太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼 (会報139号)
井上信正さんへの三つの質問 (会報142号)前畑土塁と水城の編年研究概況
京都市 古賀達也
前畑遺跡土塁の炭片の年代
久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)よりいただいた「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」(西海道古代官衙研究会編、二〇一七年一月二二日)に前畑遺跡筑紫土塁の盛土から出土した炭片の炭素同位体比年代測定値が掲載されていました。
同誌に収録されている「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」(筑紫野市教育委員会 小鹿野亮、海出淳平、柳智子)によれば、「土塁の基盤および土塁を構成する盛土堆積物より出土した炭片」三点の放射性炭素年代測定の結果(補正値)として、「試料こ」BC0―AD89(弥生時代後期)、「試料い」AD238―354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)、「試料き」BC695―540(弥生時代前期)と紹介されています。
紀元前七世紀から紀元四世紀までのかなり年代に差があります。これらの測定値から、土塁築造にあたり使用した土に古い時代の炭片が含まれていたことがわかります。従って、放射性炭素年代測定の結果がそのまま土塁の築造年代を意味しないことをご理解いただけると思います。この炭片の測定値から論理的に言えることは、土塁の築造時期は「試料い」AD238―354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)よりも新しいということであり、築造年代はそれ以外の根拠(出土土器編年など)に依らねばなりません。
「理科学的年代測定値」をそのまま測定サンプルを採取した遺物・遺構の成立年代とすることは科学的ではないのです。
前畑遺跡土塁に地震の痕跡
前畑土塁出土の炭片の放射性炭素年代測定値から、土塁の築造時期は「試料い」AD238―354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)よりも新しいということがわかるのですが、他の収録論文によれば推定築造年代の下限もわかるようです。
同資料集に収録された松田順一郎さん(史跡鴻池新田会所管理事務局)の「前畑遺跡の土塁盛土にみられる変形構造」に、この土塁には地震による変形の痕跡があることを次のように紹介されています。
「土塁上部東西両肩部の破壊にかかわるせん断面、土塊の移動と、初生の薄層積みおよび土塊積み盛土構造の層理・葉理の変形は、多方向で繰り返す応力によって発達しており、部分的には液状化をともなうと考えられるので、過去の地震動で生じた可能性が高い。」
そして強度が震度6以上と推定されることから、その地震は「筑紫地震(六七九年)」とされ、当土塁が築造されたのは六七九年以前とされました。
「本地域においてそのような強度で発生した古代の地震として六七九年の『筑紫地震』の記録がある。その後にはとくに強い地震の記録はなく、土塁の構築年代はそれ以前と考えられる。」
先の放射性炭素年代測定値と「筑紫地震」の痕跡により、土塁の造営年代を四世紀頃から六七九年の間にまで絞り込むことができたのでした。
「羅城」「関」「遮断城」?
「第9回西海道古代官衙研究会資料集」に収録されている井上信正さん(太宰府市教育委員会)の「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論でした。
中でも前畑土塁の性格について、中国や朝鮮の羅城や城郭との比較により、太宰府防衛のための「水城・前畑土塁は羅城と捉えるよりむしろ『関』に連なる遮断城とみた方がよいのではないか。」との指摘は興味深いものでした。その根拠は、「羅城」は条坊都市を囲んだ城壁を意味するとのことで、水城・前畑土塁は太宰府条坊都市よりもはるかに広大な領域を囲んでいることから、「羅城」との表現は適当ではないとされました。また、水城や前畑土塁には古代官道が通過していることから「関」の役割も果たしており、さらに和歌に「水城の関」と表現された例もあり、「『関』に連なる遮断城」とする井上さんの見解に説得力を感じました。
井上論文では前畑土塁の築造年代についても次のように推定されています。
「出土品から時期判定ができないのは残念だが、その構築方法を観察すると、扶余羅城・水城と比べて退化(あるいは手抜き)しているように見え、後出する可能性もあろう。」(四一頁)
ここでの「構築方法」とは土塁基盤(地山)と版築土塁の間に黒褐色粘土を挟む工法のことで、水城や前畑土塁に共通したものです。こうした視点から、井上さんは前畑土塁の築造時期を水城と同時期かそれよりも遅れる可能性を指摘されています。したがって、先に紹介した放射性炭素年代測定や「筑紫地震(六七九年)」の痕跡とあわせて判断すると、七世紀後半で六七九年以前の築造とする理解が有力と思われるのです。
井上信正さんの問題提起
井上信正さんは太宰府条坊と大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の遺構中心軸がずれていることを発見され、従来は共に八世紀初頭に造営されたと考えられていた条坊都市とその北側に位置する大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は異なる「尺」単位で区画設計されており、条坊都市の方が先に成立したとされました。すなわち、条坊都市は藤原京と同時期の七世紀末、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は従来説通り八世紀初頭の成立とされたのです。
