2017年 6月12日

古田史学会報

140号

1,七世紀、倭の天群のひとびと
 ・地群のひとびと
国立天文台 谷川清隆

2,前畑土塁
 と水城の編年研究概況
 古賀達也

3,「白鳳年号」は誰の年号か
 合田洋一

4,高麗尺やめませんか
 服部静尚

5,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(上)
 正木 裕

6,西村俊一先生を悼む
古田史学の会・代表 古賀達也

 

古田史学会報一覧

太宰府を囲む「巨大土塁」と『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城 (会報138号)

 「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下)


「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上)

川西市 正木 裕

一、古田史学の根幹「『書紀』天武・持統紀をそのまま信頼してはならない」

1、盗まれた九州王朝の天子の吉野行幸

 古田武彦氏の特筆すべき事績に『日本書紀』の史料批判がある。通説では「『書紀』の天武・持統紀は信頼できる」とされるが、氏は、「『書紀』は近畿天皇家の統治を正当化するための書で、その目的に沿って九州王朝の史書から盗用し、事実を改変するという手法で編纂されている。天武・持統紀もその例外ではない」とされた。これは古田史学の根幹ともいうべき思想だ。
 そして、その根拠として「持統天皇の吉野行幸」を挙げられた。
 『書紀』記事では、持統天皇は持統三年(六八九)から十一年(六九七)にかけて「三十一回吉野に行幸」しているが、古田氏は、この行幸があったのは三十四年前の斉明元年(六五五)から天智二年(六六三)のことで、「持統」ではなく「九州王朝の天子」が、「奈良吉野」ではなく、朝鮮半島出兵の軍事基地「佐賀なる吉野」へ行幸した、この事績を、九州王朝の史書から盗用し「三十四年繰り下げ」たのだとされた。
 この点につき古田氏は、次のように解説している。
➀佐賀には吉野ケ里など「吉野」地名が存在し、万葉歌で大宮人が「舟遊び」し「滝の都」があるとされる「吉野の河」は、奈良吉野川にあてはまらず、吉野山から流出し、佐賀吉野を流れる嘉瀬川が相応しい。

②真冬でも季節を問わず行幸しているのは、冬季は極寒地となる奈良吉野山に相応しくない。

③持統十一年四月が最後の行幸記事だが、その三十四年前は天智二年(六六三)で、白村江直前に当たる。この「吉野行幸終了」は、「敗戦後」に軍事行動が消滅したからだと考えれば説明できる。

④『書紀』では持統八年(六九四)四月の「丁亥の日」に持統が吉野宮から帰ったと書かれているが、同年四月に「丁亥の日」は存在せず、三十四年前の斉明六年(六六〇)四月なら存在する、等だ。

 氏は、この論証を踏まえ「壬申の乱」は、単なる近畿における近畿天皇家内部の権力闘争ではなく、九州から東国に及ぶ「大乱」であり、唐や九州王朝の薩夜麻の支援を受けた天武の近江朝討伐戦だ、との見解に進んだことは周知のことだろう。(註1)

2、「実証」は不可能だが「論証」方法はある

 しかし、九州王朝の天子が佐賀吉野に行幸したと言う史書や金石文等が残っているはずもないため、これを「実証」する方法はない。そこで、

◆➀万葉歌に誇張表現があるのは常の事。かつ、現在の水量から過去に舟遊びが困難だったとは判断できない。滝とは「水激たぎる」という意味。②天武と共に最大の危機を乗り越えた吉野の地を、崩御後に天武を偲んで頻繁に訪れるのは自然のこと。③『書紀』は持統十一年で終わり、持統は退位するから行幸記事が無いのも当然。④斉明七年(六六一)四月(二三日)にも、天智元年(六六二)四月(二八日)にも「丁亥の日」が存在するから「三十四年前」とは限らない、

といった指摘・反論も見受けられる。
 ただ、古田氏の「学問は実証よりも論証を重んじる」との言葉に基づき、『書紀』で「三十四年前から繰り下げられたと考えれば合理的に説明(論証)できる記事」を他に数多く見いだせば、古田論証を補強できることになろう。

 

二、「九州王朝の天子」とは誰か

 そこで古田氏が採用した「三十四年前の記事と対比する」という「方法・手法」を用いて古田論証を確かめると同時に、六五五~六六三年に「佐賀なる吉野へ行幸した九州王朝の天子」が誰なのかを明らかにし、その事績に迫ってみたい。

