2018年2月13日

古田史学会報

144号

1,多元史観と『不改の常典』
 正木 裕

2,須恵器窯跡群の多元史観
大和朝廷一元史観への挑戦
 古賀達也

3,住吉神社は一大率であった
 原幸子

4,隋書俀国伝「犬を跨ぐ」について
 大原重雄

5,四国の高良神社
見えてきた大宝元年の神社再編
 別役政光

6,「壹」から始める古田史学十四
「倭国大乱」
范曄の『後漢書』と陳寿の『魏志倭人伝』
古田史学の会事務局長 正木裕

7,平成三〇年(二〇一八)新年のご挨拶
古田先生三回忌を終え、再加速の年に
古田史学の会・代表 古賀達也

 

古田史学会報一覧

「壹」から始める古田史学 I   II  III IV  VI(①) VII(②) VIII(③) IX(④) X(⑤)
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「壹」から始める古田史学十四

「倭国大乱」

范曄の『後漢書』と陳寿の『魏志倭人伝』

古田史学の会事務局長 正木裕

1、中国歴代史書を信用しない一元史観

 『三国志』魏書倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』の邪馬壹国への行程記事について、ヤマトの天皇家一元史観では、「南は東の誤り」「距離は何倍にも誇張されている」「壹は臺の誤り」などとし、原文を改定して邪馬壹国の位置を近畿ヤマトに持ってこようとしていることは、ご存知のことと思います。これは「『魏志倭人伝』などはいい加減な書物で信用できない」とする立場であり、古田武彦氏の「陳寿を信じ通し、原文を改定しない」という立場と対極をなすものです。
 また、『旧唐書』に倭国伝と日本国伝があり、二つは「別国」とする記事についても、「『旧唐書』は倭国と日本国が別とする不体裁な史書」とし、その内容を無視しています。

2、正確だった『後漢書』記事

 しかし、最近中国の史書がいかに正確に作られているかを証明する報道がありました。それは、二〇一七年十二月二十七日付けの朝日新聞夕刊に掲載された「モンゴル最古?漢文の銘文―匈奴遠征の詩「後漢書」と合致」という記事です。内容は鈴木宏節青山女子短大助教らがモンゴルドンドゴビ県のゴビ砂漠の岩山「エルゲン岸壁」の、高さ四、五ⅿ~三ⅿに刻まれた「フレンハイルハンの碑文」と呼ばれる二五二字(十四文字十八行)の漢字碑文を調査した結果、「封山刊石」や「王師征荒裔(こうえい、辺境の暴れ者)」などの銘文が『後漢書』の記事と合致することが分かったというものです。

 『後漢書』には、紀元八十九年に車騎將軍竇憲とうけんが現在のモンゴルに遠征し、北匈奴を破り、その功績を燕然山(モンゴル、ハンガイ山脈)に刻んだと記されています。
◆『後漢書』永元元年(八九)夏六月、車騎將軍竇憲とうけん、雞鹿塞けいろくさいを出、度遼將軍鄧鴻、稒陽塞こようさいを出、南單于滿夷谷を出て、北匈奴と稽落山(モンゴル、イフ、バヤン山)で戦い、大いにこれを破り、追いて和渠北鞮海に至る。竇憲、遂に燕然山に登り、石を刻し功を勒きざんで還る。

 とあります。そして、刻んだ文章についても、「遂封山刊石、昭銘上德。其辭曰」、「鑠王師兮征荒裔、勦凶虐兮 海外、敻其邈兮亙地界、封神丘兮建隆嵑、熙帝載兮振萬世。」と記されています。この文言がそのまま岩壁に残っていたわけで、今回の銘文の発見は、中国の古代史書の正確さを示すものといえるでしょう。
 『後漢書』は范曄が四三二年以降に記したもので、竇憲の遠征から三五〇年近く後の成立ですが、彼の匈奴遠征時の事績が詳細な文言までそのとおりに記されていました。まして、陳寿の『三国志』は俾弥呼の朝貢と同時代に記されたもので、かつ、「邪馬壹国へ遣使」された使者の「実見報告」に基づく記事ですから、『後漢書』以上に正確なものとなるのは当然だったのです。

