七世紀須恵器の実年代 -- 「前期難波宮の考古学」について 大下隆司(会報109号)
観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代 古賀達也(会報110号)
続・前期難波宮の学習 古賀達也(会報114号)
観世音寺の「碾磑」 正木裕(会報115号)
七世紀の須恵器編年
前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁
京都市 古賀達也
はじめに
『古田史学会報』一一四号に掲載された大下隆司さんの「碾磑と水碓 -- 史料の取り扱いと方法論」(以下、「大下稿」と表記)において、正木裕さんの論稿「補遺 観世音寺建立と『碾磑』」(『古田史学会報』一一〇号)が批判され、その後半「六、古田史学の方法論」において、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と学問の方法について批判がなされました。
「碾磑」問題については正木さんから反論がなされると思いますが、わたしへのご批判は拙論に対する誤読と曲解に基づいていましたので、本稿において反論し、前期難波宮九州王朝副都説に関わる「七世紀の須恵器編年」についての知見を紹介しておきたいと思います。
「相対論証」に対する誤読曲解
大下稿ではわたしが提起した「相対論証」(「洛中洛外日記」三六四話、三六三話は、誤植)について、「証拠がなくても、説明さえつけばよい」と古賀が言っているかのように引用説明されています。「洛中洛外日記」三六四話の「相対論証」を定義した当該部分は次の通りです。
「これはわたしの見方ですが、論証は「絶対論証」と「相対論証」というものに大別できるのではないでしょうか。「絶対論証」とは、「こういう史料根拠により、誰がどのように考えてもこうとしか言えない」というような決定的な証拠と論理性にもとづいた論証です。ここまで断定できる論証は、史料的に限定された古代史研究においては珍しいことですが、安定的に成立した論証であり、この論証に基づいて、さらに仮説を展開することも可能です。
対して、「相対論証」とは、史料根拠に基づいて、Aの可能性やBの可能性が考えられるが、人間の平明な理性や経験に基づけば相対的にAの可能性が著しく、あるいは最も高い、という論証のケースです。「絶対論証」より論証力は劣るものの、他の仮説よりも有力な仮説を提起できます。
従って、「相対論証」にとどまる場合は、なるべく多くの傍証を提示し、「相対論証」の説得力を増すよう努めなければなりません。」
以上のようにわたしは「相対論証」を定義しています。そこにははっきりと「『相対論証』とは、史料根拠に基づいて」と書いており、大下稿に「引用」されたような「証拠がなくても、説明さえつけばよい」などとは全く異なります。わたしの文のどこをどう読めばこのような曲解が可能なのか理解に苦しみます。
「天武紀の冠位記事」の誤読曲解
わたしの「太宰府『戸籍』木簡の考察」(『古田史学会報』一一二号)に対しても、大下稿では次のように批判されています。
「同じく(注3)においても古賀氏は小野毛人墓誌にある位階「大錦上」のみを取り上げ「天武紀」の信用性を指摘しています。」
わたしはこの批判文を読み、我が目を疑いました。『日本書紀』天武紀の位階記事が信用できるかどうかの根拠として、わたしは拙論の「注3」において、次のように書いていたからです。
「注3 太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、六八九年)、釆女氏榮域碑の「直大弐」(己丑年、六八九年)などは『日本書紀』天武十四年条(六八五年)に制定記事がある位階です。
それよりも前の位階で『日本書紀』によれば六四九~六八五年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、六六四~六八五年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(六七七年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。
『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合があります。」
