2018年4月10日

古田史学会報

145号

1,よみがえる古伝承
 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)
 正木 裕

2,『隋書』における
 「行路記事」の存在について
 阿部周一

3,十七条憲法とは何か
 服部静尚

4,律令制の都「前期難波宮」
 古賀達也

5,松山での『和田家文書』講演
 と「越智国」探訪
 皆川恵子

6,縄文にいたイザナギ・イザナミ
 大原重雄

 

 

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よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)

多元史観と『不改の常典』 (会報144号)

よみがえる古伝承

大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)

川西市 正木 裕

1、『開聞古事縁起』と大宮姫伝承

 鹿児島指宿の開聞岳の麓に薩摩一の宮の「枚聞ひらさき神社」(鹿児島県指宿市開聞十町)があり、その縁起等を記す『開聞古事縁起』(以下『縁起』という)に、枚聞(開聞)大神とされる「大宮姫」の伝承が記されている。
 『縁起』によれば、大宮姫は白雉元年(六五〇)に薩摩の磐屋で誕生し、僧の智通に育てられ、太宰府に奏上して二歳で都にのぼる。その後近江の宮に遷り六六五年に十三歳で「天智」の皇后となったとされる。

『開聞故事縁起』(抜粋)(注1)
一、於磐屋智通僧正勤念虚空蔵聞持法時開聞神御誕生之事
 孝徳天皇白雉元庚戌(六五〇)春二月十八日辰尅(略)産名を瑞照姫と称し奉たてまつる。

一、開聞神二歳入京之事《陸地ヨリ御上洛》
 抑そもそも開聞神女は磐屋に降誕され、智通と仙翁と草庵に敬育す。往時、大宰府《又ハ都督府ト》に奏し以て上都を告ぐ。此に宣に依り二歳にして入京す。

一、同十三歳立皇后宮事
 時に壬戌年(六六二)天智天皇即位。同帝四乙丑年(六六五)鎌足を大織冠とす。同六丁卯年(六六七)南都朝倉都を迂まわり、近江州志賀に都す。前乙丑年(六六五)前の皇后薨る。玆ここに依り大宮姫を立て皇后宮きさいのみやとしたまふ也。

 六五〇年生まれなら六六五年に十三歳にはならないし、天智が朝倉に行くのは斉明七年(六六一)なので、紀年には乱れがある。また、六六五年に亡くなるのは天智の妹で孝徳の后間人大后なので、「玆ここに依り皇后宮に立つ」という因果関係にも不審な点があるが、大意は薩摩生まれの大宮姫が、太宰府を経て近江宮で天智の皇后となったということだ。
 その後、大宮姫は宮廷で「難事」にあい、これを見た大海人(天武)は天智の崩御を前にして、生土(生地の薩摩)に帰るよう告げる。姫は、伊勢参拝を理由に暇を願うが天智は許さなかった。その後の天智十年(六七一)十一月に許されて伊勢に出立することを得た。
◆浄御原天皇(大海人・天武)此の難事を聞き深く歎かれ、秘に皇后に、「此に皇后若し恥有らんや、私ひそかに生土の所に帰らむと欲しめせ」と告ぐ。(大宮姫)伊勢参宮に言寄せて、御暇を乞う。(略)帝(天智)許さず。(略)(後に)宣可あり。(略)時は天智天皇十辛未年冬十一月四日。

 その際、大海人は歌を詠んで大宮姫を送ったとされる。一方、大友皇子は兵を挙げて大宮姫を殺そうとしたが、逃れて伊勢の安濃津から出帆し、壬申の乱の天武二年(六七二)に薩摩頴娃郡(えいぐん 衣評)に帰還したという。
一、開聞后御下向之事(略)
 (出立)時に浄御原天皇一首の詩を送る。「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 亦秋獨作我身秋」。皇后御返しに、 「なかれゆく われはもくつとなりしとも きみしからみと なりてととめよ」(略)是に大友皇子兵勢を催し、大宮姫を弑せんと欲し、衆兵を路次に《足+薛めぐ》らす。(略)川波高く沂(岸)を遡り遂に逆兵皆退去す。

