論争の提起に応えて 正木 裕
隼人原郷 西村秀己(会報115号)
古田先生にお応えする 西村秀己(会報117号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)
「古田史学の会」新年賀詞交換会 -- 古田武彦講演会・要旨 文責・古賀達也(会報120号)
古田史学の真実
西村論稿批判
古田武彦
前号(古田史学会報、N0.117)に掲載された西村論稿を一読してショックを受けた。「古田先生にお応えする。高松市 西村秀己」論稿である。西村氏が「正しい学問のあり方」と信じておられるところと、わたし自身、この三十数年間、あるいは青年時代以来「学問」と信じてきたところと、その“落差の大きさ”に驚いたからである。
もちろん、この「古田史学会報」の読者の方々がどのような「目」でこの会報を読まれるか、また読んだあとでどのように考えられるか、それはすべて、その方々の自由だ。
だが、西村氏の場合、一般読者ではない。編集部の一員だ。しかも、古賀達也氏が最近その西村氏の論考に「絶讃」を加えておられる。この御二人に全く「他意のない」ことは、わたしは平常から信じてきた。今も変りはない。それ故、今回の西村論稿の出現を「好機」として、わたしの「学問」と信じるところを平易に、率直に語らせていただこう。一両日のショックのあと、そう考えた。これがわたしの真実である。
二
わたしはこの六十数年間、学問に対する考え方を一貫させてきた。岡田甫先生や村岡典嗣先生に学んだところである。アウグスト・ベェク(ベーク)の学問に対する方法論に立ってきた。「認識されたものの、再認識」の立場である。
親鸞研究にはじまり、古代史研究に入ってからも、『「邪馬台国」はなかった』以来、変更するところはなかった。最近では「Tokyo古田会」の学問論、閑中月記、また「多元的古代研究会」の「多元」へとわたしの「学問研究」の進展を逐一書きすすめてきた。いずれもわたし(古田武彦)の歴史学の本質である。けれども、西村氏は「「多元」所載の『言素論』を論証の根幹に用いるのは慎むべきでな
いかと愚考する。」と言われる。わたしの学問にとって不可欠の立場、それをなぜ「自粛」せよというのか。不明だ。氏を含む何ぴとにも、そのような権限は存在しないのである。
三
念のため、わたしの立場を、二、三の実例によって簡潔に述べよう。
第一は「邪馬壹国」。これは三国志の魏志倭人伝中の中心の一語だ。最初は「中国側の表記」と考えていたが、倉田卓次氏の批判を受け、倭人側の表記と見なした。その上一昨年(二〇一一)公刊の『俾弥呼』で詳述したように、俾弥呼から中国(魏朝)側へ送った国書(上表文)中の自国名だった。「訓み」は「ヤマイチ国」である。 しかも、それは「七万戸」の全体を指している。後漢書倭伝で、「大倭王」の居所とされている国名と“スケール”を異にしている。たとえば「東京都」と「宮城」のちがいと同類だ。この「『壹』と『臺』の峻別」こそ、わたしの立論の基礎をなしている。そのために三国志の中の「壹」と「臺」を調べ、この二字の“まぎれ”なきことを確認した。それがわたしの論文(「邪馬壹国」、史学雑誌七八‐九)と『「邪馬台国」はなかった』執筆の原点となったこと、すでに「周知」のところだ。
これに対して西村氏が「従って、仮に三国志中に幾らかの『壹』と『臺』の混用が見られたとしても、古田先生は些かの痛痒も感じなかったのではないか」という一文には驚く他はなかった。もし、そのような「混用」が見出されたとすれば、右の「邪馬壹国」の論文も、『「邪馬台国」はなかった』の著作も、わたしが「書く」ことはなかったであろう。この点、今年(二〇一三)の九月中旬刊行予定の『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房)にも、その時の状況が率直に述べられている。西村氏は“斜め読み”のせいか、わたしの立論の根本を「誤読」されたようである。
四
第二に「裸国・黒歯国」。三国志の魏志倭人伝には、この二国が「東南、船行一年」の地にあり、とせられている。「二倍年暦」で、現在の「六か月」に当る。黒潮に乗ればエクアドル・ペルーの近辺、フンボルト大海流と衝突する地帯である。その原住民(千余年前のミイラと共に)と現代の日本人(太平洋岸)と同一のウイルス(HV‐ I の1)と、同一の遺伝子をもっていた。わたしの倭人伝解読は正しかったのである。
