのは、全部古墳から出てくる。古墳というのは四、五、六世紀あたりですね。中には七世紀の古墳からも出てくるんだそうですが、主として五世紀を中心とする古墳時代の古墳から出ています。それに対してさっきの漢鏡といわれる九州の北岸を中心に分布している鏡は ーーはっきりしていることですがーー 古墳ではなくて弥生期の遺跡から出ています。これが基本の事実だと私は思うんです。そうしましたら、いわば「公理」として ーー私のようにもののわからない、無知な人間が考えていく場合、きちっとすじ道を決めてかからないと考えが混乱しますので、こういう「公理」なとという言葉を使わせてもらうのですがーー 次のようにいえると思うのです。三世紀、邪馬壹国が弥生時代に属する、というのは、現在においては異論のない事実ですね。そして四世紀以後は古墳時代だということ、これもまず異論のない事実です。そうしますと、いま「公理」といいましたのは、“邪馬壹国、つまり卑弥呼の国のことを考えるには、遺跡上においては弥生遺跡で考えなければならない。つまり古墳時代の古墳遺跡からの出土物でこの問題を考えてはならない”ということなんです。
 これに対して、いわゆる考古学者の方がすぐいわれると思うんですが、伝世鏡(でんせいきょう)の理論というのがあります。この伝世鏡というのは、有名な発掘例で、香川県の高松市の例があります。石清尾(いわせお)山古墳群の中の猫塚(ねこづか)古墳というところから、前漢の鏡が出てきた。これは梅原末治さんの報告(「讃岐高松石清尾山石塚の研究」〈京大報告第一二冊〉昭7)で有名になったのですが、これは明らかに漢の鏡である。それが四世紀も半ばを過ぎたと思われる古墳から出てきているのですから、これは明らかに伝世鏡である。つまり漢から持ってきて、四世紀になって埋めた伝世鏡だ、というわけです。
 これも、私みたいな素人が考えると、少なくとも二つのケースがあると思うんです。というのは漢の時代にもう日本に渡ってきていて、それからずっと地上で使われていて、四世紀に埋められた、こういうケース。もう一つは、中国で朝廷かどこかの個人の家庭かどうか知りませんが、伝えられてきていて、それが古墳時代になって日本へ持ってこられて埋められるというケースがあると思うんです(また、この二つの中間のケースも考えられましよう)。この場合、梅原さんは鏡の使い方の痕跡から日本で伝世したものだろう、と推定しておられるわけです。それについて私はいまそれに異論を唱えるつもりはないんです。理屈からいえば二通り以上あるというだけで、ともかくそれを含めていえば、伝世鏡であるということは、一方は漢の鏡で、それが出てくるのは古墳ですから、これは疑うことはできないと思うんです。
 ところが問題は、次の点です。そういういわば特定の例というのは、当然あり得ることだと思います。しかし“全部の例が伝世しているんだ”つまり「全面伝世」ということは、私の頭ではあり得ないと思うんです。つまり三角縁神獣鏡は、出土量が二百面以上ということが書いてあった(小林行雄氏『古鏡』四八べージ、昭40)。現在では、森浩一さんのお話によりますと、出土しているのは三百面を超えているのではないか。必ずしも珍しがられないぐらいよく出てくるわけです。そういう三百面以上というような例が全部古墳から出てくるんです。弥生遺跡から出るのはぜんぜんありません。古墳から全部出てくるものに対して、“これは実は弥生時代の人たちが何かの理由で埋めなかったんだ、そしてずっと地上で使って ーー代々伝えてきて、四〜六世紀の古墳から出てくるんですから ーーだいぶ時間がたっているわけですがーー ともかく古墳時代になって埋められた。ある人は四世紀に埋め、ある人は五世紀、ある人は六世紀、中には七世紀近くになって埋めた人もある。とにかく弥生時代にはぜんぜん埋めなかったんだ、しかし実際はあったんだ”と考えるわけです。わたしの言葉で言うと「全面伝世」という立場で考えているわけです。しかし、私は「全面伝世」という考えは、やはり使ってはならない、と思うんですが、皆さんはどうお思いになりますか。