3、「倭国大乱」は范曄が『魏志倭人伝』を「誤読」したもの

 ただ、極めて正しい記録を記した『後漢書』ですが、『後漢書』倭伝には、范曄が『魏志倭人伝』を「誤読」して書かれている箇所があります。それが人口に膾炙する「倭国大乱」記事です。
◆『後漢書』(卷八五、倭伝)「桓かん、霊の間、倭国大いに乱れ、更々こもごもあい攻伐し、歴年主無し。一女子有り、名を卑弥呼と曰う。年長ずれども嫁せず鬼神道に事つかへ以て能く衆を妖惑す。是において共立して王と為す」
 「桓、霊の間」とは後漢の桓帝(一四六~一六七)、霊帝(一六七~一八九)を指しますが、次の通り『倭人伝』にはこの句はありません。
◆『魏志倭人伝』「其の国、本亦男子を以て王と為し、住とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う」

 范曄は、男王の在位七、八十年を倭国が乱れた期間と考え、その末期の「歴年」に「相攻伐」し「主」も不在となった結果、俾弥呼が共立されたと解釈し、七、八十年間の騒乱だから「大乱」と記したのです。つまり、范曄は俾弥呼が共立される原因となった「相攻伐」の七、八十年前ころ「大乱」が始まったと考えのです。俾弥呼の遣使は二三八年で、ここから、「相攻伐する無主の歴年(十年程度。註1)」を「七、八十年」に加えた「八、九十年」を引けば一四〇~一五〇年となり、桓帝の即位の一四六年と合うのです。こうした「計算」から范曄は、『魏志倭人伝』に無い「『桓、霊の間』、倭国『大いに』乱れ、更々相攻伐し、歴年『主無し』」との『 』内の語句を加えたのです。
 しかし、「住とどまる」との表現は男王の「在位期間」の表現に相応しく、また、「住七、八十年」と「相攻伐歴年」は次のように「対句」となっていることから、七、八十年は男王の在位期間で、相攻伐期間が「歴年」であることが分かります。つまり七、八十年と倭国の乱は無関係だったのです。
➀男子為王、住七、八十年
➁倭国乱、相攻伐歴年

 結局、七、八十年(「二倍年暦」で三十五~四十年)在位した男王の末期に七~八年ほどの騒乱がおき、俾弥呼が共立され、二三八年に魏に遣使したことになります。このことを明らかにされたのが古田武彦氏でした。(註2)

4、東アジアの政治状況を反映した俾弥呼の共立記事

 中国では漢が二二〇年に滅亡し曹丕が皇帝に即位、二二一年に蜀の劉備が、二二九年には呉の孫権も皇帝を称し、まさに「相攻伐」する状況となりました。特に孫権は、即位後扶南(カンボジア)、林邑(南ベトナム)、堂明(タイからラオス)を支配下におさめ、二三〇年には夷洲(琉球、沖縄)遠征を命じ、男女数千人を捕虜とし、二三二年には楽浪を押さえていた公孫淵にも使者を送っています。倭国は、南は呉、北は公孫氏に挟まれる、四面楚歌的状況に陥りました。「倭国の騒乱」とは、危機の中でどちらに臣従するかという選択を巡る倭国内の争いだったと考えられるのです。

 『後漢書』に記す漢代の竇憲遠征記事は極めて正確でしたが、『魏志倭人伝』記事に范曄が「付加」した部分は、范曄の誤読、誤った解釈によるものでした。この結果今日まで「倭国大乱」が「古代史の大きな謎」などとされ、議論の百出するところとなったのです。
 これに対し、古田氏の解釈に基づけば、『後漢書』の「倭国大乱」は范曄の描いた「まぼろし」であり、『魏志倭人伝』の俾弥呼共立記事は、当時の東アジアの政治状況を見事に反映する記事だったことがわかるのです。

(註1)「歴年」とは古田氏による中国史書の用例分析から「十年未満(七~八年)」にあたると考えられます。

(註2)「倭国大乱」については古田武彦『邪馬壹国への道標』(角川書店一九八二年。二〇一六年に古田武彦古代史コレクションとしてミネルヴァ書房から復刊されている)の「まぼろしの倭国大乱―『三国志』と『後漢書』の間」に詳しく述べられています。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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