井上信正さんへの三つの質問 (会報142号)
律令制の都「前期難波宮」
(会報145号)
滋賀県出土法隆寺式瓦の予察(会報149号)
須恵器窯跡群の多元史観
大和朝廷一元史観への挑戦
京都市 古賀達也
一、三大須恵器窯跡群の王権
このところ太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸うしくび須恵器窯跡群(大野城市・他)に興味を持って、須恵器窯跡群について勉強を続けています。古代において代表的で最大規模の須恵器窯跡群として堺市の陶邑窯跡群は有名ですが、それに次いで規模が大きいのが愛知県名古屋市の猿投山さなげやまと牛頸うしくびの須恵器窯跡群とされています。これらは三大須恵器窯跡群遺跡とも称されており、古代(古墳時代~)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させます。
とりわけ陶邑窯跡群は近畿の巨大古墳群を造営した権力者に須恵器を供給していたのですが、このことが大和朝廷一元史観の考古学的根拠の一つとなっています。さらに一元史観によれば陶邑窯跡群から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようです。その上で、陶邑窯跡群出土須恵器の編年がそのまま各地域の須恵器編年に援用されています。
九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したと考えたいところです。規模も北部九州の窯跡群が最大規模であってほしいところですが、現在の発掘結果では堺市等の陶邑窯跡群が最大です。
九州王朝や近畿天皇家の中枢領域にそれぞれ巨大窯跡群が存在することを考えると、東海の猿投山窯跡群にも対応すべき九州王朝や近畿天皇家に匹敵する権力者がいたと考える必要がありそうです。
二、国内最古の須恵器生産地
一元史観によれば畿内の陶邑窯跡群(堺市・他)から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようですが、須恵器の勉強を続けていると面白い事実を発見しました。それは国内最古の須恵器生産地は九州の窯跡のようなのです。
九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したのではないかと考えられ、初期の須恵器窯跡遺跡について文献調査したところ、次のような記述がありました。
「北九州地域では、初期須恵器か陶質土器かで議論を呼んでいた古寺・池の上墳墓群(朝倉市〓古賀注)出土の遺物がまず注目される。初期須恵器と陶質土器(朝鮮半島産の土器〓古賀注)が混在する状況があり、その評価をめぐって見解が分かれていた。すなわち舶載の可能性を含めたものと、すべて国産とするものであり、後者は、さらにその前後関係をも問題にしている。
しかし、これらの遺物のうち、陶質土器は、近接して所在する小隈・山隈・八並窯跡群で生産されたものと考えられるにいたり、やがて、この点の決着もつくものと期待されている。
またこのほか、筑紫野市内でも窯跡が相次いで見つかっている。これらから、従来の初期須恵器あるいは陶質土器の産地および流通などに関して再検討が必要となってきている。
したがってこの点、結論を出すには早計であるが、九州地域の初期須恵器あるいは陶質土器の流通は、必ずしも畿内とのかかわりを考慮しないで考えるほうがよいかもしれない。今後は、当該地域における生産活動が、いったいいつ畿内の体制に組み込まれるのか、あるいは、組み込まれないのかなど問題が発展していくものと考えられる。」中村浩『須恵器』三四~三五頁(一九九〇年、柏書房)
北部九州の朝倉市の初期須恵器窯跡群が畿内の陶邑窯跡群とは無関係に成立していたと考えたほうがよいとする記述ですが、いまひとつ何が言いたいのか素人にはよくわかりません。そこで、更に文献調査したところ、次の記述を見つけました。
「ところで、福岡県小隈窯跡については、最近の調査によって『窯跡の範囲を把むことができ、その数は、さらに数基に及ぶことが想定』されるにいたっている。また灰原から池の上Ⅱ、Ⅲに相当する遺物が『灰原から一括遺物として取り上げ』られている。従来これらの遺物は、陶質土器と呼称されており、国産品であることが明らかとなった上は、報告者が『これらの遺物を須恵器として報告』したことに賛意を表する。
さらにこれらの製品が供給されていたと見られる古寺・池の上墳墓群の調査報告から判断すると、この確認によって当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている。しかし当該墳墓群出土遺物についても必ずしも一致しておらず、問題を残している。」中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』六七~六九頁(一九九三年、柏書房)
須恵器研究の第一人者である中村浩さんによる、朝倉市出土の「当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている」という指摘は貴重です。朝鮮半島からもたらされた須恵器生産技術が距離的に近い北部九州でまず受容されるのは、多元史観・一元史観を問わず普通に納得できることですが、それでも一元史観の論者には「不都合な真実」かもしれません。ご紹介した両書は今から二〇年ほど前の発行ですから、引き続き最新情報についても調査と勉強を進めます。
三、日本古代史の「岩盤規制」
須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島の陶質土器がもたらされ、その製造技術や工人が渡来し初期須恵器が国内各地で造られたと考えられています。そしてその初期須恵器が最初に造られたのが福岡県の小隈窯跡とする見解があることを紹介しました。
