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「壹」から始める古田史学Ⅷ 倭国通史私案③
九州王朝の九州平定
筑後から九州一円に
古田史学の会事務局長 正木 裕
前号までに紀元前二世紀頃の「天孫降臨」によって、九州王朝が誕生したことを述べました。つまり「天孫降臨」とは、「銅矛等の青銅の武器」を持った、朝鮮海峡を本拠とする瓊瓊杵尊ら海人あま族が、出雲の勢力下にあった「北部九州」に侵攻し平定したことだったのです。当時列島には、別に近畿を中心とする「銅鐸」を祭器とする権力圏(銅鐸圏)が発生していましたが、九州を中心とする「銅矛圏」と、近畿を中心とする「銅鐸圏」が衝突するようになるのはまだ先のことですので、当面は海人族による「九州一円の平定経緯」を追っていきます。
一、古田氏が明らかにした「九州一円の征服経路」
古田武彦氏は、『盗まれた神話』において、天孫降臨から九州一円の平定に至る「九州王朝の発展史」が、『記紀』の「神功皇后紀」や「景行紀」に盗用されていることを明らかにしました。「九州王朝による九州平定の始まり」は、『書紀』では「神功皇后の筑後平定譚」として記されていたのです。
1、神功の筑後平定は九州王朝「橿日宮の女王」の事績だった
図1は『盗まれた神話』に記載された、「神功紀」に記す皇后の羽白熊鷲はしろくまわし・田油津媛たぶらつひめ討伐譚の経路です。ここで皇后は橿日宮から南方に軍を進め、御笠の松峡宮まつをのみやを経由し、荷持田村のとりのたふれを本拠とする羽白熊鷲を「層増岐野そそきの」で討伐し、安(夜須)に帰還、その後、山門県(筑後山門)に至り田油津媛を討伐しています。
古田氏は、この記事は『古事記』にはなく、本来は「九州の王者」による「筑後平定譚」が『書紀』に盗用されたものだとされました。そして、羽白熊鷲が「羽あり。能く飛び高く駈ける」と書かれるなど「神話性」を有することから、瓊瓊杵尊の天孫降臨に近い時代の出来事であり、また、神功皇后という「女帝」になぞらえられ、出発地が橿日宮であることから、九州王朝の始源の女王である「橿日宮の女王」の事績だとされました。
図1 神功皇后筑後平定行路図
2、層増岐野は「雷山」ではない
ただ図1は、『日本書紀通証』(谷川士清(たにかわことすが)による『日本書紀』の注釈書。一七六二年刊)ほかをもとにした岩波『書紀』の地名比定を仮に採用しているのですが、これには若干の修正が必要でしょう。
羽白熊鷲の本拠である荷持田村は、朝倉市野鳥(のとり 『和名抄』では「筑前国夜須郡賀美郷野鳥村」)及びその南、下座郡の朝倉市田代から三奈木みなぎにかけての旧夜須郡から上座・下座郡(朝倉郡)一帯とされています。ここは行程上、御笠(御笠山、御笠川上流)の南にあたり、橿日宮からの行程上も自然で、また、神功皇后による羽白熊鷲討伐の現地伝承もあるところから、ほぼ異論のないところとなっています。
3、羽白熊鷲討伐は第二の「天孫降臨」だった
しかし、谷川士清は「層増岐野」を雷山の中にある「層増岐嶽山上の大野」としていますが、雷山は一見して討伐経路から離れ、かつ山頂に大野はなく不自然です。そもそも羽白熊鷲の本拠も、神功が帰還したとされる「安」も旧夜須郡ですから、戦地の層増岐野も旧夜須郡一帯にあったと考えられます。
そしてこの一帯は、『筑前国続風土記』(貝原益軒。一七〇四年)に「膏腴こうゆの地にして、種植の利他所に倍せり」とあるような豊穣の地です。従って、羽白熊鷲討伐戦は、天孫降臨、即ち瓊瓊杵尊らの「豊葦原瑞穂国たる博多湾岸」への侵攻に次ぐ、「橿日宮の女王」による「第二の瑞穂国」とも言うべき内陸部の穀倉地帯への侵攻だったと言えるでしょう。
「橿日宮の女王」はこの穀倉地帯を手中に収め、築後山門に向かい田油津媛を討伐しています。山門郡は筑後川河口の柳川市とみやま市を含む有明海への玄関口で、ここを支配下に置き、博多湾岸から有明海に通じる、九州一円平定における戦略上の「ゴールデンルート」を確保したのです。
