2012年10月13日

古田史学会報

112号

1、盗まれた九州王朝の女王たち
 神功皇后一人にまとめられた
卑弥呼・壱予・玉垂命
 正木裕

2、太宰府「戸籍」木簡の考察
 付・飛鳥出土木簡の考察
 古賀達也

3、斉明天皇と紫宸殿
 (明理川)
  今井 久

4、「女王國」について
野田利郎氏の回答に応えて
 石田敬一

 

古田史学会報一覧

太宰府出土「戸籍」木簡 -- 「多利思北弧」まぼろしの戸籍か!(会報111号) 大下隆司

国分松本遺跡第13 次調査 遺跡説明会・展示解説資料(PDF)は、太宰府市より発行されています。

太宰府「戸籍」木簡の考察 -- 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也(会報112号) ../kaiho112/kai11202.html

太宰府「戸籍」木簡の考察

付・飛鳥出土木簡の考察

京都市 古賀達也

最古の「戸籍」木簡の衝撃

 六月十三日の朝、出張先の名古屋のホテルで朝刊(中日新聞)に目を通していたら、太宰府市から最古の「戸籍」木簡が出土したという記事がありました。本当に驚きました。駅のコンビニで全国紙三紙(読売・毎日・朝日)を購入し、急ぎ目を通したのですが、その記事がいずれも一面に掲載されており、読売に至ってはトップ記事でした。このことからも、今回の木簡出土がいかに衝撃的な事件かがわかります。
 六月十六日には現地説明会が開催され、古田先生も参加されました(古田史学の会・総務の大下隆司さんらがアテンド)。
 新聞記事を読んでみると、専門家の様々なコメントやもっともらしい解説が掲載されていましたが、「何故、畿内ではなく九州太宰府から出土したのか」という本質的な疑問への説明は皆無でした。おそらく、古田先生の九州王朝説を知っている一元史観の学者にとっては、素晴らしい木簡が出土したことへの喜びと、「よりによって太宰府から出土した(九州王朝説に有利)」ことへの「不安感(九州年号木簡などもう出ないで欲しい)」が交錯しているのではないでしょうか。
 古代戸籍(主に大宝二年戸籍。正倉院文書)については従来から西海道(九州)戸籍の「高度な統一性(用紙・体裁・記載様式)」が指摘されていました。わたしはこの西海道戸籍の「高度な統一性」こそ、九州王朝が存在し、大和朝廷に先立って戸籍を造籍していたことの反映と理解していましたが、今回の「戸籍」木簡が他でもない九州王朝の都である太宰府近傍から出土したことにより、その「高度な統一性」が九州王朝に淵源することが証明されたのです。その意味でも、多元史観・九州王朝説にとっても画期的な出土史料なのです。

「戸籍」木簡の史料性格

 太宰府市から出土した最古の「戸籍」木簡についての基礎的な史料性格について整理確認しておきたいと思います。
 まずその内容が「戸籍」関連史料であることは間違いないと思われます。今後、専門家による研究がなされることでしょう。
 次に、地域的には太宰府市での学術発掘による出土ですから由来は確かなものですし、「嶋評」という地名が記載され、一緒に出土した別の木簡にも「竺志前國嶋評」とありますから、糸島半島の旧志摩町に関わる木簡であることが明らかです。
 次に時代ですが、「嶋評」とありますから、評制が施行された六五〇年前後 (注1) から、郡制に移行する七〇一年よりも前の時期となります。さらには「進大弐」という『日本書紀』天武十四年に制定された冠位が記載されていることから、六八五~七〇〇年の時間帯まで絞り込めそうです。内容を精査検討すれば、さらに絞り込めるかもしれません。
 このように地域と時代か特定、あるいは絞り込める文字史料ですから、研究史料としては大変有り難い貴重なものです。とりわけ、九州王朝研究にとっては王朝末期の、太宰府近傍という中枢領域での同時代史料として第一級史料です。この木簡を精査研究することにより、七世紀末の九州王朝の実体に迫ることができるのです。