従来は堺市の陶邑窯跡群が国内最古とされてきましたが、さすがに朝鮮半島から瀬戸内海を通過して、その間の他地域には目もくれず一直線に畿内に向かい、陶邑窯跡群が造営されたとするのは言いにくくなったようです。しかし強固な一元史観論者からは様々な解釈(いいわけ)が試みられているようです。いわく、「中央政権(大和朝廷)と朝鮮半島諸国の太いパイプにより、直接的に陶邑に須恵器製造技術がもたらされた」というような解釈です。ものは言いようと、わたしは感じました。その一例を紹介します。
「地理的要因とは別に、こうした生産工人集団は東をめざし、大阪湾に直進している。そして生産を開始した。この事実は、北部九州のあり方とは基本的に異なる。瀬戸内海の東端を目的地として目指したのであり、不目的な漂流の結果ではない。恐らく、中央政権ないしは関連する中央豪族と深く関係していたことは、先学の説くところであり、そのあり方は、陶邑窯における後の展開に大きく現れてくる。」(二二六頁)
「窯成立のルートとして、北部九州→三谷三郎池西岸窯→吹田三二号窯→陶邑窯・一須賀二号窯と藤原氏は描くが、筆者は前述したように、第一に朝鮮半島→陶邑窯の太いルートを前提として考えたい。その過程で三谷三郎池西岸窯・吹田三二号窯・一須賀二号窯への同時到着、あるいは折り返しを想定する。もちろん漂着等による偶発的な開窯も否定できないが、各港々にそうした偶然は不自然である。」(二二七頁)
植野浩三「日本における初期須恵器生産の開始と展開」『奈良大学紀要』第二一号(一九九三年)
こうした植野さんの理解は、わたしたち多元史観・九州王朝説論者からは強引な解釈と見えますが、現在の古代史学界の通説“大和朝廷一元史観”に従えばこのように解釈せざるを得ず、考古学者の植野さん一人を責めるのは酷のようにも思えます。大和朝廷一元史観という日本古代史学界の「岩盤規制」を打ち破ることは、古田学派にしか成し遂げられない歴史的使命だとわたしは考えています。
四、東北最古の須恵器窯跡
朝鮮半島から陶質土器がもたらされ、初期須恵器が国内各地で造られたました。その初期須恵器窯跡の分布を見て、不思議なことに気づきました。初期須恵器窯は福岡県朝倉を筆頭に大阪府の陶邑窯や吹田窯、そして名古屋の東山窯など西日本に主に分布しているのですが、東日本には関東を飛び越えて仙台の大蓮寺窯が発見されています。これは実に不思議な分布状況ではないでしょうか。
この大蓮寺窯跡は東北地方最古の須恵器窯跡とされ、古墳時代中期中頃(五世紀中頃)と編年されています。今後は関東からも初期須恵器窯跡が発見されるかもしれませんが、大蓮寺窯跡は陶邑窯跡の流れとする説や朝鮮半島から直接この地にもたらされた可能性を指摘する説があります。いずれにしても、大和朝廷一元史観による従来の解釈、すなわち陶邑に伝わった須恵器製造技術が日本各地に伝播したとする一元説では説明しにくく、多元的に国内各地に初期須恵器窯が成立したとする理解が有力説として登場しているようです。
しかし、わたしの目から見るとこの初期須恵器窯多元説でも、なぜ東北地方の仙台にいち早く伝わったのかという説明がなされておらず、大和朝廷一元史観に基づく解釈を常とする考古学界の限界を感じます。古田史学・多元史観によりこの分布状況を解釈すれば、古墳時代中期において列島各地に多元的に王朝・王権が存在しており、まず九州王朝に伝わった須恵器製造技術が各地の王権に伝播したと理解するのが穏当と思われます。そのように考えると、近畿の王権(近畿天皇家あるいは冨川ケイ子さんが提唱された「河内王朝」)へ伝わったのが陶邑窯跡群であり、蝦夷国に伝わったのが仙台市の大蓮寺窯跡ではないでしょうか。
この考えを更に敷衍すると、その論理展開として埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘等に代表される関東王朝の地からも初期須恵器窯跡が発見されるのではないかと考えています。すなわち初期須恵器窯多元説とは多元史観(多元的王朝の成立)を前提とした考古学的理解なのです。
五、蝦夷国の初期須恵器釜
初期須恵器窯跡の分布から判断して、東北の仙台市にある大蓮寺窯跡を蝦夷国の中枢領域への須恵器供給のためのものと推定していますが、同地域に東北地方最大の前方後円墳があることも何か関係がありそうです。
東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡は、古墳時代中期中頃(五世紀中頃)と編年されていますが、それよりも半世紀ほど前に仙台市内最大の前方後円墳である遠見塚古墳(墳丘長百十m、四世紀末~五世紀初頭)が築造されていますし、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長百六十八m、四世紀末~五世紀初頭)もあります。このことから仙台平野や名取平野が古墳時代において、東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。
一元史観ではこのことをもって、大和朝廷の影響がこの時期に仙台地方まで及んでいた根拠としますが、古田史学・多元史観から考えると、九州王朝の影響が直接的あるいは間接的に当地に及んだということになります。とすれば、蝦夷国が初期須恵器や前方後円墳などの墓制を受容したか、九州王朝系勢力が当地にまで進出していたということになりそうです。そうすると、蝦夷国の位置づけや印象が大きく変化するのではないでしょうか。
六、須恵器窯跡の多元史観
日本国内最大規模である堺市の陶邑窯跡群は当地の巨大前方後円墳群とともに、大和朝廷一元史観を証明する不動の考古学的事実とされ、そこでの須恵器編年は全国の遺跡の土器編年の基準尺とされてきまた。それに対しての、多元史観・古田学派による本格的で総合的な研究や批判はまだ試みられていません。
今回、初期須恵器窯跡群の既存研究を精査したところ、大和朝廷一元史観では説明困難な事実が内包されていることがわかりました。古田学派による須恵器窯跡群や須恵器編年の本格的な検証はこれからの課題ですが、本稿がその契機となれば幸いです。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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