2018年6月11日

古田史学会報

146号

1,訃報!竹田覚氏ご逝去
 合田洋一

2,九州王朝の都市計画
 前期難波宮と難波大道
 古賀達也

3,よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)
 正木裕

4,実在した土佐の九州年号
小村神社の鎮座は「勝照二年」
 別役政光

5,書評
『発見された倭京 太宰府都城と官道』
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学十五
 俾弥呼・壹與と倭の五王を繋ぐもの
古田史学の会事務局長 正木裕

7,コンピラさんと豊玉姫
 西村秀己

 

 

古田史学会報一覧

「壹」から始める古田史学 I   II  III IV  VI(①) VII(②) VIII(③) IX(④) X(⑤)
 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三

九州王朝(倭国)の四世紀 -- 六世紀初頭にかけての半島進出 正木裕(会報143号)

盗まれた天皇陵 服部静尚(会報138号)
誉田山古墳の史料批判 谷本茂 (会報153号)
河内巨大古墳造営者の論点整理 倭国時代の近畿天皇家の地位を巡って 日野智貴 (会報153号)

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都 古賀達也(新古代学第4集)


「壹」から始める古田史学十五

俾弥呼・壹與と倭の五王を繋ぐもの

 

古田史学の会事務局長 正木 裕

 ここまで、数回にわたって邪馬壹国と俾弥呼について、当時の東アジア全体の政治状況の中で考えれば、景初二年(二三八)六月の朝貢や拘奴国との抗争、「倭国の乱」の背景がよく理解できること、そして「博多湾岸なる邪馬壹国とその女王俾弥呼」の存在が確かなものとなることを述べました。
 一方、『宋書』等に見える五世紀の「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」について、古田氏は、高句麗好太王碑文の分析や、『日本書紀』に名が見えず、かつ近畿天皇家の天皇と続き柄や在位年数が合わないことなどから倭国(九州王朝)の王たちであるとされました。それでは三世紀俾弥呼・壹與と五世紀の「倭の五王」の間の九州王朝の王たちの事績はどこに・どのように記されているのでしょうか。

 

1、「倭王武の上表文」は倭国(九州王朝)の半島進出の歴史を語る

 そうした歴代の倭国(九州王朝)の王が半島に進出していった「歴史」を記すのが、『宋書』の「倭王武の上表文」(四七八年)だったのです。
◆『宋書』(倭国伝)「順帝の昇明二年(四七八)に、使を遣し上表して曰く、「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬みずから甲冑を環つらぬき、山川を跋渉ばっしょうし、寧処に遑いとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓ひらき、畿を遐はるかにす。」
 武王の上表には、「自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称す」とありますから、半島で「平らげ」た「百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」内の小国数が九十五国ということになるでしょう。
 そして、『魏志』東夷伝にある、「馬韓五十餘国・辰韓十二国・弁辰亦十二国(韓地)」及び半島最南部の「倭地」と考えられる狗邪韓国ほかの諸国(韓は「南は倭と接す」とある)、「神功皇后紀(神功紀)」に征服記事のある新羅との境界の七か国(後述)、「応神紀」に百済から奪うとある枕彌多禮とむたれなどを加えれば、おおよそ近い数字になることから、この上表文は、「三世紀俾弥呼の時代から五世紀末の武王までの歴代の倭王の半島征服の経緯」を記したものといえます。
 さらに、「仁徳紀」には百済の「國郡くにこほりの彊(さかひ 原文は土篇)場を分わかちて、具つぶさに郷土所出くにつものを録しるす」とあり、「郷土所出」とは「税」のことですから、百済の一部地域を事実上支配したことになります。
 そして近年韓国の旧百済地域で、「武王」の時代である五世紀末に造られた、「九州様式で九州と共通する副葬品を伴った前方後円墳」が多数発見されており、こうした「歴代の倭王」たちが九州王朝の王であることを示しているのです。

 