「「戸籍」木簡、現地説明会の報告

 六月十七日に大阪市中之島の府立大学サテライト校舎をお借りして、古田史学の会・会員総会と記念講演会を開催しました。午前中は関西例会が行われ、その前日十六日の太宰府市出土「戸籍」木簡の現地説明会に、古田先生とともに参加された大下さんより報告がなされました。本当にタイムリーな最新の報告で、大変勉強になりました。
 大下さんの報告によれば、出土した木簡は十三点で、その中の一枚が注目されている「戸籍」木簡です。出土場所は太宰府政庁の北西一・二キロメートルの地点で、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した木簡には「天平十一年十一月」(七三九年)の紀年が記されており、評制の時期(六五〇年頃~七〇〇年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の十二枚は針葉樹だそうです。この他にも貴重な興味深い報告がなされました。

太宰府「戸籍」木簡の「竺志」

 太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡について少しずつ検討結果や「発見」について報告したいと思います。その最初として、「戸籍」木簡と一緒に出土した「竺志前國嶋評」と記された木簡について述べることにします。
 この木簡には「竺志前國嶋評」の下半分に二行で次のような文字が記されています。
「私祀板十枚目録板三枚父母」
「方板五枚并廿四枚」
 この文から別の二四枚の木簡の「タグ」の役割をしていたようです。また、「板」という表現から、古代において木簡のことを「板」と呼んでいたたことも判明しました。しかし、わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。すなわち、七世紀後半あるいは七世紀末の九州王朝において、「ちくし」の漢字表記として「竺志」が正字として使用されていたことが明らかとなったのです。
 通常、「筑紫」という漢字使いが現在でも一般的ですが、古代の九州王朝では「行政文書」としての木簡に「竺志」が採用されていたことは重要です。『日本書紀』などでは「筑紫君薩野馬」のように、九州王朝の天子と考えられている人物の名称に「筑紫」の字を使っています。他方、『続日本紀』の文武四年六月条(七〇〇年)には「竺志惣領」という文字表記がありますが、この文字表記が七世紀末の正当なものであったことが、この木簡により証明されたわけです。
 なお、同じく『続日本紀』の文武四年十月条には「筑紫総領」という表記もあり、どちらが本来の文字使いなのかが釈然としなかったのですが、今回の木簡出土により判明したのです。ちなみに六月条の「竺志惣領」は人名が不明ですが、十月条の「筑紫総領」は「石上朝臣麻呂」という人名が記されていることから、前者は九州王朝の人物(だから名前がカットされた)、後者は近畿天皇家が任命した人物と考えてよいと思います。まさに、王朝交代時期の「ちくし」の代表者交代を示した記事の文字使いの変化だったのです。
 さらに「竺志前國」とありますから、この時期には既に「筑前」と「筑後」に分国されていたことも明確になりました。わたしは九州島を九国に分国したのは九州王朝の天子・多利思北弧であり、その時期を六世紀末頃とする論文を発表しています。『九州王朝の論理』(明石書店)に採録された「九州を論ず」「続・九州を論ず」です。お持ちの方は是非御再読ください。

太宰府「戸籍」木簡の「兵士」

 今回の出土で注目された「戸籍」木簡ですが、わたしはそこに記された「兵士」という文字に強い関心を抱きました。この二文字は九州王朝研究にとって重要な問題を持っているからです。
 九州王朝末期における列島内のパワーバランスを左右する要素として、白村江戦後に筑紫に進駐した数千人にも及ぶ唐の軍隊はいつ頃まで倭国に滞在したのかという問題があるのですが、『日本書紀』では天武元年五月条(六七二年)に唐軍の代表者である郭務?等の帰国を記してはいますが、その時全ての唐軍が帰国したかどうかは不明でした。古田学派内では唐軍はその後も長期間筑紫に駐留したと理解されてきたようですが、特に明確な史料根拠に基づいていたわけではありませんでした。
 このような研究状況の中で、今回の「戸籍」木簡にある「兵士」の二文字は、六八五~七〇〇年において、「徴兵制度」を維持、あるいは再開していたことを示しているからです。ということは、この時期に唐軍が筑紫に駐留していたとするならば、九州王朝倭国の武装解除をせずに、徴兵を容認していたことになります。これでは何のために唐軍は筑紫に駐留していたのか、その意味がわからなくなります。逆にこの時期、唐軍は既に帰国しており、筑紫にいなかったとすればこの矛盾は解消されるのです。
 どちらが歴史の真実かはこれからも研究と考察を続けたいと思いますが、「戸籍」木簡の「兵士」の二文字は、「既に唐軍は帰国していた」とする仮説成立の可能性を示しているのです。