このように、天武紀の位階記事の信憑性を確認するために、「小野毛人墓誌」以外にも「那須国造碑」「釆女氏榮域碑」や飛鳥出土木簡を提示しており、「小野毛人墓誌にある位階「大錦上」のみ」というのは事実とは異なります。このわたしの説明文「注3」のどこをどう読めば「古賀氏は小野毛人墓誌にある位階「大錦上」のみを取り上げ「天武紀」の信用性を指摘しています。」などという批判が可能になるのでしょうか。
なお、太宰府出土「戸籍」木簡に記された位階「進大弐」が七世紀末の位階である証拠として、わたしは「洛中洛外日記」四四一話で次の史料根拠も大下稿発表以前に提示していますので紹介します。
古賀達也の洛中洛外日記
第四四一話 2012/07/14
「戸籍」木簡の「進大弐」とONライン
古田史学・九州王朝説にとって、木簡が果たした役割は小さくありません。たとえば、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代時期を七〇一年とするONライン(OLD NEW Line)は、木簡により明確になったものです。その根拠は、行政単位が九州王朝の「評」から近畿天皇家の「郡」に替わったのが七〇一年(大宝元年)だったことが紀年銘木簡の「評」「郡」表記でした。このように同時代文字史料としての木簡は、歴史研究にとって第一級史料なのです。
今回、太宰府市から出土した「戸籍」木簡も同様に貴重なものですが、そこに記された「進大弐」という位階記事も、その年代を特定できる根拠の一つとなりました。この「進大弐」の位階は『日本書紀』天武十四年条(六八五)に制定記事がありますが、この記事にある四十八等の位階は他の木簡にも記されています。
第四四〇話で紹介した市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(二一〇頁)によると、藤原宮から大量出土した八世紀初頭の木簡に、次のような記事がありました。
「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。
この木簡から、天武十四年(六八五)に制定された位階制度から、大宝元年(七〇一)から大宝二年に制定された律令による新位階制度へ変更されたことがわかるのです。ここにも、位階制度のONラインが存在したことが木簡により決定的となったのです。
従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土の「戸籍」木簡も七世紀末頃のものであることがわかるのです。(引用終わり)
自説の根拠を示さない大下稿
大下稿最後の「(その他)」において、次のように記されています。
「十月会報一一二号古賀論文「太宰府「戸籍」木簡の考察」の(注1)において、小生の一一一号論文内容について、「方法論が間違っている」との批判を受けています。」
この紹介もやはり不正確です。わたしの文章の当該部分は次の通りです。
「注1 大下隆司さんは「太宰府出土『戸籍』木簡 『多利思北弧』まぼろしの戸籍か!」(「古田史学会報」一一一号)において、「孝徳の時、評制が始まる」には根拠がないとされ、「難波朝廷、天下立評」と記された「皇太神宮儀式帳」などの史料を信用できないとされました。しかし、自説の七世紀初頭以前の評制開始を指示する史料根拠は明示されていません。自説に不都合な史料は「信用せず」として否定し、自説の根拠とすべき「評制」史料を提示しないという論法は、学問的に有効なものではないでしょう。」
わたしは大下さんの「自説の根拠を示さない論法」に対して、「自説に不都合な史料は「信用せず」として否定し、自説の根拠とすべき「評制」史料を提示しないという論法は、学問的に有効なものではないでしょう。」と指摘したのであり、大下稿に書かれたような「方法論が間違っている」という引用は不正確です。
こうした「学問的に有効なものではないでしょう。」というわたしからの指摘にもかかわらず、今回の大下稿でも自説を支持する根拠を示されていません。たとえば「評制の開始時期」の次の文もその一例です。
「評制は6世紀後半にまで遡ることは十分に考えられます。まったく根拠のない話ではありません。」