わたしは太宰府条坊都市の造営を七世紀前半頃(九州年号「倭京元年(六一八)」)、政庁Ⅱ期や観世音寺創建を六七〇年頃(九州年号「白鳳十年」)と考えており、井上さんの暦年比定には同意できませんが、条坊都市が先に成立していたとする発見は画期的なものと、わたしは高く評価してきました。そしてその優れた洞察力は前畑土塁や水城などの太宰府防衛遺構についても発揮されています。井上さんの「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論と紹介しましたが、その中でわたしが最も驚いたのが次の問題提起でした。
「中国系都城での『羅城』は条坊(京城)を囲む城壁を指すが、七~九世紀の東アジアには、条坊のさらに外側に全周巡らす版築土塁の構築例は無い。また仮に百済系都城に系譜をもつ『羅城』だったとしても、この中にもうける『居住空間』をこれほど広大な空間で構想した理由・必要性と、後の『居住空間』となる大宰府条坊はそれに比してあまりに狭く、大宰府の拡充に反して街域が縮小された理由も説明されなくてはならない。」(四一頁)
この井上さんの問題提起は次のようなことです。
1.水城や大野城・基肄城・前畑土塁などの版築土塁(羅城)で条坊の外側を囲まれた太宰府のような都城は、七~九世紀の東アジアには構築例が無い。
2.これら版築土塁等よりも後に造営される太宰府条坊都市の規模よりもはるかに広範囲を囲む理由や必要性が従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
3.八世紀初頭、大宝律令下による地方組織である大宰府(政庁Ⅱ期)が造営されているのに、街域(条坊都市の規模)が縮小していることが従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
4.こうした問題を説明しなければならない。
この井上さんの指摘と問題提起は重要です。すなわち、大和朝廷一元史観では太宰府条坊都市とそれを防衛する巨大施設(水城・大野城・基肄城・土塁)が東アジアに例を見ない様式と規模であることを説明できないとされています。考古学者として鋭く、かつ正直な問題提起です。
ところがこれらの問題や疑問に答えられるのが九州王朝説なのです。倭国の都城として国内随一の規模を有すのは当然ですし、唐や新羅との戦いに備えて、太宰府都城を防衛する巨大施設が存在する理由も明白です。他方、七〇一年の王朝交代以後は権力の移動により街域が縮小することも不思議ではありません。このように、井上さんの疑問や問題提起に九州王朝説であれば説明可能となるのです。
水城断面図 大野城市HPより
木樋による水城の造営年代
太宰府条坊や前畑遺跡筑紫土塁の造営年代を判断する上で、水城の造営年代が一つの指標となりますので、その年代研究についても概況を説明します。
水城からは炭素同位体比年代測定データが存在します。一つは水城基底部の敷粗朶、もう一つは基底部に埋設された木樋です。
構造物としての水城は、土塁、濠、導水管として埋設された木樋、東西に置かれた門やそこを通過する官道、中央を貫流する御笠川などで構成されます。土塁は上下に分かれ、上層は版築工法によるものです。下部の基底部の積土の単位は厚く、最下層付近には軟弱な地盤に対する積土の基礎強化を目的とした、枝葉を敷き詰めた敷粗朶工法がみられます。
濠は、土塁の博多側の外濠、太宰府側の内濠とからなり、外濠は土塁に平行する形で幅約六〇m。内濠は土塁と平行する形で一部確認されていますが、全体の規模は不明です。この内濠から取水して外濠へ水を流し込むため、木樋が基底部に埋設されています。約八〇mにわたる大規模なもので、複数発見されています。板材を繋ぎ合わせるための加工方法や、大型の鉄製カスガイを使用するなど高度な建築技術がみられます。
わたしが注目したのが基底部に埋設された木樋です。内倉さんの『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、西暦四三〇年±三〇年とのこと。この測定は一九七四年にまとめらした部分の年輪の年代が五四〇年頃ということがわかります。水城の木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですし、伐採年が五四〇年よりもかなり新しい可能性も有しています。少なく見積もってもこの木樋に使用した木材の伐採年は六世紀後半となるでしょう。そうすると六世紀後半の木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その後に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は六世紀後半から七世紀初頭頃となります。
この木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は七世紀前半に造営された太宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、太宰府条坊都市造営を七世紀前半とするわたしの理解と整合します。
(注)『鞠智城 第十三次発掘調査報告』(平成四年三月、熊本県教育委員会)所収「二一表」
敷粗朶による水城の造営年代
水城造営年代の根拠となる炭素同位体比年代測定値は木樋以外に基底部補強に使用された敷粗朶があり、九州歴史資料館が測定しています。
『多元』(一三八号、二〇一七年二月)や『九州倭国通信』(一八五号、二〇一七年三月)に掲載された内倉武久さんの「太宰府都城の完成は五世紀中ころ」にその測定値が紹介されていますが、出典文献が明示されていませんので調査したところ、『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(九州歴史資料館、二〇〇三年。以下、「調査報告書」と記す)の「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」と「9 水城第三五次調査(出土粗朶 年代測定)」に詳しく記されていました。