太宰府「戸籍」木簡の「評」

 今回の「戸籍」木簡から、「やはりそうか」という感想を持ったのが、「嶋評」の表記でした。白村江敗戦後の七世紀後半から造られたとされる、「庚午年籍」(六七〇年)を筆頭とする古代戸籍は、七〇〇年までは九州王朝の評制下で造籍されたのですから、当然のこととして行政単位は「評」で記されていたと論理的には考えざるを得なかったのですが、今回の「戸籍」木簡の出現により、やはり「評」表記であったことが確実となりました。 何をいまさらと言われそうですが、『日本書紀』では「評」は完全に消し去られ、「郡」に置き換えられていることから、近畿天皇家は九州王朝の痕跡を消すべく、徹底的に「評」文書を地上から消滅させようとしたと考えられていました。ところが、その一方で「大宝律令」や「養老律令」では、評制文書である「庚午年籍」の半永久的保管を近畿天皇家は命じているのです。これは何ともちぐはぐな対応ですが、今回の評制「戸籍」木簡の出土により、七世紀の「戸籍」類は「評」で記載されていたことが確実となり、近畿天皇家は戸籍に関しては評制文書であるにもかかわらず、隠滅することなく保管していたと考えざるを得ないことが明らかとなったのでした。
 たとえば九世紀段階でも近畿天皇家は全国の国司に「庚午年籍」の書写を命じ、中務省への提出を命じています( (注2)  洛中洛外日記一一八話「評制文書の保存命令」)。したがって、全国の国司たちは『日本書紀』の「郡」の記述が嘘であり、真実は「評」であったことを九世紀段階でも知っていたことになります。こうした歴史事実があったことも手伝って、若干ではありますが後代の諸史料に「評」表記が散見される一因となったのではないでしょうか。

太宰府「戸籍」木簡の「進大弐」

 今回太宰府市から出土した「戸籍」木簡は、九州王朝末期中枢領域の実体研究において第一級史料なのですが、そこに記された「進大弐」という位階は重要な問題を提起しています。
 この「進大弐」という位階は『日本書紀』天武十四年正月条(六八五年)に制定記事があることから、この「戸籍」木簡の成立時期は六八五年~七〇〇年(あるいは七〇一年)と考えられています。わたしも「進大弐」について二つの問題を検討しました。一つは、この位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかという問題です。二つ目は、この位階制定を『日本書紀』の記述通り六八五年と考えてよいかという問題でした。
 結論から言うと、一つ目は「不明・要検討」。二つ目は、とりあえず六八五年として問題ない。このように今のところ考えています。『日本書紀』は九州王朝の事績を盗用している可能性があるので、天武十四年の位階制定記事が九州王朝のものである可能性を否定できないのですが、今のところ不明とせざるを得ません。時期については、天武十四年(六八五年)とする『日本書紀』の記事を否定できるほどの根拠がありませんので、とりあえず信用してよいという結論になりました。
 この点、もう少し学問的に史料根拠に基づいて説明しますと、九州王朝の位階制度がうかがえる史料として『隋書』イ妥国伝があります。それによると九州王朝の官位として、「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」の十二等があると記されています。『隋書』の次代に当たる『旧唐書』倭国伝にも同様に「官を設くること十二等あり」と記されていますから、七世紀前半頃の九州王朝ではこのような位階制度であったことがわかります。
 これに対して、「戸籍」木簡の「進大弐」を含む天武十四年条の位階は全く異なっており、両者は別の位階制度と考えざるを得ません。したがって、「進大弐」の位階制度は『日本書紀』天武紀にあるとおり、七世紀後半の制度と考えて問題ないと理解されるのです。文献史学ですから、史料根拠を重視することは当然でしょう。 (注3)
 この結果、「戸籍」木簡に記された「進大弐」に残された問題、すなわちこの位階制度が九州王朝のものなのか、近畿天皇家のものなのかというテーマについて、わたしは毎日考え続けています。

