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「壹」から始める古田史学十二 古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈① 正木裕
「壹」から始める古田史学十三
古田説を踏まえた俾弥呼のエピソードの解釈②
古田史学の会事務局長 正木裕
今回は「邪馬壹国」という国名表記と、「俾弥呼」という人名表記についてみていきましょう。
「邪馬壹国」の名称について、通説が「『壹』は『臺』の誤り」として、「邪馬臺(台)国」とするのに対し、古田武彦氏は、
①「紹煕しょうき本」「紹興本」はもちろん、『武英殿本』『三国志補注』『三国志標点本』といった現存する全版本は、すべて「邪馬壹国」もしくは「邪馬一国」で、「邪馬臺国」は皆無であるという「史料状況」、
②「魏」の明帝が「魏臺」とよばれた例があるように、「魏」の時代「臺」は直接天子を指す詞であるという「字義」、
等から、「壹」を「臺」とするのは、「邪馬壹国」を大和(ヤマト)に比定するための、誤った「原文改訂」だとされたのは、周知のことと思います。
さらに中国では、新の王莽が胡族の討伐に従わなかった「高句麗」を「下句麗」と変え、漢の光武帝が朝貢を契機に「高句麗」に戻し、逆に王莽が「匈奴」を「恭奴」とし、光武帝が「匈奴」に復したように、漢字(用字)に「思想的内容」を盛り込んで、国名や人名に当てはめています。これから見て、「壹」は、公孫氏や高句麗など他の東夷諸国が、魏と呉の間で「二股(「弐」心)外交」を行う中で、戦中遣使という危険を冒し、「壹」心に魏に臣従した国に相応しい用字だとされました。
古田史学で「壹」は、分かりやすいように「いち」と読まれますが、実際は「ゐ(yi)(又は「ゐっ」)」です。そして「倭」の上古音も「ゐ」でした。これは『後漢書』倭伝で紀元五十七年に、光武帝から「倭奴国王」に下賜された金印(志賀島の金印)に「漢委奴国王(ゐどこくおう)」と「委(ゐ)」の字が使われていることからもわかります。「委」は決して「ワ」とは読めません。なお「倭奴国」とは一地方政権ではなく、西の猛々しい「匈奴」に対置する、東の従順な「倭奴」という、倭人全体の代表国を示すことは言うまでもありません。
五十七年に倭奴国王が朝貢し、その後一〇七年に帥升が再度朝貢しています。彼が名の分かる最初の倭王です。
◆『後漢書』倭伝「安帝の永初元年(一〇七)、倭の国王帥升すいしょう等、生口せいこう百六十人を献じ、請見を願う」
その後も倭国は、漢の「延光四年(一二五)」銘のある「室見川の銘版」を作った王を経て、俾弥呼直前に七、八十年(二倍年歴で三十五~四十年)間統治した男王まで続き、「歴年」(*古田氏は『三国志』の「歴年」の用例から十年弱とする)の騒乱のあと、『倭人伝』に見える俾弥呼が二三〇年代に即位します。
「歴年」を十年弱とすると、二二〇年に臣従していた漢が滅んでから、倭国内で騒乱が始まったことになります。
このように「倭奴国」から俾弥呼の「邪馬壹国」まで、王は変わっても「倭国」は連続しています。ここから、「邪馬壹国」の「壹国」は「倭国」と同じ「ゐこく」だったこと、その後を継いだ「壹与ゐよ」の「壹ゐ」は国名で「倭ゐ」と同じ、「与」は魏に臣従し与えられた「漢(魏)風一字名」だったことが分かります。
この「ゐこく」という名は、七世紀『隋書』の「俀国」まで続きます。法隆寺釈迦三尊光背銘の「上宮法王」は、没年や親・妻・子の名前が違うことから、聖徳太子とされる「厩戸皇子」ではなく、『隋書』で、日出る処の天子を自称した多利思北孤と考えられます。その「上宮王」が蒐集編纂した『法華義疏』には「大委だいゐ上宮王」とあります。つまり「俀たゐ」とは、「倭」に「大」を加えた「大委(大倭)たいゐ」であり、隋と対等外交を目指した多利思北孤は、「大倭国」と称したと思われます。そして、おそらく国書にもそう記したのでしょうが、煬帝からすれば、東夷の小国が「大」などとんでもないとして、同音ですが「よわよわしい」意味を含む「俀たゐ」に変えたのではないでしょうか。
このように邪馬壹国の「壹」を「ゐ」と読むとき、漢代から七世紀まで連綿と続く倭国・九州王朝の歴史が理解できるのです。
