よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)
川西市 正木 裕
1、「倭姫王」と近江遷都
前号では、『書紀』に天智の皇后となり、天武(大海人)から天皇即位を勧められたと書かれている「倭姫王」は、薩摩『開聞古事縁起』に記す「大宮姫」と同一人物で、九州王朝の姫だったと推測されることを述べた。それではなぜ、どのような経過で九州王朝の姫が天智の皇后になったと考えられるのだろうか。そこには九州王朝による「近江遷都」が深くかかわってくる。
2、疑わしい「天智による近江遷都」
『日本書紀』では天智六年(六六七)三月に「都を近江に遷す」とあり、その宮殿である「近江大津宮(「水海大津宮」とも)」の内裏正殿跡と考えられる遺跡が、滋賀県大津市錦織で発掘されている。
そして従来の定説では、近畿天皇家の天智天皇が飛鳥から近江に遷都し、近江大津宮を建てた、これが「近江朝廷」だとされている。
◆(天智)六年(六六七)三月己卯(十九日)に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓遷都することを願はずして、諷そへ諫あざむく者多し。童謡わざうた亦衆おほし。日々夜々、失火の處多し。
岩波の古典文学大系『日本書紀』補注では、天智六年の遷都理由を「飛鳥の旧勢力を避け人心を一新するというのが定説で、他に水陸の交通の便が良いからとか、新羅からの防衛のため等という見解がある」とする。
しかし、天智六年に「飛鳥の旧勢力」との紛争があったなどという史料はどこにも見えないし、「交通の便」は遷都場所の選定理由であっても「遷都理由」とはならない。新羅が攻撃するのが大和の政権なら、日本海沿いに若狭から攻め入る可能性も高く、まだ奈良盆地の方が防衛しやすいはずで、飛鳥から近江への遷都に「対新羅防衛」効果があるとは思えない。
また、「諷そへ諫あざむく」とは流言飛語の意味で、「日々夜々、失火の處多し」とは民衆が恐慌に陥ったことを示しているが、飛鳥から近江という近距離で、しかも平和裏の遷都への反応としては極端過ぎよう。
3、『海東諸国紀』に記す白鳳元年の近江遷都
一方、『海東諸国紀』(申叔舟著。一四七一年)では、斉明七年(六六一年・九州年号「白鳳元年」)に白鳳改元と近江遷都の記事がある。
◆(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。
九州年号の改元と近江遷都が軌を一にするなら、遷都は九州王朝の事績となる。但し、ここでは『書紀』や『海東諸国紀』の「都を遷す」との記述に倣い「近江遷都」という用語を用いるが、「都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ」との「副都詔」からすれば「近江副都の造営」というべきだろう。そして、「筑紫から近江へ」の遷都は対唐・新羅戦への備えとして大きな意味を持つのは明らかだ。
斉明六年に唐・新羅連合による攻撃で、百済王都の泗?城・熊津城は陥落、百済王以下の王族は悉く捕虜となり百済は滅亡している。
◆『書紀』(斉明)六年(六六〇)九月癸卯(五日)に、百済、達率闕沙彌覺從等を遣して、來て奏して曰はく(略)「今年七月に、新羅力を恃たのみ勢を作して、隣に親むつびず。唐人を引搆ゐあはせて、百済を傾かたぶけ覆す。君臣總みな俘とりこにして、略ほぼ?類のこれるもの無し。
従って、唐・新羅連合がその余勢を駆って、百済の同盟国であった倭国(九州王朝)の本拠「筑紫」に侵してくることは十分に予想できる。その場合、近江に遷都していたなら、筑紫の防衛線を突破されても、次は瀬戸内海での水軍による抵抗、さらに難波宮を防波堤にした抵抗と、「三段構え」の防衛線が構築できる。「飛鳥から近江」と違い、九州王朝が近江に副都を設け拠点を遷すのは「対唐・新羅防衛」上十分な意義を持つのだ。