一、薩州御着岸之事(略)
 布帆御恙なく、終に翌天武帝白鳳元壬申(六七二)冬十一月四日薩州頴娃えい郡山川牟瀬浜に着きたまふ也。

 

2、多元史観と古伝承

 こうした「古伝承」について、大和天皇家中心の一元史観が支配する古代史学会では、
〇我が国の古代史、それも七世紀以降については大和朝廷の「正史」である『日本書紀』『続日本紀』をもとに考えるべき。各地に残るこの時代の「民間伝承(古伝承)」は、あくまで「民話」として取り扱われるべきもので、歴史資料としての信頼性は低い。『縁起』に記す大宮姫伝承も、開聞岳や枚聞神社(開聞社)の由緒を修飾するために創作されたもの。

といった考えが大勢を占めるようだ。
 しかし、多元史観では、
○「大宮姫伝承」など、我が国に残る多くの古伝承は、全く架空の「創作物・創造物」ではなく「一定の史実」を反映した、歴史の伝承である。

 もちろん、『古事記』『日本書紀』の影響を受け、これに合うよう後代に様々な改変が加えられており、そのままの事実とすることはできないが、適切な史料批判をおこない、改変部分を明らかにし、潤色を取り除くことにより、古代の史実・真実に近づくことが出来るものと考える。
 これは「記紀神話」について、古田武彦氏の『盗まれた神話』に記す考えと一致するものだ。

3、『縁起』の大宮姫と『書紀』の「倭姫王」・『続日本紀』の「薩末比売」

 そうした観点から大宮姫伝承を『書紀』『続日本紀』と対比して検証するとき、「大宮姫」の足跡は『書紀』に記す「倭姫王やまとひめのおおきみ」や、『続日本紀』の文武四年(七〇〇)に大和朝廷の支配に抵抗した「薩末比売さつまひめ」に、或は重なり、或は繋がるところが見受けられる。つまり『縁起』の大宮姫と、『書紀』の倭姫王、『続日本紀』の薩末比売は「同一人物」だった可能性が極めて高くなるのだ。そこでまず「倭姫王」と「大宮姫」の関係から検討を始める。

4、『書紀』の「倭姫王」

 天智天皇は天智七年(六六八)の即位翌月に「倭姫王」を「皇后」としている。
◆『書紀』天智七年(六六八)正月戊子(三日)に、皇太子天皇即位す。(略)
                   二月の朔に、古人大兄皇子の女むすめ倭姫王を立てて皇后とす。

 天智は即位の前に多数の嬪(側室)を設け、中でも遠智娘おちのいらつめは天武妃となる大田皇女、持統天皇となる鸕野皇女うののひめみこを産んでおり、姪娘めいのいらつめは元明天皇となる阿陪皇女を産んでいる。天智の後を継いだ大友皇子の母は伊賀采女宅子娘やかこのいらつめだ。こうした、後世に天皇となる人物や、天智の後継者大友皇子を産んだ重要な女性たちを差し置いて、古人大兄皇子の女を「皇后」としたという。
 ところが、古人大兄は大化元年に謀反の罪で妻子共々殺され、妃妾は自經わなきて死んだとされている人物だ。そして殺したのは「中大兄」即ち天智なのだ。
◆『書紀』大化元年(六四五)九月戊辰(一二日)に、古人皇子(古人太子・古人大兄・吉野太子とも)と蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子しひのみ・吉備笠臣垂しだる・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津、謀反す。
中大兄、即ち菟田朴室古うだのえむろのふる・高麗宮知こまのみやしり、將兵若干を使はして古人大市皇子等を討つ。或本に云はく、十一月甲午卅日、中大兄阿倍渠曾倍こそへ臣・佐伯部子麻呂二人、將兵卅人を使して、古人大兄を攻め、古人大兄と子を斬り、其の妃妾は自経きて死す。

 つまり、倭姫王は父母兄弟を皆殺しにした天智の皇后になった、逆に言えば、天智は謀反の罪で本人のみならず妻子・妾を皆殺しにした者の娘を側室ではなく「皇后」に迎えたというのだ。しかも大海人(後の天武)は、天智の末年、後継者選定において倭姫王の即位を薦めたと記す。
◆『書紀』天智十年(六七一)十月庚辰(一七日)(大海人)請ふ、洪業ひつぎを奉げて大后に付属きづけまつらむ。
       同「天武即位前紀」          陛下、天下を挙げて皇后に附せたまへ。

