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鞠智城と神籠石山城の考察 古賀達也(『古代に真実を求めて』第十九集)
鞠智城と神籠石山城の考察
京都市 古賀達也
鞠智城のONライン(七〇一年)
二〇一五年六月、鞠智城訪問のおり、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集などを精読していますが、次から次へと発見があり、興味が尽きません。中でも鞠智城の編年に関して大きな問題に気づきましたので、ご紹介します。
現在までの研究によると、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。
【 I 期】七世紀第3四半期〜七世紀第4四半期
【 II 期】七世紀末〜八世紀第1四半期前半
【III 期】八世紀第1四半期後半〜八世紀第3四半期
【VI 期】八世紀第3四半期〜九世紀第3四半期
【 V 期】九世紀第4四半期〜十世紀第3四半期
※貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第一号』(熊本県教育委員会、二〇一三年)による。
貞清さんの解説によれば、 I 期は鞠智城草創期にあたり、六六三年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
II 期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形建物が建てられ、『続日本紀』文武二年(六九八)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
III 期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。
VI期では、II・III 期の「管理棟的建物群」が消失しており、城の機能が大きく変容したと考えられています。礎石建物群が大型化しており、食料備蓄施設としての機能が主体になったとされています。
V 期は終末期で、場内の建物数が減少しつつ大型礎石建物が建てられ、食料備蓄機能は維持されるが、十世紀第3四半期には城の機能が停止します。
以上のように鞠智城の変遷が編年されていますが、土器による相対編年の暦年とのリンクが、主には『日本書紀』や『続日本紀』に依っていることがわかります。特に築城を『日本書紀』天智四年(六六五)条に見える大野城・基肄城築城記事と同時期とみなし、六六五年頃とされているようです。更に隆盛期の II 期を『続日本紀』文武二年(六九八)条の「繕治」記事の頃とリンクさせています。
通説とは異なり、大野城築城は白村江戦以前ですし、修理が必要な時期を「隆盛期」とするのもうなづけません。既に何度も指摘してきたところですが、太宰府条坊都市や太宰府政庁 I ・II 期の造営は通説より三十〜五十年ほど古いことが、わたしたちの研究や出土木柱の年輪年代測定により判明しています。すなわち須恵器などの七世紀の土器編年が、九州では『日本書紀』の記事などを根拠に新しく編年されているのです。この「誤差」を修正すると、先の鞠智城編年の I ・ II ・III 期は少なくとも四半世紀(二十〜三十年)は古くなるのです。
このように理解すると、土器の出土が皆無となる III期は七世紀第4四半期後半から八世紀第2四半期となり、古田先生が指摘されたONライン(七〇一年)の頃にピッタリと一致するのです。すなわち、九州王朝の滅亡により鞠智城は「土器無出土(無人)」の城と化したのです。これは九州王朝説であれば当然のことです。九州王朝の滅亡に伴い九州王朝の鞠智城は「開城」放棄されたのです。一元史観では、この鞠智城の「無土器化(無人化)」の理由を説明できません。
そしてそのタイミングで大和朝廷は文武二年(六九八)に放棄された大野城・基肄城・鞠智城の占拠と修理を命じたのです。このように多元史観・九州王朝説による土器編年とのリンクと王朝交代という歴史背景により、鞠智城の謎の「III 期の無土器化(無人化)」現象がうまく説明できるのです。
〔資料〕鞠智城出土土器数の変化
年代 出土土器個体数
七世紀第2四半期 一〇
七世紀第3四半期 二三
(鞠智城の築城)
七世紀第4四半期〜8世紀第1四半期 一八一
八世紀第2、3四半期 〇
八世紀第4四半期 四〇
九世紀第1四半期 五
九世紀第2四半期 四
九世紀第3四半期 八八
九世紀第4四半期 三〇
十世紀第1四半期 〇
十世紀第2四半期 〇
十世紀第3四半期 八
(鞠智城の終末)
出典〓柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第二号』(熊本県教育委員会、二〇一四年)による。
神籠石山城のONライン
前節で鞠智城の八世紀初頭の一時廃絶とその理由について述べましたが、神籠石山城でも似たような現象があることに気づきました。
