2015年 2月10日

古田史学会報

126号

1,平成27年、
賀詞交換会のご報告
   古賀達也

2,犬(火)を跨ぐ
   青木英利

3,「室見川銘板」の意味
   出野正

4,盗用された
   任那救援の戦い
敏達・崇峻・推古紀の真実(下)
   正木裕

5,先代旧事本紀の編纂者
   西村秀己

6,四天王寺と天王寺
   服部静尚

7,盗用された
「仁王経・金光明経」講説
   正木裕

8,倭国(九州王朝)
  遺産一〇選(上)
   古賀達也

古田史学会報一覧
ホームページ

盗用された任那救援の戦い -- 敏達・崇峻・推古紀の真実(下) 正木裕 (会報125号)

「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」 正木裕(会報127号)


盗用された「仁王経・金光明経」講説

川西市 正木 裕

 『書紀』の持統七年(六九三)十月に以下の記事がある。
 (1).持統七年(六九三)十月己卯(二十三日)に、始めて仁王経を百国に講(よ)ましむ。四日ありて畢(おは)りぬ。

 一方、斉明六年(六六〇)五月に以下の記事がある。
 (2).斉明六年(六六〇)夏五月是の月に、有司(つかさ)勅を奉りて、一百の高座、一百の衲袈裟を造りて、仁王般若の會(おがみ)を設く。

 両記事の内容は極めて近似するうえ、持統七年の方に「始めて」とあるのにも疑問を感じる。(註1) また、仁王経は金光明経・法華経と並ぶ「護国三部経」のひとつだが、持統七年に百国(全国的と言う意味)に護国経を講説すべき時代背景・理由は見当たらない。

 ところが、持統七年(六九三)記事(1).が、三十四年前の斉明五年(六五九)から「繰り下げられたもの」と考えれば、「始めて百国に仁王経を講説する」という意味・内容が明確になる。(註2)
 即ち、斉明五年(六五九)に全国に仁王経を配布・講説し、翌斉明六年(六六〇)五月に、各国に高座を設けさせ、法衣(衲袈裟)を造り、始めて全国的に「仁王般若會」を実施したという記事になるわけだ。
 斉明五年(六五九)の年末には、唐は、高宗が「来年必ず海東の政あらむ」と勅したように、新羅と連合し高句麗・百済を攻撃する準備を整えていた。そして六六〇年三月には蘇定方が十三万の兵を率い「黄海」を渡り百済に出撃している。そして新羅の武烈王も五月に参陣し、八月には百済王都(扶余城)ほかを陥落させ、百済・義慈王らは降伏した。百済と密接な関係を保っていた倭国・九州王朝にとって、これは国家存亡の危機ともいえる事態であった。

 従って「斉明六年(六六〇)五月」に全土を挙げ「護国祈願祭」を行うというのは、誠に時機に相応しい行事と言える。しかも、

(3).持統八年(六九四)五月癸巳(十一日)に、金光明経一百部を以って諸国に送り置く。
 との記事があり、この三十四年前は、ずばり「斉明六年(六六〇)五月」にあたるのだ。つまり仁王般若會を行うと同時に、「護国三部経」の金光明経が百国に配られたことになる。

 そして、持統十年(六九六)十二月には、金光明経講説のための出家が実施されている。この三十四年前は天智元年(六六二)で、倭国は百済遺臣の支援のため半島に参戦し激闘を重ねていたのだ。

(4).持統十年(六九六)十二月己巳(一日)に勅旨して、金光明経を読ましむるに縁りて、年毎の十二月の晦日に、浄行者十人度いへでせしむ。
 そして、翌持統十一年(六九七)六月には、京畿諸寺での読経や幣帛頒布、仏像造立等の法要・宗教儀式が盛んに執行される。