2、「神功皇后紀」は四世紀の九州王朝の女王の事績を語る

 先に「神功紀」や「応神・仁徳紀」の半島征服譚は倭王の事績だと述べましたが、実は三世紀の俾弥呼・壹與と五世紀の「倭の五王」を繋ぐ「四世紀の九州王朝の女王」の事績を記すのが「神功紀」だったのです。(注1)
 「神功紀」では神功三九年(二三九)、四〇年(二四〇)、四三年(二四三)に「魏志に云はく」とし、六六年(二六六)に「晋の起居の注に云はく」として「倭の女王」の朝貢を記しています。これは神功紀の紀年を俾弥呼・壹與の朝貢に合わせ、神功と俾弥呼・壹予が「同一人物」であるかのように装ったものです。
 そして、『書紀』で半島勢力との抗争は「神功紀」に始まります。先述の通り『書紀』神功四九年(二四九)に、神功が新羅を討伐、加羅諸国と堺をなす七か国を平定し、領土を百済に授けた記事があります。
◆『書紀』「(神功)四九年(二四九)春三月に、荒田別・鹿我別を以て将軍とす。則ち与久?等と共に兵を勒ととのへて度りて、卓淳国に至りて、将に新羅を襲はむとす(略)即ち木羅斤資もうらこんし・沙沙奴跪ささなこ(略)に命して、精兵を領ひきゐて、沙白・蓋盧かむろと共に遣しつ。倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破りつ。因りて、比自火+本ひしほ・南加羅ありしひのから・喙とく国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定ことむく。
 五〇年(二五〇)(略)海西の諸の韓国を、既に汝が国(百済)に賜ひつ。」
 史料上百済の出現は、『晋書』の咸安二年(三七二)正月、近肖古王(即位三四六)の東晋への朝貢記事が初。また、新羅の初見は『秦書』で、前秦の世祖宣昭帝の建元一三年(三七七)、新羅国王楼寒(奈勿麻立干なこつまりかん。即位三五六)の前秦への朝貢記事ですから、こうした記事は二四九年・二五〇年の事実ではありえません。
 そして、『三国史記』と『書紀』神功紀の近肖古王と近仇首王の崩御記事の年代のずれ(注2)などから、この記事は「二運(同じ干支の二回り)で一二〇年」繰り上がっており、七国平定の実年は三六九年・諸韓国の譲与は三七〇年のことと考えられます。
 「諸の韓の国を既に百済に賜う」とあるのですから、百済王は大いに感謝し、これを契機に百済と倭国の盟約(辟支山へきさんの盟約)が結ばれます。三六九年に百済は高句麗から侵略を受けますが、倭国との同盟を背景に、雉壌ちじょうの戦いでこれを破り、逆に高句麗への反攻を強め、近肖古王二六年(三七一)(『三国史記』)には高句麗の故国原王ここくげんおうを平壌城に攻め敗死させています。

 

3、「七枝刀」が明らかにする四世紀の倭王

 奈良県天理市の石上神宮には泰和四年(三六九)に「為倭王旨造」等の銘がある「七枝刀」が伝わっており、古田武彦氏は、この銘文は刀が百済王から倭王「旨」に贈られたことを示し、「倭王旨」とは「俾弥呼・壹與と倭讃との中間に在位した倭王の名にほかならぬ」とされました(『失われた九州王朝』)。
◆(表)泰(和)四年(三六九)五月一六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供(侯)王。
(裏)先世以来未有此刀百済(王)世□奇生聖音故為倭王旨造(傳示後)世 

 泰和四年(三六九)は加羅等「七か国」平定年と一致しますから、この刀は七ヶ国平定と領土の礼の為に造られたものと考えられるでしょう。そして「神功紀」では、七支刀は百済肖古王より神功五二年(二五二)に献上されたと書かれています。
◆『書紀』「神功五二年(二五二)九月丙子(十日)(略)(百済肖古王)七支刀一口、七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。」
 この記事の実年も、「二運・一二〇年」繰り上げられた三七二年で、対高句麗戦勝利後に贈られたものとなるでしょう。

 結局、『書紀』神功紀の七支刀をはじめとする新羅・百済関係記事の実年代は、四世紀半ばから後半のことだったのです。そして俾弥呼・壹與と共に神功皇后に擬せられていることから、「倭王旨」は女帝だった可能性が高いと思われます。

 

4、新羅討伐を行った九州王朝の女王は「高良玉垂命」

 ここで注目されるのが、筑後久留米市御井町の高良大社の祭神「高良玉垂命」です。高良大社は古くは「高良玉垂命神社」と呼ばれ、玉垂命は新羅の筑紫侵攻を神功皇后が追い返した際に出現したと伝えられています(高良大社御由緒)。また、『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように玉垂命は女性で、いわば女王とされていることも神功皇后と同じです。
 古賀達也氏によれば(注3)、久留米大善寺玉垂宮の由緒書では、高良玉垂命(初代)が仁徳五五年(三六七)に筑後川河口の三潴みづまに遷り、同五六年(三六八)に賊徒を退治。同五七年(三六九)に高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七八年(三九〇)この地で没したとされています。遷都し宮を造営したのは三六九年で、七支刀銘文と同年です。そして、高良山近くの筑後みやま市「こうやの宮」(磯上物部神社)には各国からの使節と思しき人形が祀られ、その中に七支刀を持つ人形も伝世しています。(注4)
 俾弥呼・壹與の邪馬壹国は博多湾岸に中心がありました。三潴に遷った三六九年は神功四七年(二四九年、実年で三六九年)にあたり、『書紀』には百済と約し新羅と戦端を開く記事があります。新羅との開戦に際し戦場から離れた有明海沿岸へ遷都したというのはよく理解できます。こうやの宮の人形たちは遷都と祝勝記念に訪れた各国の使節を模ったものかもしれません。

