「古田史学の会」新年賀詞交換会 -- 古田武彦講演会・要旨 文責・古賀達也(会報120号)
「古田史学」の理論的考察 (「論理的考察」 は誤植) 古田武彦(会報116号) 追記へ
古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)
「いじめ」の法則
続、「古田史学」の理論的考察
古田武彦
(前号の「論理的」は誤植 追記)
一
「いじめ」問題は“奥行き”が深い。
昨今「いじめ対策防止法案」が国会で可決された。「国の意思」をしめすもの、として重要だという。けれども、いまだ「強制力」(実行されない場合の罰則)が無いのは、不十分だとする(井澤一明氏。六月二十一日、NHK)。いずれも、正論だ。だが、それで終りか。果して、滋賀県大津中学の「いじめ自殺」などが“防止”できるのか。 ーー否、これは“奥行き”の深いテーマの、問題の「はじまり」だ。決して終着点ではないのである。
二
わたしたち(たとえば、「古田史学」の会員など)には、「周知」の問題がある。明治維新以降の「学会」や「教科書」や「大手メディア」は、すべて「近畿天皇家中心」の一元史観で貫かれてきた。そのため、「男(多利思北孤たりしほこ)と女(推古天皇)を同一人とする」背理を日本の歴史像の根幹としている。例の「日出ず(づ)る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや。」の「名文句」を推古天皇(女性)の時代(七世紀前半)において、叙述してきたのである。もちろん、この「名文句」は男性の多利思北孤(妻をもつ)が相手国(隋朝)に送った国書の「自署名」だ。だが、明治以降、現在に至る公教育では、すべて女性の推古天皇の時代とならざるを得ない。
そのため、この「不道理」を指摘しつづけてきた、わたしの「九州王朝説」は“存在しない”こととして、すべて「排除」してきたのである。「無視(シカト)」だ。
「周知」のように、この「無視」こそ、「いじめ」の原点だ。「いじめの冷水」の“こんこんと流れ出す”その本来の源泉なのである。
「わが国は、断固、『いじめ』の源泉を守る。」
これが、明治以来、天下に示しつづけてきた、「日本国家の不断の意思」なのである。
教育の場に「いじめ」の跡が絶えないのも、当然至極と言う他はない。
三
わたしの学問の基本は「論争相手に対する尊重」である。それは村岡典嗣先生の学問のしめした通りだ。論争相手の津田左右吉などに対する「敬意」と、批判の「鋭さ」と、その併存に、十八歳のわたしは深い衝撃を覚えた。世間では「皇国史観」に反する、あるいは不十分な論者に対する「罵倒」があふれていたからだ。わたしが授業で「古事記序文」に対して、村岡先生の説(和文中心主義)に“反対”の立場(中国側の「尚書正義」中心主義)を述べると、早速わたしの説の発表の機会を十二分に用意して下さった(勤労動員で中断)。それが村岡先生にとっての「学問」だったのである。
「授業の進行のため、時間がないから。」といった、形式主義の「大義名分」論には立たれなかったのだ。印象深かった。真の研究者である。
四
会誌の編集は、難かしい。特に、一人が編集者(A)と、一方の論争者(A)とを“兼ねて”いる場合、他の論争者(B)にとって「不十分」乃至「不満」の残る場合、少なしとしないのである。
その場合、「他の編集者」(C)の言葉を“借りて”「編集上のルールに従っただけ」と言ってみても、他の論争者(B)には、“言い分け”としか、聞えない。第一、それは右にのべた「わたしの学問の方法」とは、なじまない。ハッキリ言えば「反する」ものだ。なぜなら「編集者グループの判断」といった“言い分”は、どの会誌、たとえば従来説の学者たちが、いずれも“使い古した”立場だからである。
願わくば、「古田史学の会」は、わたしの信ずる「学問の姿勢」に従ってほしい。それが率直な、わたしの信条である。
五
すばらしい一文に接した。角田彰男さんからである。氏は歴年、わたしの歴史観を基礎として、『「邪馬台国」五文字の謎』等、読みやすい「古代史の小説」を著作し、壱岐(長崎県)や豊後(大分県)など各地に読者層をもつ、さわやかな「書き手」であるが、今回の一文は、こと変り、きわめて“印象深い”ものだ。あえて掲載させていただくこととした。(当人の御了解ずみ。)
古田史学と多元の会の存立を危うくする憲法改正について
ー歴史研究の立場からー 2013.6
戦後、日本は、軍国主義や皇国史観から解放され、これまで日本歴史や九州王朝の研究、学習など自由にできました。
ところが最近、憲法改正が取りざたされる世相となってきました。そこで政権党の作成した憲法改正案を見ると何と80ヵ所以上も改変されています。
今まで多元の会では、研究会、講演会、発表会、広報、出版などこれまで自由にできましたが、今の政権党の案に基づき憲法が改正されると天皇一元史観に基づかない多元的史観や自由な歴史研究の発表は、天皇を戴く憲法の趣旨になじまず、天皇に失礼であるとして圧力を掛けられたり規制されたりして困難になる可能性があります。
例えば、九州王朝は天皇家以前に日本(倭国)を統治していた。天皇家は九州王朝滅亡後、その神話を盗用した。君が代は九州王朝の賛歌で天皇家の歌ではない。君が代の本歌は挽歌だった(藤田友治説)などの発表や会の活動は、公の秩序を害するとして規制されかねません。これについてみなさんで話合う必要があると思います。