ただ、王と官僚や軍が近江に去ったなら、筑紫の民衆にとっては、戦争を前に「見捨てられた」ことになり、「恐慌に陥る」のもよく理解できよう。徳川慶喜が薩長の侵攻を前に、密に大坂城を脱出したようなものだ。「失火」とあるが事実上は「火つけ強盗」の類が頻発したのではないか。
4、九州年号の改元と九州王朝の宮の造営(遷都)
ちなみに、九州年号の改元と宮の造営(遷都)は密接に関係している。
前期難波宮の完成は九州年号白雉元年(六五二)だ。
◆『書紀』白雉三年(六五二年・九州年号白雉元年)秋九月に、宮造ること已すでに訖をはりぬ。其の宮殿おほとのの状かたち、殫ことごとくに論いふべからず。
また、朱鳥元年(六八六)一月には難波宮が焼失し、七月二〇日に「朱鳥」と改元されている。
◆朱鳥元年(六八六)正月乙卯(十四日)の酉の時に、難波の大蔵省に失火みづながれして、宮室おほみや悉ことごとくに焚やけぬ。(略)
秋七月戊午(二〇日)に、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此をば阿訶美苔利と伝ふ。〉仍よりて宮を号なづけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。(注1)
さらに、九州年号「大化元年」は持統九年(六九五)で、その前年末、持統八年(六九四)十二月に藤原宮への「遷居」記事がある。(注2)
◆(持統)八年(六九四)十二月庚戌朔乙卯(六日)藤原宮に遷うつり居おはします。戊午(九日)百官拝朝みかどをがみす。
これから見ても『海東諸国紀』に記す「近江遷都」は白鳳元年の九州王朝の事績だと考えられる。ただし、発掘された近江大津の宮の構造は、前期難波宮と共通するところが多いが、規模は小さく、難波宮に次いで「両参造らむ」とされた「陪都」(天子が常駐する『京』以外に設けられた都)と位置付けられよう。「陪都制」では、王や重臣は情勢に応じて陪都に居を遷し(遷居)、王が不在の間は代理として王族や有力臣下が「留守官」に任ぜられていた。
そして、先述の「三段構えの防衛線」を想定すれば、戦時には九州王朝の王族や諸大臣は、筑紫・難波に留守官や軍事・外交上必要な官僚・要員を配置したうえで、難波から更に奥地の近江宮に遷居していたことが考えられる。
これは「壬申の乱」の記事中の天武の言葉でわかる。
◆(天武)元年(六七二)六月。天皇、高市皇子に謂ひて曰く、「其れ近江朝には左右大臣、及び智謀かしこき群臣、共に議を定む、今朕、与ともに事を計る者無し。」
5、近江に残る九州王朝の王族と官僚の遷居伝承
そうした「筑紫から近江への王族や臣下の遷居」を示す伝承として、『扶桑略記』に引用する『天満天神託宣記』に、近江国比良宮の禰宜の童の神託において、天神が筑紫から近江に来た時に、「佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡」等の物具も持ってきたと記されている。
◆『扶桑略記』第二五(村上天皇)天暦九年(九五五)三月十二日(注3)。酉時。天満天神託宣記に云ふ。近江國比良宮にして禰宜神良種が男太郎丸。年七歳なる童に託して宣く、(略)「我が物具どもは此に来住せし始め皆置けり。佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡なども有り。我が從者に老松・富部と云ふ者二人有り。笏は老松に持たせ、佛舍利は富部に持しめたり。是皆筑紫より我が共に來れる者どもなり。」
「玉・剣・鏡」は三種の神器で、天子の象徴・宝物だ。近江国比良宮とは白鳳二年(六六二)に天智が比良明神号を授けたという白鬚神社(滋賀県高島市鵜川)とされているから、『託宣記』によれば、白鳳元年の近江遷都に伴い、重臣が筑紫から近江に遷り、「三種の神器」も筑紫から近江に齎されたことになる。