大下さんがいわれるように六世紀後半の評制の存在を示す「根拠」(木簡・金石文・文献等)があるのならば、それを明示すればよいのですが、大下さんは根拠の存在を「ほのめかす」だけで、具体的に記されていません。ちなみに、六世紀後半の評制史料などわたしは見たことも聞いたこともありません。あるのなら明示してください。そうでなければ学問論争にはなりません。
なお、大下稿で古田先生の講演録「『大化改新』(井上光貞氏)の史料批判」(『なかった』創刊号)を紹介されていますが、この古田講演録には評制(評督)の出現時期について、次のように記されています。
「『評督』の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀の半ばから七世紀の末までに限られている。」(同書三八頁)
このように古田先生も評制成立(出現)を七世紀中頃とするわたしの見解と同様の認識を示されているのです。従ってわたしへの批判の根拠にはなりません。大下さんは自ら紹介された古田先生の講演録を正確に読まれたのでしょうか。
七世紀の須恵器編年
前期難波宮九州王朝副都説に対しての批判が大下さんからなされ、その根拠として提示されたのが前期難波宮の創建を天武期とする小森俊寛さんの説でした。小森説の根幹は七世紀の須恵器の独自編年に基づくもので、前期難波宮整地層からわずかに出土する須恵器杯Bの土器編年を七世紀後半の天武期とされたことです。
そこでわたしは七世紀の須恵器編年の勉強を続けてきたのですが、その結果やはり小森説は成立しないという結論に至りました。
七世紀の編年に用いられる代表的須恵器として、須恵器杯H、G、Bがあります。この中で最も古い須恵器杯Hは古墳時代から続く様式とされ、囲碁の碁石の容器を平たくした形をしています。須恵器杯Gは須恵器杯Hの次に現れる様式で、須恵器杯Hの蓋に「つまみ」がついたものです。その次に現れる須恵器杯Bは、須恵器杯Gの碗の底に「脚」がついた様式です。このようにH・G・Bと様式が発展するのですが、それらは遺跡から併存して出土するのが通常です。従って、どの様式が最も大量に出土するかで、遺跡の先後関係が判断されます。
たとえば前期難波宮整地層ではHとGが主流で、若干のBが出土します。藤原宮整地層からは須恵器杯Bが主流ですから、前期難波宮整地層との比較では、一様式から二様式ほど前期難波宮が藤原宮よりも早いと判定されるのです。
この判定から、仮に小森説に従って須恵器一様式の継続期間を約二五年と仮定した場合、前期難波宮創建は藤原宮創建よりも二五~五十年先行するということになります。その結果、藤原宮の整地層年代を六八〇年頃とすると、前期難波宮整地層は六三〇~六五五年頃となり、ほぼ定説通りとなります。前期難波宮完成は『日本書紀』によると六五二年ですから、土器編年と矛盾しないのです。
更に整地層と同じ須恵器杯H・Gと併存して難波宮北西の水利施設から出土した木枠の伐採年が年輪年代測定で六三四年であることから、須恵器編年が年輪年代測定によるクロスチェックにより、その編年の正しさが証明され、暦年との関係が証明された「定点」史料となっています。
こうした須恵器様式編年と年輪年代のクロスチェックにより、前期難波宮造営は七世紀中頃とする説が有力根拠を持った定説となったのです。この点、小森説はクロスチェックを伴った「定点」史料を明示できないため、ほとんどの考古学者の支持を得られていません。もちろん学問は多数決ではありませんが、小森説はクロスチェックを経た「定点」史料を明示できていない未証明の作業仮説であり、有力な「定点」根拠を有する定説編年により否定されたと言わざるを得ないのです。
前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器
前期難波宮造営を天武期とする説の史料根拠は『日本書紀』天武十二年条(六八三)に見える「副都詔」とよばれる記事です。都や宮殿は二~三ヶ所造れ、まずは難波に造れ、という記事なのですが、このとき既に難波には孝徳紀に造営記事が見える前期難波宮がありますから、この副都詔は問題視され、前期難波宮の「改築」を命じた記事ではないかなどの「解釈」が試みられてきました。
他方、小森さんらからは天武紀の副都詔の方が正しいとし、出土須恵器の独自編年を提起され、前期難波宮を天武期の造営とされたのです。こうして『日本書紀』の二つの難波宮造営記事(正確にいうと、天武紀の副都詔は「造営命令」記事であって、副都造営記事ではありません)のどちらが史実であるかの論争が文献史学と考古学の両分野の研究者により続けられてきました。
