2013年 6月 6日

古田史学会報

116号

1,「古田史学」の
   論理的考察
  古田武彦

2,「消息往来」の伝承
  岡下英男

3,白雉改元の宮殿
「賀正礼」の史料批判
  古賀達也

4,「放生会」は
 九州王朝の儀式
利歌弥多弗利の創設
  正木 裕

5,元興寺と法隆寺(二)
勅願寺としての同一性と
斑鳩寺の存在
  阿部周一

6,『文選』王仲宣の従軍詩
『三国志』蜀志における
二つの里数値について
  古谷弘美


古田史学会報一覧

「高天原」の史料批判 古田武彦(会報114号)
中島嶺雄君に捧ぐ 古田武彦 (会報115号)
「いじめ」の法則 -- 続、「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報117号)
古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)

「古田史学」の理論的考察

(「論理的考察」 は誤植  追記

古田武彦

 「古田史学会報」も一一五号を迎えた。「近畿天皇家中心の一元史観」という、明治維新以降の、いわゆる「定説」に対する“異議申し立て”の「学術誌」である。貴重だ。
 だからこそ、その拠って立つ「学問の姿」において“狂い”があってはならない。それが生じれば、率直に、忌憚なく、指摘されねばならぬ。「従来説」という、他を批判するには、先ず「自らに対して、厳粛でなければならぬ」からである。それが学問だ。
 だが、近来の当誌(「古田史学会報」)を見ると、いささか「?」を感ぜざるを得ない。もちろん、執筆者や編集者にとって「他意」があるわけではないだろう。それ故、この「理論的考察」において、悪びれずに、事実を、わたしの受け取ったところを、語らせていただきたいと思う。

    二

 わたしを驚かせた論稿は「隼人原郷」(高松市、西村秀己)の一稿である。(当誌No.一一五、二〇一三・四・八)国史大辞典の隼人の項を引き、
 「古代の日向・大隅・薩摩の地域に、狩猟・漁労を中心に農耕生活を営んでいた人々が、長らく文化的にも孤立していたため、中央政府から『夷人雑類』と見做されていたのが隼人である。」

 と述べ、宮崎県埋蔵文化センター所長の北郷泰道氏に電話取材した上、
 「隼人の故郷は天国すなわち壱岐となろう。隼人は壱岐の兵士だった。であるならば、魏志倭人伝の描く「一大率」は隼人の集団の可能性が高いのではなかろうか。
 百歩譲ってみても、瓊瓊杵が降臨したのは、博多近辺の日向である。そこで出会った娘との間に生まれた者が隼人の祖とされているのだから、すくなくとも隼人の原郷は北九州となるべきだ。」

 右のように「隼人の原郷=北九州説」が帰結されているのである。
 問題は、次の一点だ。この「隼人問題」は、わたしにとって「基本的」かつ「重大」なテーマである。だから、今までも、繰り返し論及してきた。たとえば、今年(二〇一三)三月の「多元」No.一一四の「言素論の新展開」(言素論三五)でも、この「隼人」をもって「縄文早期」にさかのぼる「縄文神殿」の“呼び名”として、言素論的に分析した。その上で、南九州(鹿児島県)の彼等は、近畿天皇家に対してはもちろん、九州王朝に対してもまた、「はるかに悠久なる、文明中枢」をなす地帯であった。そのように分析したのである。
 その上で、古事記の履中記で、「隼人の曾婆加里」が、もっとも「悪逆」にして「愚劣」な人物としてクローズ・アップされていた事実を、実は彼ら(隼人)が、近畿天皇家や九州王朝より、はるかに「神聖な淵源」をもっていたためだ、と論じたのであった。
 『俾弥呼』(日本評伝選・ミネルヴァ書房刊)で「不可欠のテーマ」としている「歴史の革命 -- 『被差別部落』の本質」と“共通するテーマ”なのである。この点、『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房復刊本)の「日本の生きた歴史(三)」の「第七『先進儀礼』論」で明記した。
 「『いぬひと』も『はやと』も、まさに南九州の『先進文明』の『先進儀礼』の存在を赤裸々にしめした日本語だったのです。」四四二ページ)

