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「防」無き所に「防人」無し -- 「防人」は「さきもり(辺境防備の兵)」にあらず 山田 春廣(会報160号)
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「防」無き所に「防人」無し
「防人」は「さきもり(辺境防備の兵)」にあらず
鴨川市 山田 春廣
この論考は、『日本書紀』の悉皆調査から、「防」「防人」の「書き分け」を明らかにし、「防」は「防備の兵」ではなく、また、「防人」の登場地域が九州北部に限られていることを示し、それらを整合的に説明できる仮説を提示することにより、「防」も「防人」も「さきもり(辺境防備の兵)」としている通説(一元史観)の誤りを指摘するものです。
一、はじめに
通説は、「防」「防人」を区別なく、「防人さきもり」(注1)「防さきもり」(注2)と訓じて、「辺境防備の兵」(注3)と説明してきました。
「防」「防人」が同じなら「防人」は不必要ではないか。「防」と「防人」を「さきもり」と訓じた理由は何か。これが私の「問い」でした。
小漢字辞典(注4)によれば、「防」という漢字は、①防備(「防ぐ」という《行為》)と②堤(水を遮る《施設》)という二つの意味を持ちます(以下、簡体字は国字に直しています)
防fang2 ①防備,戒備=~御.~守.預~.軍民連~.冷不~.謹~假冒.[国防]為了保衛国家的領土、主権而部署的一切防務=~~軍.~~要地.②堤,擋水的建築物。
漢字「防」が持つ意味は、①「防備」《行為》②「堤」《施設》の二つだけであり、国防上用いれば「領土を守る」という意味はあっても、「防」には「辺」(周囲・辺境)の意味は含みません。
「防」に「人」を加えて「防人」としても、意味は①「防備する人」②「堤の人(堤にいる人)」にしかなりません。
通説のいう「辺境防備の兵」は、漢字「戍」を用いて「辺戍」とすれば適切に表現できます。
戍shu4 軍隊防守=衛~.~辺.
「戍しゆ」は「戈」を持っている「イ」(人)を表す漢字で、前掲小辞典によれば、「軍隊で防守する《行為》」または「防守する軍隊《防備兵》」を表す漢字です。通説では、「辺境防備の兵」を表すのに「辺戍」ではなく「辺」(周囲・辺境)の意味を含まない「防」を用いて「防人」としたことの説明がつきません。
二、悉皆調査
『古事記』『日本書紀』において、「防」「防人」を区別なく用いているか、「辺境防備の兵」の意味で「防」「防人」を用いているか、この二点について、「戍」「防」「防人」の用例を悉皆調査しました。
小辞典から《行為》なら「防」「戍」が使用可能で、《防備兵》なら「戍」「防人」が使用可能で、《施設》なら「防」のみが使用可能です。
三、調査結果
『古事記』には「戍」「防」「防人」という語句は存在しませんでした。
一方、『日本書紀』には『古事記』が終る推古天皇の後(つまり「孝徳紀」以降)に「防人」が登場します。このことは何か意味があるように思われます。
抽出した語句の分類を、アルファベットで次のように表すことにします。
A.《行為》「防」「戍」(防備する)
B.《施設(建築物)》「防」(②堤)
C.《防備兵》「戍」「防人」
【表1】「戍・防・防人」の調査結果
(詳細は【別表】(注5)参照)
[戍]3ヶ所。
(内訳)
《A=行為》 2ヶ所(天武紀)。
《C=防備兵》1ヶ所(欽明紀)。
[防・防○・○防]24ヶ所。
(内訳)
《A=行為》17ヶ所(推古紀まで15
ヶ所、斉明紀1ヶ所、天智紀1ヶ所)。
《B=施設》2ヶ所(天智紀のみ2ヶ所
(全て単独の漢字「防」))。
《C=防備兵》5ヶ所(孝徳紀1ヶ所(
改新の詔)、天智紀3ヶ所、持統紀1ヶ
所、全て「防人」)。
四、考察
(一)、「防」「防人」の書き分け
【表1】から次のことがわかります。
(1)《施設》の「防」と「防備兵」の「防人」以外、「防」を含む語句は全て「防備する《行為》」を表している。
(2)《施設》を表す場合は「防」、「防備兵」を表す場合は「防人」を用い、「防」と「防人」を書き分けている。
(3)「防備兵」を表す場合、「防人」を除けば「戍」を用いている。
(二)、時間的な偏り
(1)孝徳紀「改新の詔」中の「防人」を除けば、B(施設)の「防」とC(防備兵)の「防人」の出現は天智紀以降に限られている。