次に俾弥呼の名です。『魏志倭人伝』では「卑弥呼」ですが、帝紀(斉王紀)では「俾弥呼」とあり、卑は俾の略字だと考えられます。
◆『三国志』(魏書斉王紀)正始四年(二四三)春正月倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉獻す。
俾弥呼の「卑」は「いやしい」、邪馬壹国の「邪」は「よこしま」で「卑字」だとされていますが、古田氏は「俾」は「へりくだった謙譲語」で、「邪」は鬼道に仕える女王の治める国とはどんなところか、という「謎・疑問」を表す言葉だとしました。考えてみれば、いち早く魏に臣従し、莫大な恩賞や称号を与えた俾弥呼に、「よこしまな国のいやしい者」などという呼び名を付けるはずは無かったのです。そんな者に臣従されたと思われたなら、明帝の沽券にかかわります。
古田氏の言うように、俾(ひ 卑)は「従う」という意味ですから、魏に臣従した俾弥呼に相応しい用字です。『尚書』では「率俾(そっぴ 臣服する)」の用語で、海の果てまで臣服しないものはないと記しますが、これは周に臣服し鬯草を献じた東夷の倭人を意識して書かれたもので、俾弥呼もこのエピソードに重ねられたものでしょう。
◆『尚書」(周公条)「海隅、日を出だす。率俾そっぴせざるはなし」
なおササン朝ペルシャ滅亡時の王子で、唐に臣従し都督に任命されたペーローズにも「卑路斯」と「卑」の字が充てられています。
古田氏以前は(今でも)「ヒミコ」と読むのが通常ですが、『魏志倭人伝』では対海国・一大国の「卑狗」、狗奴国の男子王「卑狗」のように、「コ」には「狗」が充てられています。また「姫(ヒメ)・彦(ヒコ)、乙女(オトメ)・男(オトコ)」のように、古代「コ」は男性を指す言葉でした。そして「呼」の本字は「乎(カ)」で、『三国史記』新羅本紀には「卑弥乎」とあります。
加えて、古田氏は「呼」は「コ」ではなく「カ」と発音する場合、「神に捧げる犠牲に加えた切り傷」を意味することから、俾弥呼を「ヒミカ」と読むのが「鬼道に仕える女王」に相応しいのだとされました。
◆『漢書』(高帝紀)應劭おうしょう曰く「釁きん、祭なり。牲を殺し血を以て鼓釁呼を塗り釁(きん *ちまつり)とす。」『説文』裂(さける)・・あるいは呼かとなす。(古田氏による)
また古田氏は、俾弥呼とは「日の甕(みかカメのこと)」、つまり「神聖な甕」の意味で、『筑後国風土記』に記す、筑紫の君・肥の君から共立され、「あらぶる神」を鎮めたという「甕依みかより姫」とは俾弥呼のことだとされています。博多湾岸の須玖岡本遺跡や、怡土平野の三雲・平原遺跡などの甕棺からは、絹に包まれ漢鏡や玉に囲まれた、貴人と考えられる遺骸が発掘されます。これは、筑紫が「甕棺」の最も盛行し尊重された地域であり、俾弥呼がその女王「甕依姫」だったことを示唆するものです。
◆『筑後国風土記』昔、此の堺の上に麁猛あらぶる神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極いたく多さはなりき。因りて人の命尽つくしの神と日ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫を祝はふりと為して祭る。爾それより以降このかた、路行く人、神に害そこなはれず。是を以ちて、筑紫の神と日ふ。
文中にある「今」は「令」の誤りとされていますが、古田氏は原文改訂を否とし、原文通り「今の筑紫の君」が正しいとされました。そうすることによって、「今」即ち七世紀まで俾弥呼の系統が続いて筑紫を統治していた意味となります。これは「倭国」は「ゐ国」で、遥か古代から倭国・九州王朝「大委」を自称した七世紀まで続いてきたことを、重ねて示すものと言えるでしょう。
(参考)古田武彦『邪馬「台」国はなかった』・『風土記にいた卑弥呼』(朝日文庫一九八八)・『吉野ケ里の秘密』(光文社一九八九)・『ここに古代王朝ありき―邪馬一国の考古学』(朝日新聞社一九七九)ほか多数。(それぞれミネルヴァから復刊されています)
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