憲法改正の問題点について(一部抜粋、太字は改正点)
(前文)
日本国は長い歴史と固有の文化を持ち、・・・天皇を戴く国家であって・・・。
日本国民は良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する・・・。(長い歴史を通じて、天皇を戴いてきた良き伝統)
(天皇)
第一条 天皇は日本国の元首であり・・。
(国旗及び国歌)
第三条 国旗は日章旗とし国歌は君が代とする。
2 日本国民は国旗及び国歌を尊重しなければならない。(新規条項)
(天皇の国事行為等)
第六条
4 天皇の国事に関する総ての行為には内閣の進言を必要とし・・・(助言と承認を削除)
(表現の自由)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。
2 前項の規定にかかわらず公益、及び公の秩序を害する事を目的とした活動を行い、それを目的として結社することは認められない。(新規事項)(集会、結社、言論、出版に介入、規制可)
(憲法尊重擁護義務)
第百二条 総て国民はこの憲法を尊重しなければならない。(新規条項)
(天皇・権力者よりも、今度は国民を縛る規定)(会員、日本ペンクラブ会員 角田彰男)
(以下、角田氏から古田先生への手紙。但し、本文は省略。:編集部 注)
6月18日
埼玉 角田彰男
古田先生
追伸
その後判った事ですが、憲法案、第九章では、ヒトラー独裁を可能にした「全権授与規定」と似たような条項があり、総理が緊急事態を宣言すれば、国会も都道府県議会も市議会も超越し全国民に直接命令できるとする命令権が規定され鳥肌が立つ思いがしました。軍法会議も設置できるとあり、これは看過できないと感じました。
(以上、角田稿:編集部 注)
真の「論敵」がどこにあるか。明瞭である。「古田史学内部の“争い”」へと“熱中”してはならないこと、自明の真理だ。
六
この問題の「最深のテーマ」をしめそう。日本に関する「歴史認識」である。わたしの研究の中心課題が「歴史学」である以上、避けて通れないテーマだ。
現代の日本国民にとっては、それは「侵略国家」の四文字が「底流」となっている。たとえば、近年の「韓国の従軍慰安婦」問題も、この「底流」の上に立つ。
わたしも、その点、同じだ。彼等が「もうよい。その問題はすんだ。」と、かりに言う日が来ても、わたしたちは“許さ”ない。一方で「大東亜共栄圏」などと稱しながら、他方でこの“恥ずべき所業”の存在したことを、忘れることはないのである。
けれども、他の一面がある。「露国名譽れの將士の為に」(当用漢字)と題された、明治三十八年一月九日付けの「東洋日の出新聞」の記事だ。
「珍客とは誰ぞや、単にステッセル将軍と謂いふ勿なかれ、ステッセル将軍一人にんの義烈勇敢に非ず、万士万々卒悉くステッセルにして、而して始めて旅順城の真の手ごたえ(大字)有りたる也なり。ステッセル将軍と同じき幾多の将士よ且しばらく予輩よはいをして我大日本武士道(大字)の神髄しんずいを表する歴史的事実を語らしめよ。」
要するに、日露戦争における「敗者たち」、ロシヤのステッセル将軍以下のすべての「捕虜たち」は、“勇敢なる戦士”であるから、これを「珍客」として、厚遇すべし、と論じているのだ。
これと同趣旨の「歌」は「旅順開城、約やく成りて、敵の将軍ステッセル」にはじまる長詩として、わたしたち小学生は、くりかえし習った。歌わせられたのである。昭和十年代、敗戦の十年近く前のことだった。「これが日本の武士道だ」という教えである。
七
これに反する立場、それがマッカーサーたち、アメリカを先頭とする連合軍の「占領方針」だった。敗者側の日本の将兵を、「A級・B級・C級」と“ランク付け”して、次々と処刑しつづけたのである。
人類の未来にとって、いずれの立場が「是」にして、いずれの立場が「非」か。わたしには明瞭だ。だが、戦後日本社会の「底流」には「侵略国という歴史認識」のみが“摺すりこまれ”たのだ。
敗戦後の日本人が、世界に冠たる「自殺突出国」となりつづけているのも、偶然ではない。バブルの好景気もあった。「定年まで終身雇用」の時期もあった。もちろん「不景気」も。しかし、一貫して(統計をとり出した)この十年間、自殺者は「三万人前後」をつづけている。ようやく三万人を“割った”かに見える、昨年来も、若者たちの「自殺率」は急増している、という。なぜか。日本だけが「(世界の中で)就職率が悪かった」のか。非ず、日本国家に対して、日本国民が「自信」と「夢」を失っているからではないか。人は「パンのみにて生くるものに非ず」(マタイ伝)だからである。
しかし、わたしは反対だ。日本の未来は明るい、と思う。ローマ軍の支配下で、あのイエスが生まれたように、アメリカ軍の支配下で、地球の未来を救うべき、一個の島国がある。それが日本だ。その日本にわたしは生まれた。だから、この学問の中で、生涯を貫きえたのだ。運命の神に感謝する他はない。この「時」と「所」を得て、日本と世界の歴史に対する真実の歴史、「戦勝者」や「イデオロギー」に依拠せざる、本来の歴史の探究の中に、自己を置きえたからである。
二〇一三、六月二十三日記了
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