その地帯(エクアドル)に二十数人の方々と研究調査を行ない、現地に(チチカカ湖をはじめ)幾多の日本語地名を確認したのである。この点、スペイン語に堪能な大下隆司さんのおかげをこうむること多く、大下論稿が「古田史学会報」に掲載されている。貴重な成果である。(「バルディビア探求の旅?倭人世界の南界を極める No.79」「続・「バルディビアへの旅」 -- 九州の甕棺と縄文土器 No.80」)これも当然わたしの知る古田史学に不可欠の一画である。
五
第三に「チクシ」。深津栄美さんのお知らせによって、北極海に近いシベリアの一隅にこの地名のあることを知った。南米(エクアドル)の経験をもとにこの「チクシ」も「原初日本語」の一つではないか、と推定した。わたしの「言素論」の理論的帰結である。 ところが今回は“意外な反応”がもたらされた、というより「必然の反応」だった。ロシアのウラジオ大学のオキノフ博士の論文において、同一の問題提起がすでになされていたのである。(ドニエプル出版、小野元裕氏による。「多元」No.117参照)。南米(エクアドル等)のケースは「日本列島から南米へ」が主方向だったけれど、今回は「シベリアから日本列島へ」の方向だ!いずれもわたしの「言素論」の学問としての真実、その有効性が証明されることとなったのだ。これに対し、西村論稿は言う。「この「言素」を元に別の言葉を分析(演繹)することは、いかがなものであろうか。この演繹が有用性を持つためには、(1).ひとつの「言素」がひとつの意味しか持たない。(2).(1).の「言素」が何処ででも通用する。(3).(1).の「言素」が時代を超えて変化しなかった。つまり、統一された言語が縄文時代から弥生時代に架けて、さらには古墳時代にまでも変わらず日本列島で使われた。この証明が不可欠ではないだろうか。」(10頁上段)
この一文を読んで、わたしは“がっかり”せざるをえなかったのだ。なぜなら
第一、最初わたし自身(大学時代の常識によって)このような考え方をしていた。(村岡典嗣先生を除く)
第二、しかし、そのような“考え方”に重大な疑問を生じ、悪戦苦闘の末、この「言素論」の立場へと進んだ。わたし独自の「歴史学への道」であった。その経験が「多元」(隔月刊)の三十八回にわたる大事な論稿であった。
しかるに、西村氏はそれを読まずに、あるいは“斜め読み”のままでわたしの「大学(在学)時代」と同類の旧態の思考法をもち出して(大胆にも)わたしの「言素論」を批判したかのように“信じて”おられるようである。何とも言いようがない。この「言素論」が、なぜわたしの学問にとっての「必然の道」となっていったか、次回改めて詳述することとしよう。
次に「隼人」。氏はわたしの『失われた日本』から「六千三百年から六千四百年前の(縄文早期末)鬼界カルデラの一大爆発が起きた。(中略)」以降の文面を引用した上、「この『縄文早期』から輝ける先進文明を誇った『倭人』は如何にして、この未曽有の大災害を切り抜け、弥生時代・古墳時代を通して南九州で文明を保持し続けることができたのか? そして南九州で生き続けることのできた『隼人』が、『景行の九州大遠征』に一切登場しないのは何故か?」(10頁中段)と言われる。
ここでは、氏がわたしの主張(歴史観)を「誤解」というより、「真反対の主張」へと“おき変えて”おられることに、一驚せざるを得なかったのである。わたしの主張は、第一、「隼人」の先進文明は、縄文早期から鬼界カルデラの一大爆発までの存在であり、それ以後へと“継続”することはなかった。(川内せんだい地方周辺を除く)。
第二、古事記・日本書紀の「神代の巻」(特に古事記)は、右の一大爆発の被害が(実質上少なかった)筑紫(福岡県)・出雲(島根県)が中心となっている。
第三、けれども古事記の履中記の曾婆訶理(そばかり)が「隼人」であり、“もっとも愚劣で悪逆な人物”として描かれているのは、この「隼人」こそ「神話時代(弥生時代)」の「筑紫・出雲」より、さらに古く、一層神聖な時代、その文明の存在したことの「反映」である。ちょうど「天照大神以前」の太陽神に代えて「水蛭子」、“なめくじ”めいた存在を、神の名に入れるべきに非ず、としていたのと同類の“手法”である。(バイブルの「イヴとアダム」も同類)。
