2016年4月9日

古田史学会報

133号

1,「是川」は「許の川」
 岡下英男

2,「近江朝年号」の実在
 正木 裕

3,筑前にも出雲があった
 中村通敏

4,「要衝の都」前期難波宮
 古賀達也

5,「善光寺」と「天然痘」
 阿部周一

6,令亀の法
 服部静尚

7,追憶・古田武彦先生3
蕉門の離合の迹を辿りつつ
 古賀達也

8,「壹」から始める
 古田史学Ⅳ
 正木裕

 

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追憶・古田武彦先生()()()()  


追憶・古田武彦先生(3)

蕉門の離合の迹を辿りつつ

古田史学の会・代表 古賀達也

 わたしが三一歳のときに古田先生の門を叩いてから三十年近くになりました。先生が亡くなられてから、先生との思い出が次から次へとよみがえります。
 嵐のような和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングがおき、先生とわたしは週刊誌などでも名指しで叩かれ、兄弟子と慕っていた多くの人々が先生から離れていく様を、わたしは三十代から四十代の若き日に目の当たりにしました。そのような最中、古田先生と二人で三重県津市に行きました。一九九七年十月のことです。
 その年、『奥の細道』芭蕉自筆本とされるものが現れ、津市の美術館で展示されると聞き、先生と二人で訪問したのです。『奥の細道』の開かれたページを二人でガラス越しに一時間以上も食い入るように見つめました。その筆跡を目に焼き付けるためです。後日、持ち主の代理人の方(古美術商)から、直接すべてのページを見せていただける機会が訪れるのですが、そのときはガラス越しに見ることが唯一の観察手段でした。このような機会を通して、わたしは先生から古文書研究の執念と方法を学びました。
 津市へ向かう列車の中で、わたしは先生から一冊の本をいただきました。『許六 去来 俳諧問答』(岩波文庫、横沢三郎校註。一九五四年)です。その本には次のような古田先生による一文が添えられていました。

「・・蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章等)・・変る人々多き中、変らぬ心をお寄せいただくこと、この生涯最大の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中
 古賀達也様        古田武彦」


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


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