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神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱予・玉垂命
川西市 正木 裕
本稿では、『日本書紀』において、三世紀の卑弥呼・壱予、四世紀の高良玉垂命などの九州王朝の女王が神功皇后に擬せられていること、その潤色の手法が「二運・一二〇年のずれ」である事、玉垂命の系列が倭の五王であることについて述べる。
一、神功皇后に擬せられた卑弥呼・壱予
1、神功紀の卑弥呼・壱予
『魏志』に記す卑弥呼・壱予が神功皇后に擬せられていることは、『日本書紀』神功紀に以下の通り両人の事績が盗用されていることで明らかだ。
(1).卑弥呼
『書紀』神功皇后摂政三九年(己未二三九)是年、太歳己未。
〈魏志に云はく、明帝の景初三年(己未二三九)六月、倭の女王大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。四〇年(庚申二四〇)。
〈魏志に云はく、正始の元年(二四〇)に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。四三年(癸亥二四三)。
魏志に云はく、正始の四年(二四三)、倭王、復使大夫伊声者・掖耶約等八人を遣して上献す。
(2).壱予(壹與)
『書紀』神功皇后摂政六六年(丙戌二六六)。是年、晋の武帝の泰初(始)の二年(二六六)なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。
ここでは『書紀』紀年と、『魏志』や『晋書』など海外史書の紀年(概ね実年と考えられる)を一致させて、あたかも神功皇后が卑弥呼・壱予であるかのように記している。
2、内容は四世紀
しかし、神功紀に記す新羅・百済との戦闘や交渉・交流は、両国の歴史から三世紀ではありえず、早くとも四世紀中葉の出来事なのだ。
まず、史料上で百済の出現は、『晋書』帝紀、咸安二年(三七二)正月、百済の近肖古王(即位三四六)の東晋への朝貢記事が初。
次に新羅は、『秦書』前秦の世祖宣昭帝の建元十三年(三七七)、新羅国王楼寒(奈勿麻立干。即位三五六)の前秦への朝貢記事が初であり、卑弥呼の時代ではありえないのだ。
3、二運・一二〇年繰り上がった神功紀
一方、神功紀には二運・一二〇年繰り上がった記事がある事も確かだ。例えば、
(1).肖古王薨去記事は『書紀』では二五五年とされているが、海外史書で三七五年となっている。
◆『書紀』神功五五年(乙亥二五五)。百済の肖古王薨せぬ。
◎『三国史記』近肖古王(三四六~三七五)三〇年(乙亥三七五)冬十一月王薨
(2).また、貴須王薨・枕流王即位去記事も一二〇年繰り上がっている。
◆神功六四年(甲申二六四)。百済の貴須王薨りぬ。王子枕(とむ)流王、立ちて王と為る。
◎『三国史記』近仇首王十年(甲申三八四)夏四月、王薨。枕流王元年(三八四)継父即位
つまり、神功皇后紀では実年と合った卑弥呼・壱予記事と、二運・一二〇年繰り上げ「干支」を合わせた半島関係記事が混在する構成となっている。
二、高良玉垂命と七支刀
1、七支刀献上記事と石上神社の七支刀
こうした一二〇年繰り上げで注目されるのが神功紀の七支刀献上記事と石上神社の七支刀銘文だ。
石上神社は物部氏が布都御魂剣と大神を祀る神社であり、物部氏の守る武器庫でもあった。そこに伝来する七支刀の銘文には泰(和)四年(三六九)にこの刀が「倭王旨の為に造られた」と記す。
◎石上神社の七支刀銘文
(表)泰(和)四年(*己巳三六九)五月一六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供(侯)王
(裏)先世以来未有此刀百濟(王)世□奇生聖音故為倭王旨造(傳示後)世
そして、『書紀』では神功五二年に七支刀献上記事がある。
◆『書紀』神功五二年(壬申二五二・二運繰り上げで三七二年)九月丙子(十日)(略)(百済肖古王)七支刀一口、七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。
神功五二年の実年が三七二年であるのは、先の肖古王薨去記事の例から確実と考えられ、かつ神功四九年の「七ヶ国平定」と領土確保の礼であると解釈できる。
◆神功皇后四九年(己巳二四九・実年三六九)春三月に、荒田別・鹿我別を以て将軍とす。則ち久氏*等と共に兵を勒(ととの)へて度りて、卓(とく)淳国に至りて、将に新羅を襲はむとす(略)。
氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10
即ち木羅斤資・沙沙奴跪に命して、精兵を領ゐて、沙白・蓋盧(かふろ)と共に遣しつ。倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破りつ。因りて、比自[火+本]・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定(ことむ)く。仍ち兵を移して、西に廻りて古爰津に至り、南蛮の枕弥多礼を屠き、百済に賜ふ。
つまり神功紀で半島関係記事を二運・一二〇年繰り上げれば、七支刀を贈られた「倭王旨」の事績も卑弥呼時代の人物としての神功皇后の事績に取り込めることになるのだ。
2、四世紀中葉の「倭王旨」と玉垂命
それでは、繰り上げられる前の四世紀中葉で神功皇后に擬せられる「倭王旨」の候補はいるのだろうか。