 ほかの例をあげさせていただきます。変な例ですから、みなさん、だまされないで聞いてください。たとえば弥生式土器というのがありますね。“あれは実は縄文時代に全部つくられたものだ”という議論をだれかが出したとします。“いや、とんでもない”と皆さんおっしゃるでしょう。“何でだ”それはこういう理届です。“あれは全部、縄文時代につくられたものだが、ある理由があって、あの形式の土器はみんな埋められなかったんだ。地上で大事に使いつづけていた。縄文式という型式の分だけ埋めた、あるいは埋まるに任せた。そして弥生時代に入っていきなり弥生時代の人びとが一斉に「埋め」始めた。だからわれわれが見たところ、全部弥生遺跡から出るんだ。しかし実際はあれは「伝世土器」である”もしこういう議論をしたら、考古学者は怒るでしょうね(笑い)。皆さんだって怒るでしょう。“そんなばかなことはない”と。この“そんなばかな”という判断、それが正しいと思うんです。
 それに対して、こういうほほえましい例が一方ではあると思うんですが、どうでしょうか。というのは、弥生時代の子供がいる。子供はみんななまの土いじりが好きですから、土を掘って犬と一緒に遊んでおった。そうしたら縄文土器が出てきた。掘るのではなく、洞穴の中に遊びのついでに入り込んで、そこで見つけた、というのでもいいですよ。そういうことで、偶然、縄文土器を見つけた、ということはあり得るだろうと思うんです。そこで彼は“ちょっと変わった土器だ”というので、面白がってそこにおしっこをしたりなんかして遊んでいた。それが彼がおとなになったあと、埋められてしまった。だからこのケースでは、“縄文式土器が弥生遺跡から出てきた”ということがあっても、不思議はない、と思うんですね。しかしこれはいわば特殊例として、あっても不思議はないということなんです。それを“そういう例があるから”といって、それを前面に押し広げて、“全弥生式土器が実は縄文時代につくられたんだ”というような議論は、口先の言いまわしではいえるけれども、これはやはり使うべき論法ではない、と思うんです。
 もう一つ例をあげさせていただきます。ぐっと新しくなりまして、明治時代にしか出てこない様式の骨壷が明治の墓にあるとします。ところがそれに対して“いやこれは実は全部江戸時代につくられた壷なんだ、しかし何かの理由があって、江戸時代の人がみんなその壷を地上で用いてきた、明治期に入って何かの理由でいっせいにそれを骨壷に使い始めた、だから現象としては、明治時代の墓からしか出てこないけれども、実は江戸時代に全部つくられたんだ”こういう議論をしたら、これはちょっと無理な議論だと、どなたも思っていただけるんじゃないでしょうか。これももちろん例外的なケースだったらあり得ると思います。たとえば明治の人で、江戸時代の壷が非常に好きだった。それを愛好して、一生を過ごした。まわりの人もそのことを知っていたので、彼が死んだとき、彼の愛していた江戸の壷を使って彼の骨を埋めた、と。これは非常に涙ぐましい、というか、ほほえましいエピソードですね。そういうケースはあり得ると思うんです。実際の例は知りませんけれども、あって不思議はない、と思うんです。しかしこれは例外的なケースで、こういう特定のケースが事実あるからといって、それを証拠にとって、“実際上、明治の墓からしか出てこない一定様式の壷群のすべてが実は江戸時代につくられたんだ”という式の論法は、許されてはならない。私の単純な頭では、そうとしか思えないんですが、皆さんはどうでしょうか。これがわたしの先にあげました「公理」をささえる考え方です。
 こういう「公理」からしましたら、もうはっきり三角縁神獣鏡は落第です。弥生遺跡からまったく出てこないんですから、これはやはり古墳時代の遺物として理解すべきである。弥生期に中国から持ってこられたものとして理解すべきではない。私はそう思います。それを私のような素人が考古学の本を読んで不思議なんですけれども、ああいう「全面伝世」の考えで処理するということは、一つの言葉を使わせていただきましたら、私は時の魔術 ーー「タイム・トリック」というほかないのではないか。まさに「時のトリック」だと思うんです。歴史上の真実の追及者は“時の魔術師”であってはならない。やはり平凡な一人間であるべきだ、と私は思っておりますので、こういうタイム・トリックを使ってはならない、そう思います。これが四の1、二つの「伝世」鏡の論理です。

