考古学が畿内説を棄却する 服部静尚(会報134号)
古代の都城 -- 宮域に官僚約八千人 服部静尚
(会報136号)
諱いみなと字あざなと九州王朝説 服部静尚
(会報138号)
盗まれた天皇陵
八尾市 服部静尚
巨大古墳は大和朝廷の政治的統一を表すものではない、巨大古墳で邪馬台国畿内説は立証できないことを考察したいと思います。実は冨川ケイ子氏の論考がこの考察に至ったきっかけです。氏の「河内戦争」(古代に真実を求めて第十八集に掲載)を肯定するとこうなります。
①九州王朝が河内を直轄勢力圏にする少し前、河内は捕鳥部萬が治めていた。
②九州王朝によって萬は滅ぼされた。
③物部守屋を萬に当てはめることも考えられるが、萬を「八国に散らし串刺した」とあることから、その勢力範囲は広範囲であって守屋では少し無理がある。
④しかし守屋以外に近畿天皇家を含めて萬に相当する人物は見受けられない。
⑤萬の死が近畿天皇家の盛衰に影響した気配が何ら見受けられない。要するに、萬が滅んでも近畿天皇家の勢力範囲が増えも減りもしていない。
⑥以上から、この時点で(六世紀末から七世紀初頭にかけての時期、白石太一郎氏によると前方後円墳の築造が終焉を迎えた時期)河内は近畿天皇家の勢力範囲でなかったことになる。奈良盆地から木津川に沿って、せいぜい枚方・茨木辺りまでがその勢力範囲であったのではないか。
⑦そうすると、百舌鳥古市古墳群は萬の祖先のものであったのではないか、
とこうなるのです。
一、前方後円墳の同時多発的出現
多くの人が勘違いされていることがあります。古墳時代の始まりを画する前方後円墳が大和からスタートしたとする点です。これについて広瀬和雄氏は「前方後円墳の世界」二〇一〇年で、「『畿内で発生した前方後円墳が同心円状に各地に拡大していく。』『前方後円墳は西日本で成立してから東国などに伝播していく。』などの通説がこれまで流布されてきたが、いわば同時多発的に出現していたのです。(中略)茨城・栃木など弥生墳墓の伝統のない地域でも(栃木―駒形大塚古墳―前方後方墳六四m・茨城―梵天山古墳一五一m・東京―宝来山古墳九七m・埼玉―塩古墳―前方後方墳三五m・神奈川―秋葉山古墳五九m、真土大塚山古墳などが)築造されている。」と是正しています。
二、前方後円墳の分布
これも考古学の関係者はご存じだと思いますが、大和や河内に古墳が集中していると言うのは間違いです。
文化庁公開資料に「平成二四年度周知の埋蔵文化財包蔵地数」があります。そこに古墳時代に造られた「古墳・横穴」の県別数が載っています。これによると、秋田県・岩手県から鹿児島県まで、合計十六万弱の古墳・横穴が分布所在しています。最も多いのは兵庫県で一万九千弱、続いて鳥取県一万三千強・京都府・千葉県・岡山県・広島県・福岡県とあって、やっと八番目に奈良県九六一七が入って、大阪府は三四二四です。
前方後円墳に限ってはどうかと言うと、「封印された『あづま・みちのく』の古代史」相原精次著二〇一一年によると、前方後円墳は岩手県から鹿児島県まで分布所在し、中でも千葉県六八五・茨城県四四四・群馬県四一〇と軒並み関東が上位を占めています。ここでもやはり奈良県二三九・大阪府一八二など畿内が中心ではないのです。
三、巨大という所が拠り所
ここまでの言及で、大和・河内の古墳が巨大である、その一点のみが邪馬台国畿内説や、大和朝廷の政治的統一を表すと言う根拠となっていることが判っていただけたと考えます。白石太一郎氏の代表的な主張を次に引用します。
「三世紀の半ばすぎから六世紀末葉にかけて、日本列島の各地では大仙陵古墳を筆頭に、大小さまざまな規模の前方後円墳が造営された。それは北は岩手県から南は鹿児島県にわたり、その数は墳丘長百m以上のものに限っても三二六基にも及ぶ。それらはすべて近畿地方の大首長(大王)を中心に首長連合を構成していた各地の首長たちが、その政治連合の中での身分秩序に応じて、大小さまざまに営んだものと考えられている。」
とにかく大きいこれこそ権力の誇示であって発露である、この巨大古墳が大和・河内に集まっているのだから、ここに全国統一レベルの大王が存在したのだというわけです。しかし、四世紀初頭の列島全般に広域の政治連合があったこと、その中で権力の大きさはもっぱら古墳の大きさによって誇示されていたという、その証明が先だと私には思えます。
四、なぜ四世紀の東国に前方後円墳
