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「壹」から始める古田史学Ⅳ
九州年号が語る「大和朝廷以前の王朝」
古田史学の会事務局長 正木 裕
「平成」二八年度、新年度を迎えました。古田先生が亡くなられはや半年が過ぎ、三月末には古田武彦氏の「原点」といえる「邪馬壹国論」を集大成した『邪馬壹国の歴史学』が発刊されました。
氏は巻頭で「この一書は、永年の「待たれた」一冊である」と述べた後、「やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報の命は長い。著者が死んだ時、書物が、情報が、生きはじめるのである。」との「遺言」ともいえる言葉を記されています。優れた研究者ならではの「至言」であり、改めて氏のご冥福をお祈りいたします。
ところで、この「平成」をはじめとする天皇の「元号」ですが、我が国では七〇一年に「大宝」が建元されて以来、南北朝時代に二系列の元号が並行していたこともありましたが、ともかくも途切れず今日まで続いています。
しかし、七〇〇以前ではどうかというと、『日本書紀』に記される「大化・白雉・朱鳥」は、「無年号期間」をはさんだ「不連続」な年号群となっています。
例えば、大化(六四五~六四九)・白雉(六五〇~六五四)が終わった後には空白期間があり、三二年後の六八六年に朱鳥と「改元」されています。直前が無年号なのに「改元」というのも奇妙なのですが、そのうえ、朱鳥は一年間しか無く、大宝までの一四年間がまたもや無年号となるのです。
一方、『二中歴』『如是院年代記』『日本帝皇年代記』『帝王編年記』『扶桑略記』『和漢年契』などの我が国の古文書や、『海東諸国記』(申叔舟。一四七一)、『日本大文典』(ポルトガルの宣教師ジョアン・ロドリゲス。一六〇四~一六〇八)などの海外資料には、「継体(五一七)あるいは善記(五二二)」に始まり、「大宝元年」直前の七〇〇年まで切れ目なく続く年号群が記されているのです。そればかりか、大和朝廷の「正史」である『続日本紀』の聖武天皇の詔報でも、『書紀』には記されない「白鳳・朱雀」年号の存在が認められます(神亀元年十月丁亥朔条「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。
これらの年号は江戸時代の国学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ 一七八八~一七五九)が著書『襲国偽潜考そのくにぎせんこう』において、古写本「九州年号」から写したと述べているところから、一般に「九州年号」と呼ばれています。(表は『二中歴』による。但し『二中歴』の九州年号は大化六年(七〇〇)まで。以降は近年の古賀氏の研究による。)
先述の『日本大文典』には、「我が主キリシトのこの世界に出生後五二二年までは、日本人はNengo(年号)と呼ぶものを使はなかった。この年に始めてIenbui(善記)といふのが用ゐられ、それ以後現在まで年号が続いてゐる。」と書かれており、鎌倉時代の『吾妻鏡』、江戸時代の『玉勝間』や庶民の愛読書『平家物語』などにも見え、江戸時代以前は「元号」として正当に認識されていたものでした。
また宗教の分野では、『宇佐八幡文書』(大分)、『善光寺文書』(長野)、『開聞故事縁起』(鹿児島)、『伊予三島縁起』(愛媛)ほか全国の有力な寺社の縁起に広く記され、平安期の聖徳太子の伝記が九州年号で書かれていることはよく知られており、九州年号入りの「聖徳太子絵伝」を掲げ信仰の対象としていた神社もある程です。(奈良談山神社等)。さらに最近も兵庫の「赤渕神社縁起」や神奈川の「江の島縁起絵巻」にあることが確認されるなど、新たな発見が相次いでいます。
こうした事例は、明治政府が編纂した百科事典『古事類苑』(歳時部四、年號下、逸年號)にも多数収録され、ネット上で公開されています。また、一部は古田史学の会のホームページにも掲載しています。
九州年号について「鎌倉時代の僧侶の偽作」などという者もいるようですが、先述の聖武天皇の詔勅や平安時代に書かれた法令集『類聚三代格』にも記されていますから、そうした「偽作説」が成立しないことは明白です。
また「元号」はその国の主権者(最高権力者)しか建て得ないものですから、その使用例が全国に及ぶことは、「全国に及ぶ権力」の存在を示すものでしょう。そして「元号の継続」は「権力の継続」を示しますから、これは「王朝」と言えることになります。大和朝廷にはこうした年号を建てた記録も資料もありませんから、九州年号は大和朝廷以前の「別王朝」の元号となるはずです。
そして中国の史書を見ると、我が国の九州には、紀元五七年に後漢の光武帝から「志賀島の金印」を授かった「委奴ゐぬ国」(『後漢書』)があり、三世紀の邪馬壹国・俾弥呼は「漢の時朝見する者あり」(『魏志倭人伝』)と書かれるようにその後継国でした。また、『隋書』に見える六世紀末から七世紀初頭の「俀たゐ国」も「漢の光武の時、使を遣し入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又遣使朝貢す。これを俀奴国と謂う」「魏より斉、梁に至り、代々中国と相通ず」「阿蘇山有り」とありますから、一世紀の委奴国から七世紀の俀国まで連続する「王朝」が九州に存在したことになります。
そして表のように九州年号は「隋(五八一~六一八)」の年代を「まるまる」含んで継続していますから、「九州に存在した王朝」即ち「九州王朝」の年号だということになるのです。これを初めて明らかにしたのが古田武彦氏で、その卓見には敬服するばかりです(『失なわれた九州王朝』一九七三年朝日新聞社ほか)。
その後の研究の中で、九州年号の最も整った資料は『二中歴にちゅうれき』であることも分かりました。『二中歴』は平安時代に成立した「掌中歴しょうちゅうれき」と「懐中歴かいちゅうれき」をあわせて鎌倉時代に編集されたもので、各年号には「細注」が記され、これは九州王朝の事績の記録と考えられています。
『二中歴』では、九州年号は大化六年(七〇〇)で終わり、七〇一年には大和朝廷の年号である「大宝」が「建元」されますが、「建元」とは言うまでもなく「初めて元号を建てる」という意味です。(『続日本紀』「建元為大宝元年」)また、我が国の地方制度が「評」から「郡」に変わったのも七〇一年ですから、「評」は九州王朝の制度、「郡」は大和朝廷の制度と考えることができ、ここで主権者つまり「王朝の交代」があったことになります。
ただ、『運歩色葉集』等によれば、九州年号「大化」は七〇三年まで続き、七〇四年に「大長」と改元され、七一二年まで続いた後消滅しています。これは中央では王朝交代がありましたが、九州王朝の残存勢力は南九州に割拠していたことによるもので、七一三年に「隼人の賊を征した将軍」たちへ大規模に恩賞が与えられ、同年に近畿天皇家により「大隅国」が設置されたのと軌を一にするため、最後の九州王朝の人々は「隼人の賊」と蔑視されて討伐され、これにより九州年号も消滅したのだと考えられています。
*『運歩色葉集』に「大長四年丁未(七〇七)」、『伊豫三嶋縁起』に「天(大か)長九年壬子(七一二)」とあり、何れも元年は七〇四年甲辰。
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