以上が、わたしの歴史観、史料批判の方法なのである。だから、もし、「縄文の後半期」や「弥生・古墳期」まで「隼人の輝ける文明」が南九州に存在しつづけていたとすれば、まさに「古田の隼人認識」はまちがっていたこととなろう。
西村氏はみずから“告白”しておられるように、「筆者は『多元的古代研究会』の会員ではなく、『多元』のすべてをしかもタイムリーに読むことはできない」(9頁下段)としながら、それでなおかつこれほど「一刀両断」風に、わたしの「言素論」を切り捨てる。これは氏の錯失あるいは不用意と言うほかはない。
六
次に、せっかくの御批判であるから、氏の「マリア論」と、「隼人北九州論」に対する再批判を述べさせていただこう。第一、「マリア論」。旧約・新約を通じて「マリア」という女性名をすべて“抜き出し”て調査されたこと。これは正しい方法である。しかし、問題はそれが「史料批判の基礎」でなければならない。わたしの「『壹』、『臺』」の調査が、「三国志と後漢書を一律に扱ってはならない」という根本理解の一環となったように、同じく「旧約聖書と新約聖書を一律に扱ってはならない」という立場に氏が立たれたら、さらにすばらしかった、と思われる。また、わたしが原初的イエス像を保存すると見なした『トマスによる福音書』や、『旧約・新約聖書の他の巻々』を加えたらどうなるか。あの『死海文書』を加えたらどうなるか、楽しみだ。結果はどうなるにせよ、本質的に着実な研究と史料批判への道を、「時」と「ところ」を越えて進めてゆくこととなろう。これがわたしにとっての「学問の方法」だ。氏のみならず、後生の方々に期待したい。
七
最後に、西村氏の「隼人北九州論」のもつ問題点にふれよう。
第一、わたしの「南九州、隼人の先進文明論」について。地理的位置(南九州)のみを“とりあげ”て、「古田説は従来説と同じ」と“言われる”けれど、歴史学の問題として重要なのは、「単語」ではなく、その地名のもつ「歴史的位置づけ」なのではあるまいか。たとえば「大和(奈良県)」を「やまと」と訓んだら、それだけで「従来説」と称するのは不当だ。三世紀において「大和(奈良県)」が果して「倭人の国々の中心かどうか」こそが問題なのではあるまいか。それと同じだ。
第二、だから西村氏がわたしの説に「反対」だとしたら、わたしの「縄文早期の先進縄文文明としての隼人」論の「あやまり」を(支葉末節ではなく)、正面から批判してほしい。その上で「自分の北部九州説」へと“論を向けて”ほしい。それが学問の王道だ。
第三、西村氏の立論の「脆弱点」は、北九州に「隼人」という地名がないことである。ことに「北九州」は、古事記・日本書紀神話や歴史の叙述の“もっとも多い”地帯なのに、それが「ない」点だ。 かって高木彬光あきみつ氏が、わたしの「邪馬壹国」が現地地名に存在せぬ点を“拡大”し、現存地名を一切無視(壱岐から後)して、自家の好む到着地(豊の国・大分県)へと、“突っ走った”先例がある(『邪馬台国の秘密』)。西村氏も高木氏と同じ「学問の方法論」に従われるとすれば、それはもちろん、わたしの「学問の方法」ではない。全く異質の方法、別の学問である。
西村氏がどのような道を選ばれようと、それは氏の自由に属する。当然だ。だが、その自家風の好みの学問を古田史学などと呼んでほしくない。代って「西村史学」と名乗って、その自己流の歴史学を“拡め”られればよい。それなら筋が通っている。しかし、現在の「古田史学の会」の会員は、わたし(古田)の拠って立つ「歴史学」の意と解して、会員となり、会費をはらっておられる方々が大半なのではあるまいか。当然だ。
「羊頭狗肉」の“そしり”は避けてほしい。それがわたしの切に願うところである。
西村氏の忌憚なき御批判のおかげで今回(と次回)率直な再批判、わたしにとっての学問の“ありかた”を述べさせていただきえたこと、氏に対して深く感謝させていただきたい。
二〇一三、九月六日
これは会報の公開です。 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
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