図2 景行の九州遠征行路
二、「景行紀」に盗用された九州王朝の九州一帯平定譚
1、「前つ君」の九州一帯平定
そして九州王朝は「筑紫の富」を背景に九州一帯の平定に乗り出しますが、その事績が「景行紀」に盗用されていたのです。図2は景行天皇の九州遠征の経路です(*『盗まれた神話』より)。この遠征は「周芳の沙麼(さば 山口県防府市佐波か)」から始まり、「九州東岸」を経由し襲国(大隅・薩摩か)の熊襲梟師くまそたけるを討伐、その後西に向かい熊県の熊津彦を討ち、北行して「九州西岸」を平定。築後浮羽(福岡県浮羽郡)に至り、大和に還るように書かれています。
しかし古田氏は、これを糸島前原から出征した九州王朝の天子「前つ君」による「九州一円平定」事績の盗用だとされています。
九州王朝の天子を「前つ君」とするのは、『書紀』で御木(三池)の巡行の際の歌「朝霜の 御木のさ小橋 魔幣菟耆瀰まへつきみい渡らすも 御木のさ小橋」の「魔幣菟耆瀰=前つ君」からです。「君」とは上古は大王・天子の呼称であり、「い渡らす」の「い」は尊敬を示す接頭語で、さらに「百寮 其の木を踏みて往来す」と「百寮」が出迎えたとありますから、「魔幣菟耆瀰」が大王・天子の呼称であることが知られます。ちなみに「前つ君」の「前」は「糸島前原」の「前」です。
この遠征譚の中で討伐された熊襲梟帥・熊津彦や、神夏磯媛かむなつそひめ・鼻垂・耳垂、打猨うちさるや速津媛ほかの土蜘蛛(土着勢力)達に、羽白熊鷲のような「神話的な超能力」はありません。また「百寮」の語も臣下の秩序(官僚制)が整っていることを示す言葉で、『後漢書』に紀元五七年の「委奴国」朝貢の際「大夫」という官職名の見えることを考えると、『書紀』では「神功紀」が新しく、「景行紀」がより古い時代となっていますが、本来は、天孫降臨時代に続く「神功紀」の筑後征服譚の方が古く、「景行紀」の九州一円平定譚の方が新しいことになるでしょう。そしてこれは、筑紫の征服から始まり、九州一円に進出するという歴史の必然的な順序にかなうことになるのです。
2、一つにまとめられた糸島発の「九州東岸」と「西岸」二つの平定譚
なお、景行は襲国(大隅・薩摩か)討伐前に「日向国」に到り高屋宮で熊襲討伐を議り、討伐後六年間そこで統治したのち、宮崎の子湯県・諸県を経由し、熊県(熊本県南部)から火国・阿蘇国・御木国等を経、浮羽へ向け九州西岸を巡行したとあります。大和からはるばる遠征した景行が、辺境の宮崎の地で六年間も滞在するなど到底あり得ることではありません。
古田氏は『盗まれた神話』では「神武の出発地」を「宮崎なる日向ひゅうが」としましたが、後に「筑紫なる日向、糸島」としました(『神武歌謡は生きかえった』一九九二年)。そうであれば景行紀の日向も「筑紫なる日向ひなた、糸島」のことで、高屋宮は彦火火出見尊の「高屋山上陵」と同じく糸島の宮となります。つまり、前つ君は糸島の宮で熊襲討伐を計画し、「九州東岸」を経由し襲国を討伐した後に糸島に帰り六年間過ごしたことになるでしょう。『書紀』はこれを「景行紀」に盗用したのです。図2を見れば「日向経由」が不自然で、「子湯県」しか経由しなかったことが分かるでしょう。
そうであれば、熊県から浮羽へ向けてという「北向き」の「九州西岸平定」も、景行の「九州一円平定」の一部ではなく、「前つ君」による糸島発で浮羽から九州西岸を経由し熊襲を討伐するという「南向き」の「九州西岸平定」譚を、方位を「ひっくり返して」盗用したもので、「九州東岸平定」と「九州西岸平定」とは別の討伐戦だったことになるのです。そして、「橿日宮の女王」が筑後山門まで平定していたのなら、これに近接する御木(三池)巡行譚のある九州西岸平定の方が時代が早かったことになるでしょう。
次回は「前つ君」が糸島を発し、景行の九州一円平定譚の始まりの地とされる「周芳の沙麼」に向かう経由が、「仲哀紀」に盗用されていることを述べます。
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