弥生遺跡出土鏡の中心領域

 三角縁神獣鏡は、このように「三世紀の邪馬壹国」の問題を考える上では、全部ダメだ、と思うわけです。そうしますと、もうあとは簡単な算術で、一つしかない。つまり九州の北岸に分布する漢鏡と呼ばれるものだけです。弥生遺跡の中で大量に出てくるものは、それだけですから、これだけが有資格者である、ということになりますね。これを四の2でとりあげました。

第四表弥生遺跡全出土鏡 邪馬台国論争は終った

 そこで、鏡の分布図をつくってみまして驚いたんです。下の第4表ですが、そこに各県別に弥生遺跡から出てくる全出土鏡をしめしました。これは『古代史発掘』(「大陸文化と青銅器」講談社)によりましたが、その本には原田大六さんが発掘された平原(ひらばる)のケースが入っていませんので、それをつけ加え、なお森浩一さんが“これもある”といわれるものをカッコでしめしたら、こういう形になったわけです。
 これをつくって驚いたのは、圧倒的に福岡県に集中している、ということですね。これは後から三番目の欄に漢鏡が集計してあります。総計“百六十五プラス三”で百六十八です。その中で福岡県が“百四十六プラス三”で百四十九です。圧倒的ですね。過半数だの三分の二なんていう、けちくさい話じゃないんです。その次の佐賀県が十一です。あとは三、二、一ですからぜんぜん問題にならないわけです。漢鏡の中心地は福岡県です。これははっきりしています。
 なおそこに書いてある各項目の名前ですが、ちよっと注釈しますと、「後漢末」と書いてあるのはキ鳳(きほう)鏡といわれる鏡で、面白い問題を含んでいるんですが、きょうは省略させていただきます。要するに後漢末といっているのはキ鳳鏡のことです。
 次に「朝鮮鏡」というのもございますが、この表現が正しい表現かどうか、今は一応保留したいと思うんです。「多紐細文鏡」とか「多紐鋸歯文鏡」とか呼ばれているものです。杉原荘介さんの『日本青銅器の研究』の表現によって、「朝鮮鏡」としました。これは朝鮮半島だけでなくて、中国の東北省(遼寧省)からシベリアあたりにまたがる青銅器文化に属するということが書いてありますので(前記の「大陸文化と青銅器」三〇ページ)、そのへんの分布図をしっかりつくってみないとこの「朝鮮鏡」という言葉が正確かどうか、今の私にはわからないんです。イ方製(ほうせい)鏡いうのは日本で漢鏡をまねしてつくった鏡です。