1、『旧唐書』にいた「高表仁と礼を争った王子」

 七世紀最初の九州王朝(俀国)の天子は、上宮法王とされる多利思北孤で、彼は「釈迦三尊光背銘」によれば六二三年に薨去している。これは同年九州年号が「仁王」と改元されていることからも裏付けられよう。
 次代の天子は、『隋書』で多利思北孤の太子と書かれている「利(利歌弥多弗利)」となろう。彼は『善光寺縁起集註』によれば命長七年(六四六)善光寺如来に「助我濟度常護念(*我が済度を助け常に護らせたまへと念ず)」との文書を残し崩御したと考えられている。(註2)
 そして、『旧唐書』には、「利」の天子時代の六三一年に、王子が唐から派遣された使者高表仁と礼を争ったと記されている。
◆『旧唐書』(倭国伝)貞観五年(六三一)(略)新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。

 従って、「利」の崩御後六四七年に即位したのは、六三一年当時に高表仁と礼を争った王子となろう。

2、「利」の崩御と「常色じょうしきの君」の即位

 この天子の正式な名は明らかではないが、即位に伴い九州年号は常色(六四七~)と改元されているから、仮に「常色の君」と呼んでおく。(註3) 『書紀』では六四七年(大化三年)正月朔日に高麗・新羅が朝貢しており、こうした半島諸国揃っての正月の朝貢は例がなく、通常の賀正礼では考え難いが、「常色の君の即位・九州年号常色改元祝賀」のための朝貢なら頷ける。
 そこで『書紀』の「三十四年後」の記事を見ると、命長七年(六四六)の「利」の崩御の三十四年後、天武九年(六八〇)末には天皇の病と「臘子鳥あとり天を蔽かくして飛ぶ」という凶兆(註4)が記されている。
 また、翌天武十年(六八一)正月には幣帛が諸神に参向され、天社・地社の神の宮の「修理」が命じられている。
◆「諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理おさめつくらしむ。」
 近年に「常色三年(六四九)六月十五日在還宮為修理祭礼」と記した『赤渕神社縁起』が発見されたが、これは「天社・地社修理」記事が、常色期から繰り下げられたことを示すものだ。(註5)
 また、天武十年五月には「皇祖の御魂を祭る」、閏七月には、皇后が経を京内の諸寺に説かせたとの記事があり、「皇祖」とは誰か、何のための説教なのか未詳とされている。しかし、三十四年前ならこれも「利」の葬儀の一端として理解できる。
 このように、古田氏の言う「『書紀』記事の三十四年の繰り下げ」によれば「利」の崩御は六四六年、「常色の君」の即位は六四七年となり、『善光寺縁起集註』の内容や「常色改元」とよく整合する。
 従って、「常色の君」こそ六五五~六六三年に「佐賀なる吉野に行幸した九州王朝の天子」ということになろう。

 

三、「常色の君」の事績

1、「律令制定」

 次に天武紀の記事と三十四年前の記事を対比し、「常色の君」の事績を明らかにしていく。まず「律令制定」から始めよう。
 天武十年(六八一)二月には「律令を定め法式を改める」詔が出され、通説では「天武の飛鳥浄御原律令制定の詔」とされている。
◆二月甲子(二五日)「朕、今より更また律令を定め法式を改めむと欲おもふ。故に倶に是の事を修ともめよ。」
 しかし一方、『書紀』で三十四年前の六四七年(常色元年)には「小郡を壊ちて宮営つくる。小郡の宮に処して礼法を定む」と書かれている。「礼法」とあるが、『令義解・令集解』に記述されるものと同様の内容で(岩波註)、律令の「令」にあたるものだ。
◆其の制に曰はく、「凡そ位有たもちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列つらなりて、日の初めて出ずるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍べること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾撃つかむ吏つかさは、赤の巾ちぎりを前に垂れよ。其の鍾の台は中庭に起てよ」といふ。
 また、翌天武十一年(六八二)三月から四月にかけて服装から髪の結い方まで細かい詔が出され、さらに八月に「礼儀言語の状」、九月に「難波朝の立礼を用いよ」との詔が発せられている。

◆九月壬辰(二日)、勅したまはく、「今より以後、跪礼きれい・匍匐礼ほふくれい、並に止めよ。更に難波朝庭の立礼を用ひよ。」

 これらはすべて「礼法」の内容であり、本来三十四年前の六四八年の記事であれば、六四七年に定めた「礼法」の細目を布告したものと考えられよう。こうした「相次ぐ」詔発は、六四七年記事に「今日明日、次でて続ぎて詔らむ」とあることとも整合する。
 さらに、六八二年四月に筑紫太宰が「大なる鐘」を献上しており、何のための鐘で、どこに備えるのか不明だが、これも六四八年であれば小郡の宮における「鍾の台は中庭に起てよ」との詔が出されたのと符合する。

