正木裕「常色の宗教改革」(会報85号)
「「天朝」と「本朝」」(会報119号及び120号)
「古記」と「番匠」と「難波宮」 阿部周一(会報143号)
『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 行路記事から見える事 阿部周一(会報148号)
「古記」と「番匠」と「難波宮」
札幌市 阿部周一
「要旨」
『養老令』の注釈書としての『令集解』の中に「古記」からの引用があること。「賦役令」の「丁匠赴役条」の注釈の中に引用された「古記」に「番匠」についてのものと思われる記述があり、そこでは「難波宮」を造営するために徴発される「西方の民」という表現があり、「前期難波宮」造営の際に「西日本」の人々が徴発されたことが示唆されるとともに、それが「九州」が政治中心と見る必要があること。更にその「前期難波宮」が「孝徳朝期」に重なる時期のものであると考えられること。等について検討したものです。
Ⅰ.『令集解』と『古記』
『養老令』の注釈書として『令集解』という書があります。これは九世紀前半頃「惟宗直本」という学者が私的に注釈を加えたもので、公的なものではないためその解釈に法的有効性があるというわけではなくその点で公的注釈書である『令義解』とは性格が異なります。しかしこの『令集解』が貴重なのはその中に「穴」「師」などと省略される各種法制家の「令私記」からの引用がある点で、これらはすでに失われているためそれらの記述から原本の状況が窺える重要な資料となっています。
「古田史学の会」代表である古賀達也氏は『古賀達也の洛中洛外日記』(第一四〇五話二〇一七年五月二十六日「前期難波宮副都説反対論者への問い(八)」)の中で、以前正木氏が指摘された『伊豫三島神社縁起』の「番匠」記事の存在(註一)について書かれていますが、たまたま私は、唐代に「顔師古」が注を加えた『漢書』が『令集解』に引用されていることを解析した論文(註二)を見ていて、『養老令』中の「賦役令」の「丁匠」の条項を注釈した部分に「番匠」と関連すると思われる記事を見つけました。それは次のものです。
Ⅱ.「賦役令丁匠条」について
以下は『養老令』の「丁匠」を定めた条文です。
「(令集解巻第十三 賦役一 丁匠赴役条)凡丁匠赴役者。皆具造簿。丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処皆以近及遠。依名分配。作具自備。」 この条項に対する『令集解』の解釈については、「釈云」「穴云」「師云」「朱云」「釈云」「古記云」というようにいろいろな説を引用して参考としているようです。(見やすくするため各説ごとに改行し、番号をつけました。)
「丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処。皆以近及遠。依名分配。謂。以近及遠者。仮令。大和国。紀伊国有造作事。応発関東民者。以美濃配紀伊。以尾張配大和之類也。依名分配者。木工金匠。執事不同。随其名実。色別分配也。
(一)釈云。以近及遠。仮有倭国木国造作之事。応役関東丁夫者。以三野夫配木国。以尾張夫配倭国之類。依名分配。謂名帳也。
(二)穴云。其外配者。便送配所者。
(三)師云。送丁匠也。(私思送簿配所也。但送簿者。丁匠亦然耳。以近及遠謂仮応在京営造者。先取幾内(畿内)人夫。次及外国之類。畿内雖无丁役。於雇役无妨。若両処可役者。依令釈習也。依名。謂依本国歴名也。)師云。依名者。木工鍛冶工等。依才名分配耳。
(四)朱云。便送配処者。未知何。若不送太政官。便送可役所歟何。依名分配者。未知何。
(五)釈云。依名帳者何。若依才能之名配歟何。
(六)古記云。其外配者。便送配所。謂西方之民。便配造難波官司(宮司)也。以近及遠。謂先番役近国。次中国。次遠国也。依名分配。謂依名簿。木工者配木工寮。鑑師(鍛師)者配鍛冶司也。注。器械。謂小斧鉢鍬鎌之類。漢書。師古曰。械者器之総名也。一曰。有盛為械。无械為器也。」
これら引用された説のうち「古記」を除けばいずれも八世紀末以降の成立と考えられており、それらは確かに『養老令』の注釈書といえますが、「古記」だけはその成立が「天平年間」(七三八年か)とされ、この時点では未だ『養老令』が成立・施行されていませんから(その成立は「天平宝字元年(七五七年)とされる)、この「古記」とは『養老令』の前身である『大宝令』の注釈書であると推定されています。
上の「丁匠」に対する注釈においても「便送配処皆以近及遠」という部分について、他の説では多くが「関東の民」つまり「美濃」「尾張」の両国の人を「大和」「紀伊」両国での何らかの営造の際に徴発するような意味と解釈しているのに対して「古記」だけが「西方の民」であるとし、さらに営造の中身についても他の説が具体的には言及していないのに対して、「古記」は明確に「造難波官司(宮司)」としています。しかも「近国」から「遠国」へと順番に徴発する旨が書かれており、これはまさに「番匠」についての規定が『大宝令』の条文として想定されていたことの明証と思われます。