 というように、簡明な文体で、日本歴史の根源に、天皇中心の歴史学に対して『真実の刃』を深く突きさしたのである。
 もちろん、これらはすべて、私自身の歴史観に過ぎない。わたしの信ずる「古田史学」の立場である。だから、これに対して西村さんや古賀さんが「反対」されるのは、当然結構だ。何の問題もない。しかし、そのさい、必要なこと、それは「遠慮なき、古田説批判」という一事ではあるまいか。学問である以上、何の「遠慮」も不要だ。
 だが、逆に「そんな、隼人に関する古田説はなかった」かのような「立場」にたつならば、それは「古田史学」でも、何でもない。三十数年間にわたって、私の説が「なかった」かのような「醜い態度」をとりつづけてきた、従来説の“手法”そのものに対する「模倣」となるからである。

    三

 もう一つの事例をあげよう。これも、
右と同じ方(西村秀己氏)の一文だ。(当誌六二号・二〇〇四・六・一)聖書の「マリア」に関する論考である。氏によれば、聖書の四福音書には「マリアが多すぎる」という疑問を持たれたという。
 「イエスの関係者(世話をした、処刑を見ていた或は埋葬に立ち会った等)は次の九名である。
 イエスの母マリア、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフ(小ヤコブとヨセ)の母マリア、ベタニア(マルタの妹)のマリア、クロバの妻マリア、サロメ、スサンナ、ヨハナ、マルタ
 これ以外には、ヘロディア(フィリポの妻)、エリザベト(ヨハネの母)、アンナ(ファヌエルの娘、女預言者)以上の三名である。」
 そこで氏は次の二点を検証される。
 「(1) マリアがありふれた名前だからイエスの関係者の半数以上がマリアであっても不自然ではない。
  (2) マリアはありふれた名前である。」

 右の(1)を確率計算によって否定した上、旧約聖書中には、この「マリア」の名前がわずかしか存在しないことを「列挙」して(2)も成り立たないことをしめされた。その結果、
 「 i イエスは『マリア』という名前に特に関心があり、『マリア』を中心に布教活動をおこなった。
  ii イエスもしくはイエス死後の中心的指導者が信者の内特別な存在に『マリア』という名前を与えた。」

という、二つのケースを想定し、(1) ならば、イエスは「単なるマザコン」であり、ありえない。従って
 「こうして『マリア』とはイエスの名付けたものである疑いが浮上してきた。」

 という“回答”へと導かれたのである。
 まことに、みずから「計算」し、みずから「分析」された点、見事な「力作」であるとも見えよう。しかし、私の「読後感」は、「?」というより、明白な「非(ノウ)」である。なぜなら、ここで対比されている資料である「旧約聖書」(A)と「新約聖書」(B)との資料性格の「差異」が考慮されていないからである。
(A)歴代のユダヤの代表者が大部分である。時代は、イエスの出現以前。
(B)イエスの周辺の庶民。時代は、イエスと同時代。

 従って右の二資料を「同列」において「比較」し、そこから結論を導くこと自体が無理なのである。
 一例をあげよう。現在の、わたしの周辺には「ケイ子」(漢字は「啓子・敬子・圭子」等)」という名前の女性が多い。従って家庭内の日常会話でも「〜のケイ子さん」といった言い方をしなければ通用しない。
 しかし、私自身の「同年代以上」の世代では、この名前はほとんど現われない。現われるとすれば、いわゆる「華族」中だ。それも「漢字」はまちまちである。
 また、「聖子」という名前も、敗戦後のスターなどで著名だが、敗戦前は、ほとんど見かけたことがない。すなわち「時代」と「身分層」によって“激変しているのだ。それが「名前」の”常態“であること、手近かの「女子高校(女学校)」の名簿一つ採っても、検証できよう。
 西村氏の立論に「必要」だったのは、先ずこの検証だったのではあるまいか。それが無かったから、氏はいわば「整然と、まちがった」のではあるまいか。惜しむべきである。