キ鳳鏡(きほう)のキ*は、JIS第3水準ユニコード8641
イ方製(ほうせい)鏡の[イ方]は、JIS第3水準ユニコード4EFF

第五表福岡県弥生遺跡出土鏡 邪馬台国論老は終った

 さて、次頁の第5表を見ますと、筑前と筑後に分けてあります。漢鏡というところを見ますと、筑前の中域百二十九、東域十五プラス一、筑後二プラス二です。この表を見て、筑後山門(やまと)とかそういうところに都の存在を考えるというのはどういうことなんでしょう。森浩一さんに従って“二プラス二”で四ですが、これが首都である、というのはどういうことなんでしょうか。先入観なしにその数字を見ましたら、筑後でなくて筑前が中心だ。筑前が漢鏡の中心地です。筑前の中でも東域でなくて中域、つまり“糸島郡と博多湾岸”であることは明らかです。三角縁神獣鏡はかなり広範に分布していますね。ところが漢鏡はあまり分布していない。圧倒的多数が糸島郡と博多湾岸に入っているわけです。そうしますと、これも私の頭では、簡単明瞭なこととして、中心地は糸島郡、博多湾岸、この一帯の領域である。卑弥呼がもらった鏡というのはここにある、と考えざるを得ないのです。
 皆さんは、“だって漢鏡というんだから、漢の時代の鏡で、漢のときにもらってきたんじゃないか”とおっしゃるかもしれません。この問題を吟味してみましょう。
 よく私に対して反論する論者に、“古田は何でも『三国志』をやみくもに正しいと思い込んでいる”という意味のことを書いている人がいるんですが、私は自分ではそう思わないんです。
 といいますのは、たとえば魏の明帝が卑弥呼に渡した詔書の文面には、ほんとうの半分しか書かれていない。しかも表面づらしか書かれていない、と思うわけです。その理由をいまから申します。三国時代というのはどういう時代かといいますと、漢が終りまして、そのあと三つに分裂します。魏、呉、蜀れぞれの国が“自分こそ漢の正統な後継者である”ということを主張したわけです。その場合に、一番有利な位置に立ったのは蜀なんですね。なぜかといいますと、劉氏ですから、漢室の天子の血を受けているわけです。分流でしょうけれども、とにかく“血を継いでいる”わけです。ですから「大義名分」上、一番有利な立場に立ったわけです。これに対して、魏としては苦しいところでありますから、そこでもち出しましたのがいわゆる「禅譲」の議論ですね。つまり“漢の最後の天子(献帝)からわが魏は天子の位を平和裏に受け継いだ。その先例はちゃんとある。尭(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)がそれだ”と。しかも尭は舜から禅譲を受け、そのあと自分の子孫に伝えて夏(か)王朝をつくった、とされていますから、魏朝にとって一番都合がいいわけです。これが魏王朝の模範だ、というわけで、「禅譲の理論」で相対抗しました。
 たしかにそういえばいえる、という点もあります。漢、魏と名前は違いましても、実際は最後の天子一人だけ隠遁させられたわけです。おそらく強制的に隠遁(いんとん)させられたのだと思いますが、そしてナンバーワンの臣下であった曹丕(そうひ)、彼は例の諸葛孔明と戦った曹操の息子ですが、彼が第一代の魏の天子の位につきます。ですからナンバーワンの臣下が天子に格上げされたわけで、あとの朝廷のほぼフルメンバー(全員)は魏に受け継がれました。それは、人間だけじゃなくて、漢の倉庫の全財宝も、みんな魏が受け継いでいるのです。漢の末期には、前漢から後漢にかけて、前漢鏡、後漢鏡、ともに受け継がれて、全部魏朝の持ち物になっていたわけです。そうなって間もなく、十八年くらいたって卑弥呼が使いをよこします(後漢滅亡は二二〇年、卑弥呼第一回遣使は二三八年)。それに対しての魏の明帝の詔書に“銅鏡を百枚やる”と書いてあるわけです。あれには「魏の鏡」とは書いてない。少なくとも漢の鏡か魏の鏡か明確にはわからない。これははっきり文献批判からいってそういえると思うんです。