(2)B(施設)と判定できた「防」は天智紀にしか出現しない。
では、(2)において、Bと判定したことが妥当か検討してみます。
岩波日本古典文学体系『日本書紀』には次のようにあります(訓読文は、もとのままルビだけ省略して、下線部分のみ記載しています)
⑱《天智天皇元年十二月》
○冬十二月丙戌朔、百濟王豐璋、其臣佐平福信等、與狭井連、〈闕名。〉朴市田來津議曰、此州柔者、遠隔田畝、土地磽埆。非農桑之地。是拒戰之場。此焉久處。民可飢饉。今可遷於避城。々々者、西北帶以古連旦涇之水、東南據深泥巨堰之防。繚以周田、決渠降雨。華實之毛、則三韓之上腴焉。衣食之源、則二儀之隩區矣。雖曰地卑、豈不遷歟。〔以下略〕
(訓読文)
此の州柔は、遠く田畝に隔りて、土地磽埆たり。農桑の地に非ず。是拒き戰かふなり。此に久しく處らば、。民飢饉ゑぬべし。今避城へさしに遷るべし。避城は、西北は帶ぶるに古連旦涇の水を以てし、東南は深泥巨堰の防に據れり。
⑱は、「州柔つぬは田畑から隔たっていて、土地は痩せていて農耕に適さず、防衛用の戦場である。ここに久しくいれば民は飢えてしまう。今すぐ避城に遷るべきである。」と百済王豐章(扶余豐ブヨブン)が臣下達に諮っている言葉です。
「避城は西北には河を帯びていて、東南には深泥巨堰の『防』がある」と言っています。防衛上有利な地形を挙げているわけですから、この「防」は、①防備(「防ぐ」という「行為」)ではなく、②堤(水を遮る「建築物」)です。
⑳《天智天皇三年是歳》
◎是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與烽。又於筑紫、築大堤貯水。名曰水城。
(訓読文)
是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に、防さきもりと烽を置く。又於筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城と曰ふ。
⑳は、是歳(天智三年)に、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に「防」と「烽」を設置し、筑紫には「防」と「烽」に加えて「水城」も築いたという記事です。
この記事全体を「防」「烽」「水城」を建築した記事と解するのが自然です。
この「防」には頭注十四「→二八〇頁注二一」があり、二八〇頁頭注二一には「辺境防備の兵。令に詳しい規定があるが(軍防令)、それとの関係は不詳。」とあります。また、「烽」には頭注十五「とぶひ。のろし。→三二頁注五。」があり、三二頁注五は「烽候」の頭注で、「魏志、張既伝「置烽候邸閣、以備胡」による。トブヒは国境に事変があるとき、煙をたてて通信するノロシ。烽候はノロシをあげる所。邸閣は兵糧を置く倉庫。」とあります。
『日本書紀』において、「烽」という漢字は、継体天皇八年三月条(「置烽候邸閣、以備日本。」)及び天智天皇三年是歳条(「於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與烽。」)の二ヶ所しか出現しません。継体紀の「置烽候邸閣」の「烽候」も「邸閣」も施設とされています。
天智紀の「置防與烽」の「烽」は施設だが「防」は「辺境防備の兵」だというのは不審です。「水城」も施設です。
「防」だけが辺境防備兵(人)というのは不自然です。また、「防」が「辺境防備の兵」だとしたら、その辺境防備兵はどんな施設に拠ったのでしょう。その施設はいつごろ造られたのでしょうか。三年後に関連する記事があります。
《天智天皇六年十一月》
◎是月、築倭國高安城・讃吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。
天智三年に「辺境防備の兵」を狼煙台に配した後、三年間かけて「金田城(かなたのき)」を築城したのでしょうか。
辺境の防備が狼煙台と兵士だけでできるという主張には無理があります。
以上から、天智紀にある「防」を「辺境防備の兵」とすることはできません。
以上、(2)で「防」をB(施設)とする判定は妥当でした。
すなわち、『日本書紀』は「防《施設》」と「防人《防備兵》」を明確に書き分けていました。
「防」「防人」を区別なく「さきもり」と訓じて「辺境防備の兵」とした通説は誤っていたのです。