    四

 古賀達也氏はこの西村論文を「絶賛」された。
 「こうした大胆な論証を好まれる西村さんですが、わたしが舌を巻いた緻密な論証もあります。『マリアの史料批判』です。」
 「ある日、西村さんが『新約聖書に記されたイエスの周囲にいる女性の名前にマリアが多すぎる。これはおかしいやろう。』と言われた。」
 「その後しばらくして西村さんは書きあげたばかりの一編の論文をわたされました。そこには何と、旧約聖書に登場する全女性の名前を調べあげ、『マリア』という名前の女性は一名しか登場しないことを指摘し、当時、『マリア』という名前はありふれた名前ではないということを証明されたのです。」
 「わたしはグウの音も出ず、ただ『おそれいりました』と頭を下げました。その時の西村さんの『どや顔』を今でもよく覚えています。これは見事な論証と言うしかありません。その論文が『マリアの史料批判』だったのですが、わたしはキリスト教研究史に残る名論文だと思います。」(古賀達也の洛中洛外日記、第三六一話 二〇一一・一二・一三)
 私の「読後感」とは全く相異なっている。すなわち、私とご両人とでは「学問の方法」において大きな「ズレ」が存在するようである。

    五

 古賀さんはかつて「会報投稿のコツ(1)(2)(3)(4)」という、絶妙の名文を書かれた。編集者としての「会報採否」の基準である。(古賀達也の洛中洛外日記、第三五七話、二〇一一・一二・六〜第三六〇話、二〇一一・一二・一一)そこで四分類を行ない、
 A採用 優れた論文で、次号に掲載すべき。
 B採用 採用合格だが、次号でなくてもよい。
 C採用 必ずしも採用基準に達していないが、会報スペースが空いていれば掲載可。
 D採用 採用すべきでない

 以上の項目に分類したうえで、
 「自説に不利な史料や先行説を無視軽視せず紹介した上で、どういう理由や根拠で自説の方が有力・合理的であるかを、読者が理解できる平明な言葉と論理性で説明してください。「(会報投稿のコツ(3)の5)
 先述の「隼人原郷」に対して、なぜこの「明晰な指針」は一切適用されなかったのであろうか。「多元」や『盗まれた神話』(復刻本)にこの点についての「古田の隼人説がある」旨の注記すら、ないのである。残念ながら、みずからの「指針」は、見事に無視されているのだ。

 次の「マリヤの史料批判」。
 古賀氏は、先述の「会報投稿のコツ(4)」の中で、故、中小路駿逸さんの一文を引用している。
 「ああも言えれば、こうも言えるというのは論証ではない」言い換えれば、
 「『誰が考えても、どのように考えても、このようにしか言えない』と説明することが論証するということなのです。」
 この立場から見て、果たして西村氏の「マリヤの史料批判」は「論証」として成立しているのであろうか。わたしの頭では、すなわちわたしにとっての「学問の方法」では、全く「うなずけない」、理解不能なのである。
 これほどの「落差」は、果たしていずこから生じたのであろうか。さらに突き止めてみたい。
 幸いに、西村秀己氏は久しく、わたしにもっとも「近しい方」だった。同じ桂川西方の向日市に久しく住まわれ、時あってわが家に立ち寄られることも、少なくなかった。御仕事や御身内の要務のため、最近は「交流」が少なくなっていたけれど、人も知る「好漢」、無用な「遠慮」など、一切不要な方だ。
 古賀氏は、もちろん、京都市内に居られ、京都大学へ行くときは、お宅の前を通る。それより、何より、「古田史学」という四文字の使用を、私自身に懇請された方だ。
 今回のような、基本問題に関する「論理的考察」に関しても、大歓迎してくださることと信ずる。じっくりと、落ち着いて、さらに論点を深めさせていただきたい(つづく)

 (補)当稿は「『言素論』の理論的考察」(多元No.一一五、May・二〇一三)「『学問論』の理論的考察」(Tokyo古田会News、次号予定)と「ワンセット」をなしている。参照されたい。
       二〇一三・五月二日稿了


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