「橿(モチのキ)はアワギ」の発見(会報105号) 西井健一郎
新羅本紀「阿麻來服」と倭天皇天智帝
大阪市 西井健一郎
一、「阿麻」とは誰
三国史記・新羅本紀・文武王八年条の冒頭に“八年春。阿麻來服。遣元器與浄土入唐。浄土不歸。元器還。有勅此後禁献女人”との記述が載る。つまり、「阿麻」という国や地域か、「阿麻」王かその姓を名乗る豪族かが新羅に降伏を申し入れにきた、との記事である。続けて解すれば、「降伏を申し入れに来たので、新羅の役人を二人、唐朝へ報告に行かせた」ととれる。しかし、文武王紀とその前後に「阿麻」と戦った記事はない。その正体をつかむ手がかりはない。この文武王八年は西暦六六八年、書紀では天智帝七年にあたる。なお同王十一年七月条の大王報書に、この八年に唐が倭国を攻めるためといって船を修理させたが、実は新羅を攻めるためとの情報が入り、“百姓聞之、驚懼不安”との記載がある。
この「阿麻」とは何者か。
この七世紀当時、「アマ」として極東に知られているのは、あるいは記録に残るのは、九州王朝の王の姓「阿毎」である。隋書イ妥国伝(岩波文庫「中国正史日本伝1」)に“自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年イ妥王姓阿毎字多利思北孤號阿輩鷄*彌”とある。
イ妥*:人偏に妥。ユニコード番号4FCO 「倭」とは別字。
鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE
それは魏志倭人伝にみる卑弥呼以来の九州王朝の当主、タリシホコの姓だ。旧唐書も“倭國者古倭奴國也。‥。其王姓阿毎氏”と記す。
ならば、降伏を求めた「アマ」氏は六六三年に白村江で敗北を喫した倭国王、九州王朝の当代の主だったとも考えられる。百済の残存軍を支援した九州王朝は白村江で唐・新羅連合軍と戦い将兵を失ったが、同王朝はその後も九州に残存していた。古賀達也氏は、その証として伊予三島縁起に残る「大長九年壬子」との
九州年号を挙げる。少なくとも大長九年(七一二年)までは九州王朝は元号を建てていた、つまり王家が存続していたとする。新羅本紀の阿麻氏が九州王朝の王とすれば、その白鳳八年の出来事になる。
その年に対戦相手であった新羅に降伏を申し入れたけれども、白鳳は廿三年(六八三年)まで続く。王朝は継続し、王の交代もなかったことを示す。ただ、何らかの波紋の広がりがあったとすれば、そのひとつが紀に載る後述の天智帝の即位だったと考えられる。
二、なぜ、「阿麻」なのか
では、なぜ九州王朝が「阿麻」と表記されたのか。
それはおそらく、日本代表としての倭王の地位と呼称を剥奪されていたからだ。
私見では、天武帝が政権を奪取し国内権力の一元化を図るまでは、日本国内は王乱立の時代だったと考えている。隋書イ妥国伝に“魏時譯通中國三十餘國皆自稱王”とある状況が続いていたとみるからだ。魏時代よりは淘汰されて国数は減っていただろうが、織豊時代直前の戦国時代末期のように、各地に王がいて各自、好みの統治体制を敷いていた、と思う。その各地の王が倭国つまり日本列島の代表者として認められるべく、中国朝に詣でていたのだ。その中で最も強力で忠誠心が高いと判断されたのが卑弥呼以来の九州王朝であり、当時の日本の全国土を指す言葉「倭」をかぶせた「倭国王」の称号を与えられてきた。一番大きい大名であった徳川家が日本を代表したのと同様、群立する大名(各地ごとの王)の中で一番の有力な者であり、それら群の代表者に指名されたとの意である。それは全国民の生殺与奪の権を持つ中央集権化された絶対君主制の王ではない。後に触れる倭王や倭皇も同様、中国からみた倭という辺地の中国が代表者と認めた豪族長との意である。念のため追記すると、日本が日本国になってからも中国では日本列島のことを「倭」と総称していた。「倭寇」などがその最たるものだ。
で、おそらく白村江の敗戦により、九州王朝の王は倭国域の代表たる倭王の呼称を取り上げられ、認められなかった。しかし永年、九州に君臨してきた実績はあるから、戦勝国の新羅本紀は「倭王」の代わりに、その姓の「阿麻」を使い記載したのだ。同書には百済滅亡戦に関する大王報書中に、“(百済は)交通倭兵”とも“此時倭國船兵。來助百濟。倭船千隻、停在白沙”とあるから「倭国」の名を知らなかった訳ではない。
三、敗戦九州王朝の支配者・筑紫都督府
であればその当時、倭国を代表していたのは誰か。
それは筑紫都督府である。
