2018年4月10日

古田史学会報

145号

1,よみがえる古伝承
 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)
 正木 裕

2,『隋書』における
 「行路記事」の存在について
 阿部周一

3,十七条憲法とは何か
 服部静尚

4,律令制の都「前期難波宮」
 古賀達也

5,松山での『和田家文書』講演
 と「越智国」探訪
 皆川恵子

6,縄文にいたイザナギ・イザナミ
 大原重雄

 

 

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隋書俀国伝「犬を跨ぐ」について 大原重雄(会報144号)

「古記」と「番匠」と「難波宮」 阿部周一 (会報143号)

『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 -- 行路記事から見える事(会報148号)

『隋書』における「行路記事」の存在について

札幌市 阿部周一


「要旨」

『隋書』に「倭国(俀国)」への行路記事が存在しているのは「宣諭」という用語に関連していること。それは『魏志倭人伝』に「張政」という「告喩使」が来倭しており、そこに「行路」記事が存在している事と意味は同じと思われること。「宣諭」と「告喩」には「軍事」的意味があり、そのゆえに「軍事情報」として「行路記事」が書かれたと見られること。「琉球」への侵攻も「宣諭使」派遣と軌を一にする行動であったと思われること。以上について考察します。

Ⅰ『隋書』の「行路記事」と「宣諭」

 「遣隋使」を考える際に重要な史料が『隋書』であり、その中の『俀国伝』です。そこには「行路記事」があります。この「行路記事」は「俀国」の中心地がどこにあるかの推理の道具となっているようですが、そもそもここに「行路記事」があるのはなぜでしょう。
 一般には「行路記事」が存在している理由としていわれるのは、「隋」が「北朝系」であり、「倭国」との国交が「北朝」としては初めてであったためにその「行路」が地理的情報として必要であったと考えられているようですが、私見ではそのことよりも「裴世清」の言葉の中に「宣諭」という語が見えることと深い関係があったものと思われるのです。
 『隋書』をみるとこの「裴世清」派遣記事に先行する「開皇二十年記事」が「帝紀」に存在しています。仮にそれが「隋」として初めての「倭国」への使者派遣を表すものとすると、そこにこそ「行路記事」が書かれて不審はないわけですが、「帝紀」は「列伝」と違い国や人ごとに詳細が書かれる性質の場所ではありません。そうであればこの記事に対応する記事が「列伝」としての『俀国伝』になければならないはずですが、それは存在していません。そのため従来はそれも含めて「大業三年記事」に集約されているとみていたわけですが、真実はこの「裴世清」派遣が「宣諭使」というものであったからではないかと思われるのです。

Ⅱ「宣諭」の意義

 『隋書俀国伝』によれば、「倭国」から「使者」が派遣されたその翌年(六〇八年)「皇帝」は「裴世清」を使者として「俀国(倭国)」に派遣したとされ、「俀国王」に面会した「裴世清」は以下のように話したとされます。
「…清答曰 皇帝德並二儀澤流四海、以王慕化故遣行人來此『宣諭』。」(『隋書/俀国伝』より)

 この中に使用されている「宣諭」という用語は「皇帝」の言葉を「口頭」で伝えることにより「教え諭す」意です。つまり、この「大業三年」の「隋使」(裴世清)の派遣は、その前年に行われた「倭国」からの遣隋使が持参したという国書があまりに「無礼」であったため、それを「宣諭」するために行われたとみられるわけです。
 この前年の「遣隋使」がかの有名な「日出ずる国の天子…」という有名な国書を提出したとされているわけです。
(以下『隋書俀国伝』の当該部分)
「大業三年其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不悅謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」

