2015年 2月10日

古田史学会報

126号

1,平成27年、
賀詞交換会のご報告
   古賀達也

2,犬(火)を跨ぐ
   青木英利

3,「室見川銘板」の意味
   出野正

4,盗用された
   任那救援の戦い
敏達・崇峻・推古紀の真実(下)
   正木裕

5,先代旧事本紀の編纂者
   西村秀己

6,四天王寺と天王寺
   服部静尚

7,盗用された
「仁王経・金光明経」講説
   正木裕

8,倭国(九州王朝)
  遺産一〇選(上)
   古賀達也

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九州王朝説と瓦の考古学 -- 森郁夫著『一瓦一説』を読む 古賀達也(会報125号)
倭国(九州王朝)遺産一〇選(下) 古賀達也(古田史学会報127号)

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也(会報124号)
学問は実証よりも論証を重んじる 古賀達也(会報127号)


倭国(九州王朝)遺産一〇選(上)

京都市 古賀達也

金石文・出土品一〇選

 書店で世界遺産を特集した本をよく見かけるようになりました。それにヒントを得て、いつか「古田史学の会」でも『倭国(九州王朝)遺産』のような写真で紹介する九州王朝の遺跡や文物を紹介した本を出してみたいと思うようになりました。そこで、もし選ぶとしたら「倭国(九州王朝)遺産」として何がふさわしいだろうかと考えてみました。個人的見解ですが、ご紹介したいと思います。まずは金石文・出土品一〇選です。

〔第一〕志賀島の金印

 やはり最初に認定したいのはこれです。倭国が中国の王朝に認定された記念碑的文物ですから。『後漢書』によれば光武帝が西暦五七年に倭王に贈ったものです。「倭国が南海(南米か)を極めた」ことに対する報償です。印文の「漢委奴国王」は、「かんのゐのこくおう」あるいは「かんのゐぬこくおう」と訓んでください。「かんのわのなのこくおう」と「三段細切れ国名」として訓むのは誤りです。

〔第二〕室見川の銘板

 倭国産の銘板で、これも外せません。後漢の年号「延光四年」(一二五)が記されています。吉武高木遺跡の宮殿造営(王作永宮齊鬲)を記したものとして、これも九州王朝の記念碑的文物です。

〔第三〕日田市出土「金銀象嵌鉄鏡」

 国内では唯一の出土と思われる見事な象嵌で飾られた鉄鏡です。九州王朝内の有力者の所持品と思われます。金銀象嵌(竜)の他に赤や緑の玉もはめ込まれた見事な鏡です。中国製(漢代)のようです。

〔第四〕平原出土の大型「内行花文鏡」(複数)

 この圧倒的な量と大きさも「遺産」認定に値します。

〔第五〕七支刀

 今は石上神宮にありますが、百済王が倭王旨に贈った古代を代表する異形の名刀(剣)です。「旨」は倭王の中国風一字名称です。

〔第六〕福岡市元岡古墳出土「四寅剣」

 倭国産の、これも珍しい「四寅剣」を忘れてはなりません。九州王朝内の有力氏族に与えたものと思われます。九州年号「金光」改元の年(五七〇)に造られたものです。

〔第七〕糸島市一貴山銚子塚古墳出土「黄金鏡」

 国内でも数例しかないという鍍金された鏡です。邪馬壹国の卑弥呼が中国からもらった「金八両」が使用されたのではないかと、古田先生は推測されています。なお、同じ鍍金鏡として熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳出土の鏡もセットで認定したいと思います。

〔第八〕江田船山古墳出土「銀象嵌鉄刀」

 これを認定しないと昨年五月にお世話になった和水町の皆様にしかられます。九州王朝の有力豪族に与えられた有名な刀です。馬だけでなく魚や鵜飼いの鵜と思われる水鳥の象嵌も貴重です。

〔第九〕隅田八幡人物画像鏡(和歌山県橋本市)

 百済の斯麻王(武寧王)から倭王「日十(ひと)大王年」に贈られた鏡です。この「年」は倭王の中国風一字名称です。岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)の研究によれば、倭王への贈呈品とするには文様の質があまり良くないという課題もあります。

〔第一〇〕宮地嶽古墳出土の金銅製馬具・他

 この圧倒的に豪華な副葬品は文句なしの認定ですが、北部九州からはこの他にも王塚古墳(桂川町)などからも素晴らしい副葬品が出土しており、それらもセットで認定したいと思います。
 この他にも認定したいものが数多くあります。また、卑弥呼がもらった金印も発見されれば間違いなく認定です。

 