また、唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)の社伝でも、天智天皇が白鳳二年(六六二)三月同地に臨幸とあるが、天智が、九州年号白鳳二年にあたる天智元年(六六二)に近江に遷った史料は無い。従って、これらの伝承は「白鳳元年(六六一)の九州王朝の王族や重臣の筑紫から近江への遷居」を反映していると考えられる。そして、「倭姫王」が九州王朝の姫なら、当然近江に遷っていたことになろう。
6、倭国王薩夜麻の無謀な出兵と大敗北
白鳳改元(六六一)以前の九州王朝は、百済滅亡時(六六〇)も、百済救済のため海外(半島)に派兵することはなく(注4)、筑紫大野城・基肄城等の築造や「避難地」たる近江宮の造営など防衛施設整備に力を注いでいた。しかし、百済滅亡後、劣勢が明らかになったにもかかわらず、白鳳改元後、百済遺民の支援のため豊璋を担いで半島に軍を派遣し、唐・新羅と戦うことになった。これを主導したのが薩夜麻だったと考えられる(注5)。その結果、白村江で、倭船千艘のうち四百艘が焼かれ「煙は天を灼やき、海水が朱に染まる」大敗北を喫し、倭人は降伏、前号で述べたように筑紫君薩夜麻は捕囚となり唐に連行された。
◆『三国史記』龍朔三年(六六三)此の時倭国の船兵、来りて百済を助く。倭船千艘、停まりて白沙に在る。(略)倭人と白村江に遇う。四戦皆克ち、其の舟四百艘を焚く。煙炎天を灼やき、海水丹を為す。(略)王子扶余忠勝・忠志等、其の衆を帥い、倭人と与ともに並び降る。
そして、捕囚となった薩夜麻が唐の「都督」となって帰国するのは、天智六年(六六七)十一月の『書紀』記事に「筑紫都督府」がみえる時だと考えられる(注6)。つまり、六六三年から六六七年十一月まで倭王は不在となったのだ。
その間、近江において実質上の統治権を執行したのは、半島に出兵せず、かつ地理的にも大和を中心に大きな勢力を持っていた近畿天皇家の天智だったと考えられる。『書紀』で天智元年(六六二)は「称制即位」で、「即位」は天智七年(六六八)一月、六年までは「称制期間」とされているが、なぜ斉明崩御後直ちに即位せず、六六七年になって即位できたのか、通説では明快な説明はなされていない。しかし、倭王薩夜麻が不在の間、代わって政務を執った、これが「天智称制」だと考えれば何の不思議もないことになる。
7、天智は白村江後「近江」で政務を執っていた
『書紀』での近江遷都は天智六年(六六七)三月だが、天智が近江遷都までどこにいたのか不明なのだ。斉明七年(六六一・白鳳元年)の筑紫長津宮滞在以降、『書紀』には何も書かれておらず、斉明時代の飛鳥板蓋宮も飛鳥後岡本宮も焼失しており、川原宮や田中宮は行宮でしかない。そのうえ当時確実に存在した難波宮にいた記事もない。
その手掛かりが、天智四年(六六五)一〇月に、唐の使節の劉?高等を迎えるため「菟道うじ」で閲(けみ 閲兵)し、招宴を開いたという記事にある。
◆『書紀』(天智)四年(六六五)冬十月己酉(十一日)に、大きに菟道うじに閲けみす。十一月辛巳(十三日)に、劉?高等に饗あへ賜ふ。
当時確実に存在していたのは難波宮だが、そこにいたなら、宇治で閲兵とはならない。閲兵とその後の順路を考えると、饗宴は近江大津宮で行われたと考えるのが自然だ。即ち、「天智は白鳳元年の筑紫長津宮以降、近江に遷って、薩夜麻に代わり倭国の政務を執っていた」と考えれば、『書紀』でその間の居所が不明となっている理由がよく理解できる。先述の白鬚神社・唐崎神社の白鳳二年の伝承もこれを裏付けるものと言えよう。
ところが、天智六年(六六七)十一月に、薩夜麻が唐に臣従し、かつ唐の支配下の官である「都督」として、唐の使節・軍と共に筑紫に帰国する。「多元史観と『不改の常典』」(会報一四四号)で述べたので詳細は省くが、この時点で「唐の都督となった筑紫の薩夜麻」と「倭国の事実上の執政たる近江の天智」の、いわば「二重権力」状態が生まれたことになる。