紀の天智六年(六六七年)十一月条に“百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府”との記事が載る。注に「筑紫大宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」とあるが、違う。負けた百済を熊津都督府が支配していたように、少なくても六六七年当時、倭王朝の地域は筑紫都督府が支配していたのだ。勉強不足で未確認なのだが、両都督府とも唐朝官人の都督がいたと考える。この使人・法聡は四日後に帰ったとあるから、ものすごく事務的な引き渡しをしている。つまり、同じ制度下にある同格の仲間同士間で引継ぎ手続きをしたことを示す。これに比べ他の天皇家への外国使は何ヶ月も滞在し、天皇からの饗宴も受けている。
この唐朝の筑紫都督府が九州地方を取り仕切った事実を、九州王朝と並立した近畿圏の独立統治体である近畿朝は他人事として無視できたのではないか。また紀編纂時の天皇一元史観とも合わなかったから、日本書紀からはネグレクトされたのだろう。
四、天智天皇は近畿・東海・中国の主
とはいえ、日本書紀はこの時の日本の代表を天智天皇と記す。滋賀県の近江に都した天皇である。ただ、この天皇が支配していた区域は近畿・東海圏と中国地方の東部であった、とみる。それは先行する皇極元年九月条に“辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以来、欲營宮室。可於國々取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁”とあるからだ。明治政府が普及させた皇国史観からみれば、支配する全国の国の内から近畿に近い一部の国々を選んだようにみえる。が、それらの国々だけが近畿王朝の実支配圏だった。その部分を受け継いだのが孝徳帝であり、天智帝であり、天武帝なのだ。
それは九州島を統率した九州王朝に比肩できる広さだけれど、中国を中心とする国際政治社会では国王として認めていない単なる地方豪族だった。七○二年を越えて日本国として認知されるまでは。
もっとも、ややこしい話があって、天智天皇が崩去した翌年三月、九州にいたらしい唐の百済鎮将劉仁願[りゅうじんがん]の派遣した使者・郭務宗*[かくむそう]が奉った表函の題に「大唐皇帝敬問倭王書」とあった、と十二世紀の書(「善隣国宝記」の元永元年四月二七日「菅原在良勘文」)に書き残されている。素直に解すれば、九州王朝に替わって天智帝が倭王に認定されていたと考えるべきなのだが。しかし、九州王朝が残存していた状況下で、郭務宗*は前年十一月に来日した時から本当に天智帝に渡すつもりだったのだろうか。
郭務宗*(かくむそう)の宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5
五、日本鎮西筑紫大將軍とは
とはいえ、この時、唐が天智帝を倭王と認定しようとしたのではと疑える出来事が、先行の天智三年五月条の郭務?の来訪時にあったようだ。その注には「来訪の目的は、唐が百済占領政策について日本の諒承を得るためであったとする説がある。しかし、朝廷は彼らを国使と認めず。筑紫大宰で処理して上京を許さなかった。詳細は海外国記にある」と載る。天智三年は白村江敗戦の翌年、勝利者の唐が注の言う諒承を貰いにくる筈がない。
補注によれば、海外国記は天平五年(七三三年)・春文撰とある本らしく、文明二年(一四七〇年)に著された「善隣国宝記」にその天智三年四月の大唐客来朝記事が引用されている。補注のそこを要約すると、天智帝の近畿王朝の官僚は郭務?の提出した書状を見て、「これは中国の天子からのものではなく百済鎮将の私信である。だから天皇に会わせ、見せることができないから、口頭で奏上しておく」と筑紫の太宰に言わしめた、とある。
この時の筑紫太宰職とは、私見では、今の各県の東京出張所と類似の、近畿王朝の筑紫事務所の所長である。近畿朝にとって筑紫は異国だから大使館か。法聡が筑紫都督府へ来た翌年に“以栗前王、拝筑紫率”とあるが、筑紫都督府長なら都督に任じられるべきだからだ。彼は筑紫都督府への連絡所長だったのだろう。ただし、遥任だった可能性がある。
十二月になって、博徳が唐客に函上に鎮西将軍と著した牒書を渡した。その文には“日本鎮西筑紫大將軍牒在百済国大唐行軍?管。使人朝散大夫郭務宗*等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃爲執事牒。牒是私意、唯須口奏、人非公使、不令入京。云々”、と記していた、とある。