 また、六四七年に「七色一十三階の冠制」が布告され、『書紀』には詳細な内容が記述されている。すでに推古十二年(六〇四)には「冠位十二階制」が定められているから、これは「制定」ではなく、「改正・改める」もので、天武十年(六八一)の「法式を改める」との詔の文言どおりとなるのだ。
 そして、六八一年四月には「禁式九十二条」が布告されるが、これは「位階によって服装の色や素材を変える」というもので「七色一十三階の冠制」と同内容の法式であることがわかる。かつ「辞は具つぶさに詔書に有り」としつつ、その詔は書かれていない。この「具つぶさな詔」の部分が、三十四年繰り下げられる前の六四七年記事に残されたのだとすると、書かれなかった詔が出現するのだ。
 従って、天武十年(六八一)の「律令を定め法式を改める」詔は、天武のものではなく、「常色の君」が常色元年(六四七)に発した詔で、「律令法式」は九州王朝の「律令法式」だと考えられる。そして天武十一年(六八二)三月の「新字一部四十四巻を造れ」との詔も、三十四年前の六四八年のもので、「新字」とは九州王朝の律令を記す巻物だと考えられるのだ。(註6)

2、「小郡の宮」の造営者は「常色の君」

 それでは六四七年に造られた「小郡の宮」とはどこにあった宮なのだろうか。通説では「難波小郡の迎賓施設」か、とするが、位置や遺跡は明らかでないうえ、吏員の日常の出退勤の時刻作法等を内容とする礼法を、「迎賓施設」で定めるというのには違和感がある。
 一方、『書紀』持統三年(六八九)に「筑紫小郡」で新羅使を接待した記事がある。これも博多湾岸の迎賓施設とするが、同様に位置や遺跡等が不明なのだ。
◆持統三年(六八九)六月乙巳(二四日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に設たまふ。

 ところが、筑紫にはもう一つ「小郡」がある。それは上岩田遺跡や井上廃寺、官衙遺跡などの大規模な遺跡が集中する「筑紫小郡(福岡県小郡市)」だ。上岩田遺跡には、東西約十八m南北約十五m米、高さ約一米m強の大きな基壇と、その上に築かれた瓦葺建物(*金堂とみられる)や、その周囲の大型の掘立柱建物群が見つかり、筑紫大地震(六七八)による亀裂・倒壊の跡や「山田寺式瓦」から七世紀中期に存在していたことが分かる。小郡市教育委員会は「調査から、寺院とこの建物群が一体となって役所を構成していたとみられる」とする。
 また、井上廃寺跡には、かつて方二町程度の寺院域と七堂伽藍を有した大寺があったと推定され、「井尻」周辺の湧水を源とする堀川(*「長者堀」という)に囲まれている。難波や博多湾岸の小郡比定地と違い、れっきとした役所(宮)や寺院の遺跡が確認できるのだ。

3、筑紫小郡の宮は「飛鳥浄御原宮」と呼ばれていた

 なお古田氏は、井上廃寺のある旧井上村には「井上村飛鳥(ヒチャウ)」地名が確認され(註7)、「浄い湧水」に囲まれていること等から、この「筑紫小郡」を「飛鳥」、その宮を「浄之宮」とされている(同『壬申大乱』)。
 確かに、上岩田遺跡や井上廃寺は旧「御原郡」に属するから「浄の御原の宮」と呼ばれる「資格」は十分にある。しかしそれだけではなく、筑紫小郡は「飛鳥(『あすか』)の宮」と呼ばれていた可能性が高いのだ。

     (次号に続く)

(註1)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林 二〇〇一年十月。ミネルヴァ書房二〇一二年八月)

(註2)「済度」は極楽往生。古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代ー試論・九州王朝史の復原」
(『新・古代学』第五集二〇〇一年新泉社)

(註3)『書紀』継体二四年二月条に「継体の君」という呼称例がある。

(註4)筑紫地震の前にも同様の記事があるうえ、「天を蔽(かく)す」とは天子の崩御を暗示する。

(註5)「赤渕神社」兵庫県朝来市和田山町枚田二〇一四。祭神は大海龍王神 赤渕足尼神 表米宿禰神。『赤渕神社縁起』は天長五年(八二八)成立で、「常色・朱雀」等の九州年号が記されている。

(註6)「持統三年(六八九)六月、諸司に令一部二十二卷班ち賜ふ」とあり、『養老律令』は律十巻、令十巻と律・令の巻数が同じであることから、令が二十二卷なら律も同様で、計四十四巻だった可能性が高い。

(註7)明治前期の「全国村名小字調査書」(第四巻、二八九頁)に「井上村飛鳥(ヒチャウ)」とある。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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