2017年 6月12日

古田史学会報

140号

1,七世紀、倭の天群のひとびと
 ・地群のひとびと
国立天文台 谷川清隆

2,前畑土塁
 と水城の編年研究概況
 古賀達也

3,「白鳳年号」は誰の年号か
 合田洋一

4,高麗尺やめませんか
 服部静尚

5,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(上)
 正木 裕

6,西村俊一先生を悼む
古田史学の会・代表 古賀達也

 

古田史学会報一覧

文字伝来 (会報139号)
十七条憲法とは何か (会報145号)


高麗尺やめませんか

八尾市 服部静尚

一、高麗尺についての認識

(一)現状の史学者・考古学者の一般的な認識は次のように考えられます。
 日本に唐制が導入されて大宝律令で大尺・小尺を制定している。しかし大宝令以前に高句麗から渡来した大尺より二寸長い(つまり1.2倍の)高麗尺が普及していたので、発掘遺跡や遺物が高麗尺基準であるかどうかが年代推定の一つの根拠になる。
これを以下仮に「高麗尺認識」と言います。

(二)これに対して、一般的な認識は(ウィキペディアによると)次の通りです。
 高麗尺は古代における尺度。大宝令で導入された唐尺(約29.7㎝)に対し、それに先行する1.2倍の長さ(約35.6㎝)の古尺。令集解が高麗法と述べるもので、史料上には高麗尺という用語はない。尺の実物が伝存しないこと、建造物の基準尺として確認されていないことなどから、その存在を疑問視する見解もある。


二、「高麗尺認識」の根拠

(一)江戸中期の学者荷田在満が『度制略考』の中で、大宝令の小尺は唐の大尺で今の曲尺(約30.3㎝)のことで、大宝令の大尺は高麗の度地尺(約36.4㎝)であるとしました。令集解※(九世紀前半、養老令の私撰注釈書)に、高麗法といわれた制度、高麗術といわれた田地測量の方法の記載があって、在満はそこから「高麗尺」という二寸長い尺の存在を浮かび上がらせたのが始まりです。(ただし、先にあげた大宝律令の大尺の1.2倍が高麗尺とするのとは違って、在満は大尺が高麗尺と言っています。)

※令集解の該当部分の要訳
養老令雑令では「地を測るに五尺で一歩」だが、和銅六年の格では「六尺で一歩」となっている。しかし令も格も田積を改めたとはしていない。令の五尺を一歩とするのは、地を測るに高麗法を用いるが便利だからで、この尺は長大に作ってあり、二五〇歩で一段で、これを高麗術という。高麗の五尺は今尺の大六尺に相当する。だから格で六尺を一歩というのはその大きさに変わりが無い。

(二)その淵源は何かと言うと、隋書律暦志によると、「東後魏尺」が「晋前尺(23㎝と仮定すると)」で一尺五寸八毫(約34.5㎝)であって、東魏(五三四~五五〇年)および北斉(五五〇~五七七年)で採用されたとあり、これが朝鮮半島を経由して日本に伝わったものとしています。

(三)以上の根拠より高麗尺認識が形成されて、史学者・考古学者の大御所先生による次のような研究が報告されています。
①関野貞氏は、一九二九年『飛鳥時代の建築の起源と其特質』で、「法隆寺は唐尺では寸法が合わない。唐尺よりも古い高麗尺が使われている」

②岸俊男氏は、一九八七年『都城の生態』で、「中ッ道―下ッ道の間隔二一一八mは高麗尺(35.3㎝)で六〇〇〇尺、藤原京の一坊は高麗尺の七五〇尺約二六五m」とされる。ところが舘野和己氏は、二〇一五年『古代の都市と条理』で、「藤原京・平城京の大路は一八〇〇尺(約五三二m)、坊は縦横四五〇尺(約一三三m)とする。つまり一尺29.5㎝としています。

③井上和人氏は、二〇〇四年『古代都城制条里制の実証的研究』で、「藤原京の土地測量は令大尺=高麗尺が基準」(井上氏は在満と同じく大宝令の大尺が高麗尺としています。)