 このように「倭国」からの国書に対して「皇帝」は「蠻夷書有無禮者、勿復以聞」と「無禮(礼)」であるとして「不快」の念を示したとされています。
 この「不快」の原因については「天子」が複数存在しているような記述にあるとするのが一般的です。それは「隋皇帝」にしてみれば「身の程を知らない」言辞であると考えられたものと思われ、そのような「隋皇帝」の「大義名分」を犯すような言辞に対して憤ったものであると理解できます。(いわば「帝」を「僭称」したものと理解された可能性さえあります。)
 『隋書』の記事配列においても「無禮」という言葉に対応するように「宣諭」が置かれていると見るべきでしょう。つまり、「隋皇帝」に対して「無禮」を働いたこととなるわけですから、そのことをいわば「説教」するために「裴世清」は派遣されたものと見られることとなり、ここで言う「宣諭」にはそのような意義があったものと思われます。
 『隋書』や『旧唐書』他の資料を検索すると複数の「宣諭」の使用例が確認できますが、それらはいずれも「戦い」や「反乱」などが起きた際あるいは「夷蛮」の地域などに派遣された使者(「節度使」など)の行動として記され、「宣諭」が行なわれるという事自体が既にかなり「穏やかではない」状況がそこにあることを示すものです。たとえば『隋書』には以下のような記述があり、これは「突厥」内部の「可汗」同士の争いの際に双方から援軍要請があり、その際に使者を派遣して「宣諭」したとされ、その結果「為陳利害,遂各解兵」とされています。
 「…其後突厥達頭可汗與都藍可汗相攻,各遣使請援。上使平持節『宣諭』,令其和解,賜縑三百匹,良馬一匹而遣之。平至突厥所,為陳利害,遂各解兵。可汗贈平馬二百匹。及還,平進所得馬,上盡以賜之。」(『隋書/列傳第十一/長孫平』より)

 また同じく『隋書』には「煬帝」が「高句麗」へ遠征した際の逸話として「城」を敵軍に囲まれる状況の中で「賊」(敵)側に対して「閻毘」という人物に「宣諭」させた記事もあります。
 「…及征遼東,以本官領武賁郎將,典宿衞。時眾軍圍遼東城,帝令毘詣城下『宣諭』,賊弓弩亂發,所乘馬中流矢,毘顏色不變,辭氣抑揚,卒事而去。…」(『隋書/列傳第三十三/閻毘』より)
(編集部注=「毘」は正しくは「田」と「比」が左右に並ぶ)

 これらも含め「宣諭」という語が使用されるのは「戦場」が舞台であることが多く、このような用語が「倭国」に対して使用されているということは、ある程度の「緊張」状態が「隋」と「倭国」の間に発生していたことを示すものであり、それは「軍派遣」という政治行動を内在している事を示し、そうであれば「行路」は現地の軍事情報として必須であったこととなるでしょう。(ただし『隋書』中に書かれたものは「報告書」からの抜粋ではないかと思われますが)

Ⅲ「告喩」と「行路記事」

 この「宣諭」という用語は、三世紀「魏」の時代に「倭」の「邪馬壹国」から「狗奴国」との戦闘行為について訴えを聞いた「魏」王権が「帯方郡吏」である「張政」を派遣した際に行った「告喩」と類似していると思われます。
「正始元年…其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄『告喩』之。」(『三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳巻三十』より「倭人伝」)

 この「告喩」という行為については、「狗奴国」の「邪馬壹国」に対する行動(戦闘行為)が「魏」に対するものと見なすという内容を含んでいたとものと見られ(それを明示するために「魏軍」の旗を示す「黄幢」を「難升米」に「拜假」しているわけです。)それに対して「狗奴国」が「魏」の大義名分を認め戦闘行為の停止に応ずることもありうるわけですが(実際そうなったものと思われます)、逆にそれに従わず、戦闘行為が継続されるという可能性も考えられるわけであり、その場合「魏」としては「軍派遣」という究極的行動もその選択肢の中に入れざるを得なかったこととなります。なぜなら「魏」は「倭王」に対して「制詔」しており、それは「魏」が「倭王」たる「卑弥呼」に対して「魏」の支配(制度)の元のものとその存在を認知した事を示しますが(それは「卑弥呼」に対して「親魏倭王」という称号を付与したことにも現れています)、そうであれば「魏」は「倭」と「倭王」に対して「皇帝」と「臣民」という関係の中で「防衛」の責務を負っていたこととなり、結果的に「倭」に軍を派遣し、「狗奴国」に対して示威行為あるいは直接戦闘により「邪馬壹国」を防衛するという事態まで想定しなければならなかったことを意味します。
 もし仮に「狗奴国」がこの「檄」に従わずしかも「魏」がそれを放置したとなると「魏」の「権威」は東アジアにおいて「地に墜ちる」ということとなります。それは「皇帝」の国としての責務の「放棄」だからです。その結果多くの配下の諸国が「魏」に対して忠節を誓わないという事態も考えられることとなりかねません。そしてそのような事態が内在されていたとすると彼ら「告喩使団」は軍の派遣・進攻に必要な情報を記録し報告するという責務を負っていたことになるでしょう。それが端的に現れているのが「行路記事」の存在です。
 この「行路記事」が「軍事情報」の一環であるというのはある程度常識となっているようですが、それは「告喩」という行為と「セット」であったこととなります。そのような思惟進行が正しいとすると、それは「隋代」において「裴世清」という「宣諭使」派遣の際にも全く同様の事情が隠されていたとみるべきであり、そのためこの「行路記事」が書かれたのではないかと思われるわけです。(同じ『三国志東夷伝』中の「韓伝」にも「行路記事」がありますが、その「韓伝」の中では実際に「魏軍」(帯方郡の軍)と「韓」の人々との戦闘が描かれており、間違いなく「軍事情報」としての側面が強かったことがうかがえるものです。)

