2017年 8月12日

古田史学会報

141号

1,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(中)
 正木 裕

2,古田史学論集
 『古代に真実を求めて』第二十集
 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
について(1)
 林伸禧

3,なぜ「倭国年号」なのか
 服部静尚

4,「倭国年号」採用経緯と意義
古田史学の会・代表 古賀達也

5,倭国年号の史料批判・
 展開方法について
 谷本茂

6,「古田史学会報 No.140」を読んで
 「古田史学」とは何か
 山田春廣

7,書評 野田利郎著
『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』
 古賀達也

8井上信正氏講演
『大宰府都城について』をお聞きして
 服部静尚

9,「壹」から始める古田史学十一
 出雲王朝と宗像
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧

「倭国年号」採用経緯と意義 古田史学の会・代表 古賀達也

「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1)  (2の上) (2の下) 林伸禧


古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集

「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1)

瀬戸市 林伸禧

はじめに

 平成二九年六月十八日(日)に開催された「古田史学の会」総会において、筆者の意見・疑問点について述べようとしたが、司会者等が総会で使用している会議室が十七時で終了する必要があるとして打ち切られた。総会で述べられなかった内容を発表し、会員諸氏のご意見を賜りたい。
 というのは、私は、「倭国年号」の語句を用いることについて、当初、会員諸氏が了解すればそれで良いと思っていたが、後日、古田史学の根幹にかかわることと気付いた。関係者にその旨を伝えたが、了解が得られなかった経緯があり、会員諸氏の率直なご意見を知りたいと思っている。
 ご意見は、メールアドレスでお願いします。「furuta_tokai@yahoo.co.jp」
 なお、「九州王朝」が建てた年号が「九州年号」であり、「倭国年号」は「倭国(倭国王朝)」が建てた年号である点に留意していただくようお願いします。
以下、引用文はゴシック体(斜体付)で記すとともに、注意すべきところは傍線(赤色)を付した。

一西村秀己氏の考え方について

 西村秀己氏は、古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」(以下「論集第二十集」という)において、次のように述べておられる。
 尚、この本では「九州年号」ではなく敢えて「倭国年号」という言葉を使用しています。我々の主張は主に九州北部を首都にしていた「倭国」という国家が七〇〇年までは近畿王権に先んじて日本列島の主権者であったというものです。従って「九州年号」よりも「倭国年号」がより実態を表しているという考え方に基づくものです。従来より「九州年号」という単語に親しんで来られた読者の方々には次の一文をご紹介して本稿を終わります。

問題は「倭国年号」だ。(中略)
これが「倭国(九州王朝)の年号」である点からすれば、(古田武彦著『壬申大乱』 第5章壬申大乱の真相 十、十二)

 (論集第二十集十五頁。傍線は筆者)

 西村氏は、事の重要性を十分認識されていないと思われる。
 古代日本を代表する国をX国とすれば、中国はX国を「倭国」と呼んだ。通説では、「倭国」を関西地方に存在していた国(近畿天皇家)としているのである。
 これに対して、古田武彦氏は日本を代表する国は九州北部に存在していた。そして、X国を「九州王朝」として、近畿天皇家との対立軸を明確にしたのである。
 西村氏が、「「九州年号」よりも「倭国年号」がより実態を表していると述べられていることは、九州王朝が建てた「九州年号」より、倭国王朝(倭国)が建てた「倭国年号」が実体を表していることになるが、何を思ってより実体を表しているかお聞きしたい。「倭国年号」では、中国が倭国と述べているのを追随しているだけである。
 西村氏は、結果的に古田史学の根幹である「九州年号」を抹消し、古田史学の象徴である「九州王朝」の名を「倭国王朝」に変更させたい意志があると、筆者には思われてならない。
 本会の目的は、会則により「古田史学の継承と発展、その宣伝顕彰」のための事業を行うこととしており、西村氏の考え方は、この会則の目的に沿っているのか疑問である。
 また、西村氏は二〇〇一年十月に東洋書林から発行された『壬申大乱』で古田氏が述べたことを根拠にしているようであるが、古田氏は、「九州王朝」を中国でいう「倭国」として述べているのである。それ故、「倭国(九州王朝)」、「倭国の王朝、いわゆる九州王朝」としたのである。
 さらに、古田氏は年号についての論考をまとめた最新の共著である『「九州年号」の研究』(二〇一二年一月発行)において、「九州年号」は述べておられるものの、「倭国年号」とは一言も言っていない。
 このことについて、西村氏の所感をお聞かせ願いたい。
 また、西村氏の考え方について「我々の主張」と述べられているが、西村氏以外のどなたがそのように主張されているのかお聞きし、その人達に「古田史学」について、正しい理解をお願いしたいと思うところである。
 なお、西村氏が引用している『壬申大乱』で「九州年号」や「倭国年号」について、述べている箇所は次のとおりであり、会員諸氏に参考にしていただきたい。(傍線は西村氏が引用した箇所である。引用は複刻ミネルブァ書房版による。)