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

 太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。
 ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったのです。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は六九二年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は七世紀末頃のもののようです。
 この元岡遺跡出土の木簡によれば、七世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、太宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。
 ONライン(七〇一年)を越えた八世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。
 なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政丁」という表記との関係がうかがえます。「通説」では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見られています。この点からも「政丁」「政戸」という表記は七〇一年以前の古い様式であったとしてよいようです。

 このように木簡研究により、七世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。

 

市 大樹著『飛鳥の木簡』の紹介

 最近、木簡研究のために関連書籍や論文を読んでいますが、本年六月、中公新書から刊行された市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(八六〇円+税)は、なかなかの好著でした。著者は奈良文化財研究所の研究員で、木簡の専門家です。東野治之さんのお弟子さんのようで、新進気鋭の日本古代史研究者といえそうです。
 もちろん、旧来の近畿天皇家一元史観による著作ですので、そのために多くの限界も見えますが、それらを割り引いても一読に値する本です。特に、飛鳥出土木簡の最新学説や研究状況を知る上で、多元史観研究者も読んでおくべき内容が随所に含まれています。
 ご存じのように、古代木簡は七世紀後半の「天武期」以降に出土量が急激に増えます。従って、九州王朝と大和朝廷の王朝交代期における九州王朝研究にとっても、木簡研究は不可欠のテーマなのです。わたしも、太宰府市出土「戸籍」木簡と同様に、飛鳥出土木簡の勉強を深めなければならないと、同書を読んで痛感しました。
 なお、九州年号木簡である「元壬子年」木簡について、同書では「このうち、三条九ノ坪遺跡(兵庫県芦屋市)出土の壬子年の木簡は、弥生時代から平安時代初頭までの遺物を含む流路から出土したもので、六五二年と断定するには一抹の不安が残る。」(二六頁)と、さらりと触れるだけで、読者には「壬子年」の文字の上に記された「元」(従来は「三」と判読されてきた)の字の存在と意味が知られないよう、周到な「配慮」の跡が残されています。明らかに著者は、わたしの九州年号の白雉「元壬子年」(六五二年)説を意識し、その上で九州王朝説・九州年号説はなかったことにしたのです。他の重要木簡については詳細な検討と解説を行っている著者でしたが、この一文を読み、「やはり逃げたな」と、わたしは思いました。近畿天皇家一元史観の限界を露呈する、日本古代史学界の深い「闇」を、そこに見たのでした。

藤原宮の完成年

 市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』を読み、自らの不勉強を痛感する昨今です。中でも、藤原宮の完成が大宝三年(七〇三年)以降であったことが、出土木簡から明らかとなったという指摘には驚きました。
 同書(一六八頁)によると、藤原宮の朝堂院東面回廊の東南隅部付近の南北溝から七九四〇点の木簡が出土しているのですが、この南北溝は東面回廊造営時に掘削され、回廊完成とともに埋められました。出土した大部分の木簡は八世紀初頭のもので、記されていた最も新しい年紀は「大宝三年」(七〇三年)でした。このことから、東面回廊が完成したのは、七〇三年以降となり、このことはとりもなおさず藤原宮の完成が七〇三年以降だったことを意味します。
 このようなことまで判明するのも、同時代史料としての木簡のすごさですが、このことと関係しそうな記事が『続日本紀』慶雲元年十一月条(七〇四年)にありました。

 「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布を賜うこと差あり。」

 六九四年の藤原京遷都から十年もたっているのに、「始めて藤原宮の地を定む。」というのもおかしな話だったのですが、大宝三年(七〇三年)以降に藤原宮が完成していたとになると、この記事も歴史の真実を反映していたことになりそうです。
 『続日本紀』慶雲元年十一月条(七〇四年)のこの記事については、古田学派内でもいろんな見解が出されてきましたが、今後はこの出土木簡七九四〇点を精査したうえでの再検証が必要ではないでしょうか。