(5).持統十一年(六九七)五月癸卯(八日)に、大夫・謁者ものもうしひとを遣して、諸社に詣もうでて請雨あまごひす。
 六月丁卯(二日)に、罪人を赦す。辛未(六日)に、詔して経を京畿の諸寺に読ましむ。辛巳(十六日)に、五位以上を遣して、京の寺を掃はらひ灑きよめしむ。甲申(十九日)に、幣みてぐらを神祇あまつかみくにつかみに班あかちまだしたまふ。辛卯(二十六日)に、公卿・百寮、始めて天皇の病の為に所願こいちかへる仏像を造る。六月癸卯(*この月にない干支)に、遣大夫・謁者を遣して、諸社に詣でて請雨す。
 この記事中に「六月癸卯」とあるが、六九七年六月に「癸卯」の日は無く、三十四年前の天智二年(六六三)なら「癸卯」は六月二十三日に存在する。この誤りは、六六三年「六月癸卯」記事を三十四年繰り下げて盗用する際、そのまま「六月癸卯」として張り付けた事で生じたと考えられる。これは、(註2)に記す「丁亥」不存在と同じ誤りなのだ。

 そして、六六三年六月は、まさに九州王朝が命運をかけた、「白村江」での唐・新羅との一大決戦直前に当たり、全土を挙げて「護国・戦勝」を祈願するに、これ以上ないほど相応しい時期だ。
 結局、この一連の記事は、六六三年に九州王朝が執行した護国・戦勝祈願法要記事を、三十四年後の六九七年に盗用したもので、旧暦では「梅雨」にあたる五月・六月に「請雨(雨乞い)」とあるのは、「戦勝祈願法要」の潤色であり、「仏像造立」の真の理由は、唐突な「持統天皇の発病」などではなく。戦場における九州王朝の天子の無事・平安を祈念するものだったと考えられる。
 しかし、こうした護国経にすがった必勝祈願も空しく、八月には白村江で大敗北、天子と考えられる「薩夜麻」は、唐により捕囚の身となり、倭国・九州王朝は滅亡への大きな淵に沈んでいくこととなったのだ。

(註1)岩波『書紀』では「己卯より始めて」と「より」を入れるが、他の条では「自・従」の無い「始」は殆ど「○○に、始めて」と読むから、「己卯に、始めて仁王経を百国に講ましむ」とすべき。
◆天武二年三月是月、聚書生、始写一切経於川原寺(是の月に、書生を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。)
◆天武九年五月是日、始説金光明経于宮中及諸寺(是の日に、始めて金光明経を宮中及び諸寺に説かしむ)

(註2)持統紀には三十一回の「吉野行幸」記事がある。このうち持統八年(六九四)四月の帰還日の干支「丁亥」は六九四年四月には存在せず、三十四年前の斉明六年(六六〇)四月には存在する。この事例等を踏まえ、古田武彦氏は、持統紀の三十一回の「吉野行幸」記事は、三十四年前の九州王朝の天子の、「佐賀なる吉野」への行幸からの盗用であるとされている。この直後の持統八年五月の「金光明経送置」記事(3).も、同様に斉明六年(六六〇)五月からの盗用記事と考えられよう。
 因みに(1).記事の直後の十一月庚寅(五日)にも吉野宮行幸記事がある。
 なお、「吉野行幸」に関する古田論証について、詳しくは『壬申大乱』(ミネルヴァ書房二〇一二年八月)を参照されたい。

(*本稿は下記の服部静尚氏の金光明経年表より導かれたものである)

表1

西暦 九州年号 日本書紀   記    事
421年     曇無讖による漢訳金光明経ができる。
570年 金光元年   金光年号
587年   用明二年 物部戦争、厩戸皇子が四天王像に祈願する。
589年 端政元年   唐より法華経始めて渡る。
593年   推古元年 摂津國に四天王寺造る。
619年 倭京二年   難波天王寺を聖徳造る。
623年 仁王元年   唐より仁王経渡る。仁王会始まる。
635年 僧要元年   唐より一切経三千余巻渡る
651年   白雉二年 味経宮に於いて二千一百余の僧尼に一切経を読ませる。
652年 白雉元年   国々最勝会初めて之を行なう
660年   斉明六年 有司奉勅造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之會。
676年   天武五年 遣使於四方國。金光明経、仁王経を説く。
680年   天武九年 始めて宮中及諸寺でを説く。
686年   朱鳥元年 宮中にて一百僧をして金光明経を読ませる。
692年   持統六年 京師及四畿内で、金光明経講説する令を詔す。
693年   持統七年 始めて仁王経を百國に講じ、四日で終える。
694年   持統八年 金光明経一百部を以って諸國に送り置かせる。
696年   持統十年 金光明経の読経のため、毎年〜一十人を得度させる勅旨を出した。

 


 これは会報の公開です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"