先述の通り、近江に九州王朝の主要官僚が遷っていたなら、薩夜麻不在の間に彼らは天智と政務を共にしている。こうした官僚群や参戦した諸豪族が無謀な戦の責任者でありながら、唐に臣従した薩夜麻ではなく、天智を倭国(九州王朝)の後継者として推戴したなら、彼が近江宮で即位することとなろう。薩夜麻帰国直後の天智七年(六六八)正月の即位が、その経緯を物語っている。
8、「倭姫王」との婚姻で「血統」問題が解決
但し、天智が倭国(九州王朝)を継ぐには二つの問題があった。
唐に臣従するとはいえ倭国(九州王朝)の「王統(血統)」は「筑紫の君」薩夜麻が継いでおり、かつ彼は唐の高宗により任じられた(倭国の支配権を認められた)「筑紫都督」だから、その背後には唐の軍がついている。この二つの問題の解決が必要となる。そこで取られた方策が「倭姫王」を皇后とすることだ。
「倭姫王」が「大宮姫」で九州王朝の血統なら、彼女を娶る(天智が婿入りする)ことにより天智の皇位継承上の「障害」である「王統」問題が解消し、かつ薩夜麻側とも融和がはかれることになる。そこで天智七年(六六八)正月の即位直後の二月一日に、唐突に倭姫王(「やまとひめのおおきみ」ではなく「わのひめのおおきみ」であろう)を皇后に娶ったのだ。
これ以降、天智は事実上九州王朝を継ぐ倭王としての施策を次々と展開する。先ず、
?「天智七年(六六八)」に年号を「白鳳」から「中元」に「改元」する(注5)。倭王として即位したなら改元は当然だ。ただし、近江朝滅亡後「無かった」こととされ、白鳳が継続した。
?「同六六八年(『藤氏家伝』『弘仁格式』による)または天智一〇年(六七一・『書紀』による)」に九州王朝の令を改定し近江令を定める。
九州王朝は既に「磐井の律令」等を制定していた。また、『書紀』天智一〇年には「新律令」とあり、その内容の「冠位・法度」は天智三年(六六四)条に見える。そこには「冠位の階名を二六階の冠に増し換ふる」とあるように「改定」だと記している。(注7)
ちなみに、常色元年(六四七)に「七色一十三階の冠を制る」とある。「常」は「のり。典法」、「色」は「仏・物質の法をいふ(諸橋漢和大辞典)」。従って、「色」により位階を定める「七色一十三階冠制」は九州年号「常色」改元に相応しく、これが九州王朝の法制(律令)であることを示す。従って「近江令」は九州王朝系近江朝による九州王朝の旧律令を改定したものとなる。
③天智九年(六七〇)庚午年に「庚午年籍」を畿内含め、西は九州から東は常陸・上野まで全国的に造籍する。
④同六七〇年に国号を日本と改める。『三国史記』の六七〇年に倭国が国号を日本と改めるとあり、『百済禰軍墓誌』(六七八年)にも「日本」という国号が見える。
◆『三国史記』新羅本紀文武王一〇年(六七〇・天智九年)「倭国更えて日本と号す」。
◆『百済禰軍でいぐん墓誌』 「于時日夲餘?、拠扶桑以逋誅」(この時に日本の餘?(残党)は扶桑に拠りて、誅(罰せられること)をのがれんとす。)
9、壬申の乱での近江朝の滅亡と天武の台頭
しかし、天智が後継指名した大友皇子(弘文帝)は、倭国(九州王朝)の後継者として不適格で、唐や薩夜麻の承認は得られないことになる。
なぜなら、
?大友皇子は「倭姫王」とは別腹
(母は出自の不明確な伊賀采女宅子娘やかこのいらつめで九州王朝の血筋でない。)
?倭姫王を娶り、薩夜麻不在の間「称制」実績もある天智の執政は容認できても、本来唐の羈縻きび政策では臣従した薩夜麻を都督として前のまま国を治めさせることだから、天智が逝去すれば、当然薩夜麻に復位をさせるべきとなるからだ。
加えて、最有力者の大海人は大友皇子ではなく九州王朝の血を引く倭姫王を擁立していた。そこで、唐・薩夜麻側に立つ倭姫王と天武は、天智没後に大友(弘文帝)の近江朝と対立することになり、共に近江を脱出し九州に行くことになる。そうして壬申の乱になっていくことは前回述べたとおりだ。