 しかも、もっとつきすすんでいえば、もし魏の鏡だったならば“漢の鏡と違って、魏の鏡をこういう意味合いで与える”と意義づけて書きそうなものですが、それを一切抜きにして“銅の鏡を与える”とだけいっている。そういう言い方から見ても、これは漢の鏡ではなかろうか、そういうムードがある。ムードだけではなくて、理屈からいって私はその可能性のほうがはるかに大きいと思うのです。なぜならば、あの詔書の内容が、“銅鏡百枚その他をやる。だからこれをお前の国人に見せて、わが中国の朝廷がお前の国を哀れんでいるということを知らしめよ”と書いてある。だからお前の「好物」である鏡をやるというわけです。しかしこれは真実の半面です。その裏側は、「漢の正統な継承者は魏であるぞ、ゆめゆめ呉ではないぞ」ということをいいたいのですね。この場合蜀は地理的に遠いから問題にならない。ところが呉は倭国と海上で交通し得る。地理的に対岸みたいなものですから、呉は大いに問題になるわけです。呉に対して朝貢されては困るわけです。だから“呉は正統なる継承者ではない。わが魏は正統な継承者である。その証拠にお前のところに前漢、後漢時代に行っている汝(なんじ)の好物の鏡、あれとくらべてみよ、同じ鏡だ”と、簡単にいえば魏の朝廷による、漢の正当な継承者としての身分証明書です。それがほんとうの利害上の真実だ、と思うんですが、それは文面に書かれていない。表面は体裁のいい恩恵ムードで書いてありますが、私はそう思って間違いない、と思うんです。そうしますと、これはやっぱり、「漢の鏡」でなければならない。そういうことになってくるわけです。
 その場合大事なことは、別に後漢の鏡と書いてない。漢の帝室の倉庫にあったのですから、これは伝世鏡というよりむしろ在庫品です。あえていえば在庫鏡です(笑い)。ですから「前漢の鏡」があってもいいし、「後漢の鏡」があってもいいわけです。
 これに対して、皆さんは“いやそういう可能性はあるかもしれないが、銅鏡と書いてある。とすると、魏の鏡も銅鏡だから魏の鏡の可能性もあるじゃないか”といわれるかもしれません。そのとおりです。“漢の鏡である可能性が非常に高い。逆に魏の鏡である、と断定しうる理由はまったくない”ということはいえましても、決定的にどっちの鏡だということは、「銅鏡」という言葉自体からは、決定的な答えが出てこない、というのが正確な結論です。
 これに対する答えは何から出てくるか。日本列島の遺跡事実から出てくるわけです。さっきいいましたように、弥生遺跡からどんな鏡が出てくるかを観察すればよろしい。そうすれば、いまのように日本列島全体を眺めまわしても、弥生遺跡から出てくる大量の鏡は漢鏡しかない。この事実から見ると、その銅鏡というのは、やはり漢鏡しかない、ということになりますね。遺跡事実から明確に解答し得る、ということになります。
 そうしますと、その漢鏡をもらった、都の中心はどこか。これは三角縁神獣鏡の場合どころじゃない。あの場合は京都の山城の大塚山古墳を中心にして小林さんの同范鏡の理論が展開されましたけれども、漢鏡の場合は理論も何もいらないぐらいに福岡県に集中し、福岡県の中でも筑後でなくて筑前に集中し、筑前の中でも東域でなくて中域に集中しています。そうすると、女王国は、中域つまり糸島郡から博多湾岸が中心地域だ、こうなってくるわけです。

