旅の記憶 -- 史跡探訪と講演会参加 (1,梅花香る邪馬壱国の旅) へ
筑紫舞見学ツアーの報告-- 筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展 白石恭子(古田史学会報122号)
古代ロマン邪馬壹国への道
魏志倭人伝の一大國と伊都國を訪ねて
今治市 白石恭子
五月一〇日の深夜、古田史学の会・四国の会長、竹田覚氏、副会長、阿部誠一氏をはじめとする総勢一九名は、小雨の降る中、大型フェリーに乗って松山観光港を出発しました。小倉に着いたのは翌朝の午前五時でした。早朝の小倉港は肌寒く、雨もわずかに降っていましたが、日中の好天を予感させました。
私たちはすぐに待機していたマイクロバスに乗り、一路博多港に向かいました。
博多港からはジェットフォイルという高速艇で玄界灘を横切り、一時間ほどで壱岐の郷ノ浦港に着きました。壱岐では歴史に詳しいガイドさんの案内で大型バスに乗り、岳の辻たけのつじ、天手長男あまのたながお神社、住吉神社、風土記の丘、天ヶ原海水浴場、一支国いきこく博物館、原の辻はらのつじ一支国王都復元公園を巡りました。
その日の夜は、割烹旅館「網元」でイカの活き造りなどの郷土料理を味わいながら会員相互の親睦を深めました。
翌五月一二日は、印通寺いんどうじ港からフェリーに乗り、時折海面に姿を現わすトビウオを見ながら一時間四〇分かけて唐津まで戻りました。
唐津港からは、博多に四年間住んでおられた会員の大政就平氏の案内で、桜谷(若宮)神社、糸島志摩歴史資料館、平原歴史公園、伊都国歴史博物館、高祖たかす神社、日向ひなた峠、吉武高木遺跡などをマイクロバスで回りました。伊都国歴史博物館では学芸員の方が大変丁寧に説明して下さいました。
博多に戻った私たちは天神で夕食をとり、その後、小倉を出港するフェリーに乗船し、翌十三日の朝五時、松山に帰って来ました。充実した内容で、何よりも大政氏の愉快な話術に助けられた大変楽しい旅でした。
話に聞いていた玄界灘を船上から眺めたのは生まれて初めてでした。遠くに志賀島しかのしまを眺めながらしばらく行くと、青い海原にすっくと立つ玄海島の孤島が見えてきました。天候に恵まれ波も穏やかなのですが、瀬戸内海とは違って厳しさを感じさせる風景です。
この海を「魏志倭人伝」に登場する張政も渡りました。遠くに大きな島影も見え、倭国に無事着いたことにほっと胸をなで下ろしていたことでしょう。末廬国の人たちは、幕末の黒船を見るような思いで張政たちの乗った船を見たかも知れません。
「魏志倭人伝」は三世紀の日本を客観的に知ることのできる貴重な資料です。当時の様子が簡潔な文章で書かれています。末廬国では前を行く人の姿が見えないほど草木が生い茂っているとか、人々は海に潜って魚やアワビを捕って生活しているとか、男子は鮫に襲われないよう入れ墨をしているとか、社会の秩序がよく保たれているとかいったことです。
私は訳文を各国の戸数に注目して読んでみました。對海國は千余戸、一大國は三千許家、末廬國は四千余戸、伊都國は千余戸、奴國は二万余戸、不弥國は千余家、投馬國は五萬余戸、邪馬壹国は七万余戸と書かれています。
今回訪れた伊都国にある平原王墓からは、直径四六.五センチの国内最大級の「内行花文鏡」が出土しています。これは、皇室に伝わる三種の神器のひとつである八咫鏡やたのかがみの大きさに匹敵するそうです。咫しというのは周代の長さの単位で、一咫は約一八センチだと辞書に書いてありました。したがって、八咫は一四四センチとなり、故意か偶然か「内行花文鏡」の円周の長さに相当します。銅鏡の大きさが持ち主の権力の大きさを表すとすれば、俾弥呼ひみかより百年ほど前の時代に平原王墓(一号墓)に埋葬された人物(女王と考えられている)は、俾弥呼と同等か、あるいはそれに近い勢力を持っていたと考えられます。けれども、「魏志倭人伝」に書かれた伊都国の戸数を見ると、たったの千余戸です。俾弥呼より一世紀近く前の王の墓とはいえ、これはどう解釈すればよいのでしょうか。もっとも、伊都国は他の地域から大勢の使節がやって来て常駐する所とも書かれてきます。
話は変わりますが、今治市の大三島には日本総鎮守と呼ばれる大山祇神社があります。その神社の祭神は大山積神おおやまづみのかみで、小千命おちのみことがこの地に勧請したと言われています。日本書紀によると、大山積神の長女は磐長姫いわながひめで、次女は瓊々杵尊ににぎのみことの妻となった木花開耶姫このはなさくやひめだそうです。今回、その二神を祭っている糸島市志摩船越の若宮神社にも行ってきました。
漁港でバスを降り、住宅の間を抜けて細い山道をしばらく辿っていくと、木立の間に石段と鳥居と小さな社が見えてきます。
宮司さんによると、三百年ほど前の寛永元年十一月四日の夜、住民である仲西市兵衛の妻の夢にこの二神が現れ、「明朝、村瀬の沖に浮かび来るので、桜谷にある汝の畑の桜の大樹の下に祭って欲しい」と言ったそうです。果たして明朝、多くの住民が見守る中、一抱えもある大きな二個の石が海岸に流れ着き、まるで意思があるかのように市兵衛の妻の元に寄ってきたそうです。この逸話は、代々口伝されてきたそうです。
宮司さんは親切にも、私たち一行十九名のお祓いをして下さり、御神酒まで振る舞って下さいました。私は、神棚に鎮座している紅白の布に包まれた二つの大きな丸い石を眺めながら、この二神の故郷はこの地ではないかと思いました。