中国の時代と西暦年 尺長さ 備考
殷▼~BC1000年 15.78~16.93cm 殷墟出土骨尺(故宮博物院蔵)他計2点
17.0cm 伝安陽出土(南京博物館蔵)
戦国~BC221年 22.7~23.1cm 伝長沙出土(羅振玉蔵)他計6点
前漢▼~5年 23.3cm 牙尺(北京歴史博物館蔵)他計3点
23.3cm 銅尺拓本計2点
23.4cm 牙尺(白鶴美術館蔵)
新~23年 23.1cm 甘粛定西県出土拓本王莽度
後漢▼~220年 23.0~23.6cm 伝長沙出土銅尺(北京歴史博物館蔵)他計7点
22.8~23.9cm 牙尺(白鶴美術館蔵)他、骨尺、竹尺以上計3点
魏~265年 24.3cm 正始弩尺、弩桟に刻まれたもの
劉宋~479年 24.7cm 骨尺(北京歴史博物館蔵)他計2点
梁~557年 24.8~25.2cm 銅尺(白鶴美術館蔵)他計4点
唐▼618~907年 28cm 陝西出土石尺(陝西文管会蔵)
29.6~31.1cm 牙尺(正倉院蔵)他計7点
29.9~31.4cm 銅尺(北京歴史博物館蔵)他計6点
宋~1279年 27~32.9cm 北京歴史博物館蔵他計8点
明~1644年 32cm 故宮博物院蔵他計2点
清~1912年 31cm 羅振玉蔵
34.3cm 羅振玉蔵(量地尺)
34.9~35.3cm 羅振玉蔵他計2点(裁衣尺)

表1:「尺ものさし」の出土品・伝承品の中国時代別一覧(小泉袈裟勝『ものさし』等より)

三、唐制の大尺・小尺と大宝律令の大尺・小尺

(一)唐律疏義(六五二年編纂の唐律の注釈書)によると、
◆「度以秬黍中者一黍之廣為分十分為寸十寸為尺一尺二寸為大尺一尺十尺為丈」

(二)令義解(大宝律令の注釈書)によると、
◆「凡度十分為寸、〈謂度者、分寸尺丈引也、所以度長短也、分者、以北方秬黍中者一之廣為分、秬者黑黍也、〉十寸為尺、〈一尺二寸為大尺一尺〉十尺為丈」
【私訳】およそ度(長さ測る単位)は十分を一寸とする。度は分・寸・尺・丈・引を以てその長短を表す。分は、北方の秬黍(くろきび=コーリャン)の中程度の一粒の幅を一分とする。十寸を一尺とする。一尺二寸を大尺の一尺とする。十尺を一丈とする。

 両者の比較で判るように、大宝律令の大尺・小尺規定は唐の律令とほぼ同じです。
 ここで計量史研究者の小泉袈裟勝氏よると、現代の秬黍は一粒平均2.4㎜程度のようです。そうすると、十粒=一寸で約2.4㎝、十分=一尺=約24㎝。小尺1.2尺=大尺は約29㎝となります。もちろん古代の秬黍が現代と変わらないとしての話ですが。

四、「ものさし」の出土品・伝承品との対比

 尺は親指と他の指を拡げた象形文字で、そこからすると元々は17~18㎝の長さであったと考えられますが、まさしく表1を見ると殷の「ものさし」はそうなっています。その後、戦国時代から漢以降、三国時代・魏晋朝には身体尺からはほど遠い23~24㎝に延びています。前項の秬黍で推測した唐の小尺約24㎝はこれらの尺を踏襲していると考えられ、 大尺の推測寸法約29㎝は唐時代の「ものさし」にほぼ一致しています。これに対して高麗尺と言う35㎝前後の「ものさし」は清の時代まで現れません。
 日本国内の「ものさし」出土品および伝承品も次のとおり小尺・大尺の推測寸法に合致します。ここでも高麗尺と言う35㎝前後の「ものさし」はありません。

①正倉院蔵の「ものさし」5点、29.6~30.4㎝
②法隆寺象牙尺(伝太子遺物)29.6㎝
③陸奥国慧日寺瑠璃尺29.16㎝
④東寺金蓮院尺(背に大師所有と有り)24.6㎝
⑤槇尾尺(背に東寺一體と有り)24.8㎝
⑥大宰府蔵司跡発掘の木簡「ものさし」平均で一寸=2.95㎝