この論争に「決着」をつけたのが、前期難波宮遺構から出土した「戊申年(六四八)木簡」と水利施設出土木枠の年輪年代測定値(六三四年)でした。須恵器の相対編年をどれだけ精密に行っても絶対年代(暦年)を確定できないことは自明の理ですが、暦年とリンクできる干支木簡と伐採年年輪年代測定値により、前期難波宮整地層出土土器をクロスチェックするという学問的手続きを経て、前期難波宮とされる『日本書紀』孝徳紀の造営記事の確かさが検証され、現在の定説となったのです。
したがって、この定説よりも小森説が正しいとしたい場合は、そう主張する側に干支木簡や年輪年代測定値以上の具体的な科学的根拠を提示する学問的義務があるのですが、わたしの見るところ、この提示ができた論者は一人もいません。もちろん大下さんも例外ではありません。
さて、問題点をより明確にするために、もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は六八三年以降となり、その整地層からは六八〇年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に六八〇年代頃から造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも六八〇年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。ところが、実際の出土須恵器を報告書などから見てみますと、前期難波宮整地層の主要須恵器は須恵器杯HとGで、藤原宮整地層出土須恵器はより新しい須恵器杯Bで、両者の出土土器様相は明らかに異なるのです。
藤原宮造営は出土干支木簡から六八〇年代には開始されており、須恵器編年と矛盾せず、干支木簡によるクロスチェックも経ており、これを疑えません。したがって、藤原宮整地層と出土土器様式や様相が異なっている前期難波宮整地層は「時期が異なる」と見なさざるを得ないのです。ですから既に繰り返し指摘しましたように、その土器様式編年と共に「戊申年木簡」や年輪年代測定値により、七世紀中頃とクロスチェックを経ている前期難波宮は藤原宮よりも「古い」ということは明白です。
この前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式・様相の不一致という考古学的事実は、前期難波宮天武期造営説を否定する決定的証拠の一つなのです。
大宰府政庁出土の須恵器杯B
小森さんが前期難波宮を天武期の造営とされた考古学的理由は、その整地層からわずかに出土した須恵器杯Bの存在でした。小森さんは須恵器杯Bの存続期間(寿命)を二十~三十年とされ、藤原宮(七〇〇年頃)から多数出土する須恵器杯Bの発生時期を引き算で六七〇~六八〇年とされ、したがって須恵器杯Bを含む前期難波宮整地層は六六〇年より古くはならないと主張されたのです。
この小森さんの主張ですが、わたしには全く理解不能な「方法」でした。そもそも須恵器杯Bの継続期間(寿命)が二十?三十年とする根拠が小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には明示されていませんし、証明もありません。あるいは、前期難波宮が天武期造営であることを指し示すクロスチェックを経た考古学的史料も示されていません。更に、前期難波宮造営を七世紀中頃と決定づけた水利施設出土木枠の年輪年代測定にも全く触れられていません。自説に不利な考古学的事実を無視されたのでしょうか。こうした点からも、わたしには小森説が仮説としてさえも成立しているとは全く見えないのです。
しかし、わたしはこの須恵器杯Bを別の視点から注目しています。それは大宰府政庁1期と2期の遺構から須恵器杯Bと見られる土器が主流須恵器杯として出土しているからです。もちろん、大宰府政庁調査報告書などを見ての判断であり、出土土器を実見したわけではありませんので、引き続き調査を行いますが、少なくとも報告書には須恵器杯Bと同様式と見られる須恵器が掲載されています。この事実は重大です。
