「壹」から始める古田史学十一
出雲王朝と宗像
古田史学の会事務局長 正木 裕
これまで倭国通史(私案)として、『記・紀』に盗用された九州王朝(倭国)の九州一円平定譚を述べてきました。今回は時代を遡って九州王朝に先行する「出雲王朝」と、先般世界遺産に登録される運びとなった「宗像むなかた」との関係について、少し詳しく述べたいと思います。
1、多元史観と出雲王朝
改めて言うまでもなく、古田武彦氏の学説は、
◆古代には列島各地に大王が存在した。そのなかで八世紀初頭「大和朝廷」にとってかわられるまで、彼らの「盟主(大倭王)」として我が国を代表したのは、中国史書で「倭国」として記される「九州王朝」だった。
という歴史観、「多元史観」です。
これは、戦前・戦中の「皇国史観」、即ち、我が国の始源から近畿天皇家が「万世一系」統治していたとする歴史観や、現代も通説的位置を占める、『記・紀』や海外史書に記す事績を、大和・近畿天皇家と関連付けて解釈しようとする「近畿天皇家一元史観」と対峙し、これらときっぱりと決別する歴史学・歴史認識なのです。
「博多湾岸邪馬壹国説」や「九州王朝説」はその柱ですが、同時に古田氏は『関東に大王あり』(二〇〇三年新泉社)、『真実の東北王朝』(一九九〇年駸々堂。二〇一二年ミネルヴァ書房で再刊)などの著作を通じ、わが国における様々な古代王権・王朝の存在をも明らかにされてきました。そして、『盗まれた神話』(一九九四年朝日新聞社。二〇一〇年ミネルヴァ書房再刊)で「我が国最古の王朝」としたのが「出雲王朝」でした。
同氏は『古事記』に、大国主を天照と同時期に位置付ける「出雲王朝の系図」が記されていることを見出し、「天照よりも、さらに古い神統譜をもって出雲の神々が先在していた(『盗まれた神話』)」ことを明らかにされています。
考えてみれば、天照らは大国主から「国譲り」によって蘆原中国(北部九州・博多湾岸~唐津湾岸)の支配権を獲得したのですから、これは当然のことと言えます。古田氏が「出雲王朝」の存在を唱えた当初には、学会では信じる者はいませんでしたが、荒神谷遺跡から列島で類を見ない量の銅矛・銅鐸が出土したことでその正しさが証明されました。これは出雲が、当時列島に存在した「銅矛を祭器とする権力」・「銅鐸を祭器とする権力」の両者からも尊敬を受け重視されていたことを示すものですが、同時に、大国主を「八千矛の神」と呼ぶ出雲神話が全くの架空、創作の産物ではなく、古代の事実の反映であることを明らかにするものでした。
2、出雲王朝の版図
『出雲風土記』によれば、出雲国の創成は、八束水臣津野命やつかみづおみのみことの「国引き」に始まるとされ、「綱」で引いてきた国(勢力下に入れた国)は「高志こしの都都つつの三埼みさき・志羅紀の三埼・北門きたどの佐技さきの国・北門の農波のなみの国」だとしています。
古田氏は、この神話に金属の武器が登場しないことから、これは「縄文」の勢力図だと時代を位置づけたうえで、西は新羅、東は高志(越)の都都(能登半島「珠州」付近)から引いてきたのに、通説が北門を出雲市鷺浦(佐技)や松江市野波(良波)などの「出雲内部」に求めるのはおかしいことを指摘し、「北門の国々」とは、縄文時代の出雲の権力の「源泉」である「隠岐の島の黒曜石」が出土する、ウラジオストックからムスタン岬にかけての沿海州だとされました。そしてこれは当時「環日本海文化圏」があり、出雲はその中心だったことを意味するでしょう。
『風土記』では、出雲の勢力範囲の「列島内での西限」がどこまでか書かれていませんが、古田氏は、『書紀』の記す天孫降臨に際しての邇邇芸命の行路に「背宍そじしの空国ぬなくにを頓丘ひたをから国覓くにまぎ行去とおり」とある空国を「宗像」だとされており、そうであれば宗像は「国譲り」で邇邇芸命らが手中に収めた出雲の勢力範囲だったことになります。
土笛(陶塤)が出土した遺跡の分布図
*福岡県宗像市郷土文化課・白木英敏氏による
3、出雲王朝の祭器「陶塤とうけん」と宗像の神
そして、これを「遺物」上証明するのが「陶塤とうけん」という土笛なのです。
陶塤とは「中国の祭器」に由来する卵型の楽器で、六つ程度の穴があり、上部の切り口を吹いて音を出すしかけです。我が国では西は北部九州宗像・山口県付近から、東は舞鶴付近にかけてのみ出土し、その中心が出雲(島根)で、全体の1/2を占めており(*最大の密集出土地は島根県松江市西川津)、これは陶塤が「出雲王朝の祭器」だったことを示しています(図参照)。
ここで注目されるのは、宗像の光岡長尾遺跡(宗像市光岡)からの陶塤出土です。『古事記』では大国主は妻求まぎに「倭国」に上がり、「宗像の奥津宮(沖ノ島)の多紀理毘売命たぎりひめ」を娶っています。通説は倭国を大和としますが、その結果宗像で妻をめとる、こんな変なことはありません。
大国主は「倭国」に上がる際「沖つ鳥 胸見る時(於岐都登理 牟那美流登岐)」と三回繰り返し歌います。「沖つ鳥」とは「奥津宮」の多紀理毘売を指しますから、最初から「筑紫に上る」つもりだったことになります。ここからも「倭国」とは筑紫を指し、「上る」とは対馬海流を「遡上る」意味だったことが分かるのです。婚姻関係記事は「勢力の版図」を示しますから、この「大国主の妻求譚」は、宗像地域と宗像奥津宮を祭る一族が出雲の勢力圏に入ったことを述べたものと考えられます。そして宗像からの陶塤の出土は、これを考古学的に実証するものと言えるでしょう。
