九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)古賀達也(会報137号)
九州王朝説に刺さった三本の矢(後編)
京都市 古賀達也
前期難波宮九州王朝副都説の課題
「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する仮説として前期難波宮九州王朝副都説を提起し、その後それを支持する研究や根拠(文献・考古学)が続出した経緯をご紹介してきました。ここから研究はいよいよ佳境に入ります。
「三本の矢」とは次の考古学的事実のことです。
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》六世紀末から七世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》七世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
この《三の矢》に対抗して提示した前期難波宮九州王朝副都説でしたが、この仮説研究の進展により、今まで難問だった《一の矢》《二の矢》に対する九州王朝説に立った説明ができそうな段階まで「古田史学の会」関西例会での論議は進んできました。その紹介の前に、前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない検討課題がありました。
難波に副都を置いた理由
前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない課題は、なぜ九州から遠く離れた難波の地が副都造営の地に選ばれたのか、選ぶことができたのかという疑問に対する説明です。九州王朝説の立場から考えると、次の三つの理由が考えられます。
1.唐や新羅との戦争に備えて、朝鮮半島から離れたより安全な難波に副都を造営した。
2.全国に評制を施行して中央集権的律令体制の行政拠点として、列島の中心に近い難波を副都とした。
3.難波は海運の便が良く、全国的流通(物資・防人)の拠点となる。
一応こうした理由を挙げることができます。しかし問題はこの後です。九州から離れた、しかも近畿天皇家のお膝元(近隣)に副都など造営できるのかという問題です。この疑問・批判は大和朝廷一元論者のみならず古田学派内からも出されました。というよりも、この仮説を提起するとき、わたし自身が最も悩んだ問題でもあったのです。
古田学派内からの批判に対しては「九州王朝は列島の代表王朝であり、支配領域内の難波に副都を造営することは可能」とわたしは反論してきましたが、実はこの返答では大和朝廷一元論者との「他流試合」では通用しません。
余談ですが、古田学派の論者で自説の証明に、こうした「他流試合」では全く通用しない論法で事足りるとする方があります。古田先生なき今、「他流試合」をわたしたちが戦わなければなりませんから、こうした点、すなわち自分の説明や論証が「他流試合」に有効かどうかという視点が重要です。
こうして、「他流試合」でも通用するような論証や史料根拠を求めて、近年、「古田史学の会」関西例会では研究と報告が本格的に始められました。
難波天王寺を造営した九州王朝
九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』「年代歴」に見える次の記事などが根拠でした。
「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)
九州年号の倭京二年(六一九)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、七世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が六二〇年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」(創建四天王寺のこと)であるという結論に到達したのです。
倭京二年(六一九)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。
壬申の乱と蘇我物部戦争の「符」
わたしが、九州王朝と摂津難波とは歴史的に関係が深いのではないかと気づいたのには、前期難波宮九州王朝副都説(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)とは無関係に、次のような研究経緯もあったからです。
二〇〇八年六月十五日の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「近江朝廷の正体―壬申の乱の『符』―」という研究を発表しました。その目的は、二〇〇四年に『古田史学会報』六一号で「九州王朝の近江遷都―『海東諸国記』の史料批判―」という論文で、九州王朝が白鳳元年(六六一)に近江に遷都したとする仮説を発表しており、その仮説を傍証することでした。
『日本書紀』の「壬申の乱」の記事中に、近江朝廷側から「符(おしてふみ)」という上位者から下位者へ出す「命令書」が吉備や筑紫に発行されていることから、近江朝廷には筑紫や吉備よりも上位者がいたことになり、九州王朝説の立場からすれば、近江朝廷に九州王朝の有力者(筑紫や吉備よりも上位者)がいたことになり、この「符」という史料事実は九州王朝の近江遷都の傍証となり得るという研究発表でした。
その史料調査のとき、『日本書紀』中には「壬申の乱」以外には崇峻紀のみに「符」が現れることを知ったのです。それは「蘇我・物部戦争」の後に、河内で抵抗した捕鳥部萬(よろず)の遺骸を八つに斬れという何とも残酷な命令を「朝廷」が河内国司に出すという一連の記事中に「符」が現れます。先の近江朝廷の「符」が九州王朝からのものとすれば、この崇峻紀に見える「符」も九州王朝からのものとするのが、論理的一貫性と考えられ、いわゆる「蘇我・物部」戦争は九州王朝の命令により行われたのではないかと考えています。
こうした研究経緯により、六世紀末頃に九州王朝は難波を制圧し、後に自らの直轄支配領域として天王寺を造営(倭京二年、六一九年)するに至ったと理解しました。そうした歴史的背景のもとに前期難波宮が副都として白雉元年(六五二)に造営されたものと思われます。
このわたしの理解を強力に裏付ける衝撃的な論文が発表されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、二〇一五年)です。
難波を制圧した九州王朝
冨川ケイ子さんの「河内戦争」は、「古田史学の会」関西例会で発表された研究を論文としてまとめられたものですが、当初わたしはこの論文の持つ重要性を深く認識できていませんでした。ところが論文が掲載された『盗まれた「聖徳太子」伝承』が発行されると、何人かの読者の方から冨川稿を高く評価する声が届いたのです。そこで、わたしも改めて再読三読したところ、当初理解できていなかった同論文の持つ重要性を認識することができました。
冨川稿の画期は、『日本書紀』崇峻紀に見える捕鳥部萬(よろず)が河内など八国を支配していた近畿地方の有力者であったことを発見されたことにあります。詳細は同論文を読んでいただきたいのですが、大和の近畿天皇家と拮抗する、あるいはそれ以上の権力者が近畿地方に割拠しており、その勢力を6世紀末に九州王朝は攻め滅ぼしていたのです。その戦争を冨川さんは「河内戦争」と名付けられました。そこで活躍したのは『日本書紀』によれば近畿天皇家と蘇我氏ですが、九州王朝の主力軍がどのような勢力だったのかは今後の研究課題です。
冨川説「河内戦争」の画期
こうして六世紀末の河内や難波での戦争に勝利した九州王朝が、後にその地に天王寺や前期難波宮を造営したと考えられ、冨川さんの「河内戦争」という論文は、前期難波宮九州王朝副都説を成立させうる歴史的背景を明らかにしたものといえるのです。
しかし、冨川論文の画期はそこにとどまりません。河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、この地域を支配していた捕鳥部萬の祖先の墓ではないかとする服部静尚さんが提起された新たな仮説へと論理的に繋がっていくのです。
このように冨川論文は「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《三の矢》(巨大な前期難波宮)の歴史的背景を明らかにしただけではなく、《一の矢》(近畿の巨大古墳)をも解決できる可能性を示したのです。《二の矢》(近畿の古代寺院群)の問題についても、正木裕さんにより、難波から斑鳩に存在した古代寺院を九州王朝によるものとする仮説が検討されています。直ちに賛成できる研究段階ではありませんが、興味深い視点です。
こうして、「九州王朝説に刺さった三本の矢」問題の解決が前期難波宮九州王朝副都説の展開と冨川さんの「河内戦争」という論文により、ようやく解決の糸口が見えてきたのです。
最後にもう一度述べますが、それでもわたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される方は、「九州王朝説に刺さった三本の矢」の解決方法を明示してください。それが九州王朝説に立つ論者の学問的責任というものです。それができない限り、「他流試合」で一元史観の研究者を説得することもできないでしょう。(了)
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