ところで、聖武天皇により「藤原宇合」が難波宮造営の長官として任ぜられたのが「神亀元年」(七二六年)とされ、この「古記」はそこからやや遅れた時期に書かれものであることから、ここに挙げられている「難波宮」は「聖武」のいわゆる「後期難波宮」と理解されているようです。しかし「古記」が『大宝令』の注釈書であるならば、そこに書かれた文言や言及されたものは『大宝令』以前のものと見るのが相当ではないでしょうか。
Ⅲ.「後期難波宮」と「恭仁宮」の造営の状況
確かに「後期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員されたことが『続日本紀』から窺えます。
「(神龜)三年(七二六年)…冬十月…庚午。以式部卿從三位藤原朝臣宇合。爲知造難波宮事。陪從无位諸王。六位已上才藝長上并雜色人。難波宮官人。郡司已上賜祿各有差。」
「(同)四年(七二七年)…二月壬子。造難波宮雇民免課役并房雜徭。」
「(天平)四年(七三二年)…三月…己巳。知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上。賜物各有差。」
ここでは「難波宮」造営のために徴発されたと思われる人々として「六位已上才藝長上并雜色人」「造難波宮雇民」「仕丁」とはあるものの、彼らがどこの地域から徴発された人々なのかについては記載がないため不明であるわけですが、当然『大宝令』の規定により近国から徴発されたものと思われます。それを示唆するのが「恭仁宮」造営時の『続日本紀』の記事です。
「天平十三年(七四一年)…九月辛亥。免左右京百姓調租。四畿内田租。縁遷都也。
…丙辰。爲供造宮。差發大養徳。河内。攝津。山背四國役夫五千五百人。」
ここでは「役夫」として「大養徳。河内。攝津。山背」の四ヶ国から「五千五百人」という人員が徴発されており、これは「先番近国」という「古記」の注釈に沿っているように見えます。しかしこの「四ヶ国」は「西方の民」というわけではありません。「近国」から「遠国」という基準の中で最初に徴発されたのが「四畿内」であったということと「古記」のいう「西方の民」という注釈とは整合していないわけです。
「近国」から「中国」さらに「遠国」という「交番制」は中央からの指示・指令の出しやすさ、届きやすさ、到着に要する日時などを考慮したためであり、まず近隣の国から動員した方が合理的であり、工期全体としても短縮できることを考慮したものと思われますが、「古記」がいうように「後期難波宮」造営の際に特に「西方の民」を徴発したとすると、同時に「先番近国」という順序とはなり得ず、ここに一種の「矛盾」が呈されるわけです。そのことは「後期難波宮」も「恭仁宮」もその造営という事業がこの「古記」の示す注釈の対象ではなかったことを示すものであり、「古記」のいう「難波宮」が「後期難波宮」ではなかったことを如実に示すものといえます。
Ⅳ.「古記」の示す「難波宮」とは
そもそも「古記」は『大宝令』の注釈書というより「研究」の書といわれており、『大宝令』そのものがその成立過程の中心時間帯として「七世紀代」が想定されるわけであり、そう考えるとその条文についての研究の土台となったものも同様に「七世紀代」を想定して当然といえるでしょう。そうであればこの条文についての注釈は実際には「前期難波宮」の造営という事業の実施を念頭においたものと見るべきではないでしょうか。
もし「大宝令」以前つまり「七世紀代」に「近畿」に「難波宮」を造営しようとして、「西方の民」を徴発してなお「近国」から「遠国」へという表現の合理性を保とうとすると、その主体(政治中心)が「九州」など列島西方にあったと仮定する必要があると思われます。その場合「九州」という王権のお膝元周辺としての「近国」から「遠国」へという流れで「役夫」(丁匠)が徴発されたとみることができるでしょう。つまり「九州」地方からの「近国」としての徴発が最初にあり、その後「中つ国」として「瀬戸内周辺国」へと移り、最後に「遠国」である「近畿」の人々がその対象となったと思われることとなりますが、これは「八世紀」の新日本王権から見るとまさに「西方の民」がその対象となったという表現とイコールであることとなります。この意味からもこの「古記」の示す実態は『大宝令』制定以前の状況に合致しているものであり、「古記」が書かれる時期の直前の「八世紀」の状況とは実態としては整合していないと見られるわけです。
Ⅴ.「宮衛令開閇門条」と「古記」
これと同様「古記」の示す例が「七世紀代」のことと考えられるものとして「宮衛令開閇門条」に対する『令集解』の注釈があります。