 いかに古人大兄は冤罪だったとはいえ、妻子妾共々殺した者の娘を皇后にし、さらに「皇位」即ち天皇に推戴されようというのは不可解で、『書紀』に記す倭姫王の出自は極めておかしいと言わざるを得ないのだ。

5、『旧唐書』では「倭国」は九州王朝、「日本国」は大和朝廷を指す

 ところで、同時代を記す『旧唐書』には「倭国と日本国は別国」だったが「日本国は倭国を併合」したとある。

◆『旧唐書』(倭国)倭国は古の「倭奴国」なり。京師(*長安)を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五〇余国、皆付属す。
 倭奴国は五十七年に漢の光武帝から「志賀島の金印」を下賜された九州を拠点とする国で、倭国はその後継国として世々(歴代)中国と交流してきたという。これは九州王朝を指すものだ。

 一方、日本国は旧小国だったが、倭国を併合したという。

◆(日本国)日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺に在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり、と。その人朝に入る者、多くは自ら大なるをおごり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑う。また云う、その国界は東西南北各数千里西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。

 この「日本国」は、七〇三年に粟田真人が朝貢し則天武后から位階を授かっているから、明らかに大和朝廷を意味する。
◆『旧唐書』(日本国)長安三年(七〇三)、其の大臣朝臣真人(*粟田真人)来りて方物を貢ぐ。(略)則天(*則天武后)麟德殿に宴へたまひ、司膳卿しぜんけいの官を授けて、本国に還す。

6、倭姫王は「倭国(九州王朝)の姫王」

 つまり『旧唐書』では「倭国」とは九州王朝を指す言葉だった。そうであれば、通常「ヤマト」と読まれている「倭」も「倭国」を意味し、「倭姫王」とは倭国の姫王「わのひめのおおきみ」で、九州王朝の姫王だということになる。
 そもそも「漢字として「倭」は「ヤマト」と読めるものではなく、「ヤマト」と読むのは『古事記』に「大倭 豊秋津島」とあるところ、『書紀』で「大日本《日本此を耶麻謄と云ふ。下皆此に倣へ》豊秋津洲」と指示があるからだ。こうしたことから西村秀己氏は、「倭姫王」は『書記』では古人大兄の娘とされるが、本来は九州王朝(倭国)の血族(皇女=倭姫)ではないか、としている(注2)

7、『書紀』が暗に証する「倭姫王は『縁起』の大宮姫」

 この疑いを更に確実なものとしているのが、「倭姫王」が皇后でかつ皇位継承者に相応しいという地位にありながら、その後の消息は記されず、生没年も没地も不詳とされることだ。
 『書紀』では先述のとおり天智十年(六七一)十月、大海人により即位を薦められているが、実際に天智の後継に決まったのは大友皇子だった。つまり、

①大海人本人、または大海人の推す倭姫王と、
②天智と宅子娘の子大友皇子が天智の後継を争い、

天智は大友皇子を後継に決めたということになる。

 そしてこの十月以降『書紀』に「倭姫王」の消息は途絶え、十一月には彼女に代わって『縁起』で「大宮姫」が近江宮を脱出し、大友の手を逃れ薩摩に帰ることになる。大宮姫が倭姫王であれば、大友側が後継を争った「政敵」を除こうとするのも自然で、『縁起』で大宮姫が大友に追われたのも当然の推移として理解できる。このように『書紀』の「倭姫王」と『縁起』の「大宮姫」を対比すると。両者が同一人物であることがわかるのだ。
 ちなみに『縁起』には「開聞神二歳入京之事《陸地ヨリ御上洛》」とあるが、『書紀』天武十年記事に「種子島は京から五千余里」とある。一里五四〇mの長里なら約三〇〇〇㎞、七五mの短里では約四〇〇㎞となり、飛鳥からの距離七〇〇㎞と全く合わない。しかし、京が大宰府なら約四〇〇㎞で一致する。そもそも薩摩から陸地を通り上洛できるのは九州島内の京だけなのだ。
◆天武十年(六八一)八月二〇日に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り。
 ここからも、大宮姫の生地は薩摩だが、育ったのは筑紫太宰府で、彼女が九州王朝の姫だったと推測される。