天武は壬申の乱の最大功労者として大きな軍事力・統率力を掌握した。当然「論功行賞」の実権も持ったことが『書紀』記事からわかる。
◆『書紀』(天武)元年(六七二)八月庚申朔甲申(二七日)、高市皇子に命して近江の群臣の犯状あやまつを宣らしむ。則ち重罪八人を極刑に坐す、仍ち右大臣中臣連金を淺井田根に斬る。是の日に、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及び子孫、并せて中臣連金之子・蘇我臣果安之子、悉く配流す。以余は悉く赦す。丙戌(二五日)、諸の勳功有る者に恩を勅して寵賞ちょうしょうを顯あきらかにす。
天武は近江朝を討伐し武力を蓄え、近江朝の支配圏(畿内)を継承するのみならず、壬申の乱を共に戦った諸豪族にも大きな影響力を持つことになった。但し、前号で述べたように壬申の乱で唐・薩夜麻の支援を受けていたなら、天武は実力№1であっても、対外的には臣下の地位に留まることになる。薩夜麻は高宗によって統治権を有する都督に任命されているからだ。
天武の和風諡号の「天渟中原瀛眞人」に、臣下№1を示す「眞人」とあること、『書紀』天武紀の外交記事には「飛鳥」は無く「筑紫・難波」ばかりが見える(飛鳥寺を除く)。このことから政治外交の中心は、唐の都督であり倭国(九州王朝)の王たる薩夜麻の宮である「筑紫都督府と難波宮」にあることがわかるだろう。(注8)
10、倭国(九州王朝)の滅亡と大和朝廷の成立
薩夜麻は本来の「羈縻きび政策」どおり都督として倭国(九州王朝)の立場を保ったが、白村江の打撃に加え、度重なる天災等により実力は急速に失われていった。特に天武七年(六七八)十二月の筑紫大地震では、倭国(九州王朝)の本拠筑前から筑後は壊滅的打撃を受け、天武九年六月には「灰零れり。雷電すること甚し」と火山噴火にも見舞われている。
◆『書紀』(天武)七年(六七八)十二月筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余丈。百姓の舍屋、村毎に多く仆れ壌やぶれたり。(『書紀』には天武八年一〇月~十一年三月まで余震記事がみられる)
◆(天武)九年(六八〇)六月。灰零れり。雷電すること甚し。
そして七〇一年には、大和朝廷が成立し「新律令(大宝律令)制定」により九州王朝の「評制」は「郡制」に改められ、九州年号「大化」に代わって「大宝」が建元される。懸案だった唐との関係も、七〇三年には粟田真人が「武則天(則天武后)」によって、倭国(九州王朝)にかわる「日本国」として承認される。
この変革期に「薩摩比売」が、「衣の評督」らとともに大和朝廷の支配に抵抗する。「衣えの評」とは「大宮姫」の帰還地「薩摩頴娃えい郡」のことで、大宮姫・倭姫王・薩摩比売と称せられた九州王朝の姫は、九州王朝の末期に三度目の辛酸(注9)をなめることになる。この九州王朝の末期については次回に述べたい。
注
(注1)『書紀』の朱鳥元年もこの年だが、
①『書紀』では朱鳥直前は無年号(白鳳も朱雀もない)なのに「元を改めて(改元)」は不適切。
②天武の崩御(九月)前の七月に改元するのは不可解。「岩波注」は平癒祈願を改元理由とするが、崩御でなく平癒祈願での改元例は他にない。崩御後に改元の無いのは更に不可解。古田氏は次にように述べている。
「天皇が死ぬ、ということは一番悪いこと、一番不吉な例ですね。だから当然変わるわけです。先輩の中国の年号のどれを見たって、天子が死んで変わらない年号なんてないわけです。」古田武彦「九州王朝の文化」(『市民の古代』第五集一九八三年)
③『書紀』朱鳥は一年しか存在せず、廃止の記録も、次の年号への改元記事もない。
等からこの朱鳥は九州年号だと考えられる。