Ⅳ「天子」自称と「宣諭使」としての「裴世清」

 また従来「倭国」は「隋」から「柵封」されず「皇帝―臣下」という関係が築かれなかったとみられているわけですが、それは「倭国」が「対等」を意識していわば「突っ張った」からであるように認識されています。「天子」自称についてもそのような意識の一環と考えられているわけですが、それは実際とは異なるとみられ(「天子」自称は「隋」の意向を忖度しなかった故とみられる)、あくまでも「倭国」が「絶域」であるという事情からのものであり、「柵封」されなかったということについては双方合意であったとみるべきですが、「隋」にとって見るとそれが「絶域」であろうと「隋」皇帝の権威を傷つけるものにたいしては軍事的行動をいとわないという意思の表れとして「宣諭使」(裴世清等)が派遣されたものであり、「行路記事」の存在もそれを反映したものであったこととなるでしょう。
 ただし「行路記事」を書くに当たっては、「俀国」の位置とそこに至るルートや途中に存在する諸国の名称などに違いがなければ『魏志』を引用して終わりとなるはずですが、実際には『魏志』に書かれた時代から四〇〇年近くの年数が経過しているわけであり、当然最新情報が求められていたとみるべきですから、「国名」や距離・方角などについて新たな知見を書いた「行路記事」が必要であったとみられることとなります。その意味で「三国志」より簡略なのも当然であり、下敷きとして「三国志」の行路記事があってその追加、補注記事として書かれたものと考えられるわけです。

Ⅴ「琉球」に対する軍事侵攻の意味

 この当時「隋」が「倭国」に対して軍事的圧力をかけるべきだと考え、実際そうしていたと思われるのは「琉球」に対する軍事行動に表れていると思われます。
 『隋書』には「隋」が(「煬帝」の時)「琉球」に侵攻したという記事があります。
「(大業)三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻倶往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時俀國使來朝,見之曰「此夷邪久國人所用也。」帝遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日至句+黽辟+黽嶼,又一日便至流求。初,稜將南方諸國人從軍,有崑崘人頗解其語,遣人慰諭之,流求不從,拒逆官軍。稜擊走之,進至其都,頻戰皆敗,焚其宮室,虜其男女數千人,載軍實而還。自爾遂絶。」(『隋書/列傳 第四十六/東夷/流求國』より)

 この時「隋皇帝」は「裴世清」派遣と前後して「琉球」へ侵攻し、倭国の南方地域に対して影響力を行使しようとしたものと思われます。それは「倭国」の範囲がかなり南方まであったという地理的誤認があったからではないかと思われるわけです。(いわゆる「会稽東冶の東」という理解(誤解)です。)そのため、「琉球国」がその辺境にあたると考え、そこを制圧することにより「倭国」に対して相当の影響を与えうると考えたものではないでしょうか。そして、当初からその目的であったがゆえに「対琉球」においては「裴世清」とは違い最初から「羽騎尉」という軍人であるところの「朱寬」を派遣し、「倭国」の周辺地域としての「琉球」には「慰撫」(というより威嚇が主たるものであったでしょう)を行い、これに従わないとみるや即座に別途軍を派遣したものと思われます。このような軍事行動を行うことが、間接的に「倭国」に対して影響力を行使しうるという考えがあったものとみられるわけです。
 そもそもこのような「琉球国」への軍事的圧力が単発的に行われたと見るよりは、対「倭国」政策の一環という観点で考えたときに初めて意味のあるものとなるわけであり、仮に「倭国」が友好的であったならこのような軍事的行為を積極的に行う意義は薄くなりますが、倭国が「天子」を標榜するなどの行為があった場合「隋」にとって「非友好的」と看做されるのは当然であり、「宣諭」という外交手段と共に「軍事的圧力」ないしは「威嚇」を加えることが事態を有利に展開する上で必要と考えたに違いありません。そうであればそこに「倭国」の「王都」までの行路が記事として存在しているのは軍事情報として意味のあることと思われるのです。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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