8、倭姫王を推した大海人(天武)も近江から吉野に逃れる

 さらに倭姫王を推した大海人も、天智の意向を「忖度」したのか、直後に近江から吉野に逃れている。
◆『書紀』(天武即位前紀)四年(六七一)(注3)冬十月庚辰(一七日)、天皇(天智)、臥病みやまひしたまひて痛みたまふこと甚し。是に、蘇賀臣安麻侶を遣して、東宮(大海人)を召して大殿に引入る。時に安摩侶、素より東宮の好む所なり、密に東宮を顧かへりみて曰く、「有意こころしらひて言のたまへ」といふ。東宮、茲ここに隱せる謀はかりごと有らむと疑ひて慎みたまふ。天皇、東宮に勅して鴻業あまつひつぎのことを授く。乃ち辭讓いなびて曰はく、「臣、不幸にして元より多病有り、何んぞ能く社稷くにいへを保たむ。願はくは陛下きみ、天下を舉げて皇后に附せたまへ。仍なほ、大友皇子を立てて儲君まうけのきみとしたまへ。臣は今日出家して、陛下のために功德を脩おこなはむ。」とまうしたまふ。天皇之を聴ゆるしたまふ。即日そのひに出家して法服をきたまふ。因りて以って、私の兵器を收りて、悉ことごとくに司に納めたまふ。壬午(一九日)に吉野宮に入りたまふ。(略)或あるひとの曰く「虎に翼を着けて放はなてり」といふ。

 『書紀』では、この「吉野宮」は奈良の吉野のように描いているが、宮の候補地の宮滝付近の主要建物遺跡は聖武天皇時代のもので、天武・持統朝では二間×六間と二間×四間の掘立柱建物が東西に二軒あるのみ。とても天武が多数の家臣を率いて壬申の乱前に籠れる場所ではなく、橿原考古学研究所の初代所長だった末永雅雄氏も最後まで吉野宮と断定出来なかったほどだ。
 そもそも奈良吉野は深い山中にあり、ここに逃れても「虎に翼」どころか「袋のネズミ」のような状況になる。

9、天武が逃れた吉野は「九州の佐賀なる吉野」だった

 一方、古田氏はこの「吉野」とは吉野ヶ里(神埼郡吉野ヶ里)で有名な「佐賀吉野」だとする(注4)。佐賀平野を流れる嘉瀬川の上流は吉野山(佐賀市三瀬村藤原字吉野山)で、川沿いに「吉野(兵庫町)」地名があり、そこには「宮」地名も遺存する(注5)。筑紫には壬申の乱当時に唐の軍が駐留していたことが『書紀』の次の記事からわかる。
 『書紀』によれば郭務悰らは乱直前には筑紫に駐在し、甲冑・弓矢の提供を受けたと書かれている。
◆『書紀』天武元年(六七二)三月己酉(一八日)内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣し、天皇の喪を郭務悰等に告ぐ。
                  五月壬寅(一二日)に、甲冑・弓矢を以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に賜ひし物、總合すべてふとぎぬ一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。

 壬申の乱はその翌月(六月)に起きているのだ。また、大海人皇子に従った安斗智徳ちとおの日記によれば、その際天武は唐人から戦術を聞いたという。
◆『釈日本紀』(調連淡海・安斗宿祢智徳等日記に云ふ)天皇、唐人等に問ひて曰はく、「汝の国は数あまた戦ふ国也。必ず戦術を知らむ、今如何」と。一人進み奏して言ふ、「厥それ唐国は先に覩者ものみを遣し、以て地形の陰平及び消息を視さしむ。出師の方、或は夜襲、或は昼撃す。但し深き術は知らず」といふ。

 また、一見不可解な次の天武の万葉歌も、天武が唐の支援を求め佐賀なる吉野にいったのなら、その了解を得た喜びを表す歌としてよく理解できる。「多良人」の多良(太良)は有明海沿岸の地名で、「好(hao)」は中国語で「同意」を意味する言葉としてよく用いられる常用句なのだ(好的)。
◆(万葉二七番歌)天皇(天武)、吉野の宮に幸しし時の御製歌
 淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 多良人よく見(淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与・多> 良人四来三)