文字史料編一〇選

 次に文字史料について「認定」します。九州王朝の実体を知る上で、文字史料はとても貴重です。

〔第一〕法隆寺釈迦三尊像・後背銘

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤がモデルとされる「飛鳥仏」を代表する仏像です。従来は大和朝廷の聖徳太子のこととされてきましたが、古田先生の研究により九州王朝の天子の仏像であることが判明しました。後背銘にある「法興」が九州年号(正木裕説では多利思北孤の法号)であることも注目されています。

〔第二〕法華義疏

 皇室御物である「法華義疏」を古田先生は京都御所で実見し、調査されました。その結果、九州王朝の上宮王が収集した文書であることをつきとめられました。冒頭部分に記された「大委国上宮王」は多利思北孤であるとされ、本来所蔵されていた寺院名が書かれていた箇所が切り取られていることも発見されています。

〔第三〕「十七条憲法」(『日本書紀』所収)

 古田先生の研究によれば、『日本書紀』に聖徳太子によるとされている「十七条憲法」は九州王朝史書からの盗作とされています。『日本書紀』には九州王朝の事績が盗用されていることは知られていましたが、「十七条憲法」も九州王朝の「憲法」であれば、その研究により九州王朝の政治体制や実体解明にとって有効な史料となります。

〔第四〕芦屋市出土「元壬子年」木簡

 芦屋市三条九の坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、当初「三壬子年」と判読され、『日本書紀』に見える「白雉三年壬子」(六五二年)のことと理解されてきました。ところがわたしたちの調査(赤外線撮影、光学顕微鏡観察)により、「元壬子年」であることが確認され、『二中歴』などに見える九州年号の「白雉元年壬子」(六五二年)を示していることが明らかとなりました。この発見により、九州年号実在の直接的な証拠となる同時代の木簡であることがわかりました。この史料事実に対して、大和朝廷一元史観の学界や九州王朝説反対論者は今も沈黙を続けています。卑怯というほかありません。

〔第五〕「年代歴」(『二中歴』所収)

 九州年号群史料として最も原型に近いとされているのが、『二中歴』に収録されている「年代歴」です。特にその細注に記された記事は九州王朝系史料に基づいていることが判明しており、とても貴重な史料です。

〔第六〕太宰府市出土「嶋評戸籍木簡」

 二〇一二年に太宰府市から出土した最古(七世紀末)の戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域であるこの地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせるもので、その内容は九州王朝の実体解明を進める上で貴重なものでした。正倉院文書の大宝二年『筑前国川辺里戸籍断簡』などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていましたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなりました。

〔第七〕倭王武の「上表文」(『宋書』倭国伝所収)

 九州王朝(倭国)と中国南朝との交流において、『宋書』に収録された貴重な倭王武の「上表文」は倭国の歴史や文化、文字使用の伝統などを知る上で貴重な史料です。史料そのものは中国史書ですが、その「上表文」部分は倭国遺産に認定したいと思います。

〔第八〕「君が代」(『古今和歌集』他所収)

 日本国国歌「君が代」の歌詞も「文化遺産」として認定したいと思います。古田先生の研究により、その歌詞には糸島博多湾岸の地名・神名などが読み込まれており、同地域で弥生時代に成立したとされています。ちなみに、次の地名・神名などが読み込まれています。
 「千代」福岡市千代
 「さざれいし」糸島市細石神社
 「いわお(ほ)」糸島市井原(いわら)山水無鍾乳洞
 「こけのむすまで」糸島市志摩町桜谷神社祭神「古計牟須姫命」「苔牟須売神」

〔第九〕祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓」

 「六月の晦(つごもり)の大祓」の祝詞も文化遺産として認定したいと思います。古田先生の著書『まぼろしの祝詞誕生』(古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年)によれば、「六月の晦(つごもり)の大祓」は「天孫降臨」当時(弥生時代前半期)に糸島博多湾岸(高祖山連峰近辺)で成立したとされています。

〔第一〇〕稻員家系図(福岡県八女市、広川町、他)

 筑後国一宮である高良大社の神官であり、同社祭神の高良玉垂命を祖先とする稻員氏が九州王朝の王族の末裔であることが、古田先生の研究で明らかとなりました。同家の系図には七世紀以前の人物に「天皇」や「天子」の称号を持つものがあり、同系図が九州王朝系図であることもわかってきました。九州王朝王族にはいくつもの支流があるようで、その全体像はまだ不明ですが、稻員家系図や他家の系図の史料批判により、今後解明が進むことと思います。

 以上の史料を「倭国(九州王朝)遺産」に認定したいと思います。いずれも、九州王朝研究にとって貴重な史料です。

(以下、「遺産・遺跡編一〇選」に続く〓編集部注)


 これは会報の公開です。

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