2019年12月12日

古田史学会報

155号

1,『隋書』俀国伝を考える
 岡下英男

2,「鞠智城」と「難波京」
 阿部周一

3,三種の神器をヤマト王権は
 何時手に入れたのか
 服部静尚

4,難波の都市化と九州王朝
 古賀達也

5,「壹」から始める古田史学・二十一
 磐井没後の九州王朝1
古田史学の会事務局長 正木 裕

6,なぜ蛇は神なのか?
 どうしてヤマタノオロチは
 切られるのか?
 大原重雄

 

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『隋書』における「行路記事」の存在について 阿部周一(会報145号)

『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 行路記事から見える事 (会報148号)

『史記』の中の「俀」 野田利郎(会報152号)

文献上の根拠なき「俀国=倭国」説 日野智貴(会報156号)

『隋書』俀国伝の「俀王の都(邪靡堆)」の位置について(会報158号)

俀王の都への行程記事 -- 『隋書』俀国伝の新解釈(会報158号)


『隋書』俀国伝を考える

京都市 岡下英男

一.はじめに

 多利思北孤で有名な『隋書』俀国伝における最大の問題は、何故「俀」国伝なのか、ということであろう。『隋書』には、倭国と俀国が共存して記載されている。「倭国」と「俀国」はどのような関係にあるのか。
 これについては、すでに多くの議論がなされているが、ここでは「俀国=倭国」であるとする私の考えを述べる。

 

二.『隋書』の中の倭を検索する

 『隋書』全体で「倭」はどのように使われているか。竹村順弘氏(当会事務局次長)編集のDVDD「中国正史」を用いて「倭」を検索した。ただし、データベースとして繁體中文を用いても、俀国伝において、俀は倭に変換されていることが分かったので、検出された倭が、倭であるか、俀であるかは、影印本(国会図書館ディジタルコレクション)で確認した。

 『隋書』の構成は左記である。
帝紀五巻(皇帝に関する出来事)
志三十巻(天文、礼楽など分野別の歴史)
列伝五十巻(個々の人物、周辺の異民族の情報)

 右の中で、「倭」と「俀」は、俀国伝以外では、次の五ヵ所で見つかった。
帝紀 煬帝上
①大業四年三月・・・壬戌、百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。
②大業六年春正月・・・己丑、倭國遣使貢方物。

志 音楽下
③始開皇初定令、置《七部樂》・・・一曰《國伎》、二曰《清商伎》、・・・七曰《文康伎》。又雜有疏勒、扶南、康國、百濟、突厥、新羅、倭國等伎。

列伝 東夷百済
④其人雜有新羅、高麗、俀等、亦有中國人。

列伝 東夷流求國
⑤流求不從、寬取其布甲而還。時俀國使來朝、見之曰:「此夷邪久國人所用也。
 (俀国伝は、流求國の次、列伝の東夷の最後に出てくる。)

 この検索結果から、帝紀と志では「倭」、列伝では「俀」が用いられていることが分かる。これから、次のように考える。
 俀国という名前に関しては、これまで、古田武彦氏らにより、「帝紀の中の倭国」と「列伝の中の俀国」の対比で議論されてきたが(注1など)、そうではなくて、「帝紀・志の中の倭国」と「列伝の中の俀国」という対比で議論されるべきではなかろうか。
 つまり、倭と俀の違いの議論にあたっては、個々の記事の解釈だけでなく、一段遡って、帝紀・志と列伝の性格の違いも考慮すべきであると考える。
 なお、③に挙げた『隋書』志第十「音楽」下にある倭国の記事は、雅楽などに関する音楽史の分野では知られているが、日本と中国の交渉を議論する古代史の分野においては、私の調べた範囲では、取り上げられていない。

 