五、「東後魏尺」(約34.5㎝)は本当にあったのか

 東後魏尺は『隋書律暦志』に初めて出てくる尺です。これを詳しく見てみます。

◆隋書巻十六律暦志《史記》曰「夏禹以身為度以聲為律」《禮記》曰「丈夫布手為尺」《周官》雲「璧羨起度」鄭司農雲「羨長也此璧徑尺以起度量」《易緯通卦驗》「十馬尾為一分」《淮南子》雲「秋分而禾緌定緌定而禾熟律數十二而當一粟十二粟而當一寸」緌者禾穗芒也《説苑》雲「度量權衡以粟生一粟為一分」《孫子算術》雲「蠶所生吐絲為忽十忽為秒十秒為毫十毫為厘十厘為分」此皆起度之源其文舛互唯《漢志》「度者所以度長短也本起黄鐘之長以子穀秬黍中者一黍之廣度之九十黍為黄鐘之長一黍為一分十分為一寸十寸為一尺十尺為一丈十丈為一引而五度審矣」後之作者又憑此説以律度量衡並因秬黍散為諸法其率可通故也黍有大小之差年有豐耗之異前代量校毎有不同又俗傳訛替漸致增損今略諸代尺度一十五等並異同之説如左
【私訳】史記によると「夏の禹は身体基準で長さを測り、そこから発生する音で音階を決めた」。礼記によると「成人男子の布を丈とし手を尺とした」。周官によると「璧の径を尺とし、これを以て度量が始まった」。易緯通卦験によると「馬の尾毛十本を一分とする」。淮南子によると「秋分の禾が熟した時の禾穂の毛を定め、十二本を一粟とし、十二粟を一寸とする」。説苑によると「粟を以て度量をはかり一粟を一分とする」。孫子算術によると「蚕の糸を忽とし、十忽を一秒、十秒を一毫、十毫を一厘、十厘を一分とする」これらは皆長さ測量の起源であるが互いに違っている。漢志(漢書巻二十一律暦志のこと)では「度は分・寸・尺・丈・引を単位としてその長短を表す。元、黄鐘の長さ規定に始まる。中ぐらいの秬黍の幅を基準に、九十黍を黄鐘の長さとする。一黍を一とし、十分を一寸、十寸を一尺、十尺を一丈、十丈を一引とする五段階の単位である」とあって、律および度量衡は秬黍による諸法に従うわけである。しかし黍にも大小の差があり、年によってその実り厚みも異なるので、前代のそれぞれの尺度は同じではない。又、伝承にも傾向があって増減している。

 今、諸代の尺度を十五種類並べて比較してみると次のようになる。

一、周尺(漢代の「ものさし」より次の晋前尺を23㎝と仮定します)
《漢志》王莽時劉歆銅斛尺後漢建武銅尺晋泰始十年荀勖律尺為晋前尺(以下省略)

二、晋田父玉尺(23.2㎝)梁法尺 實比晋前尺一尺七厘(以下省略)

三、梁表尺(23.5㎝)實比晋前尺一尺二分二厘一毫有奇(以下省略)

四、漢官尺(23.9㎝)實比晋前尺一尺三分七毫(以下省略)

五、魏尺杜夔所用調律(24.1㎝)比晋前尺一尺四分七厘(以下省略)

六、晋後尺(24.4㎝)實比晋前尺一尺六分二厘。(以下省略)

七、後魏前尺(29.2㎝)實比晋前尺一尺二寸七厘

八、中尺(27.9㎝)實比晋前尺一尺二寸一分一厘

九、後尺(29.5㎝)實比晋前尺一尺二寸八分一厘(以下省略)

十、東後魏尺(34.5㎝)實比晋前尺一尺五寸八毫

此是魏中尉元延明累黍用半周之廣為尺 齊朝因而用之 魏收《魏史・律暦志》雲「公孫崇永平中更造新尺以一黍之長累為寸法尋太常卿劉芳受詔修樂以秬黍中者一黍之廣即為一分而中尉元匡以一黍之廣度黍二縫以取一分三家紛競久不能決大和十九年高祖詔以一黍之廣用成分體九十之黍黄鐘之長以定銅尺有司奏從前詔而芳尺同高祖所制故遂典修金石迄武定未有論律者」