木簡に記された七世紀の位階

 「戸籍」木簡に記されていた「進大弐」という位階の研究を続けていますが、『日本書紀』には、「進大弐」などが制定された天武十四年条(六八五)以外にも、大化期や天智紀にも位階制定・改訂記事がみえます。それらの位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかは実証的な研究が必要ですが、その実在の当否は同時代金石文や木簡などによる検証が可能なケースがあります。
 たとえば、『日本書紀』によれば六四九~六八五年まで存在したとされる位階「大乙下」「小乙下」などは、「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されており、一緒に出土した「辛巳年」(六八一年)と記された木簡から、時代的にも『日本書紀』の記述と一致しており、これらの位階記事が歴史事実であったと考えられるのです。
 したがって残された問題は、これら位階制度が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるのかという点なのですが、これも歴史学という学問の問題ですから、史料根拠に基づいた実証的な研究と、論理的な考察が不可欠であることは言うまでもありません。もっと出土木簡の勉強を続けたいと思います。

飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。九州王朝・倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(七世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました(古田武彦『古代は輝いていたIII』)。
 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「通説」となっているようです。この点、市 大樹著『飛鳥の木簡 -- 古代史の新たな解明』(一四六頁)では、この「天皇」木簡に対して、「現在、『天皇』と書かれた日本最古の木簡である。この『天皇』が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い。」とされています。専門家らしく慎重な解説がなされており、ひとつの見識ではあると思いました。
 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。

藤原宮出土「倭国所布評」木簡

 このところ毎日のように奈良文化財研究所HPの木簡データベースを閲覧しています。いくつかは「洛中洛外日記」でも紹介してきましたが、特に注目した木簡が藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。データベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。
 これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(七〇一年)よりも前で、藤原宮から出土していますから、七世紀末頃のものと推測できます。まさに、近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡といえます。中でも驚いたのが「倭国」という表記です。
 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名として「倭国」と記されているのですが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)」国を「倭」国と表記されています。すなわち、九州王朝の国名「倭国」を、七〇一年の王朝交代に伴って、近畿天皇家は自らの中枢領域の「やまと」に「倭」という表記を採用し、上代の時代から、あるいは中国史書に記された「倭」は自分たちのことであると、歴史改竄と国名盗用を行ったと、わたしたち多元史観・九州王朝説論者は考えてきました。
 ところが、この木簡の示すところでは、評制時代の七世紀末頃には、既に大和国(奈良県)を近畿天皇家は「倭国」と表記していたことになるのです。この史料事実は、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代が七世紀末頃から複雑な過程を経て行われたことをうかがわせます。

藤原宮時代の国名は「日本」か

 わたしは藤原宮出土「倭国所布評」木簡にかなり衝撃を受けました。この木簡に記された「倭国」について、七世紀末の王朝交代時期に、近畿天皇家が九州王朝の国名「倭国」を自らの中枢の一地域名(現・奈良県)に盗用したものと推察したのですが、より深い疑問はここから発生します。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。この疑問です。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた七世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。先の木簡の例でいえば「倭国所布評」は、「日本国倭国所布評」ということです。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、今までは七〇一年以後とわたしは何となく考えていたのですが、今回の論理展開が正しければ、七〇一年よりも前からということになるのです。
 このような論理展開の当否を含めて、七世紀末の王朝交代時期にどのような経緯でこうした国名自称がなされたのか、九州王朝説の立場から、よく考えてみる必要がありそうです。

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(六五二)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のことと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力と判断していた『二中歴』とは異なっていました。
 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。
 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。
 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、本稿最後のテーマとしてご紹介します。
 それは愛媛県松山市の久米窪田 II 遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定のようです)。最後の九州年号「大長」(七〇四~七一二年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。
 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は一九七七年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(七〇四~七一二)にぴったりなのです。
 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていただいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。
 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。
(本稿は「古田史学の会」ホームページ掲載の「洛中洛外日記」より改稿転載したものです。古賀達也)