考古学者の判断に従うならば崇神陵は四世紀前半、景行陵は四世紀後半の造営とされています。
ところが、日本書紀の崇神天皇十年「~然れども遠荒人等は、猶正朔を受けず、是未だ王化に習わざる。其れ群卿を選び、四方に遣わし、朕が憲を知らしめ」と詔して「大彦命を北陸へ遣わし、武渟川別を東海へ遣わし、吉備津彦を西道へ遣わし、丹波道主命を丹波へ遣わした。」。そして十一年「四道將軍は、戎夷を平定した状況を奏上した。」これが初めての東国への派兵・平定記事です。この時点では北陸・東海・丹波は大和朝廷の勢力の及ばないところであったようです。
次に、景行天皇二五年「武内宿禰を北陸及東方へ遣わして、諸國之地形、且百姓之消息を観させた。」、二七年「武内宿禰が東國より還り、『東夷の中に日高見國が有り、其の國人男女は、椎結文身し、勇悍である。是れすべて蝦夷と言う。亦土地は沃壤にして曠い。撃ちて取る可し。』と奏上」。そして熊襲戦から戻った日本武尊を四〇年派遣します。 日本武尊の東征は伊勢から始まって駿河へ向かいます。両国は当時東国の領域になっているわけです。その後、駿河→焼津→相模→上総→房総半島を東廻りに北上→日高見国→常陸→甲斐→武蔵→上野→碓日坂→信濃(別働隊で吉備武彦を越国へ)→美濃→尾張→伊勢という具合で遠征が終了します。
要するに景行天皇四〇年以前は、駿河以東、房総半島、常陸、上野などは大和朝廷の力が及ばない領域であったと記述しているわけです。その領域に三世紀末から四世紀全般、もちろんそれ以降も前方後円墳を含む多量の古墳造営がされています。先の白石氏の主張は何なのでしょうか。
図1大阪・奈良の巨大古墳と天皇陵(崇神から舒明)の関係
巨大古墳ベスト50「古墳とヤマト政権」白石太一郎著を参考に作成
五、延喜式諸陵式での天皇陵比定
十世紀初めに制定された延喜式に、歴代天皇の陵が記されています。
虎尾俊哉氏は「延喜式」日本歴史学会編で、先達である和田軍一氏・植村清二氏・時野谷滋氏の研究成果を示されています。
要約すると、
(一)諸陵式は実質的に陵墓一覧表であり、その記載は次の三群に分類できる。
第一群―神代三陵~檜隈大内陵(天武・持統統合葬)〓この部分は歴代順・崩御順・存置順で記載。
第二群―真弓丘陵(草壁皇子)~河上陵(平城の皇后)〓歴代順で記載され、崩御順・存置順ではない。
第三群―宇波多陵(清和の母)~後深草陵(宇多の皇后)〓存置順で記載され、歴代順・崩御順ではない
(二)この内第一群は二・三群と違って、神代三陵を除き即位の天皇陵のみを記載し、(令集解の古記にある)「即位の天皇を除く以外、皆悉く墓と称す」が厳格に行われている。たとえ記紀で陵として扱っていても天皇陵でなければ墓としている。ここから(漢風諡号の書き直しや陵戸守戸数の変化などを除いて)持統五年(六九一)の陵墓守護の詔の以前(記紀成立よりも早く、天武陵造営後のいずれかの時期)に成立していたとみられる。
(三)この第一群の山陵表は、その時つまり持統五年以前に存在し守護されていた山陵を、随伴して伝えられた口伝により、帝紀類を参照しながら登録したものと考えられる。その理由は、
(四)壬申の乱の時に大海人皇子が神武陵に馬・兵器を奉ったこと、続日本後紀承和十年(八四三)に口伝の(神功皇后陵と成務陵のとり違え)誤りを図録によって訂正したこと。ここから彼らは神武天皇の実在を論証しています。
(五)以上に対して虎尾氏は「山陵が後世あらたに造作された可能性はないが、既存の墳墓の中から幾つか選び出されて仮託された可能性が残るので、なお慎重な検討を要す」とされています。
虎尾氏の「仮託の可能性」指摘に私も同意しますが、この仮託の可能性は神武陵や欠史八代に限ったことではなく、第一群全体に言えると考えます。
延喜式が比定した「百舌鳥耳原中陵=仁徳」→「百舌鳥耳原南陵=履中」→「百舌鳥耳原北陵=反正」が、五世紀半ば→五世紀初頭→五世紀後半の造営であるとの考古学者の編年を信ずるならば逆転しています。つまり七世紀末の時点で、大和朝廷はその造営の順序さえ判らなかったことになります。更に垂仁陵(四世紀末~五世紀初頭)と次の景行陵(四世紀中頃)の造営時期の齟齬、仲哀陵(五世紀後半)と神功皇后陵(四世紀後半~五世紀初頭)のほぼ百年の齟齬、仁賢陵(六世紀前半)とその二代後の継体陵(五世紀中頃)の齟齬などが、継体期に至るまで、この仮託の可能性を拡大させます。
六、被葬者不明の巨大古墳