(注2)藤原宮(京)は本格的な条坊を備えた歴史上画期的な都市だが、『書紀』では、一大盛事だったろう遷都の式典やその後の宮の状況はほとんど記されない。それどころか『続日本紀』には、日本国(大和朝廷)の使節(粟田真人)が唐の則天武后から承認されて戻った慶雲元年(七〇四)十一月二十日に、「始めて藤原宮の地を定む」との不可解な記事も存在する。造営の主体が近畿天皇家であっても、「評制」の時代(七〇〇年以前)の宮の「主(主人)」は九州王朝だったと考えられよう。
(注3)天神の神託譚は『扶桑略記』では「天暦九年(九五五)」とあるが、『天慶九年三月二日酉時天満天神御託宣記』では「天慶九年(九四六)」。
(注4)『日本書紀』においても、百済滅亡時には「報告を受けた」だけで、軍事的に百済を支援した記事はない。
(注5)白村江後六六五年に、唐の高宗が催した封禅の儀に、捕虜として「倭国酋長」が参加しており、当時唐にいた者で「倭国酋長(倭王)」にふさわしい名を持つものは筑紫君薩夜麻しかいない。
薩夜麻の前代としては、斉明七年(六六一年・白鳳元年)六月に伊勢王が薨去している。「『佐賀なる吉野』へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(下)」(会報一四二号)で述べた通り、天武・持統紀の伊勢王記事を、古田氏の「持統吉野行幸の三四年繰り下げ理論」同様に三四年前の事だと考えると常色・白雉期に収まり、さらにその事績の内容から「伊勢王」は『書紀』に記す「諸王」ではなく、九州王朝の天子だと考えられる。その崩御後唐突に、倭国(九州王朝)の政策が半島出兵に転換するから、これを主導したのは次代の薩夜麻だと考えられる。
ちなみに天智七年(六六八)六月にも「伊勢王と弟王日を接して薨る」とあり、内容と月が一致しているから、重複記事と考えられるが、『襲国偽僭考』『和漢年契』『衝口発』には天智七年戊辰(六六八)を元年とし、天智末年の天智十年(六七一)まで続く「中元」年号が見られる。
従って、この重複の原因は「白鳳元年」と「中元元年」の入れ替え(あるいは「混同」)だと考えられよう。
(注6)『書紀』では薩夜麻の帰還は天智十年(六七一)十一月とされているが、同年の劉仁願による李守真等派遣記事は「三年以上の繰り下げ」があることが知られており、同じ「十一月」で、「筑紫都督府」記事のある天智六年(六六七)十一月が真の帰国年月の可能性が高い。
(注7)天智一〇年の「新律令」と天智三年の「冠位・法度」は内容が重複している。天智一〇年(六七一)は「中元四年」、天智三年(六六四)は「白鳳四年」で、これも「中元・白鳳の入れ替え(若しくは混同)」が原因と考えられる。
(注8)(壬申の乱後の筑紫・難波での外交記事例)
〇(天武二年)送使貴干寶・眞毛、承元・薩儒を筑紫に送る。貴干寶等を筑紫に饗へたまひ、祿賜ふこと各差有り。即ち筑紫より国に返る。
〇新羅、韓奈末金利?を遣して高麗使人を筑紫に送る。(略)則ち筑紫より返る。金承元等を難波に饗へたまふ。
〇高麗邯子・新羅薩儒等を筑紫大郡に饗へたまひ、祿賜ふこと各差有り。〇(天武四年)新羅の送使、王子忠元を筑紫に送る。
〇金風那等を筑紫に饗へたまひ、即ち筑紫より歸る。
〇新羅王子忠元難波に到る。
〇新羅・高麗二國調使を、筑紫に饗へたまひ、祿賜ふこと差有り。
〇耽羅王姑如、難波に到る。〇(天武五年)新羅、大奈末金楊原を遣して、高麗使人を筑紫に送る。
〇(天武六年)送使珍那等を、筑紫に饗へたまひ、即ち筑紫より歸る。ほか。
(注9)「三度目の辛酸」とは、近江へ移され天智に「降嫁」させられたこと、その近江を追われたこと、大和朝廷の討伐を受けること、この三つ。
(参考)古賀達也「九州王朝の近江遷都ー『海東諸国紀』の史料批判」(古田史学会報 六一号二〇〇四年四月)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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