 

5、俾弥呼・壹與と「真の倭の五王」を繋ぐ九州王朝の女王高良玉垂命

 そして、神功の没年は「神功紀」で二六九年、実年で三八九年。玉垂命の没年は由緒書で三九〇年と一年違いますが、神功の次代で「筑紫で生まれた」とされる応神天皇の即位年(二七〇年・実年三九〇年)と合致します。
◆『書紀』「神功六九年(己丑二六九・実年三八九)四月丁丑(十七日)皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。〈時に年百歳。〉」(*「二倍年暦」で実際は五〇歳)

 高良玉垂命には「九体の皇子」がおり、『高良社大祝旧記抜書』では長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、次男の子孫が累代筑紫を守護したとあります。
 「倭の五王」でも「兄の讃」の後を「弟の珍」が継ぎ、その系列が累代王を継いでおり、玉垂命の継承順位と一致します。
◎倭の五王・「讃」—弟「珍」—息子「済」—息子「興」—弟「武」
 そして、三九〇年に没した玉垂命の後を継いだ斯礼賀志命の時代は「讃」と一致します。
◆『梁書』諸夷伝「晋安帝の時(三九六〜四一八)倭王賛有り。」

 韓国で発見された九州様式の前方後円墳や副葬品は、旧百済地域に進出していた「倭の五王」が九州の勢力だったことを示していました。四世紀に新羅と戦ったのは、『書紀』で神功皇后に擬せられた九州王朝の女王高良玉垂命であり、彼女の子孫こそ、累代筑紫を守護し、半島で新羅・百済・高句麗と覇を競った「真の倭の五王」たる累代の九州王朝の王だったのです。
 近畿天皇家には、九州王朝と異なりこうした女王がいませんでした。そこで「神功皇后」を「創作」し、「神功紀」に卑弥呼・壹與の記事は「実年」で、四世紀の高良玉垂命の事績は「二運一二〇年繰り上げる」ことで、彼女たち「九州王朝の女王」の事績を盗用しました。そして玉垂命を継ぐ九州王朝の「真の倭の五王—讃、珍、済、興、武」を応神以下の近畿天皇家の天皇だったように見せたのでした。
 三世紀の卑弥呼・壹與と四世紀の高良玉垂命を、神功皇后に「擬制」された九州王朝の女王だと理解することで、五世紀の「倭の五王」と連続し、九州王朝の統治が、三世紀から五世紀末まで途切れることなく続いていたことがわかるのです。

 

(注1)『魏志倭人伝』で俾弥呼は景初二年(二三八)と正始四年(二四三)に朝貢、『晋書』と『日本書紀』で壹與は泰始二年(二六六)に朝貢。『宋書』で「倭讃」は永初二年(四二一)に朝貢。

(注2)肖古王薨去記事・貴須王薨・枕流王即位記事は『書紀』と『三国史記』では一二〇年ずれている。
◆『書紀』「神功五五年(乙亥二五五)。百済の肖古王薨りぬ。」
◎『三国史記』「近肖古王三〇年(乙亥三七五)冬十一月王薨りぬ。」
◆ 『書紀』「神功六四年(甲申二六四)。百済の貴須王薨りぬ。王子枕流王、立ちて王と為る。」
◎『三国史記』「近仇首王一〇年(甲申三八四)夏四月、王薨りぬ。枕流王元年(三八四)継父即位す。」

(注3)古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 -- 高良玉垂命考」(『新・古代学』第四集。一九九九年、新泉社)以下、玉垂命の伝承についてはこれによる。

(注4)『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』(新泉社 古田武彦編)
(参考)古田武彦『失われた九州王朝』『古代は輝いていたⅡ -- 日本列島の大王たち』『邪馬一国の証明』『古代史六〇の証言 -- 金印から吉野ケ里まで、九州の真実』ほか


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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