・一八五頁=『失われた九州王朝(一九七三年刊行)』以来、強調してきたように、「九州年号」の実在は確実である。
この「九州年号」もまた、次表のように「七〇一」を画期として消滅しているからである。
・一九二頁=以上の「新羅年号の存続と廃止」の経緯を縷々宣べたのは、他でもない。問題は「倭国年号」だ。「日出ずる処の天子」を称した「倭国」が〝自前の年号をもたなかった〟としたら、奇跡だ。
・一九三頁=なぜなら、明治初期においては、まだ問題の「九州年号」の存在は許容されていた。歴史記述(教師用)の中には姿を現わしていたのである。
・一九四頁=「九州年号」の中には「倭京」の一語がある。
その「倭京」とは、いったいどの領域か。これが「倭国(九州王朝)の年号」である点からすれば、当然「筑紫」だ。
・一九五頁=またこの「倭京」という年号は、一に「倭京縄」とするものがある。「九州年号」の名を伝えた、鶴峯戊申の『襲国偽僭考』だ(『如是院年代記』の「倭景縄」はその転化か)(『失われた九州王朝』第四章三「九州年号の発掘」参照)。
・一九八頁=ところが、わたしの立場、「九州年号」を実在とする立場に立てば、ことは一変する。
 日本書紀の編者は、この「時の連続尺」たる「九州年号」から〝引き抜い〟て、自家の私書の中へと「転用」したのである。「換骨奪胎」だ。
・三五三頁=それらの「歴史の核心テーマ」に対して一切〝目をつぶり〟つづけてきたのです。「九州年号の無視」も、当然です。すなわち、「九州王朝はなかった」が、その〝金科玉条〟となってきたのです。(※日本の生きた歴史十三の第二)

 また、倭国の年号について「『北鑑』第卅巻の6」には次のように記述され、倭国の年号と九州年号とは明らかに違うと認識されていることも参考にしていただきたい。(インターネット検索「北鑑」、ホームページ「新古代学の扉」参照)
世にある年の印しに年號ありき。倭国にては、大化と名付けるを創めとして五年、白雉は二十二年、白鳳は十四年、朱鳥は十五年、大寶は三年、慶雲は四年、……、文化十四年、文政は十二年、以上になる暦代年表と相成りけるは、倭史になる年表なり。
   天保十年(一九三九年)八月一日  奥州津軽飯詰村下派立 和田長三郎

 ところで、先述のX国について、私は次の傍証により「大委国」をX国と推定している。
・『法華義疏』第一巻題字の下二行=此是大委国上宮王私集 非海彼本
・『隋書』の俀国=「大委国」を卑下した言葉である。
・金印「漢委奴国王」の「委奴国」=「大委国」と読むべきである。(黄當時著『悲劇の好字|金印「漢委奴国王」の読みと意味』、二〇一三年六月、不知火書房)

二古賀達也氏の「巻頭言」について

 古賀達也氏は、論集第二十集の「巻頭言」において、次のように述べておられるが、「古田史学の会」代表の発言としては非常に残念なことである。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝延以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝延以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の倭国は大和朝廷にはあらずという一点を読者に明確にするためであった。

 (論集第二十集三・四頁、傍線は筆者)
 この「巻頭言」について、疑問に思うところは、次のとおりである。
学術用語「九州年号」と述べておられるが、日本の古代史学界では古田説を無視しているのが現状ではないだろうか。学術用語として認知されているだろうか。
「あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現」したと述べておられるが、「倭国年号」といえば、中国のいう倭国、すなわち近畿天皇家の年号であると一般的に理解されることになるが、それでよろしいか。「歴史的事実」は九州王朝が九州年号を制定したことである。本会の立場はこれに尽きるのではないか。

「古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきた」と述べておられるが、古田氏の主張の根幹は「九州年号」ではないのか。
「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。」と述べておられるが、そのようなことを積極的に払拭すべきことが本会の目的ではないだろうか。
「《大和朝延以前》の一句をタイトルに付したのも、『倭国年号』の倭国は大和朝廷にはあらずという一点を読者に明確にするためであった。」と述べておられるが、「九州年号は大和朝廷の年号にはあらず」で十分ではないのか。

 あらためて、古賀代表にお聞きしたい。
・今後、「倭国年号」を用いることとなれば、通説の倭国と九州の倭国、及び九州王朝と倭国との関係を第三者に分かり易く説明する必要が生ずる。即ち、会員には九州年号(九州王朝)を使用する会員と倭国年号(倭国王朝)を使用する会員が生ずる事が予想される。会員の歴史観に混乱が生ずると思われるがこれを是とされるのか。
・なぜ、この時期(古田氏が平成二十七年十月にご逝去されて一年余り)で「九州年号」から「倭国年号」へと、「古田史学の会」が変説したと受け取られかねない方針転換をされようとするのか。会員の中で充分に議論し、多くの会員が納得してから進めるべきものではないのか。
・「古田史学の会」以外の方々から、本会が「九州年号」の主張をあきらめたかのような誤解を受けなくなった時点で、変更を行うべきものと考えるが、いかがか。
・「古田史学の会」の代表として、今後、自著に「倭国年号」の語句を統一して記述されるのか。

 以上、「九州年号」と「倭国年号」について考えるところを述べさせていただいたが、古代逸年号(九州年号及び九州王朝以外で用いられたと思われる年号を含めた年号をいう。)について、年代記類八七本、個別の古代逸年号延べ約四六〇〇個(出典文献=延べ約八八〇件、平成二九年五月末現在)を採集したところ、論集第二十集の論考に大いに疑問があるので、次回からそれらの疑問点について述べていきたい。
 最後に、会員の皆様方にはご自身のご意見を、筆者のみならず本会事務局に対しても述べられることを願っております。  ―平成二九年六月二六日稿了―


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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