追憶・古田武彦先生(4)
坂本太郎さんと古田先生
代表 古賀達也
古田先生は皇室御物の『法華義疏』を電子顕微鏡などで調査されたことがありました。この「国宝以上」の超貴重文書を古田先生が調査されるに至った経緯をご紹介したいと思います。
古田先生が『法華義疏』の研究を始められたとき、自らの仮説を証明するためにどうしても『法華義疏』を実見する必要があったのですが、同書は皇室御物本です。そこで古田先生は古代史学界の重鎮、坂本太郎さんのご自宅を訪問し自説を説明され、どうしても『法華義疏』を見たいと訴えられました(昭和六一年七月二八日)。いわば、坂本太郎さんの説とは異なる新説を証明するために、『法華義疏』実見のための紹介状を書いてほしいと坂本太郎さんにお願いされたのです。
このとき、坂本太郎さんは不治の病にかかられていたそうですが、快く紹介状を書かれました。「『法華義疏』は貴重なもので、見せ難いものではあるが、古田氏には是非とも見せていただきたい。」という趣旨の紹介状だったと古田先生からはお聞きしています。
多元史観の古田先生に対して、近畿天皇家一元史観に立つ坂本太郎さんが、こともあろうに自らの説が誤りであることを証明する目的のための紹介状を書かれたのです。わたしは古田先生からこの坂本太郎さんとのエピソードをうかがったとき、深く感銘しました。学問的立場は異なっていても、真の歴史学者同士の魂の触れ合いをそこに見たのです。御用学者や曲学阿世の徒が少なくない現代日本にあって、何とも感動的な話ではないでしょうか。
紹介状を書かれた後、坂本太郎さんは古田先生に対して、「これは大変時間がかかることです。あせらずに待ってください。」と言われたそうです。その後、宮内庁から『法華義疏』閲覧の許可がおり、古田先生は昭和薬科大学の同僚で電子顕微鏡の専門家である中村卓造先生と共に、京都御所で『法華義疏』を調査されたとのことです(昭和六一年十月十七日)。宮内庁が電子顕微鏡撮影までよく認めたものだと思いますが、それだけ坂本太郎さんの紹介状の力が大きかったのでしょう。
この『法華義疏』に関する論文(「『法華義疏』の史料批判」昭和六二年十一月三十日稿了)が完成する前に坂本太郎さんは亡くなられました。坂本太郎さんの学問的寛容と古田先生の学問的情熱を、わたしたち古田学派の研究者はこのエピソードから学ばなければなりません。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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