『鞠智城 II -- 論考篇1』(熊本県教育委員会、二〇一四年)に掲載されている亀田修一「古代山城は完成していたのか」によれば、『日本書紀』などの史料に記されている「朝鮮式山城」六遺跡と記録に見えない「神籠石山城」十六遺跡中、外壁・城門などが完成しているものは大野城・基肄城・金田城・鞠智城・鬼ノ城・御所ケ谷神籠石の六遺跡で、明確に未完成と見られるものは唐原山城跡・阿志岐城跡・鹿毛馬神籠石・女山神籠石・おつぼ山神籠石・播磨城山城跡など六遺跡以上とのことです。
いわゆる「朝鮮式山城」に比べて「神籠石山城」の方が未完成のものが多いことがわかります。九州王朝説から見れば、首都太宰府防衛を目的とした主要山城である大野城・基肄城、そして朝鮮半島との中継基地でもある対馬の金田城が完成形であることは当然でもあります。他方、唐との戦いに備えて急いで造営されたと思われる神籠石山城に未完成のものが多いというのも、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したONライン(七〇一年)の存在からすれば、造営主体である九州王朝の滅亡により、完成を待たずして放置されたと考えることができます。すなわち、近畿天皇家という「親唐政権」が列島の代表権力者になったため、神籠石山城の必要性も減少したのではないでしょうか。
ここで注目されるのが鬼ノ城です。鬼ノ城は神籠石一段列石と積石タイプの石垣とが併用された山城ですが、太宰府から遠く離れているにもかかわらず、完成形の山城です。九州王朝の首都太宰府を防衛する大野城・基肄城と同様に完成した山城ということですので、太宰府に準ずるような防衛すべき都市や重要人物が近隣にいたためではないでしょうか。
そうした視点で鬼ノ城を見たとき、『日本書紀』天武八年条(六七九年)に見える「吉備大宰」の石川王の記事が注目されます。九州王朝の高官と同じ「大宰」と称された石川王が吉備にいたのですから、完成した山城の鬼ノ城と無関係とは考えられません。この「吉備大宰」も九州王朝説により研究が必要です。
未完成山城「見せる城」説への疑問
亀田修一さんの好論文「古代山城は完成していたのか」(『鞠智城 II -- 論考篇1』熊本県教育委員会、二〇一四年)に、未完成に終わった神籠石山城について、未完成の理由として当初から街道などから見える部分のみの造営であったとする「見せる城」説なるものが紹介されていました。この「見せる城」説は「駅路からみた山城 -- 見せる山城論序説」(『月刊地図中心』四五三、二〇一〇年)で向井一雄さんが提唱されたもので、今回はこの説について考察します。
亀田さんは先の論文で次のような興味深い考察を示されています。
「このように神籠石系山城に未完成のものが多いという意識で古代山城全体を見てみると、以前から検討されてきた築城時期の問題に関しては、朝鮮式山城より古い城で未熟であったため工事が止まったという考えも成立するように思われるし、逆に七世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止したとも考えられ、やはり答えは簡単に出そうにない。」(三五頁)
「まず、完成した山城の場所はそれぞれの地域の中に重要な場所であることが改めてわかる。そしてやはり記録にもあるように古い段階から築城され始めたのではないかと推測される。
未完成の山城は、意図的な未完成なのか、それとも否応なしの未完成なのか。「見せる城」という意識は当然存在したと思われる。ただ、それによって当初から、たとえば一部しか造ることを考えていなかったのか、それとも工程の関係で停止し、そのままになったのか、などによって築城時の様子が推測できそうである。そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」(三七頁)
このように亀田さんは未完成山城の「未完成」理由として「見せる城」説を紹介しながら、他方、「そしてこれらの「未完成」、途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したものと考えられる。」とのするどい指摘をされています。この亀田さんの指摘に答えたものが「ONライン(七〇一年)」による未完成とする考えでした。七世紀末に発生した九州王朝から大和朝廷への列島内権力交代が、未完成山城の発生理由としたものです。これこそ、亀田さんが言われるように「七世紀末頃に築城が始まり、すぐに城が不必要になったため、工事を停止した」事情なのです。
しかし大和朝廷一元史観ではこのような「政治・社会情勢」を想定しない(できない)ため、「見せる城」という「無理筋」の仮説を提起せざるをえないという状況に陥いるのではないでしょうか。