  -- ここで魏書律暦志が引用されていますので魏書の原文を見ましょう。
魏書巻一〇七律暦志〓永平中崇更造新尺以一黍之長累為寸法尋太常卿劉芳受詔修樂以秬黍中者一黍之廣即為一分而中尉元匡以一黍之廣度黍二縫以取一分三家紛競久不能決太和十九年高祖詔以一黍之廣用成分體九十黍之長以定銅尺有司奏從前詔而芳尺同高祖所制故遂典修金石迄武定末未有諳律者
【私訳】北魏の永平中(五〇八~五一二年)に、(公孫)崇が新しく尺を変更し、一黍の長さを以て、これを累ね寸とした。太常卿の劉芳は詔を受け樂を修めて、中ぐらいの秬黍の一粒の幅を一分とした。一方、中尉の元匡は一黍の幅を二つ縫って、これを以て一分とした。この三家が競ったが久しく決することがなかった。北魏の太和十九(四九五)年に高祖(孝文帝)が「一黍の幅を以て分とし、九〇黍の廣で以って黄鐘の長さとする。以て銅尺を定めること」とした従前の詔を持ち出して、この高祖の定めた尺とした。故に故事にならって金石を修めたわけである。武定(五四三~五五〇年)末まで、未だ律を論ずるなし。)―

十一、蔡邕銅籥尺(26.6㎝)後周玉尺,實比晋前尺一尺一寸五分八厘(以下省略)

十二、宋氏尺(24.5㎝)實比晋前尺一尺六分四厘(以下省略)

十三、開皇十年萬寶常所造律呂水尺(26.6㎝)實比晋前尺一尺一寸八分六厘(以下省略)

十四、雜尺趙劉曜渾天儀土圭尺(24.2㎝)長於梁法尺四分三厘,實比晋前尺一尺五分

十五、梁朝俗間尺(24.6㎝)長於梁法尺六分三厘于劉曜渾儀尺二分實比晋前尺一尺七分一厘(以下省略)

(一)隋書律暦志に記載された十五種類の尺を整理すると、一番目の周尺=晋前尺の23㎝から、二番目・三番目・四番目・五番目・六番目・十一番目・十二番目・十三番目・十四番目、そして十五番目の24.6㎝まで、合計十一種の尺は、この次の時代の唐の小尺に近い、23~26.6㎝の範囲に収まる尺です。この尺は漢以降南朝系に伝わったものと言えます。
 そして七番目の後魏前尺29.2㎝、八番目の27.9㎝、九番目の29.5㎝の三種は、次の時代の唐の大尺につながる29㎝前後の尺と言えます。こちらは北魏以降新しく北朝系に伝わったものと考えられます。

(二)これらとは異質の尺が、十番目の東後魏尺34.7㎝です。この尺は北魏の(御史)中尉の元延明によって、黍の半周の長さを基準にして決められたとあります。確かに黍の直径と半周の関係ですから約1.5倍のこの尺の説明には合致しています。
 ところが、これがその制定経緯を説明するために引用された魏書律暦志の内容と合致しないのです。
 魏書によると、太常卿の劉芳は「秬黍の一粒の廣(幅)を一分とする」とし、公孫崇は「秬黍の一粒の長さを一分とする」とし、(御史)中尉の元匡は「秬黍の一粒の廣二つ縫って一分とする」と、三者で異なる基準で競って結論が出なかったが、結局それ以前に出されていた孝文帝の詔に従って劉芳の基準となったとあるわけです。
―ここで、劉芳の尺は現代の秬黍のサイズから24㎝前後、公孫崇の尺は廣(幅)でなく長さ(十三世紀南宋の王応麟が編纂した『玉海』巻八によると、「永平中公孫崇造樂尺以十二黍為寸劉芳非之更以十黍為寸」)とあるので、その1.2倍程度の29㎝前後、御史中尉の元匡の尺は(二つ縫ってという点が判りにくいのですが、これを)半周のことと推測すると1.5倍の36㎝前後と考えられます。
 しかも、隋書律暦志の東後魏尺の説明冒頭に、北魏の中尉の元延明が決めたとありますが、引用された魏書の方では元匡となっています。両者は同時期の別人であって、孝明帝初年(五一五)元匡は御史中尉(第三品上)、元延明の方は待中(第二品上)の官位で、元匡はこれが最高位、元延明の方はこの後大司馬(第一品上)まで昇進しています。つまり、東後魏尺説明冒頭の話は人名・官位に間違いがあるのです。