三.遣使朝貢と伝の有無から俀国=倭国であると考える

 俀国と倭国の関係をどのように考えるか。
 先に示したように、『隋書』帝紀の中には、倭国の二回の遣使朝貢が記録されている。一回は百済などと並んで、他の一回は単独で。これから考えれば、倭国は、無視されるような弱小国ではないであろう。したがって、列伝に倭国伝が建てられて然るべきと考える。しかし、倭国伝は無い。不審である。
 他方、俀国の側から考えると、帝紀に俀国からの遣使朝貢が記載されていない。俀国伝に、「新羅・百済、皆俀を以て大国と為し」とあるから、俀国は弱小国ではない。新羅・百済に劣らず、隋へ遣使朝貢を行う力はあったであろう。それどころか、隋から使者の裴清を迎えている。当然、その前に俀国の側から遣使朝貢を行っており、裴清が派遣されたのはそれに応えるものであろう。しかし、俀国からの遣使は一切記載されていない。これも不審である。
 これらの不審は俀国=倭国と理解することにより解消する。

 

四.著者の魏徴が、倭国を貶める目的で、俀国と書いた

 俀国=倭国とするとき、著者の魏徴は、何故、倭国とせずに俀国と書いたのかを、以下のように考える。
 多利思北孤の国は朝鮮半島の東南大海中の小さな国で、中国側は、代々、倭と認識していた。正木裕氏によれば、その倭国の王である多利思北孤が国書に「大倭」と署名してきたので、「隋はこれを嫌い、“弱々しい”という意味を含んだ“卑字”である「俀」を当てた可能性」が考えられている。(注2)
 多利思北孤の国は、元の資料では大倭国だったのだ。古田氏もそのように示唆されている(注1)。それを著者の魏徴が、列伝の中だけ、倭を貶める目的で俀に変えたのだ。
 では、何故、列伝の中だけなのか。それを次のように考える。

 

五.列伝は、人や地域が、皇帝とどんな関わりあいを持ったかを記述する

 「俀国伝」は『隋書』の列伝の中にある。岡田英弘氏によれば、中国正史の基本型である『史記』においては、帝紀が皇帝の記録であり、志が社会の重要事項の記録であるのに対して、列伝の主題は、その人物が皇帝とどんな関わりあいを持ったか、また、夷蛮の国が皇帝とどんな関わりあいを持ったかを記述することである。(注3)
 『史記』以降の中国正史は全て『史記』のスタイルを模範としているから、『隋書』もこれにならって書かれているであろう。
 では、倭国は煬帝とどのような関わりあいを持ったか。
 対等外交を目指す多利思北孤の国書は、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と、煬帝の不興を買ったのである。これが、倭国と煬帝の関わりあいである。そこで、魏徴は、帝紀と志においては従来の認識に従って倭国と書きながら、列伝においては皇帝の意を汲み、倭国を貶めようして、俀の字を選んだのだ。

 

六.「俀国」は中国と倭国の関係を示している

 魏徴は、俀国という表現に、その時点での中国と倭国の関係を示したのである。
 古田氏は、「中国側が夷蛮に対して、積極的に“思想入り”の漢字表記を行っている。」と書かれ、その例として、匈奴の表記を挙げられている(注4)。「匈奴」は、匈奴を懐柔しようとする王莽によって「恭奴」と改められたが、匈奴を宿敵とする光武帝の代になると、再び、「匈奴」に復された。俀も、倭国を貶めるという思想入りの漢字表記なのである。

七.終わりに

 俀国=倭国である。つまり、『隋書』俀国伝において、倭国は俀国と表記されたのである。
 「俀」は、隋と倭国の関係を考慮して選ばれた政治的文字なのである。『隋書』は中国正史であり、中国正史は一般的な歴史書ではない。中国正史の目的とする所は時の皇帝の正当性を示すことであるから、その記述においては皇帝の意志(多利思北孤の国書に対する煬帝の不快感)が重要視されたのだ。


1、古田武彦『失われた九州王朝』

2、正木裕「俀・多利思北孤・鬼前・干食の由来」『古代に真実を求めて』第十九集

3、岡田英弘『だれが中国をつくったか』

4、古田武彦『「邪馬台国」はなかった』


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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