延喜式で、ほとんどの巨大古墳が天皇陵等に比定されているのでしょうか。実は畿内の巨大古墳の大部分が被葬者不明であって、つまり巨大古墳=「全国統一レベルの大王の墓」の証明にはならないことを述べます。
図1に日本国内の古墳の大きさベスト五〇(「古墳とヤマト政権」白石太一郎著より)の内、大阪府および奈良県に存在する古墳を、模式的に地図上に記載しました。
延喜式で天皇陵と比定された古墳は黒塗りで、皇后あるいは皇子陵に比定されている古墳は影付きで、比定されていない古墳は白抜きの古墳マークでそれぞれ表記しています(マーク横の数字は大きさ順位)。併せて延喜式で天皇陵と比定されて古墳の内、ベスト五〇に入らない(崇神から舒明までの)天皇陵についても表記しました。この図で延喜式山陵表の第一群が作られた時期(天武崩御後から持統五年以前)の状況が判っていただけると思います。
ここには、馬見古墳群の巨大古墳の全て・佐紀古墳群および纏向古墳群の巨大古墳の半分程度が、当時の朝廷から天皇陵比定されていません。これは何を示しているのでしょうか?次の四通りの可能性が考えられます。
①これらの巨大古墳はいつ頃に先祖の誰を葬ったものかも忘れられていた。
②これらの巨大古墳は当時の人々と関わりが無い全く知らない王墓だった。
③これらの巨大古墳は大和朝廷に仕えた豪族の先祖の陵墓であった。
④これらの巨大古墳は、当時の大和朝廷以外の(それ以前に各地域を支配していた)王墓だった。人々はその伝承を知っていたが、大和朝廷の手前それを記録として残せなかった。
以上の四つの可能性を吟味すると、
①は記紀の記述するように神武以降連綿と統治を続けた大和朝廷であるなら、これは考えにくいわけです。日本書紀によると当時は飛鳥浄御原宮の時代で、この図の範囲は政権中心地でありこれを支える人や民衆がそこに生活をしていた場所です。その眼前にこれら巨大古墳があったわけです。子孫でありそこに生活する人々の間に、この数々の巨大古墳のいわれの記録あるいは口伝が(一つ二つでは無いのです)全て存在していなかった。これは考えられません。
②は一見ありそうですが、この場合何の畏怖も敬意も無いこの巨大古墳を目の前にして、これを破壊しあるいは再利用する(従って痕跡が現代にはほとんど残らない)、人々の行動としてはこう考えるのが妥当です。
③の場合は当然その豪族の出自の証明になるので、その豪族によって伝承を残し祭祀が行われたと考えられます。豪族の出自の記録にも残されます。これらの形跡が無いのですから、これも否定されます。
最後に④のみが残るわけです。これらの巨大古墳は、当時の大和朝廷以外の(それ以前に各地を支配していた)王達の陵墓であった。それらの一部を延喜式で、大和朝廷が自らの祖先の陵墓に「仮託」したのです。「仮託」と言うより「盗んだ」と言うのが適当でしょう。
「我々大和朝廷は遠い昔神武天皇よりここ(持統期)に至るまで、大和を中心として畿内の覇者であった」と顕示するための盗用であったと考えます。古田先生が提起された前王朝である九州王朝の歴史の盗用で、九州王朝の存在した歴史を抹殺するのと同じように、これとセットで大和・河内の地域王国の抹殺を図るための巨大古墳の盗用と言えます。
七、こころみる考察の目指すところ
蛇足になりますが、今回私が目指したイメージを紹介します。
……墓上に土を盛り上げた墳丘墓が、中国では春秋末期からで戦国時代に盛行したとされている。
これが邪馬壹国に伝わったのが、魏志倭人伝にある「径百歩」の卑弥呼の冢で、日本列島ではその後大型化したものと見られる。四・五世紀にわたる倭の五王、及びその配下となった各地の国王による列島征服によって、これが前方後円墳などに集約されていった。
銅鐸を神器とする国々を征服した国王達は被征服民を労働力にして自らの「墳墓」を造営し、その大きさを競った。
五世紀末から六世紀にかけて力を付けてきた近畿天皇家が、七世紀末に九州王朝から政権奪取した頃には、河内・摂津・大和に先の国王達が造営した巨大古墳が存在し、地域国家の実在を記憶する一大モニュメントとしてそびえ横たわっていた。
大和朝廷が自らの権威・正統性を顕示するのに、前王朝の存在と地域王国の存在は目障りだった。九州王朝の存在を抹殺する史書を作るのに併せ、これら巨大古墳のいくつかを自らの祖先の陵に仮託し、地域王国の存在を抹殺した。……
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