クラウゼヴィッツの『戦争論』には、「第六篇 防御」で「山地防御」について次のように考察されています。それによれば、山地防御は歩兵火器の進歩などにより経験的に見てもそれほど効果的な防御ではないとのこと。その理由は攻撃側が防御ラインを迂回して攻撃するので、それを防ぐために防御側は防御ラインを横へ横へと広げなければならず、その結果、防御側の兵員が分散配置で手薄になった防御ライン正面に対して、攻撃側が兵力を集中させ一点突破をはかるので、山地の地形を利用した防御ラインもそれほど効果的ではなくなるとされています。
そのため、山地防御をより効果的にするために要塞化するという防御思想が形成され、古代山城はまさにその典型と思われます。この要塞化とは攻撃側の迂回攻撃を無意味にするために、山の周囲に防塁を造るわけですが、これこそ神籠石山城や大野城の姿なのです。従って、街道から見えるところだけに「防塁(見せる城)」を造営するというのは、本来の意味での防御の体をなしていません。せいぜい虚仮威しの「防御施設」のようなものでしかないのです。
このような虚仮威しに屈する侵略者がいるのかどうかは知りませんが、虚仮威しにしては神籠石山城はその巨石の運搬や築城の技術、さらにその上に盛る版築技術など、かなりの労力と高度な築城技術が必要であり、そこまで労力をつぎ込んで防御の役に立たない虚仮威しのための施設(当初から「未完成」を前提とした山城・見せる城)を造る古代権力者を、わたしにはちょっと想像できません。
こうしたことから、未完成山城の未完成の理由は、やはり亀田さんが言われるように「途中での停止は単なる偶然ではなく、当時の政治・社会情勢を反映したもの」であり、その政治・社会情勢こそ九州王朝から大和朝廷への権力交代政変「七〇一年王朝交代(ONライン)」にあったと考えられるのです。
「鞠智城九州内第二拠点」説の考察
未完成古代山城「見せる城」説を提起された向井一雄さんが、「西日本の古代山城遺跡 -- 類型化と編年についての試論」(一九九一年、『古代学研究』第一二五号)において、「鞠智城は大宰府陥落後の九州内の拠点として用意されたとみておきたい」との見通しを示されています。もちろん向井さんは大和朝廷一元史観に立っておられますが、このご意見はとても興味深く思いました。今回はこの「鞠智城九州内第二拠点」説ともいうべきテーマについて考えてみます。
鞠智城を大宰府陥落後の九州内第二拠点とみなす前提は、大宰府陥落後に南にある鞠智城へ逃げるということですから、想定される敵国は北から侵攻してくることが前提でしょう。この点を九州王朝説に立って理解すれば、豊前・豊後・日向ではなく、肥後に第二拠点を置くということですから、仮装敵国として北方の朝鮮半島諸国だけでなく、東の大和に割拠する近畿天皇家も入っていたのかもしれません。そうでなければ、朝鮮半島からはより遠く、大和には近い豊後・日向か瀬戸内海方面に第二拠点を置くなり、逃げればよいはずだからです。この点、大和朝廷一元史観では肥後に第二拠点を置くという発想はちょっと微妙な感じがします。
更に大和朝廷一元史観では決定的に説明困難な問題があります。それは南九州にいたとする「隼人」と八世紀初頭に何度も大和朝廷は戦っていることから、周囲に神籠石山城群や「水城」のような防衛ラインが皆無の鞠智城が、はたして「大宰府陥落後の九州内拠点」にふさわしいのかという問題を説明できないのです。すなわち、ポツンと肥後に孤立している鞠智城は南側からの「隼人」の攻撃を想定しているとは考えられないのです。むしろ南九州は安定した味方の領域という大前提があって初めて鞠智城の「孤立」は理解しうるのです。ですから、「隼人」と敵対している大和朝廷による「鞠智城九州内第二拠点」説は成立困難と言わざるを得ません。
それでは九州王朝説の場合はどうでしょうか。九州王朝内の徹底抗戦派が南九州で最後まで抵抗したとする論稿をわたしは発表していますのでご参照いただきたいのですが、九州王朝と南九州の勢力(「隼人」と表現されている)と九州王朝は友好関係あるいは同盟関係にあったと考えられます。ですから、太宰府の南方の肥後に鞠智城を築くことは不思議ではありません。こうした九州王朝説によって鞠智城の位置づけが可能となるのではないでしょうか。
なお、『続日本紀』の文武二年五月条(六九八)に見える大野城・基肄城・鞠智城の繕治記事と、文武四年六月条(七〇〇)に見える「肥人」に従った薩末比売らの「反乱」記事も、七世紀最末期の王朝交替時の対立事件として、九州王朝説による検討が必要です。
〔次の拙稿をご参照ください〕
○「最後の九州王朝 -- 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析」(『市民の古代』第十集所収。一九八八年、新泉社)
○「続・最後の九州年号 -- 消された隼人征討記事」(『「九州年号」の研究』所収。二〇一二年、ミネルヴァ書房)
※本稿は「古田史学の会」ホームページ連載の「洛中洛外日記」から加筆修正し、転載したものです。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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