(三)更に、この隋書律暦志の記載は、後の時代の宋史律暦志にも次のように引用されています。
◆宋史巻七一律暦志
度尺寸依隋書定尺十五種上之藏于太常寺一周尺與漢志劉歆銅斛尺後漢建武中銅尺晉前尺同二晉田父玉尺與梁法尺同比晉前尺為一尺七釐三梁表尺比晉前尺為一尺二分二一毫有竒四漢官尺比晉前尺為一尺三分七毫五魏尺杜夔之所用也比晉前尺為一尺四分七六晉後尺晉江東用之比晉前尺為一尺六分三釐七魏前尺比晉前尺為一尺一寸七釐八中尺比晉前尺為一尺二寸一分一釐九後尺同隋開皇尺周氏尺比晉前尺為一尺二寸八分一釐十東魏後尺比晉前尺為一尺三寸八毫十一蔡邕銅龠尺同後周玉尺比晉前尺為一尺一寸五分八釐十二宋氏尺與錢樂之渾天儀尺後周鐵尺同比晉前尺為一尺六分四釐十三宋氏尺制大樂所裁造尺也十四雜尺劉曜渾儀土圭尺也比晉前尺為一尺五分十五梁朝俗尺比晉前尺為一尺七分一釐太常所掌又有後周王朴律準尺比晉前尺長二分一釐比梁表尺短一釐有司天監影表尺比晉前尺長六分三釐同晉後尺有中黍尺亦制樂所新造也其後宋祁田

 判りやすくするため、隋書・宋史それぞれの記述を表2に比較します。

  隋書律暦志 宋史律暦志
1 周尺 1 周尺 1
2 晋田父玉尺 1.007 晋田父玉尺 1.007
3 梁表尺 1.0221 梁表尺 1.0221
4 漢官尺 1.037 漢官尺 1.037
5 魏尺 1.047 魏尺 1.047
6 晋後尺 1.062 晋後尺 1.063
7 後魏前尺 1.27 魏前尺 1.107
8 中尺 1.211 中尺 1.211
9 後尺 1.281 後尺 1.281
10 東後魏尺 1.5008 東魏後尺 1.3008
11 蔡邕銅籥尺 1.1158 蔡邕銅龠尺 1.158
12 宋氏尺 1.064 後周鐵尺 1.064
13 律呂水尺 1.186 大樂所裁造尺  
14 趙劉曜渾天儀土圭尺 1.05 劉曜渾儀土圭尺 1.05
15 梁朝俗間尺 1.071 梁朝俗尺 1.071

表2:隋書および宋史律暦志の尺記載比較▼

 東後魏尺が東魏後尺となっているなど一部表記が一致しない点がありますが、宋史律暦志に隋書から引用したとあるので写本の相違はあるとしても同じ尺の記述です。
ここで、隋書律暦志では東後魏尺を晋前尺の1.5008倍とされているのに対して、宋史律暦志では東魏後尺が晋前尺の1.3008倍とされています。宋史の方が正しいとすれば、東魏後尺は29.9㎝であったことになります。魏書律暦志にある制定経緯記事と併せると隋書の書写もしくは印刷時点での間違いであって、宋史の記載の方が正しいと考えられます。

六、まとめ

 大宝令以前に高句麗から渡来した大尺より二寸長い高麗尺が普及していたとする根拠は、以上の通りすべてに疑問があって論理的な証明ができていません。これを使うべきではありません。
(一)先ず「ものさし」の出土がありません。

(二)中国での尺の変遷から見ても高麗尺は異質のものです。

(三)隋書律暦志に記載の東後魏尺が高麗尺の淵源であるとされていますが、この東後魏尺はその(魏書律暦志にある)制定経緯から辻褄が合わないし、宋史律暦志の記載からみてこの隋書の記載に疑いがあります。実は旧唐書食貨志に「山東地方に唐大尺の一尺二寸に当る山東尺があった」と言う記載があるとする学者もいますが、これも原文をみると「度以北方秬黍中者一黍之廣為分十分為寸十寸為尺十尺為丈(中略)又山東諸州以一尺二寸為大尺」とあって、唐制の小尺大尺の関係に他ありません。

(四)令集解の記載内容から、後代の学者が「高麗尺」の存在を言い立てていますが、あくまで推測・仮説の域をでていません。しかも令集解は九世紀前半の記録であること、田地に限った記述であることも留意すべきです。

(五)史学・考古学の数々の権威が、例えば法隆寺が、飛鳥寺が、藤原京が、中ッ道下ッ道が、高麗尺基準に造られているとされるが、大尺の1.2倍の高麗尺の数十倍・数百倍で合致するのであれば、大尺でも区切りの良い倍数に合致するはずで、証明にはなりません。又、建築物の場合、営造方式でモジュール化されるので、0.9尺とか0.825尺とか0.7尺とかで整数倍基準にはなりません。つまり建築物からは設計図を見ない限り尺寸法の推定はできないわけです。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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