鞠智城と神籠石山城の考察(会報129号)
「肥後の翁」と多利思北孤 -- 筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解 古賀達也(会報136号)
鞠智城創建年代の再検討
六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説
京都市 古賀達也
「須恵器杯B」の年代観
本年五月二九日に行った和水町講演の翌日に鞠智城を再訪問し、歴史公園鞠智城・温故創生館の木村龍生さんに鞠智城出土土器編年について教えていただきました。通説では鞠智城の創建は七世紀第3四半期とされているのですが、わたしは七世紀初頭のタリシホコの時代にまで遡るのではないかと考えています。
その主たる理由は七世紀の年代判定に使用されている須恵器の編年が各地で揺らいでおり、特に従来は天武期とされてきた「須恵器杯B」が六五二年に創建された前期難波宮整地層から出土していることから、その編年が三十年ほど古くなったのです。
「須恵器杯B」とは、蓋につまみがあり、底に「脚」がある土器なのですが、木村さんから見せていただいた『鞠智城跡2』(二〇一二年)の土器編年表も、鞠智城出土「須恵器杯B」が七世紀第4四半期に位置付けられています。この問題は古代の遺跡編年が雪崩打って変化する重要なテーマですので、慎重に検討したいと思います。
昨年に続いての鞠智城訪問でしたが、わたしの通説と大きく異なる意見や質問に対して、休日出勤までして懇切丁寧に答えていただいた木村さんに感謝しています。
出土炭化米のカーボン年代測定
鞠智城創建時期は七世紀初頭の多利思北孤の時代まで遡るのではないかとする意見をフェイスブックで述べたところ、 その読者(西野慶龍さん)から、鞠智城出土炭化米の炭素同位体年代測定がなされており、七世紀よりも古いという測定結果が出されているとのご教示をいただきました。
西野さんから紹介された『鞠智城 第十三次発掘調査報告』(平成四年三月、熊本県教育委員会)の「第七節 出土炭化物について」(五一頁)によると、「平成三年度の第十三次調査で炭化米が出土したので、カーボンの年代測定を京都産業大学理学部の山田治教授に依頼した。結果は下記の通りであるが、若干の補足説明を行う。」として、次のように記されています。
① 山田教授によれば、一年生植物である炭化米の測定年代は、年輪を有する木材等と違い、試料自体に原因を持つ誤差は生じないという。
② 南側八角形建築址の堀形埋土を切る柱穴より出土した炭化米の年代は一〇〇〇±十五BPで、これは西暦九五〇±十五年に該当するが、この値は更に細かく考察すると第二一表の14C年代と年輪年代との対照表では、標準偏差二倍、信頼度九五%でAD(西暦)一〇〇〇~一〇二〇年になる。しかるに、文献上から鞠智城が消える年代が八七九年(『三代実録』による)なのでカーボン測定値と文献資料の年代は大体一致する事になる。
③ 十七調査区の北東隅から検出された炭化米の年代測定結果は一四五〇±十五BPとなり、これは西暦五〇〇±十五年という事になる。同じく、第二一表によりAD五九〇~六四〇年(六世紀後半~七世紀中葉)という事になる。この年代は大きな問題である。そもそも文献上に鞠智城が現れるのは西暦六九八年(『続日本紀』による)であるので、年代が若干、遡ることになる。平成二年度に鞠智城の第九次調査(昭和六二年度調査)で長者山より出土した炭化米を同教授のもとで測定した所、西暦六五〇±三〇年(第二一表によりAD六六〇~七七〇年)という文献記録と照合しても妥当な線がでているが、今回はその年代よりも七〇~一三〇年程以前のものとなってしまう。この件に関し、鞠智城の築造年代にもかかわってくる問題なので(これまでの調査結果では城内から検出される竪穴住居址の最終年題が六世紀後半であるので、それ以前に鞠智城の築造年代が遡る事は考えられない。炭化米の年代はギリギリの線である)、今回は山田教授の結果報告のみの掲載に留める事にする。
以上のように、この炭化米の測定年代の取り扱いに困っているのですが、多利思北孤の時代に創建されたとするわたしの説にはよく対応しており、自説に自信を深めました。
大野城・基肄城よりも早い鞠智城
従来説では鞠智城の造営時期は大野城や基肄城と同じ七世紀の第3四半期から第4四半期頃とされていました。近年では大野城出土木柱の年輪年代測定により、白村江戦(六六三年)よりも前ではないかという説が有力になりつつあるようです。文献には鞠智城創建記事が見えないのですが、さしたる有力な根拠もないまま、鞠智城も大野城・基肄城と同じ頃に造営されたと考えられてきたのです。
他方、わたしは近年の「聖徳太子(多利思北孤)」研究の進展により、『隋書』に記されている隋使は肥後まで行き阿蘇山の噴火を見ていることから、その隋使を迎える宿泊施設があったはずで、その有力候補が鞠智城ではないかと考えました。肥後国府(熊本市付近か)では、阿蘇山の噴煙は見えても噴火は見えませんから、やはり内陸部の鞠智城が有力なのです。この推察が正しければ鞠智城からは七世紀初頭の住居跡が出土するはずですし、同時期の土器も出土するはずです。
このように、わたしは鞠智城六世紀後半~七世紀初頭造営説に到着しつつあり、そのことを久留米大学での公開講座(本年五月二八日)や和水町での講演(五月二九日)で発表しました。そしてその翌日(五月三十日)に訪れた歴史公園鞠智城・温故創生館で木村龍生さんから、近年、鞠智城の造営時期は従来説よりも早いとする説が出されていることを教えていただいたのです。
鞠智城七世紀前半造営開始説
木村龍生さんからご紹介いただいたのが『鞠智城東京シンポジウム二〇一五成果報告書「律令国家と西の護り、鞠智城』(熊本県教育委員会、二〇一六年三月三一日)です。同書に収録された鞠智城東京シンポジウム(明治大学)の基調講演「鞠智城と古代日本東西の城・柵」(国立歴史民俗博物館名誉教授・岡田茂弘さん)に次のような注目すべき発言が記されていました。
