盗用された任那救援の戦い -- 敏達・崇峻・推古紀の真実(下) 正木裕 (会報125号)
「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」 正木裕(会報127号)
盗用された「仁王経・金光明経」講説
川西市 正木 裕
『書紀』の持統七年(六九三)十月に以下の記事がある。
(1).持統七年(六九三)十月己卯(二十三日)に、始めて仁王経を百国に講(よ)ましむ。四日ありて畢(おは)りぬ。
一方、斉明六年(六六〇)五月に以下の記事がある。
(2).斉明六年(六六〇)夏五月是の月に、有司(つかさ)勅を奉りて、一百の高座、一百の衲袈裟を造りて、仁王般若の會(おがみ)を設く。
両記事の内容は極めて近似するうえ、持統七年の方に「始めて」とあるのにも疑問を感じる。(註1) また、仁王経は金光明経・法華経と並ぶ「護国三部経」のひとつだが、持統七年に百国(全国的と言う意味)に護国経を講説すべき時代背景・理由は見当たらない。
ところが、持統七年(六九三)記事(1).が、三十四年前の斉明五年(六五九)から「繰り下げられたもの」と考えれば、「始めて百国に仁王経を講説する」という意味・内容が明確になる。(註2)
即ち、斉明五年(六五九)に全国に仁王経を配布・講説し、翌斉明六年(六六〇)五月に、各国に高座を設けさせ、法衣(衲袈裟)を造り、始めて全国的に「仁王般若會」を実施したという記事になるわけだ。
斉明五年(六五九)の年末には、唐は、高宗が「来年必ず海東の政あらむ」と勅したように、新羅と連合し高句麗・百済を攻撃する準備を整えていた。そして六六〇年三月には蘇定方が十三万の兵を率い「黄海」を渡り百済に出撃している。そして新羅の武烈王も五月に参陣し、八月には百済王都(扶余城)ほかを陥落させ、百済・義慈王らは降伏した。百済と密接な関係を保っていた倭国・九州王朝にとって、これは国家存亡の危機ともいえる事態であった。
従って「斉明六年(六六〇)五月」に全土を挙げ「護国祈願祭」を行うというのは、誠に時機に相応しい行事と言える。しかも、
(3).持統八年(六九四)五月癸巳(十一日)に、金光明経一百部を以って諸国に送り置く。
との記事があり、この三十四年前は、ずばり「斉明六年(六六〇)五月」にあたるのだ。つまり仁王般若會を行うと同時に、「護国三部経」の金光明経が百国に配られたことになる。
そして、持統十年(六九六)十二月には、金光明経講説のための出家が実施されている。この三十四年前は天智元年(六六二)で、倭国は百済遺臣の支援のため半島に参戦し激闘を重ねていたのだ。
(4).持統十年(六九六)十二月己巳(一日)に勅旨して、金光明経を読ましむるに縁りて、年毎の十二月の晦日に、浄行者十人度いへでせしむ。
そして、翌持統十一年(六九七)六月には、京畿諸寺での読経や幣帛頒布、仏像造立等の法要・宗教儀式が盛んに執行される。
(5).持統十一年(六九七)五月癸卯(八日)に、大夫・謁者ものもうしひとを遣して、諸社に詣もうでて請雨あまごひす。
六月丁卯(二日)に、罪人を赦す。辛未(六日)に、詔して経を京畿の諸寺に読ましむ。辛巳(十六日)に、五位以上を遣して、京の寺を掃はらひ灑きよめしむ。甲申(十九日)に、幣みてぐらを神祇あまつかみくにつかみに班あかちまだしたまふ。辛卯(二十六日)に、公卿・百寮、始めて天皇の病の為に所願こいちかへる仏像を造る。六月癸卯(*この月にない干支)に、遣大夫・謁者を遣して、諸社に詣でて請雨す。
この記事中に「六月癸卯」とあるが、六九七年六月に「癸卯」の日は無く、三十四年前の天智二年(六六三)なら「癸卯」は六月二十三日に存在する。この誤りは、六六三年「六月癸卯」記事を三十四年繰り下げて盗用する際、そのまま「六月癸卯」として張り付けた事で生じたと考えられる。これは、(註2)に記す「丁亥」不存在と同じ誤りなのだ。