10、筑紫君薩夜麻も筑紫にいた

 さらに、『旧唐書』『冊府元亀』では白村江後、「倭国酋長」が捕囚となり、高宗に謁見、封禅の儀に参加し唐の臣下となったとある。
◆『旧唐書』(劉仁軌伝)麟徳二年(六六五)、泰山に封ず。仁軌、新羅及百濟・耽羅・倭四國の酋長を領ひきいて赴會するに、高宗甚だ悦び、大司憲を櫂拜す。
◆『冊府元亀』(略)倭国、及新羅・百濟・高麗等諸蕃の酋長、各の其の属を率いて扈從こじゅうす。

 当時唐の捕虜になっていた倭国人で「酋長」と呼ぶにふさわしい人物は筑紫君薩夜麻しかいない。そして、捕囚となった敗戦国の王は皆唐に臣従し、「羈縻きび政策(注6)」により唐の「都督」として「都督府」に送り帰されている。
➀百済平定(六六〇)では四年後(六六四)に百済王子扶余隆を「熊津ゆうしん都督」に任命し熊津都督府に返す。
②高句麗平定(六六八)では高句麗宝蔵王を九年後(六七七)に「遼東州都督」に任命し朝鮮王に封じた。
③戦勝国新羅でも文武王を「鶏林大都督」(六六三年に鶏林大都督府を設置)に任命。

 そして天智六年十一月の『書紀』記事に「筑紫都督府」がみえる。
◆『書紀』天智六年(六六七)十一月(九日)百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。

 薩夜麻も当然都督として帰され、壬申の乱当時は「筑紫都督府」にいたことになろう。つまり、唐の軍事使節も薩夜麻も九州におり、唐の立場は、「倭国は唐の属国であり高宗の任命した都督薩夜麻が統治すべきもの」となる。倭姫王が大宮姫で、かつ九州王朝の姫であれば、即位を薦めた大海人(天武)も、勧められた姫も共に両者のいる九州に帰還したことになる。
 一方、近江朝では、唐や、九州王朝の天子といえども、その臣下となった都督薩夜麻の支配に反対する勢力が主導権を握り、薩夜麻の血統の倭姫王(大宮姫)の即位を許さず、大友を即位させた。その結果、姫とその支援者大海人は近江から、唐・薩夜麻のいる九州に逃れたという経緯となろう。
 そして唐と都督薩夜麻の支援する大海人(天武)が兵を起こし、九州王朝の姫が去り、九州王朝と血縁のない大友の近江朝を遠慮なく滅ぼしたのだ。結局「壬申の乱」とは唐及び都督となった九州王朝の薩夜麻側と、その支配を好としない近江朝の政権との抗争だったと考えられよう。
 『書紀』の倭姫王と『開聞古事縁起』の大宮姫が同一人物で、かつ九州王朝の姫だと考えるとき、壬申の乱の原因がよく理解できるのだ。

 次号では、何故、どういう経過で九州王朝の姫が天智の皇后になったのかについて述べたい。

(注1)山岳宗教史研究叢書⑱修験道資料集〔Ⅱ〕西日本編(五来重編。名著出版、二〇〇〇年)(読み下しは筆者)

(注2)西村秀己「日本書紀の「倭」について」(古田史学会報四二号、二〇〇一年二月)ほか。

(注3)天智即位四年のこと。天智一〇年。あるいは『襲国偽僭考』『和漢年契』『衝口発』『茅窻漫録』に見える、天智七年戊辰(六六八)を元年とし、天智十年(六七一)まで続く元号「中元」の四年か。

(注4)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年一〇月。二〇一二年ミネルヴァ書房より復刊)

(注5)『和名抄』に「肥前国神崎郡宮処みやこ」。『肥前国風土記』に「宮処郷在郡西南同天皇行幸之時、於此村奉造行宮、因曰宮処郷(*倭名抄では「美夜止古呂」)(現神埼郡千代田町境原・兵庫町若宮付近か。)「肥前国庁」も嘉瀬川沿いに存在していた。

(注6)「羈縻きび政策」とは、臣従した王を「中国の官吏」である都督として前のまま国を治めさせる(統治権を承認する)政策のことをいう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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