(三)、地域の偏り
「防《施設》」と「防人《防備兵》」が登場する地域に偏りが見られます。
孝徳紀「改新の詔」にある「防人」には配される地域が示されていませんが、それ以外の「防人」が登場する地域には偏りがあります。
⑱《天智天皇元年十二月》〔四(二)〕
⑳《天智天皇三年是歳》〔四(二)〕
21《天智天皇一〇年十一月》
○十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府言、月生二日、沙門道文・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、從唐來曰、唐國使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人、乗船四十七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆。忽然到彼、恐彼防人、驚駭射戰。乃遣道文等、豫稍披陳來朝之意。
(訓読文)
21對馬國司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、月生ちて二日に、沙門道文・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より來りて曰さく、『唐國の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、總合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比智嶋に泊りて、相謂りて曰はく、今吾輩が人船、數衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼かの防人、驚き駭みて射戰はむといふ。乃ち道文等を遣して、豫め稍に來朝る意を披き陳さしむ』とまうす」とまうす。
22 23《天武天皇十四年》
○十二月壬申朔乙亥、遣筑紫防人等、飄蕩海中、皆失衣裳。則爲防人衣服、以布四百五十八端、給下於筑紫。
(訓読文)
22筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩ひて、皆衣裳を失へり。
23則ち防人の衣服の爲に、布四百五十八端を以て、筑紫に給おくり下す。
24《持統三年》
○二月甲申朔丙申、詔、筑紫防人、満年限者替。
(訓読文)
24詔したまはく、「筑紫の防人、年の限に満ちなば替へよ」とのたまふ。
⑱は百濟内の避城、⑳は對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、21は對馬・筑紫〔比智嶋に「防人」はいません〕、22 23は筑紫、24は筑紫。
このように、「防人」は筑紫近辺にしか登場しません。
(四)、「防人」がいれば「防」がある
「防人」は21對馬と21~24筑紫に登場し、「防」は⑳對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國に存在します。つまり、「防」のないところに「防人」は登場しません。
(五)、百濟にもある「防」
また、「防」は對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國以外に、百濟國の避城にもあります。
「防」が九州だけでなく朝鮮半島の避城(山城)にも存在することから、「防」とは山一つを防御施設とし、山頂付近の周囲に土石塁を巡らせて築いた「朝鮮式山城」に見られる防備用版築土塁であると考えられます。
(六)、説明できる「仮説」
これらを整合的に説明できるのは次の仮説です。
【仮説】
「防」とは、倭國においては、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に建設された「防備用版築土塁」であり、「防人」とは「防」に配された「戍」(防備兵)である。
この「防」は、遺跡「朝鮮式山城」や「神籠石」に見ることができます。
因みに、現在「万里の長城」と呼ばれている建築物は、かつては、単に「防」と呼ばれていました。
五、終わりに
『古事記』に「戍」「防」「防人」が一切登場しないことについては、次のように考えています。