内倉稿によると、水城から出土した敷粗朶の年代測定値として最上層出土を中央値六六〇年、中層出土を中央値四三〇年、最下層出土を中央値二四〇年と紹介され、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠の一つとされているようです。しかし、内倉稿にはこれら敷粗朶の出土層位やサンプリング条件などが記されていませんし、どの調査報告書によるのか出典も不明でした。従って、内倉稿だけを読むと、敷粗朶の年代測定値から、水城は三世紀頃から延々と築造され、四〇〇年程かけて七世紀中頃に完成したと思ってしまいそうです。当初、わたしも内倉稿により、そのように誤解していました。
敷粗朶の出土状況
「調査報告書」によると、敷粗朶が検出された水城遺構について次のような説明がなされています。敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたことが従来の発掘調査により知られていました。平成十三年の発掘調査では、調査地の地表から二~三・四m下位にある厚さ約一・五mの積土中に十一面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(約一〇㎝)を交互に敷き詰めたものです。また、以前に発見されていた敷粗朶は水城土塁と平行方向に敷かれていましたが、今回のものは直角方向に敷かれていました。
その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による一・五mの敷粗朶層が、四〇〇年もかけて築造されたものとは思えない出土状況です。単純計算では約四mm/年の築造ペースとなりますが、これはありえないでしょう。
敷粗朶層最上層からサンプリングされた粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値六六〇年を重視すると、敷粗朶層の上の積土層部分(一・四~一・五m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は七世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智三年(六六四)とする記事とも矛盾しないことになります。水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外です。
敷粗朶のサンプリング条件
粗朶の測定サンプルは三点で、その内の一点は地表から発掘を続けて最初に発見された敷粗朶最上層からのサンプルで、「GL-2m」とネーミングされています。測定の中央値が六六〇年とされたものです。最上層敷粗朶面の写真も開示されており、確実に最上層の粗朶と断定できるサンプリング条件であり、サンプルの信頼性も高いものです。
その他の二点について、内倉稿では「中層四三〇年±」と「最下層二四〇年±」と表記されていますが、調査報告書では「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」とネーミングされており、「坪堀」という狭い範囲での発掘で、しかも位置が異なります。層位についてもどちらが深いのか具体的な説明もなく、相対的な深度もよくわかりません。最上層の粗朶とは発掘方法(サンプリング方法)が異なるようで、サンプルの信頼性に差をもたらしているかもしれません。
いずれにしましても、短期間に築造されたと思われる敷粗朶層からの三サンプルの測定値がこれほど異なっているのですから、そのサンプルや測定結果の信頼性が疑われるのも当然です。特に敷粗朶最上層の「GL-2m」とは発掘方法が異なる「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」のサンプルに問題があるのではないかとする判断は妥当なものです。従って、本来なら測定結果からサンプルに疑義が生じた時点で、他のサンプル(合計三二サンプルが採取されています)の測定を実施すべきです。ですから、「調査報告書」に「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」(一四二頁)と記されていることはよく理解できます。九州歴史資料館が再度これらの粗朶サンプルを測定されることを期待します。
おわりに
遺物や遺跡からサンプリングされた木材や炭の炭素同位体比年代測定値をそのまま遺跡や遺物の年代と判断することは困難で、場合によっては誤りでさえあります。水城にしても木樋と敷粗朶の測定値が百年以上異なっており、どちらを重視するかで水城の造営年代が異なることがご理解いただけたと思います。
サンプルの資料性格から考えると、年輪数が少ない敷粗朶の測定値が木樋より適切であり、しかも発掘条件の良さから、最上層の敷粗朶の年代中央値六六〇年を最も重視すべきと思います。そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。
太宰府都城出土の土器編年についても勉強中ですので、九州王朝説による太宰府土器編年を構築したいと考えています。(二〇一七年三月三〇日筆了)
※本稿は「古田史学の会」HPに連載している「洛中洛外日記」から採録したもので、編集にあたり加筆修正を加えました。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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