そして、六六三年六月は、まさに九州王朝が命運をかけた、「白村江」での唐・新羅との一大決戦直前に当たり、全土を挙げて「護国・戦勝」を祈願するに、これ以上ないほど相応しい時期だ。
結局、この一連の記事は、六六三年に九州王朝が執行した護国・戦勝祈願法要記事を、三十四年後の六九七年に盗用したもので、旧暦では「梅雨」にあたる五月・六月に「請雨(雨乞い)」とあるのは、「戦勝祈願法要」の潤色であり、「仏像造立」の真の理由は、唐突な「持統天皇の発病」などではなく。戦場における九州王朝の天子の無事・平安を祈念するものだったと考えられる。
しかし、こうした護国経にすがった必勝祈願も空しく、八月には白村江で大敗北、天子と考えられる「薩夜麻」は、唐により捕囚の身となり、倭国・九州王朝は滅亡への大きな淵に沈んでいくこととなったのだ。
註
(註1)岩波『書紀』では「己卯より始めて」と「より」を入れるが、他の条では「自・従」の無い「始」は殆ど「○○に、始めて」と読むから、「己卯に、始めて仁王経を百国に講ましむ」とすべき。
◆天武二年三月是月、聚書生、始写一切経於川原寺(是の月に、書生を聚へて、始めて一切経を川原寺に写したまふ。)
◆天武九年五月是日、始説金光明経于宮中及諸寺(是の日に、始めて金光明経を宮中及び諸寺に説かしむ)
(註2)持統紀には三十一回の「吉野行幸」記事がある。このうち持統八年(六九四)四月の帰還日の干支「丁亥」は六九四年四月には存在せず、三十四年前の斉明六年(六六〇)四月には存在する。この事例等を踏まえ、古田武彦氏は、持統紀の三十一回の「吉野行幸」記事は、三十四年前の九州王朝の天子の、「佐賀なる吉野」への行幸からの盗用であるとされている。この直後の持統八年五月の「金光明経送置」記事(3).も、同様に斉明六年(六六〇)五月からの盗用記事と考えられよう。
因みに(1).記事の直後の十一月庚寅(五日)にも吉野宮行幸記事がある。
なお、「吉野行幸」に関する古田論証について、詳しくは『壬申大乱』(ミネルヴァ書房二〇一二年八月)を参照されたい。
(*本稿は下記の服部静尚氏の金光明経年表より導かれたものである)
表1
西暦 | 九州年号 | 日本書紀 | 記 事 |
421年 | 曇無讖による漢訳金光明経ができる。 | ||
570年 | 金光元年 | 金光年号 | |
587年 | 用明二年 | 物部戦争、厩戸皇子が四天王像に祈願する。 | |
589年 | 端政元年 | 唐より法華経始めて渡る。 | |
593年 | 推古元年 | 摂津國に四天王寺造る。 | |
619年 | 倭京二年 | 難波天王寺を聖徳造る。 | |
623年 | 仁王元年 | 唐より仁王経渡る。仁王会始まる。 | |
635年 | 僧要元年 | 唐より一切経三千余巻渡る | |
651年 | 白雉二年 | 味経宮に於いて二千一百余の僧尼に一切経を読ませる。 | |
652年 | 白雉元年 | 国々最勝会初めて之を行なう | |
660年 | 斉明六年 | 有司奉勅造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之會。 | |
676年 | 天武五年 | 遣使於四方國。金光明経、仁王経を説く。 | |
680年 | 天武九年 | 始めて宮中及諸寺でを説く。 | |
686年 | 朱鳥元年 | 宮中にて一百僧をして金光明経を読ませる。 | |
692年 | 持統六年 | 京師及四畿内で、金光明経講説する令を詔す。 | |
693年 | 持統七年 | 始めて仁王経を百國に講じ、四日で終える。 | |
694年 | 持統八年 | 金光明経一百部を以って諸國に送り置かせる。 | |
696年 | 持統十年 | 金光明経の読経のため、毎年〜一十人を得度させる勅旨を出した。 |
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