その条件としては、卑弥呼・壱予と併されていることから、彼女らの系列、即ち筑紫の人物であり、神功同様女性の可能性が高いと考えられる。
ところで、古賀達也氏によれば、大善寺玉垂宮の由緒書では、初代の玉垂命は仁徳五五年(三六七)に筑後三瀦に来て、同五六年(三六八)に賊徒を退治。同五七年(三六九)に高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七八年(三九〇)この地で没したという。(註1)
まさに神功皇后の七ヶ国平定と同時期の存在となるのだ。
また、『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように玉垂命は女性で、いわば女王とされていることも神功皇后と同じなのだ。
そして、大善寺に近い筑後みやま市(旧瀬高町太神)のこうやの宮(磯上物部神社)に七支刀を持つ武人の人形が伝世している。高良玉垂命が物部であることは著名な上、同神社も物部の神社で、「いそのかみ」と呼ばれるのも「石上神社」と同じであり、石上神社の七支刀との関連が推量される。
同神社には、他にも北方高句麗風・倭人風・南方土人風・五七桐紋の貴人などの人形もあり、古田武彦氏は「『祝典あり。四方より使者きたる。』の姿を、人形で表現したのだ (註2) 」とされ、古賀氏は「玉垂の命の筑後三瀦遷宮祝賀式典に参列した、海外諸国等の使者を人形に模ったのではないか」とする。この考察が正しければ、
「高良玉垂命の三六九年の三瀦遷宮を祝す為百済は刀を造り、七か国平定に因んで七支刀という特異な形状とした。そして新羅戦後の三七二年に遷宮式典が開催され、諸国からの参賀・朝貢の中で七支刀が贈られた。この式典を模して人形が造られた」
という事となり、年代も合い、七支刀の作刀動機や形状の意味も、磯上物部神社の人形が何かも合理的に説明できる事になる。
ちなみに『書紀』に七支刀の所在は記されず、正倉院にも収蔵されていないところから、玉垂命の流れをくむ物部一族が、何時かの時点で筑後から石上神社に運び秘蔵していたのではないか。この刀は自らが神功皇后の直系、即ち倭王の系列である事を証明するものであり、逆に所有が近畿天皇家に明らかになれば一族の滅亡にも繋がりかねないものだからだ。
三、玉垂命と「倭の五王」
さて、玉垂命が神功皇后に擬されていると述べたが、玉垂命は三九〇年、神功は三八九年と、両者は没年も類似している。
◆『書紀』神功六九年(己丑二六九・実年三八九)四月丁丑(十七日)皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。〈時に年一百歳。〉
そして玉垂命の没年は応神元年(二七〇年・実年三九〇年)と合致する。一方玉垂命には「九体の皇子」がいたという。
(1)斯礼賀志命神、(2)朝日豊盛命神、(3) 暮日豊盛命神、(4)渕志命神、(5)谿上命神、 (6)那男美命神、(7)坂本命神、(8)安子奇命神、(9)安楽応宝秘命神だ。
『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。つまり、
◎九州王朝:玉垂命(~三八九) ーー 長男斯礼賀志 ーー 次男朝日豊盛 ーー (この系統が継ぐ)という系列だ。
ところで、これ以後の倭国は「倭の五王」の時代に入っていく。
倭の五王の「讃」は「晋安帝の時(三九六~四一八)倭王賛有り」とされ、四二一年と四二五年に朝貢している。四三八年に朝貢記事の見える「珍」は讃の弟とされる。(『宋書』讃死して弟珍立つ)。そして「珍」(『梁書』では「弥」)の息子が「済」(四四三年と四五一年に朝貢)。その息子が「興」(四六二年朝貢)。その弟が「武」(四七八年朝貢)なのだ。つまり、
◎倭の五王・・「讃」 ーー 弟「珍」 ーー 息子「済」 ーー 息子「興」 ーー 弟「武」
という系列で、兄「讃」を弟「珍」が継ぎ、その系列が累代の倭王となる。これは、玉垂命の系列と一致する。そして「讃」は斯礼賀志命であり、『書紀』では応神に擬せられ、「珍」は朝日豊盛命となろう。
通説では、何とかして倭の五王を近畿天皇家の天皇と接合しようとするが、年代・血縁関係の何れかが矛盾するうえ、天皇が一字名を名乗った事はなく、また朝貢記録もない。
しかし、玉垂命を九州王朝の天子=倭王(七支刀には「倭王旨」とある)とすれば、年代・血縁関係も矛盾なく説明できるのだ。
近畿天皇家には女王がいなかった。しかし海外史書には卑弥呼・壱予がいた。また現在でも九州には神功皇后伝承・信仰が色濃く残っているほどだから、恐らく当時新羅・百済と交流した倭国女王の記録・記憶はより鮮明だったと考えられる。こうした女王の事績を取り込むために神功皇后紀が編纂され、実年と二運・一二〇年繰り上げという手法で卑弥呼・壱予・玉垂命の事績を神功皇后一人に集めたのだ。
『書紀』編者はこうして「九州王朝の女王たち」を盗み「あの親魏倭王の金印を得た卑弥呼も、後継者壱予も、半島を平らげた女王も、凡て摂政たる神功皇后、即ち近畿天皇家の人物だった」という物語を作り上げたのだ。
(註1)古賀達也「九州王朝の築後遷宮 -- 玉垂命と九州王朝の都」(『新・古代学』古田武彦とともに第四集一九九九年新泉社)
(註2)古田武彦『古代史六〇の証言 -- 金印から吉野ケ里まで、九州の真実』(一九九一年かたりべ文庫)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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