「(令集解巻第廿四 宮衛 開閉門条)古記云。問。即諸衛府各按検所部及諸門。未知。諸衛府雑色。又所部者何家(処)。答。諸衛。謂五衛府主典以上也。所部。謂依別式。左右衛士府中門。并御垣廻及大蔵内蔵民部外司喪儀馬寮等。以衛士分配防守。以時検行。為有所部之人。謂之所部也。左右兵衛府内門諸門按検也。衛門府中門外門按検也。」
これについては通例は「平城宮」の諸門の警備の分担を示すものとされていますが、そもそも『大宝令』成立段階ではまだ「平城宮」はできていないわけですから、『大宝令』の条項として想定されている門が「平城宮」のそれであるはずがありません。その場合考えられるのは一見「藤原宮」と思われそうですが、発掘調査によれば「七〇三年」という段階においても「藤原宮」では「大極殿」も「回廊」も未完成であった可能性が指摘されており(註三)、そうであればこの記事中の「諸門」が「藤原宮」のものではない可能性が高くなりますが、そうするとそれ以前に「中門」等の門が存在していたのは「難波宮」ではなかったかと思われ、これもまた「難波宮」を視野に入れた条項であったらしいことが窺えることとなります。
「難波宮」は「朱鳥元年」に火災の記事があり、また「遺跡」からも「火災」の跡と思われる「焦土」(焼けた土)などが出土していますが、他方『続日本紀』にはそれ以降も複数の「難波宮」への行幸記事があり、また上に見た『続日本紀』の「神亀三年記事」の中にも「難波宮官人」という表現があるように「難波宮」には常時官人が詰めていたようであり、少なくとも「七世紀末」という段階においても「難波宮」がその全部ではなくとも主要な部分について使用可能な状態であったらしい事が示唆されています。
発掘からもいわゆる「東方官衙」地域には火災の跡がないとされ、これについてはそれ以降も使用可能であったらしいことが推定されています。さらに『日本帝皇年代記』では「平城京の前の都は「難波京」」という意味の事が記されています。(註四)
Ⅵ.「孝徳朝」か「天武朝」か
ただし「難波宮」については『書紀』では「天武紀」と「孝徳紀」に記事があり、さらに「伊勢王」という人物も同様に両方の時代に登場します。この人物は「斉明紀」と「天智紀」の双方に「死亡記事」があり、いずれが正しいかは判然とはしませんが、少なくとも死亡記事の後に死んだはずの本人が登場する「天武紀」記事には疑いが多くなるのは当然です。
さらに拙論の中でも触れましたが(註五)、「天武」の死を知らせる喪使として新羅に赴いた「田中法麻呂」の応答使(弔使)として「新羅」から派遣された「金道那」という人物に対し「土師宿禰根麻呂」が「勅」を「奉宣」する場面があります。その文言の中に印象的な事が書かれています。
「(持統)五月癸丑朔甲戌(二十二日)条」「命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級餐金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。翳餐金春秋奉勅。…」
つまり「金道那等」に対する抗議の「勅」において「在昔難波宮治天下天皇」の「崩御」に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれているわけです。この「勅」の内容は重要であり、「天武」とは違う人物がすでに「在昔」に「難波宮治天下天皇」の地位にいたというわけであり、しかもそれは「金春秋」がまだ「新羅国王」となっていなかった「翳餐」という官人であった時期であるというわけですから、明らかに『孝徳朝』の時代まで上がると思われ、少なくとも当の「天武」本人の時代ではないことは確実です。このことは『令集解』で「古記」がいう「難波宮」も「孝徳朝」の時代あるいはそれ以前に「近畿」(「難波」)の地に作られたものと推定することが可能となることを示します。
(註)
一.正木裕「常色の宗教改革」(『古田史学会報』第八十五号)
二.池田昌広『「古記」所引『漢書』顔師古注について』(京都産業大学デジタルリポジトリ)
三.市大樹『飛鳥の木簡』(中公新書)他の資料によれば「藤原京」遺跡から出土した「木簡」の解析から「宮殿完成」は「七〇四年」以降であることが推定されています。
四.『日本帝皇年代記』の「和銅三年」(庚戌)の条に「三月従難波遷都奈良」とあります。
「庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉」(但し「/」は改行を表す)(『日本帝皇年代記』(上)より)ちなみにこの『日本帝皇年代記』はその内容が『書紀』とは「壬申の乱」「改新の詔」「白村江」等重要な点で整合しておらず、『書紀』から派生した『三次資料』とは考えられません。
五.拙論「「天朝」と「本朝」」(古田史学会報一一九号及び一二〇号)
これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"