「戍」「防」「防人」は「外敵と対峙するところ」に必要であり、今も昔も「国境」を管轄するのは中央政権です。
『古事記』が記述している推古天皇の時代まで、ヤマトは「国防(国境の防備)」を管轄する中央政権ではなかった。
太宰府は、周囲を推定約五〇キロメートルに及ぶ「防」とそれに依る「防人」によって防備される大都市(条坊都市)でしたが、一方、ヤマトは「防」で防備する必要がない「鄙ひな」でした。
「高安城」には建物があっても「防」はなく、『日本書紀』の「高安城」には「防」も「防人」も登場しません。
「防」は、「倭京」(倭国の首都、太宰府)を防衛するために「畿内」(首都圏)に築かれた防備用版築土塁であり、「防人」は、「畿内」に築かれた「防」に配された「戍」(防備兵)でした。
「防人」は「防に配された戍」ですから、敵と対峙する場所(国境)に配された「戍」であっても、「防」が存在しなければ「辺戍さきもり」や「夷守ひなもり」です。
「防」を築く必要がなかった近畿地方には「防人」は存在し得ず、近畿地方が「中央」で九州は「辺境」であるとして「防人」を「さきもり」(前線防備の兵の意)と訓んで「辺境防備の兵」としたのは、「一元史観」の典型的な「誤読」あるいは「虚構」だったのです。
この論考は、『古事記』『日本書紀』の記述のみに依拠したものです。読者のご批判をお待ちしております。
【注】
(注1)坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀 下』(岩波書店日本古典文学大系)において、「さきもり」と訓じた「防人」初出は、孝徳天皇大化二年正月条「改新之詔」其二(二八〇頁)。
(注2)前掲書において「さきもり」と訓じた「防」の初出は、天智天皇三年是歳条の「是歳、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に防さきもりと烽すすみとを置く。」(同書三六二頁)、原文は「是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與烽。」(同書三六三頁)
(注3)「防人さきもり」に対する頭注 二一「辺境防備の兵。令に詳しい規定があるが(軍防令)、それとの関係は不詳。」(前掲書二八〇頁)及び「防(さきもり)」に対する頭注一四「→二八〇頁注二一。」(同書三六二頁)
(注4)北京・商務印書館編『新華字典』(東方書店、一九五七年六月中国版初版発行、二〇〇〇年二月二五日日本版改訂版第一刷、本体六六六頁)
(注5)【別表】「防・防人・戍」登場順(編集部注=山田氏は○付数字を使用されているが編集人〈西村〉のPCは未だにそれを⑳までしか使用できないのでそれ以降を半角数字とした)
「戍」は別番号(ローマ数字)とした。
番号 登場する紀名 語句 分類
① 第六段一書第一 防禦 A
② 第九段本文 防禦 A
③ 第九段一書第二 防護 A
④ 神武即位前紀 防禦 A
⑤ 綏靖即位前紀 善防 A
⑥ 仁德十一年冬十月 將防 A
⑦ 繼体二一年夏六月 防遏 A
⑧ 繼体二一年夏六月 防遏 A
(継体紀は「防遏」が二ヶ所あります)
⑨ 繼體二四年冬十月 防患 A
⑩ 欽明二年七月 謨防 A
Ⅰ 欽明五年三月 我久禮山戍 C
⑪ 欽明五年十一月 防護 A
⑫ 欽明九年四月 倶防 A
⑬ 欽明九年六月 防距 A
⑭ 欽明天皇十一年二月 庶防 A
⑮ 推古十二年四月 勿防 A
⑯ 大化二年正月 防人 C
⑰ 齊明五年七月 防禁 A
⑱ 天智元年十二月 防 B
⑲ 天智元年十二月 防禦 A
⑳ 天智三年是歳 防 B
21 天智一〇年十一月 防人 C
Ⅱ 天武元年六月 戍邊賊之難 A
Ⅲ 天武元年七月 令戍 A
22 天武十四年十二月 防人 C
23 天武天皇十四年十二月 防人 C
24 持統三年二月 防人 C
この論考は、ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」の記事(「防人」は「辺境を守る兵士」ではない―「防」無き處に「防人」無し―2018年12月 3日(月))を会報投稿用に書き改めたものです。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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