2016年4月9日

古田史学会報

133号

1,「是川」は「許の川」
 岡下英男

2,「近江朝年号」の実在
 正木 裕

3,筑前にも出雲があった
 中村通敏

4,「要衝の都」前期難波宮
 古賀達也

5,「善光寺」と「天然痘」
 阿部周一

6,令亀の法
 服部静尚

7,追憶・古田武彦先生3
蕉門の離合の迹を辿りつつ
 古賀達也

8,「壹」から始める
 古田史学Ⅳ
 正木裕

 

古田史学会報一覧

鞠智城創建年代の再検討 -- 六世紀末〜七世紀初頭、多利思北孤造営説(会報135号)
九州王朝説に刺さった三本の矢(前編)
(会報135号)へ

『要衛の都』前期難波宮」に反論する 合田洋一(会報134号)へ


「要衝の都」前期難波宮

京都市 古賀達也

はじめに

 『古田史学会報』一三二号に掲載された合田洋一さんの論稿「『皇極』と『斉明』についての一考察」において、わたしが提唱している前期難波宮九州王朝副都説に対して、前期難波宮は防衛施設がなく九州王朝の副都にふさわしくないとの疑義が示されました。「学問は批判を歓迎する」(武田邦彦さんの言葉)とわたしは考えていますので、有難く受け止めたいと思います。このご指摘については既に説明してきたところではありますが、良い機会でもあり改めて難波宮が要害の地にある「要衝の都」であったことを詳述させていただきたいと思います。

信長の石山本願寺攻め

 平成二六年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、織田信長の摂津石山本願寺攻めのシ―ンがありました。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。
 石山本願寺と信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、十年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要害の地であり難攻不落であったのかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 平成二六年三月の古田史学の会・関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その説明を聞いて、「なるほど、これはわかりやすい」と感じました。まさに「我が意を得たり」でした。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 七世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能と言えるでしょう。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」には防衛上の問題があります。当地の発掘調査はなされていませんから、字地名「紫宸殿」が何世紀の遺構なのか、さらには宮殿遺構が存在するのかも不明ですので、今の時点で「紫宸殿」地名を根拠に何かを論ずるのは学問的に危険です。もし仮に当地がある時代の九州王朝の「都」か「王宮」であったとすれば(わたしは「行宮」のようなものがあったのではないかと想像しています)、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありませんから、近くの海岸に敵勢力が上陸したら「紫宸殿」防衛は極めて困難です。その北方に永納山神籠石はありますが、離れ過ぎていますから直接には王宮防衛の役割は果たせません。
 しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための地理的中心地「要衝の都」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮するシ―ンを見て、こうした確信が深まりました。

難波宮と「真田丸」

 今年は一大決心の末、NHK大河ドラマ「真田丸」を見ないことにしました。主役の堺雅人さんは好きな俳優さんなのですが、「古田史学の会」運営と古代史研究・原稿執筆のための時間を確保するため、日曜日の夜の貴重な約一時間をテレビに費やすことをやめることにしたのです。とはいえ、歴史ドラマは興味がありますから、「真田丸」は上町台地の遺構として注目しています。
 昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんから教えていただいたのですが、難波宮がある上町台地北端は歴史的に見ても要害の地であり、たとえば大阪城は三方を海や川に囲まれており、南側からの侵入に備えればよい難攻不落の地であるとされています。わたしも全く同意見であり、そのことは前節でも指摘してきたところです。ですから豊臣秀吉はこの地に大阪城を築城したのであり、摂津石山本願寺との戦争(石山合戦)では織田信長をしても本願寺を落とすことがてきませんでした。そのような地だからこそ、聖武天皇も後期難波宮を造営したのでしょう。防衛上危険な地に王都を造営するなどとは考えられません。こうした史実から、前期難波宮は近くに神籠石山城などがないことをもって防衛上に難点があるとする考えは妥当ではないことがわかります。
 今年の大河ドラマの「真田丸」ですが、大阪城の南側に位置し、南からの侵入に備えると同時に、南方面の敵を攻撃できる要塞でもあります。このことから思い起こされるのが、『日本書紀』天武八年条(六七九)に見える次の記事です。

 「初めて関を龍田山、大坂山に置く。よりて難波に羅城を築く。」

 前期難波宮を防衛する「羅城」築造の記事ですが、李さんに「羅城」遺構は発見されていますかとお聞きしたところ、細工谷遺跡付近から「羅城」と思われる遺構が発見されているが、まだ断定はできないとのことでした。細工谷遺跡といえば、前期難波宮の南方にあり、「真田丸」付近に相当します。ネットで検索したところ、黒田慶一さん(大阪文化財研究所)の「難波京の防衛システム 細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽」という論文がヒットしました。おそらく、李さんが言われていたのはこの黒田さんの説のようです。
 服部静尚さんの、竜田関が大和方面の敵から難波を防衛する位置にあるとの説(注1)からも、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮が関や羅城で防衛された要害の地に造営されたことを疑えません。大河ドラマの「真田丸」もそのことを証明しているように思われるのです。

「副都説」反対論者への問い

 「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えています。ですから前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論を歓迎しますが、その場合は次の四点について明確な回答を求めたいと思います。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に答えていただきたいと、わたしは繰り返し主張してきました。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記四つの質問に明確に答えられた「副都説」反対論者を知りません。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のための規模と朝堂院様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解なのです。
 このように考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説です。「副都説」反対論者は考古学的事実に基づき、史料根拠を明示して反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。

「副都説」反対論への補記

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起して以来、この説を論証し、九州王朝史の一部として体系化すべく論文を書き続けました。そのとき想定した第一読者はいつも古田武彦先生でした。古田先生から認めていただくため様々な角度から論証を試みました。その結果、平成二六年に開催された最後の八王子セミナ―にて、参加者から出された「前期難波宮九州王朝副都説に対してどのように考えておられるのか」との質問に対して、古田先生は「検討しなければならない」と、検討に値する仮説であると認めていただきました。もちろん前期難波宮九州王朝副都説にただちに賛成されたわけではないと思いますが、ようやく古田先生から検討すべき仮説として認めていただいたと、わたしはうれしくて仕方ありませんでした。
 繰り返しますが、「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えています。反対論者からの批判を歓迎しますが、わたしの論文のどの部分がどう間違っているのかを具体的に引用し、史料根拠を明示して批判していただきたいと願っています。これまで発表した関連論文を列記しておきますので、前期難波宮九州王朝副都説への批判とともに、先に指摘したわたしからの四つの問いについても回答していただければ幸いです。

《前期難波宮関連論文》

前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)
「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)
「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)
前期難波宮の考古学(1)―ここに九州王朝の副都ありき―(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)
○前期難波宮の考古学(2)―ここに九州王朝の副都ありき―(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)
○前期難波宮の考古学(3)―ここに九州王朝の副都ありき―(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
○続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁―(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)
白雉改元の宮殿―「賀正礼」の史料批判―(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)
難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)
前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)
条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

(注1)服部静尚「関から見た九州王朝」『古代に真実を求めて十八集 盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。(明石書店、二〇一五年。古田史学の会編)


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