小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』は「京(みやこ)から出土する土器」とありますが、ここでいう「京(みやこ)」とは近畿天皇家の「都」だけであり、近畿天皇家一元史観の限界ともいうべき著作なのです。ですから九州王朝の都、太宰府などの出土土器は比較考察の対象にさえなっていません。したがって、古田学派・多元史観の研究者は、こうした一元史観論者の著作や仮説に「無批判に依拠」することは学問的に危険であること、言うまでもありません。
須恵器杯Bが多数出土している大宰府政庁1期と2期遺構ですが、一元史観の通説でも1期の時期を天智の時代とされています。すなわち六六〇年代としているのです。ところが小森説に従えば、この大宰府政庁1期も天武期以後となってしまいます。小森説では1個でも須恵器杯Bが出土したら、その遺構は六八〇年以後と見なされるのですから。古田学派の論者であれば、大宰府政庁1期を天武期以後とする人はいないでしょう。すなわち、前期難波宮を天武期とする小森説の支持者は、須恵器杯Bの編年を巡って、これまでの古田史学の学問的成果と決定的に矛盾することになるのです。
大宰府政庁と前期難波宮の須恵器杯B
大宰府政庁1期と2期遺構から須恵器杯Bが出土していることを指摘しましたが、大宰府政庁の編年も含めて、もう少し詳しく説明します。
大宰府政庁遺構は1期・2期・3期の三層からなっており、1期は堀立柱形式の建物跡で、2期と3期は礎石を持つ朝堂院様式の「大宰府政庁」と呼ぶにふさわしい立派なものです。もっとも「大宰府政庁」とは考古学的につけられた名称で、九州王朝説からすると2期遺構は「政庁」ではなく、倭王がいた「王宮」ではないかと考えられています。他方、倭王が生活するには規模が小さいという指摘が伊東義彰さん(古田史学の会・会計監査)からなされており、今後の研究課題でもあります。
問題の須恵器杯Bは最も古い1期の整地層からも出土しているようで(藤井巧・亀井明徳『西都大宰府』NHKブックス、昭和五二年。二二九頁)、一元史観の通説では六六〇年代頃の遺構とされています。その整地層からの出土ですから、当該須恵器杯Bの年代は通説でも七世紀中頃となります。田村圓澄編の『古代を考える大宰府』(吉川弘文館、昭和六二年)にも、「第1期は堀立柱建物で主に上層遺構の中門と回廊東北隅に相当する所で検出された。(中略)この整地土の中に含まれる土器は最も新しいもので七世紀中ごろのものである。」(一一二頁)とあります。
須恵器杯Bはその後の1期新段階や2期からも出土しますから(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』五八八号、二〇〇九年)、その継続期間は小森俊寛さんが主張する二十年や三十年のような短いものではありません。九州王朝説の立場からは、大宰府政庁1期や2期の時代は一元史観の通説よりも古いと考えられますが、仮に通説に従っても須恵器杯Bの発生は七世紀中頃以前まで遡ることとなり、近畿よりも大宰府政庁の方がより古いことがうかがえます。
その場合、須恵器杯Bは北部九州で発生し、近畿には前期難波宮の地、上町台地に先駆けて伝播したこととなりそうです。同様の現象については既に「洛中洛外日記」第二二四話「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」でも紹介してきたとろです。これらの現象は、上町台地がいち早く九州王朝の直轄支配領域となったことの傍証となり、前期難波宮九州王朝副都説と整合するのです。七世紀の九州王朝倭国の研究にあたっては、この七世紀中頃では日本列島最大規模で朝堂院様式の前期難波宮をどのように位置づける(九州王朝の宮殿か大和朝廷の宮殿か)のかが重要な判断基準になることを強調しておきます。
おわりに
大下さんからのご批判のおかげで、七世紀の須恵器編年を研究する機会を得ることができ、前期難波宮が七世紀中頃の造営であることは明確であり、九州王朝副都説への確信をますます深めることができました。更には大宰府政庁遺構の編年についても認識を深めることができました。この点、大下さんに感謝したいと思います。その上で、論争や批判は歓迎しますが、論争相手や他者の文章はその論旨を丁寧に読みとり、正確に引用し、自説の根拠を具体的に明示されるよう希望します。
これは会報の公開です。論争されている両者の報告を印刷してお読みになることをお勧めいたします。
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