磐長姫は、なぜか別名を苔産霊神こけむすめのかみともいうらしく、社殿には「古計牟須姫命」と書かれた額が掲げられていました。大山積神が古代この伊都国の王であったとすれば、日本総鎮守と呼ばれる大三島の大山祇神社は、この地より勧請された可能性があると思いました。
ついでながら、若宮神社の近くには細石さざれいし神社もあって、その神社の祭神も磐長姫と木花咲耶姫だそうです。なお、「漢委奴国王」の金印は、細石神社のご神体であったという伝承があることも、会員の大政就平氏から聞きました。
ところで、本居宣長は『古事記伝』で、瓊々杵尊が降りたのは日向ひゅうが国の高千穂峰であると書いています。けれども、古田武彦先生の説によると、本当は伊都国の日向峠にあるクシフル岳だそうです。普段何気なく神棚に手を合わせ「・・・・筑紫ちくしの日向ひなたの橘の小門をどの阿波岐原あはぎはらに禊みそぎ祓はら給ふ時に・・・・」と一般的な祝詞をあげていますが、今まで日向という地名からすっかり宮崎県のことだと思い込んでいました。日向の前に筑紫という地名があることに、全く気づいていませんでした。
平原ひらばる王墓の正面に立ち、朝日が昇るという日向ひなた峠を眺めながら、神話の始まりの場所に立っていることに心地よい感動を覚えました。この地で生まれた王権が、次第にその支配を広げていったのでしょう。
私は、海士あま族は稲作とともに弥生時代の初期に倭国にやってきたと理解しています。昨年訪れた対馬には赤米神事、亀卜、阿麻氏*留あまてる神社などあって、稲作が伝わった初期の形が、まるでタイムカプセルのように残されていました。今回訪れた壱岐では、天鈿女命あまのうずめのみことと天手力男命あまのたぢからおのみことを祭る天手長男あまのたながお神社などがあって、神話に一歩近づいているという印象を受けました。
壱岐は水田が多く豊かな島です。高い山がないのに稲作が盛んというのが不思議でガイドさんに聞いてみると、「年間降水量が非常に多い」ということでした。私たちが島を訪れた前日にも大雨が降ったらしく、島にしては広い川が満々と水を湛えてゆったりと流れていました。
氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10
小高い丘の上にある「原の辻はらのつじ遺跡」は一支国の王都であったと推定されています。そして、その近くの高台には黒川紀章氏の設計による立派な壱岐市立一支国博物館があります。私は古代にタイムスリップしてみたいと思うことがよくありますが、この真新しい博物館のジオラマミニチュア模型は、その願いをある程度叶えてくれます。一六〇体のミニチュアの人形のうち四二体は壱岐に住んでいる人々の顔を模して作られているそうです。それらのミニチュアは、古代の人々の生活のようすを一目瞭然に示してくれています。
その中で私が特に注目したのは、川底に土器がぎっしりと敷き詰められている場面でした。数年前、実家のある朝倉で遺跡説明会に参加した時のこと、古代は川底だったという湾曲した帯状の部分におびただしい量の土器が残されているのを見て不審に思っていたからです。今回、案内係にそのことを質問すると、一度祭祀に使った土器は二度と使わないので川に捨てていたということでした。見れば、どの土器にも人為的に穴が開けられています。
壱岐最北端の「天ヶ原海水浴場」にも行ってきました。阿倍仲麻呂の有名な「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌が詠まれた場所ではないか(古田説)ということで足をのばしました。きめの細かい白砂と透明度の高い海、そして急激な地殻変動によると思われる木星のような形をした丘が目を引きました。
ここ「天ヶ原」では、中広銅矛が埋納された状態で三本発見されているそうです。出土した場所から推定して、航海の安全を祈って埋めたのではないかと考えられています。今治市朝倉の「下経田遺跡」でも平形銅剣が地面に突き立てられた状態で発見されました。理由は分かっていませんが、古代は海がもっと内陸に入り込んでいたので、同様の目的で銅剣を突き立てた可能性があります。
壱岐の島には、南北約一七キロ、東西約一五キロという狭さにもかかわらず、二八〇基もの古墳があるそうです。なぜ、そんなに多くの立派な古墳があるのかと尋ねたところ、代々の王の墓というよりも、倭国から派遣された代官の墓だろうということでした。確かに、築造された年代は五世紀後半から七世紀前半までと比較的新しく、やはり、九州王朝から派遣された代官か、あるいは任命された壱岐の豪族のものであろうと思われます。それにしても、日本最古の前方後円墳が奈良にある箸墓古墳で、壱岐にある古墳がそれより新しいのはなぜか、疑問が残りました。
日本の文化の源流である壱岐と糸島市への旅は、郷土の歴史を理解する上でも大変参考になりました。
最後になりましたが、去る五月二〇日、古の越智国の王都であった旧・越智郡朝倉村(現・今治市朝倉)で、古田史学の会・四国の合田洋一事務局長が講演を行いました。朝倉史談会と公民館の主催で、演題は「越智国の盛衰」でした。有線放送でもお知らせしたらしく会場一杯の人が集まり、朝倉にとっても画期的な出来事となりました。参加者は初めて聞く郷土の話に真剣に耳を傾けていました。
これは会報の公開です。
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