補注は牒の内容には触れていないので不明。推測すれば、百済救済に肩入れした代償を求めたか、よい話なら九州王朝に代わって倭王にならんかとの話だったのでは。天皇との面会を拒否したということは、よい話ではなかったのだろう。中国側からすれば、国としての認定もしていない倭国の地方蛮族=近畿朝からの反応は面白いものではなかった筈だ。ただ、私牒と指摘したから、天武元年三月の郭務宗*の書函に「大唐皇帝云々」の表記がされていたのかもしれないのだ。
ここの注目点は「日本鎮西筑紫大將軍牒在百済国大唐行軍總*管」との標記。
總*は、総の別字。糸の代わりに手偏。JIS第3水準、ユニコード6460
第一に、この時代にまだ日本国との国号はなく(天智十年の函書きでも倭皇)、伊吉連博徳が文武帝期になってから記したものとされている。書頭にある天智三年の天智の諡号も天平五年にはまだ定められていなかった、とのことだ。原文は倭か倭国だったのだろう。
第二に鎮西筑紫大將軍牒。目下百済に居る大唐行軍總*管が出した、倭国の西部(つまり九州王朝圏、東部の近畿圏は含まないの意か)を鎮めている筑紫將軍としての牒との意味だ。筑紫大將軍とは筑紫都督の上位職なのか、同一職か不明。中国では全天下を意味する九州と記せなかったから、筑紫將軍と表記したのかも。ただ、九州王朝と呼ぶのは古田史学の徒の慣習であって、正式には百済王や新羅王と並ぶ筑紫王だったのでは。
鎮西された九州王朝ならともかく、別の独立政体を自負する近畿の天智朝には対抗意識があり、へいへいと筑紫將軍との名の命に從う訳にはいかなかったのだろう。
六、天智天皇、即位す
天智天皇は前述のように“七年春正月丙戌朔戊子、皇太子即天皇位”と紀は記す。阿麻来服と新羅本紀が記す文武王八年春と同じ六六八年のことである。紀には、「ある本は、六年の三月即位と云う」との原注がある。この場合、近江遷都と同時に即位した訳だ。本当はこちらが正しい可能性がある。それは近畿王朝の主の座に着いたとの意味をもつ。が、国際的には意味をもたない即位であった。となると、阿麻来服のあった年に紀本文が即位と記したのは、唐と新羅に倭王(倭の代表政体)として仮認されたから、と推測できる。
そのためか、その年の九月に来た新羅使に託して、同国の有力大臣金[广/臾]信と新羅王との二人に一隻ずつ船を贈っている。また、十二月には新羅王に絹や綿、干し皮を贈る。新唐書東夷伝(岩波文庫「中国正史日本伝2」)には“天智立、明年使者與蝦夷人偕朝”とあるから、蝦夷を伴って唐朝へ行かせてもいる。
金[广/臾]信の[广/臾]は、广編に臾。JIS第3水準、ユニコード5EBE
とはいえ、近畿王朝は正式に倭国王と認定された訳でもなさそうだ。
というのは、新羅本紀には次代の天武帝のものを含め、倭国あるいは日本との使節往来の記事は一行もないからだ。中国から冊封されていなかった、国として認められていなかったから、中国の冊封体制下にある新羅としては正史に載せ得なかったととれる。ために、阿麻来服の次の記事は三十年後、文武王の孫・孝昭王の七年(六九八年)三月の「日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した」である。
孝昭王七年は日本では文武二年、まだ大宝年号も建てられていない未冊封の時期である。もっとも新羅本紀は先行の文武王十年(六九〇年)十二月条に、(新唐書東夷伝中の“咸亨元年(六九〇年)遣使賀高麗、後稍習夏音、惡倭名更號日本。使者自言國近日出、以爲名”から写したと通説の)“倭國更號日本。自言近日出所。以爲名”と記す。だから、大儀上、倭国を日本国とした可能性もあるのだが。
以上、阿麻来服をわが史観でたどると、皇国史観では見えなかったものがみえてくる。ただし、新羅本紀の「阿麻」が、隋書に見る「イ妥王姓阿毎」のこととすれば、の話だが。
終
〔依拠史料、岩波文庫「古事記」「日本書紀」〕
編集後記
今号は一〇〇号記念として、二十四頁の構成となった。古田先生からはお祝い代りの論文を戴いた。有り難うございます。大下さんには七月のシンポジウムを見事にまとめて戴いた。会報初登場は当会小林副代表と並ぶ史跡めぐりハイキングの雄、岩永さんの驚異的記録である。まさに陸行一月太宰府に至る、万一千余里、である。恐れ入りました。尚、次号からは通常通り十六頁構成に戻ります。悪しからず。(西)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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