三つの出土物

 最後に四の3として鏡と銅矛・銅戈と甕棺(かめかん、みかかん)の「三つの出土物」をとりあげます。女王国が筑前中域だとなってきますと、この中で、伊都国は女王国ではない。倭人伝でも女王国へ行くとき、通ってゆく途中の国名ですから。とすると、やっぱり女王国は博多湾岸以外にない。簡単に答えが出てくるわけです。
 ただし、いまの答えの出し方は簡単で、今の場合、それほど文句は出ないかもしれませんが、方法的には厳密でない。なぜかといいますと、“倭人伝の伊都国は女王国へ行く途中だから”というふうに、文献を使うからです。いま遺跡を見る場合は、なるべく文脈解読を使わないほうがいいわけです。だからもう一回落ちついて考え直してみます。

第六表筑前中域弥生遺跡出土鏡 邪馬台国論争は終った

 そうしますと、ここでひとつ問題になりますのは、第6表です。ここに糸島郡と博多湾岸と周辺山地とをくらべてみます。糸島郡が九十三で、博多湾岸と周辺山地は三十六です。圧倒的な大差とはいえないかもしれないけれども、糸島郡がやはり第一位です。博多湾岸が第二位であることは明らかです。これはいったいどういうことか。原田大六さんはこの一点をとらえて、糸島郡が中心であるといわれる。もちろん時代的には、漢鏡ということで、後漢段階に相当する時代にあてられるわけです。しかしこの場合、問題にすべき三つの出土物があると思うんです。
 といいますのは、一つは鏡です。もう一つはさっきいいました銅矛・銅戈。これが博多湾岸に圧倒的に集中している。実物も集中しているし、鋳型に至っては大差をもって一位と二位の間が開いている。もう一つは甕棺です。甕棺が博多湾岸からおびただしく出てくることは皆さんご承知だと思います。須玖(すく)遺跡を含む春日丘陵には甕棺出土地点が数十カ所。そして須玖遺跡の東南約一キロに当たる伯玄社遺跡というところでは、総数百八十基の甕棺や土[土廣]墓、箱式石棺墓が出ている。また須玖遺跡の南一・五キロにあたる位置の一ノ谷遺跡というところでは中期後半の甕棺が多数出ている(以上、末永雅雄監修『日本古代遺跡便覧』三〇五ぺージ参照)。特にその中で注目すべきは、従来では最大の甕棺が出ています。これは『「邪馬台国」はなかった』の終りのほう(二八七ページ)に写真が出ておりますけれども、百五十二センチぐらいで、日本最大の甕棺が出てくるわけです。これは最初の版では地名が間違っていましたが、春日市の白水(しろうず)というところです。