(注)

注1
 大下隆司さんは「太宰府出土『戸籍』木簡 『多利思北弧』まぼろしの戸籍か!」(「古田史学会報」一一一号)において、「孝徳の時、評制が始まる」には根拠がないとされ、「難波朝廷、天下立評」と記された「皇太神宮儀式帳」などの史料を信用できないとされました。しかし、自説の七世紀初頭以前の評制開始を指示する史料根拠は明示されていません。自説に不都合な史料は「信用せず」として否定し、自説の根拠とすべき「評制」史料を提示しないという論法は、学問的に有効なものではないでしょう。
 また、上条誠さんの問題提起として、『日本書紀』推古十年条(六〇二)に見える「嶋郡」を根拠に、この時期すでに「嶋評」があったとする見解を紹介されています。しかし『日本書紀』には、国郡(成務紀)、淡郡(神功紀)、国郡(仁徳紀)、国郡縣・三嶋郡・飛鳥戸郡・栗太郡(雄略紀)、余社郡・明石郡・葛野郡(顕宗紀)、余社郡(仁賢紀)、高嶋郡・桑田郡・御井郡(継体紀)、郡司(安閑紀)、茨田郡・郡縣(宣化紀)、紀郡・添上郡・磯城郡・国郡・今来郡・泉郡・児嶋郡・高市郡・難波大郡・三島郡・郡司・相楽郡(欽明紀)などをはじめ多くの「郡」表記が見えます。おそらくこれらは「評」以外にも「国」「縣」「邑」などの字が、『日本書紀』編纂時に「郡」に書き換えられた、あるいは修飾されたものと思われます。したがって、推古十年条の「嶋郡」の表記をもって、本来は「嶋評」であったとすることはできません。評制がいつから施行されたかは、『日本書紀』中の個別の「郡」表記からではなく、「評制」史料に基づいた別途の論証が要求されます。
 九州王朝による評制施行時期を九州年号の常色年間(六四七~六五一)とする説を正木裕さんが発表されていますので、ご参照ください。正木裕「常色の宗教改革」(「古田史学会報」八五号、二〇〇八年四月)。

注2
古賀事務局長の洛中洛外日記
 第一一八話 2007/02/04
 評制文書の保存命令
 七〇〇年以前の九州王朝の行政単位だった「評」を『日本書紀』や『万葉集』が全て「郡」に書き換えて、九州王朝の存在の隠滅を計ったことは、古田先生が度々指摘されてきたところです。
 ところが、「評」を隠した大和朝廷が評制文書の保存を命じていたことをご存じでしょうか。それは「庚午年籍」と呼ばれている戸籍です。九州王朝の時代、庚午の年(六七〇)に作られた戸籍ですが、当然、評の時代ですから、地名は○○評と記されていたはずです。この「庚午年籍」の永久保管を大和朝廷は大宝律令や養老律令で規定しているのです。その他の戸籍は三十年で廃棄すると定めていますが、「庚午年籍」だけは保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも「庚午年籍」を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。 更に時代が下った承和六年(八三九)正月の時点でも、全国に「庚午年籍」の書写を命じていることから(『続日本後紀』)、九世紀においても、評制文書である「庚午年籍」が全国に存在していたことがうかがえます。
 『日本書紀』や『万葉集』で、あれほど評を隠して、郡に書き直した大和朝廷が、その一方で大量の評制文書「庚午年籍」の永久保管を命じ、少なくとも九世紀まで実行されていたことは、何とも不思議です。このように、歴史は時に単純な理屈だけではわりきれない現象が起こりますが、だからこそ歴史研究はやりがいがあるのかもしれません。

注3
 太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、六八九年)、釆女氏榮域碑の「直大弐」(己丑年、六八九年)などは『日本書紀』天武十四年条(六八五年)に制定記事がある位階です。
 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば六四九~六八五年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、六六四~六八五年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(六七七年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。
 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合があります。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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