4、出雲の№1の臣下だった「天照」の「国盗り」
『記紀』神話の「国譲り」では、古田氏は、「天照大神」の原型である対馬の阿麻氐留あまてる神社の祭神(*天日神命。『神名帳考證』に「阿麻氐留神是天日神命也」)が、神無月には「最後に」出雲に出かけ、「最初に」帰ったという現地伝承から、天照は出雲配下の№1だったとされました。
その天照は、国譲りのため出雲に天菩比ほひの神と天若日子を次々と派遣しますが、何れも大国主に媚こび附き(*服属し)帰らなかったため、ついに建御雷たけみかづちの神らを遣して支配権を割譲させました。「十掬とつかの剣を抜き、逆に浪の穗に刺し立て、剣の先に趺坐あぐらして」国譲りを迫ったというのですから、「武力脅迫」以外の何物でもありません。「国譲り」の実際は天照らによるクーデター、「国盗り」だったのです。
出雲側の交渉は、大国主の子の八重言代主ことしろぬしと建御名方たけみなかたの神に任せられましたが、八重言代主は、「諾・イエス」と言いつつも「船を蹈み傾け、天の逆手を青柴垣に打ち成して隱れ」ました。これは一種「入水自殺」のようですが、実際は「他殺」だったのかもしれません。
古代から「柴漬ふしづけ漁」という漁法があり、これは竹柴を束ね、「縄で縛った」ものに石重りを付け水底に沈め、魚・エビ等を集め捕獲するものです。これから類推すると、縄で「逆手=後ろ手」に縛り、重しを付けて船端から落とされた、つまり言代主が肯ぜなかったため殺され、承諾したことにされたとも考えられます。また、『古事記』では建御名方の神は武力抵抗を試み、敗北して屈服したとあり(*『書紀』にはありません)、これらのエピソードは出雲の支配権が強固なもので、抵抗も激しかったことを示しています。
建御名方神は大国主の皇子神とされますが、系図に名は無く母は不明です。ただ、北九州の「宗像」の多紀理毘売は大国主の妻ですから、建御名方はその子で、九州宗像の神(豪族)だった可能性があります。『古事記』では、建御名方神は「科野の国(長野)の州羽海(すわのうみ 諏訪湖)」に追われ、そこで屈服したと書かれています。しかし、銅矛勢力が筑紫侵攻(いわゆる「天孫降臨」)時に、九州から信濃まで侵攻したとは考えづらいことです。従って、実際は諏訪「湖」ではなく、宗像沖の響灘から関門海峡を越えた瀬戸内側まで追われ、山口県南東部の防州「周芳すわの『海』」(周防灘)で屈服し、蘆原中国の統治権を譲り渡したのではないでしょうか。そして「此の地を除おきては他処に行かじ」とは諏訪でなく宗像に逼塞し、かつ、天照らの支配に入ることを約したものかもしれません。
5、出雲の「禅譲」と「本領安堵」
陶塤の造られた年代は弥生前期の凡そ紀元前四〇〇~前二〇〇年頃に限定され、これは筑紫で鏡・玉・剣の「三種の神器」が現れるまでの時代です。
そして、出雲が中心の「陶塤」が『記紀』に記されないことは、兵庫~滋賀を中心に出土する「銅鐸」が記されないのと同様に、「前王朝・他王朝の祭器」だったことを意味するものでしょう。
逆に、出雲にあった「天叢雲剣」を須佐之男命が天神に献上したことが記されているのは、出雲から筑紫への「権力継承」を示すものと考えられます。
天照ら九州王朝の祖たる天孫族は、青銅の武器の力で「国譲り」を強要し降臨を果たしたのですが、出雲王朝や宗像の勢力は、「最後まで武力抵抗して滅ぼされる」という道は選ばず、形の上では「天の御巣」たる出雲大社に祭られること、大国主の系列だった宗像を天照の系列の神とし敬うことを条件に、蘆原中国の統治権を「禅譲」したことになります。そして、これにより「本領を安堵」され、その結果、九州王朝時代は勿論、大和朝廷の時代を経て今日まで信仰の対象として尊重されることになったといえるでしょう。
これを示すのが、宗像では沖ノ島に四世紀から九世紀まで続く祭祀遺跡であり、また、出雲では荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に埋葬された大量の銅剣・銅矛・銅鐸です。この矛と鐸は、出雲が「古き由緒ある王朝」としてその後も勢力を維持し、西の銅矛勢力と東の銅鐸勢力の調停者として敬われていたことを証するものといえます。
一方の九州王朝は「倭国」と称され、光武帝から金印を下賜された一世紀以来、中国の歴代王朝から我が国の主権者と認められてきましたが、七世紀白村江の大敗北を契機に勢力を失い、八世紀初頭には大和朝廷にとってかわられ、大和朝廷の史書(『日本書紀』等)では「なかったこと」にされてしまいました。
最近の出雲大社の宮司家の高円宮家との婚姻や、宗像沖つ宮(沖ノ島)と宗像一族の墓地とされる新原・奴山古墳群等の関連遺産群の世界遺産登録は、こうした二千年を遥かに隔てる、我が国の歴史における「因果の不思議さ」を痛感させてくれるのです。
*(参考)古田武彦『盗まれた神話』『古代の霧の中から』(一九八五年徳間書房。二〇一四年ミネルヴァ書房再刊)『古代史を疑う』(一九八五年駸々堂。二〇一年ミネ
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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