[土廣]は、四水準、ユニコード569D

福岡県須久・岡本遺跡を中心として弥生期から古墳期までの遺跡分布図

 ここで思い出しますのは、原田大六さんが掘り出されました日本最大の鏡というのがあることです。ところが日本最大の甕棺は須玖遺跡の近辺から出てくる。最大の甕棺といっても、偶然背の高い人が埋められたから、最大の甕棺になったとは考えられません。要するに権力がバックにあって大きな甕棺がつくられたのだ、と思います。
 さて、肝心の問題。銅矛、銅戈は武器型のものです。当然、軍事力のシンボルであると私は思います。甕棺というのは人口に関係する。甕棺に葬られうるのは、豪族かもしれませんが、そのバックには無論民衆があります。ですから人口に関係するわけで、博多湾岸に圧倒的に甕棺の出土量が多いということはそこに人口が集中していたことを意味します。とすると“軍事力と人口が集中しているところ”は、当然権力の中心だと私は思うのです。
 これに対して鏡は軍事力のシンボルではない。あれは“太陽信仰の神聖な祭器”です。そうすると、太陽信仰の神聖な祭器の地は糸島郡だということになります。糸島郡が“聖地だ”ということは、よくこのごろいわれるんですが、その「聖地」を聖地たらしめている権力の所在はどこか。鏡がわずかしか出てこず、甕棺も武器のシンボルも、博多湾岸にくらべればごくわずかしか出てこない筑後山門などを都にすることはできないわけです。「聖地」を聖地たらしめているのは、権力者であるから、その権力の中心地にも、いわゆる「聖地」糸島と同質の鏡がかなりの量出てくることが条件だ。こう考えますと、やはり、都は博多湾岸と周辺山地しかないわけです。
 そこで最後に申し上げたいことがあります。いままで三角縁神獣鏡は、卑弥呼の問題を考えるときにはダメだ、といった方は何人かおられます。その先覚者が森浩一さんであり、松本清張さんです。また最近、高津道昭さんが『邪馬台国に雪は降らない』(昭50.6、講談社)という変わった題の本を出しておられますけれども、その中で“漢鏡が卑弥呼のもらった鏡だろう”といわれていますが、肝心の邪馬台国は桜島のところに持っていっておられます。鹿児島県はぜんぜん漢鏡の出土などないので、どういうことかと首をかしげて読みました。いま、“三角縁神獣鏡は卑弥呼と関係ない”という立場に立ちました場合において、なおかつ“糸島郡は伊都(いと)国であり、博多湾岸は奴国(ぬこく)である”としたら、どうなるでしょうか。いいかえると一方で江戸時代の本居宣長や新井白石あたりからの「定説」である「博多湾岸奴国説」を、そのまま持ち伝えながら、他方で三角縁神獣鏡を退けますと、あと鏡が集中的に出てくるところはぜんぜんないわけです。だから名前をあげて失礼ですけど ーー学問のこととご容赦願いますーー たとえば松本清張さんがこの三角縁神獣鏡を退けられた。『古代史疑』の中に優れた論文(「三角縁神獣鏡への懐疑」)が載っております。そうしますとあとは漢鏡しかないわけです。ところが松本さんは、わたしの説をダメだといっておられるわけです(「歴史と人物」昭50・4、三二ページ、「週刊読売」昭50・7・5、四二ページ)。そうすると鏡の大量に出るところはもうどこにもない。一方で里程について陳寿が書いているのは、でたらめ(造作)だ、といっておられるわけです。ですから、里程問題から終着点を決めるという方法はない。鏡からもダメだ。そこで九州の北部から中部にかけてのどこかだろうけれども、それは永遠に解決しそうにない、と書いておられる。要するに、三角縁神獣鏡を退けておきながら、博多湾岸を奴国にして、女王国ではないとしてしまったら、もう絶対に女王国の都は見えない。忽然と都は消失してしまうわけです。江戸川乱歩の『鏡地獄』というのがあります。そこに入ったら、何もぜんぜん見えないか、すべてがゴチャゴチャに映っていて、ぜんぜん焦点が定まらない、といいます。松本さんはそのミラーボックスというか鏡地獄の中に入られたのではないか、という感じがするわけです。
 その点、森さんも、この前までは同じだったんです。「伝統と現代」26(昭49.3)に書かれている場合はそうでした。通説に従って博多湾岸は奴国だという立場で書いておられるようです。ところが最近では、『邪馬台国九十九の謎』(「産報」昭50・10、一七九ぺージ)で初めて、伊都国は間違いないだろうけれども、博多湾岸は奴国とは断定できない、という趣旨のことを書いておられる。微妙ですけれども、いい意味で重大な“説の変更”ですね。博多湾岸が奴国だというのは、「絶対確実な推定とはいえない」という一片の言葉は、どういう意味か、といえば、奴国以外の、たいしたことのない国ということではありません。あれほどの遺跡(須玖遺跡等)が出ているのですから。結局邪馬壹国ということです。その可能性をいっておられるわけです。いわば、私の説に対して“窓をあけられた”ということで、言葉は非常にささやかだけれども、大変興味深い「表現の変更」だと思っているわけです。
 それはともかくとしまして、こうしたミラーボックスに閉じ込められまいとすれば、三角縁神獣鏡から離れ、新井白石や宣長の間違いから離れたら、結局、博多湾岸を女王国の中心と見る、という地点に立ち至らざるを得ない。それが来年だろうと、五年、十年あとだろうと ーーそれはその人自身の問題になるんですけれどもーー そこに行き至らなければ、いかにもがいても、ミラーボックスの中に閉じ込められてしまう。これが私がきょういいたい結論です。これを最後の論点として提出して、すべての論者の反論を首を長くして待っていたい、こう思います。
 最後に申し上げたいことは、この華やかな邪馬台国論争にぜひともすじめをつけて、かみ合わせるようにしようではないかということです。そのためには、論者に呼びかけるだけでなくて ーー決め手は一般の、古代史に関心を持つ人びとすべてだと思いますーー そういう人びとが問題の論点を見つめて“この論点にこの論者は答えているかどうか”という目をもって質問をする、話し合う。そういう目がある限り、早晩問題は煮つめられてくるだろうと思うのです。私としては、本質的には邪馬台国論争はもう終っているんだ、文献解読と遺跡・遺物の事実がハッキリ一致した以上は、事実上終っているんだ、と思うわけです。“そうではない”と思う人があれば、喜んでいつでも反論をお受けしよう、私はそう思っています。


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