「鞠智城から出た瓦は単弁八葉の蓮華文瓦です。これと類似する瓦は大野城跡の主城原で出土しています。(中略)これは大野城でも一番古いタイプです。鞠智城でも、この瓦に伴う、丸瓦、平瓦は一番古いタイプだということが判っています。そうすると大野城のこの瓦と、鞠智城の瓦葺の建物はほぼ同じくらいの時期に造られたということがいえます。この辺は文献に出てこない鞠智城が大野城とほぼ近いということがいえる証拠になります。」(四〇頁)
「鞠智城内には六世紀代の古代集落があり、それに伴った土器もあります。ところが七世紀の第1四半期、第2四半期、第3四半期、第4四半期という形で、第3四半期から急激に量が増えてくるという状態が分かると思います。この第3四半期から第4四半期はまさに大野城や基肄城が造られた時期です。」(四〇頁)
「考えてみますと。古い土器が出てくるということに注目しますと、鞠智城の台地の部分は実は改変されていまして、層位が攪乱されているから、きちんと分かる状態ではないのです。しかし貯水池の場合は低地ですから、出土層位が残っています。特に貯木場の周辺では、瓦のでる、つまり大野城の創建期と同じ時期の瓦の出る包含層の下から、須恵器だけ出る包含層が知られています。これは鞠智城が大野城などよりも古くに造られた可能性を秘めているわけです。」(四一頁)
「大化の改新の直後に、南九州に対する施策があったにもかかわらず、それは『日本書紀』には書かれていません。なぜか消えてしまったということを示しています。鞠智城はその段階で、まさに南に対する前線本拠地として造られたのだと私は考えています。」(四二頁)
「同時に鞠智城については、いつ造られたのか、築城についての記載がありません。なぜないのかというと、一番合理的な解釈は、大野城や基肄城のより前に造られていたからです。南に対する防衛の拠点として、前に造られていたから、既にある城として大野城や基肄城とともに整備はされたが、既にあるから、新たに山城を造ったとは書かれていないと解釈すれば合理的です。結局、鞠智城は大野城や基肄城よりも、一段古く造られたのです。」(四三頁)
「鞠智城というのは七世紀の中葉に、東北の越国に造られた城柵に対応するように、南九州の熊襲・隼人に対する根拠地として建設された西日本の最初の城柵です。」(四六頁)
以上のように、岡田さんは鞠智城創建時期が七世紀中葉とする考えを述べられたのですが、その根拠は大野城出土瓦よりも古い土器が鞠智城から出土していることと、『日本書紀』の「大化改新」直後に南九州施策が記されていないということのようです。従来説よりも一歩前進した仮説と思いますが、学問的に論証が成立しているとは言い難く、まだ「作業仮説(思いつき)」程度の位置づけが妥当の様に思われます。その理由は次のような点です。
1.大野城の造営年代が従来説に依っている。瓦が大野城と鞠智城と同時期とする意見は考古学的出土事実の比較に基づかれているので、学問の方法論として問題ありません。しかし「土器」の比較は大野城出土「土器」となされるべきです。
2.鞠智城から出土する古い土器に注目されているにもかかわらず、七世紀第1四半期の土器の位置づけをスルーされています。七世紀第1四半期の土器の存在は鞠智城創建とは無関係とされるのなら、その考古学的理由を示されるべきでしょう。自説に都合の悪い土器(データ)を無視して、都合のよい土器(データ)だけで「論」を立てるのは学問的にアンフェアです。理系の論文や学会発表で同様のことを行ったら、「研究不正」と見なされ、即アウトでしょう。
3.近畿天皇家一元史観に依っておられるため、『日本書紀』の史料批判が不十分です。特に「大化改新詔」については一元史観の学会内でも見解が分かれています。九州王朝説に立てば、『日本書紀』「改新詔」の記事が九州年号「大化(六九五~七〇二)」の頃の事績か七世紀中葉の事績か、個別に検討が必要です。
4.南九州勢力の服属時期には、九州王朝への服属と大和朝廷への服属という多元史観的課題がありますが、一元史観の限界により、そうした検討・考察がなされていません。
5.「熊襲」と「隼人」の定義や位置づけが、現地の最新研究に基づいていない。この点、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の指摘があります。
以上のような課題や論理的脆弱さは見られるのですが、一元史観内においても鞠智城創建年代を古く見る岡田説が出現したことは貴重な動向と思います。
鞠智城の造営年代の考察
鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする岡田説ですが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
わたしは『隋書』「俀国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には六世紀の集落跡や七世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は六世紀末頃から七世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する七〇一年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の七世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を八世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、三〇~四〇年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の二塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、七世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。
※本稿は「古田史学の会」ホームページ連載の「洛中洛外日記」で発表したものを加筆修正したものです。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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